ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線

第2章 中学時代 自分の荷物と誰かの荷物

 中二の僕が響子コーチの幸せのためにやるべきことは何かを考えて、まずは水泳の回数を増やすことにした。それと響子コーチの意見を尊重して、なおかつ少しでも関わりを持つために、メインを自由形に切り替えバタフライを予備専科にする。頑張ってトレーニングをして個人メドレーの選手になる。それなりの大会で結果を残そう。ニュースとかの優勝インタビューで響子コーチのおかげですとか言おう。ここまでが具体的に僕ができること。
 この作戦を真理雄にSNSで伝えると「毎日悠太君と泳げるのはうれしい」と返事があった。さらに「三橋コーチは今の彼氏であるけれど、今だけの彼氏であることを忘れないでいること。それと篤と健治の盗撮に関しては、自分の好きな人がどれだけ魅力的であるかの証明でしかないと意識を変えること」というアドバイスが添えられていた。真理雄は背が小さいだけで、本当は20歳超えているんじゃないかって疑う。

 自転車でスクールに到着し、入り口で深呼吸をして、僕にできる最大の元気の良さと笑顔で中に入った。
「おはようございます!」カウンターにいたのは向上コーチだったので少しがっかりした。そして心のどこかで今この瞬間、響子コーチと三橋コーチは二人きりでいるかもしれないと考えると、心がモヤモヤし始めたが、真理雄から言われた言葉を心で繰り返す。「今だけの彼氏、今だけ、今だけ……」
「お?今日は悠太泳ぐ日だったっけ?」篤が後ろから声をかけてきた。
「おはよう。色々考えて水泳を頑張ってみようと思ったんだ」そう答えた。受付カウンターの向上コーチに、週3回から週5回に増やしたいことと、主任コーチと話がしたいことを伝えると、向上コーチは古岡コーチに電話をした後、コンピューターで増回の手続きを進めていた。
「悠太君、増回は手続き完了です。月謝が少し上がるのだけれど、これが案内の用紙になります。親御さんに渡してくださいね。」そう言うと向上コーチにプリントを2枚渡された。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」僕は向上コーチに頭を下げた。
 向上コーチは人差し指を自分に向けて、ちょっと顔を傾けて言った。
「ん?私は何をよろしくされたのかな?」
「これから古岡コーチには話をしますが、メインを自由形に切り替えようと思っています。最終的にはメドレー選手になりたいので、全種目教えてくれる向上コーチにいろいろ教えてもらわなければダメだから。だからそのよろしくお願いしますです」そう言うと向上コーチの顔が明るくなった。
「そうかぁ、それはうれしいなぁ、悠太君は自由形もなんだけど、実は背泳ぎも絶対才能があると思ってたんだよ。今の背泳ぎでもかなりきれいだよ。うれしいなぁ」そう話していると途中から古岡コーチがやってきて話に加わってきた。
「ほんとか悠太?いやあ、辞めちゃうのかなって心配してたから、余計にうれしいよ。じゃあ今後のスケジュール立てなきゃな。専科を自由形に変えて自由形一本でいいのか?」
「いえ、最終的には400個人メドレーでオリンピック出場を目指したいです」そういうと古岡コーチが驚いて言った。
「え?メドレーは良いとして、400なの?メドレーだとしても悠太は短距離向きの白い筋肉じゃないか?200のほうが向いてる体だと思うんだけど……何かしら理由があるんだろ?否定しないぞ?でもトレーニングメニュー組むうえで、悠太が400を望む理由は知っておきたいかな」
 いつの間にか後ろに立っていた真理雄が言った。
 「古岡コーチ。僕は悠太君の筋肉はピンクだと思います。瞬発力と持久力を兼ね備えたピンクの筋肉。悠太君は小さいころから、お父さんとよく登山に行ってたんです。その時の話を詳しく聞くと、持久力も高いんだと思っていました。こないだ悠太君は筋肉がピンクなんじゃないかって、そんな話をしたことがきっかけかもしれません」神フォローを真理雄がしてくれた。そのとおりであると僕が言おうと思ったときに、響子コーチも出てきて言った。
「悠太君、増回するんだね。うれしいよ」響子コーチは満面の笑顔で言ってくれた。それを聞いた僕の脳みそがキュッと縮まった。
「古岡コーチ。理由は響子コーチに喜んでほしいからです。響子コーチが長距離の方が得意だって言ってたから。響子コーチがバタフライのコーチだから。響子コーチが自由形のほうが良いって言ったから。響子コーチです。理由は響子コーチです。それだけです」僕は大きな声で言っていた。その場にいたみんなは困った顔をしていた。初めに笑いだしたのは真理雄だった。真理雄の笑い声につられて、みんなが笑いだした。
「わかったよ悠太。誰かのために一生懸命になる気持ちは大事だよ。時代遅れだけど男に生まれてきたからには、誰かのために突き進めって俺は思っているよ」それを聞いた響子コーチは困っているような顔をしていた。僕は響子コーチを幸せにしたい、響子コーチが嫌がることから守りたいと誓ったのに、僕が響子コーチを困らせている。どうしよう……みんなの前で……
 響子コーチが眉間にしわを寄せて声を出した。「悠太君、途中でやめるなよ?こんな大勢の前で私を喜ばせたいって宣言したんだからね。私は私より強い男が好き。だから途中でひざを折るなよ。私は厳しいよ?覚悟はできているの?」みんなの前なのに、世界は二人だけのような感覚になった。
「どんなときも、どんなことも、絶対にやめない!響子コーチを喜ばせる以外は何もほしくない」こぶしを握り締めていった。
「わかった。期待してる」そう言うと響子コーチは奥に戻っていった。それを聞いていた古岡コーチは天井を見ながら言った。
「あ~じゃあ悠太。俺も本気のスケジューリングするからな。メドレーはそもそも距離が長くなるし、400メドレーになったら持久力が勝負だからな。泳ぐだけじゃなくて食べ物やジムトレーニングや今までとは違うからな?覚悟決めろよ」そう言ってこぶしを突き出してきたので、僕もこぶしで返した。

 古岡コーチが作ってくれたスケジュールは、月、水、金曜日のメインが自由型、火、木曜日のメインは背泳ぎ。毎日のサブとしてバタフライ。半年後からメドレー技術を入れていくという内容。古岡コーチは早い段階からの筋トレを勧めない人なので、ジムトレ内容は主に呼吸制御をしてのランニングマシンを使った持久心肺強化としている。このクラブは選手コースの場合、将来生徒がオリンピックに出場したときなどの宣伝になることもあるためか、選手コースの回数増回やジムの使用については、数百円の違いに収まるので親に話がをしやすい。何より「やる気」になったのは、持久力アップのジムトレの担当が響子コーチになっている。泳ぎのサブで毎日バタフライだから、毎日響子コーチと話ができる。

 練習中の響子コーチはいつも眉間にシワをよせて、怒ってばかりいる。でも本当に時々上手くできた時の笑顔で、全部吹き飛ぶ。本当のことを言うと、怒った顔も好きなんだけど。ジムトレのトレッドミルや軽い筋トレが終わった後で、響子コーチの時間がある時には、ストレッチを一緒にしてくれる。ストレッチは響子コーチの身体が触れることが多いので、初めは心臓が口から出てくるんじゃないか?ってくらいドキドキしたけれど、最近はかなり慣れてきた。身体が溶けそうになって、ストレッチなんていらないくらいグニャグニャになる。脳みそも溶けて耳から流れ出てないか心配だ。響子コーチの匂いが好きだ。響子コーチの匂いに包まれていると、呼吸が楽になるし、すごく温かい気持ちになる。

 ある日ロッカールームで着替えていると、健治が話しかけてきた。
「悠太。最近のお前は頑張っているから、ご褒美があります」
「なに?ご褒美って」
「これで〜す。ジャジャ~ン」。そう言いながら健治は自分のスマホを操作すると、僕のスマホのSNS着信音が鳴った。
「理由は響子コーチに喜んでもらいたい大宣言を考えて、篤には見せないでおいてやろう」そう言いながら歩き去って行った。
 また隠し撮りだとは思うけれど、セリフから響子コーチの可能性が高いことはわかる。だとすれば敦に見せなくても、お前に見られるのが嫌だ。と心の中でつぶやいた。時間もなかったので、その事はすっかり忘れて泳ぎ、響子コーチの指導ののち、ジムトレへと向かった。
 
 ジムに入ると高田コーチがそばに来た。
「今日は私ね」ウインク代わりに両目をつぶった。ジムに響子コーチの姿は見えなかった。気になったけど、今はトレーニングに集中しよう。そう思ってトレッドミルで走りながら呼吸をコントロールしたり、軽量のウエイトを早くたくさん動かすトレーニングをやった。スケジュールを全てこなした後、1人でストレッチをしていた。ストレッチ後半に高田コーチが来てくれて、ストレッチを手伝ってくれた。
「響子コーチはどうしたんですか?」
「ああ、今日三橋コーチいなかったでしょ?」
「え?」そういえばいなかったことに気がついた。そうか。だから前半自由形の時から、今日はずっと高田コーチがついている印象なんだ。正直毎日、響子コーチと過ごせる後半のバタフライのためだけに泳いでるから、前半のことはあまり気にしていない。でも三橋コーチがいなかったことと、なんの関係があるんだ?そんなことを考えていた。
「あはは。微妙な顔するねぇ。三橋コーチ具合悪いんだって。だから休み。クラブから三橋コーチに電話をしても出ないのよ。明日の事もあるから古岡コーチが林葉コーチに見に行かせたのよ。もちろん業務時間内に業務としてだから、変な勘ぐりは必要ないわよ?」笑いながら言った。
 なんだよ、変な勘繰りって。業務時間内とか。業務としてとか。響子コーチが三橋コーチの家に行ってるのは確かだし。
「三橋コーチってどこに住んでるんですか?一人暮らしですか?」無意識にストレッチをやめて立ち上がっていた。
「はいはい、立ち上がらない。まだストレッチ中だよ。まったく、結果出すって意思表明したんでしょ?知らんけど。だから目指せオリンピアンなスケジュールを古岡コーチが書いたんでしょ?ちゃんとしなさい。自分で決めて言いだした事なんだから」普段明るい高田コーチが怖い顔して僕の目をじっと見ている。そうだ。途中でひざを折らないって僕自身で決めたんだ。出来ることを出来る範囲で、しっかりやるんだ。そう決めたんだ。
「ごめんなさい」そう言ってストレッチにもどった。
 ストレッチをしながら高田コーチが言った。
「コーチの住んでるところは教えられないけど、三橋コーチは確か九州の人だから一人暮らしのはずだよ」心がモヤモヤしたけれど、真理雄の呪文を心で唱えていた。今だけ。今だけ。と。

 家に帰ってスマホを見るとSNSの未読が一件あったので開いた。それはクラブで健治が送ってきたメッセージだった。そして響子コーチがサウナタオルを交換する写真がスマホに映っていた。無性に下っ腹のあたりが熱くなってしまい、響子コーチで1人エッチをしたい僕と、響子コーチを汚すような事はしたくない僕が、すごい戦いをはじめた。
 健治は篤には見せないと言っていたけれど、どうせ健治は響子コーチでコイているはずだ。3回はコイているはずだ。響子コーチは健治のオカズになってる。響子コーチはズルいという気持ちになった。響子コーチは健治のオカズに3回もなるくせに、僕のオカズになってくれないのはズルい。僕だって響子コーチをオカズに3回してもいいに決まってる。そう思い5回した。本当は次の日の朝も2回した。 

 次の日クラブに行くと、カウンターには百瀬コーチがいた。百瀬コーチは「おはよ」というと、僕が出した会員証を機械に通して返してきた。
「悠太、今日サブ背泳ぎな。古岡コーチから伝言な」顔を下に向けたまま、メガネの上からこちらを見て言った。
「え?なんで?」響子コーチとの後半が無くなってしまう。
「三橋コーチと林葉コーチが休みだからちょっとドタバタ。まったくな」視線を下に戻すと、パソコンの画面を見ながら言った。
「え?え?なんで響子コーチも休みなんですか?」言葉に詰まりながら聞いた。
「人間だもん。色々あるさ」目線を変えずに百瀬コーチは答えた。僕はモヤモヤしたままでロッカールームに行った。
 
「おい悠太!」ロッカールームで着替えていた篤が声をかけてきた。
 篤は僕に肩を組んで、小声で話しかけてきた。「おまえウワサ聞いたか?」
「何のウワサ?」
「選手コースの前の時間のレッスンクラスに俺の同級生がいるんだけどよ、コーチ室で古岡コーチが三橋コーチと響子コーチを怒鳴っていたらしいんだ。で、響子コーチが泣きながら出ていって、そのまま帰ったらしい。その後で三橋コーチも帰ったんだってさ。なにがあったんだろうな?お前何か知らない?」
「知るわけ無いじゃん。百瀬コーチから今日のサブをバッタから背泳ぎに変更って言われて、理由は二人が休みだからだって聞かされたばかりだもん」いったい何があったんだろう?すごく胸のあたりがガサガサな感じがする。どうしても気になって、着替えずに受付カウンターに戻った。

「百瀬コーチ。篤から響子コーチが泣いて帰ったって聞いたんです。人間だから色々あるって言ってたけど何があるんですか?響子コーチに何があったんですか?」
「お前なぁ、自分がコントロールできないことをコントロールしようとするんじゃありませんよ。仮にだよ?俺が君に何があったかしゃべったとしてもさ、君に何が出来るわけ?なんも出来ないでしょう?君は自分がコントロールできることを、きちんとコントロールしなさいよ。今、君がコントロールできることは何ですか?俺のコースで背泳ぎをすることでしょ?」眼鏡の上から覗き込むように強い勢いで言った。
「百瀬コーチ。響子コーチは辞めませんか?」
「響子コーチの事を俺がわかるわけ無いでしょ?知らんよ、そんなもん。が俺の答えです」
「でもそれじゃあ、今日は泳ぎたくない」
「お前が泳ぎたくないなら、泳がなければいいじゃん。それだけだよ。帰りたければ帰ればいい。お前にとっての今日一日、たった一回の練習がどんな意味を持つのかなんて俺は知らない。それはお前が決める事だ。なあ悠太よう、お前はどう生きるんだよ?」
 お前はどう生きる?お前はどう生きるってなんだ?
「響子コーチに喜んでもらえるように生きたい」
「響子コーチが何を喜ぶかなんて、どうしてお前に分かるんだよ。わかんないことをどうやってやるんだよ?お前がコントロールできるのはさ、お前がどんな言葉を発するかと、お前がどんなふうに手足を動かすのかだけなんだよ。耳に入ってくるものも、目に入ってくるものも、お前はコントロールできないんだよ。わかる?自分が何を考えるのかすらコントロールできないの。ちがうか?考えたくもない事を考えちゃうだろ?俺だって自分の思考なんてコントロールできないの。他人から見た俺を作り上げているものは、俺が何を考えているかなんてことじゃなくて、俺が何を発言して、どう行動しているか。それだけなんだよ。だからお前はどんな発言をして、どんな行動をして生きるんだよ?今日は帰るのも結構ですよ。でもお前はどう生きるのかをちゃんと考えろ。ガキ共がよ!」
 普段言葉が少ない百瀬コーチが一気にまくし立てたのに驚いたし、言われたことは理解できない事が多い。涙があふれてきた。
 「あ~もう、いいか悠太、俺の左脚を見てみろ。生きていれば自分に何の非が無くても、雨が降るように特大の最悪が降り注ぐことがあるんだよ。その重さで倒れそうになる時は必ず来る。倒れそうになっている誰かを支えるには体力が必要だ。自分の分だけでも十分重いのに、誰かの荷物まで背負ってやろうってんだから、人間としての体力が無ければ共倒れになって終わりなんだよ。どんなに重くて苦しくても、お前は倒れずに笑っていられるだけの人間としての体力を付けろ。どうしたら自分が、誰かの荷物まで背負っても、笑顔で立っていられるような体力を付けられるか考えろ。肉体の筋力や耐久力も重要だぞ。これが強ければ心の基礎体力が上がるんだよ。誰かを喜ばせたいとか、誰かを守りたいとかってのはそういうことなんだよ。まずは自分の分を自分でちゃんと背負え!響子コーチに背負わせてんじゃねえよ。俺が悠太に出してあげられるヒントはここまでだ。あとは自分で考えなさい」そういうと百瀬コーチは向こうに行けと手を払った。
 僕はよくはわからなかったけれど、大事なことを言われた気がした。だから筋力や耐久力を上げるためにその日も泳いだ。そのあとのジムトレも頑張った。
 
 次の日の練習前、ロッカールームで着替えていると、篤が真理雄に聞いた。
「真理雄は高校受験どうすんだよ?俺はエスカレータ枠に入っているけど。どうせもう決めてるんだろ?」篤が言うと真理雄は答えた。
「僕は普通に都立だよ。一番近い高校に行くつもり」
「近いってなんだよ。高校選びってそこじゃねえだろ」
「いやそこも大事だよ。毎日遠くまでの移動は、時間もお金も無駄だしね。僕は高校に入ってもこのクラブは続けられたらいいなって思ってるし。だから今の生活圏を壊したくないんだ」
「だってお前、一番近い高校は偏差値45位だろ?そんなところにお前が行ってどうするんだよ?お前頭いいのにもったいないじゃん」
「行きたい大学は決まっているからね。高校は別にどこでもいいよ。高校の学力レベルはたいした問題じゃないって思ってるから」
「真理雄には世界がどんな風に見えてるんだか、1日だけ変わってみたいよ。大学受験に高校のレベルは関係ないって……」篤はマジマジと真理雄の顔を見て言った。
 
 プールに出ると響子コーチがいた。響子コーチは古岡コーチと何か話している。僕は響子コーチを見ると幸せな気持ちになる。
 三橋コーチは体調不良から1週間くらいお休みすることになったけれど、向上コーチや高田コーチが見ているので、いつも通りの練習となるという話が古岡コーチから伝えられた。体調不良の三橋コーチには悪い気がするけれど、三橋コーチが休みなのは僕にとってちょっとうれしい気持ちになる。けれどクラブの時間以外に響子コーチが看病とかで、三橋コーチと会ったりすると思うと苦しくなる。真理雄に言われた「今だけ、今だけ。最後は僕が響子コーチを幸せにする」心でつぶやき、自分ができること、大会で良い成績を収めて響子コーチに喜んでもらうことに全力を注ごうと思った。

 たった2日ぶりなのに、後半響子コーチからバタフライを教えてもらう時間は本当に幸せだった。肩の使い方やドルフィンキックの修正をするときに、響子コーチが僕の体に触れるたび、体と心がキレイになっていく感じがする。健治が送ってきた、響子コーチがサウナタオルを交換している写真を見ると、下っ腹にも脳みそにもたくさんの血が流れ込んでしまうけれど、生の響子コーチは鎮静剤のような効果を生む。指導されるたびに響子コーチの目を見て指導を聞く。何度目かの指導の時に響子コーチはちょっと笑い、真剣に聞いてくれるのはうれしいけれど、悠太君の目は私の心の奥まで覗いている気がしてちょっと怖いよ。そう言われた。自分の行動をどうコントロールするか?と百瀬コーチに言われたけれど、響子コーチ相手にはとても難しいと感じる。

 プールが終わってジムでのトレーニングにも、その後のストレッチにも響子コーチが付いてくれて、最後のハムとカーフのストレッチの時には、脚を広げ延ばして座り、上半身を前に倒して床に胸を付けるような姿勢の僕の背中に、覆いかぶさるように響子コーチが体重をかけてくる。響子コーチの胸が僕の背中に当たっている。脳みそが溶け始めている。響子コーチの声が僕の耳元でカウントしている。響子コーチの息使いが首元に感じる。響子コーチの体温を僕の背中が感じている。この瞬間、自分がいる世界は響子コーチがすべてになっている。この時間が永遠に続いてほしい。残念なことに30秒程度でこの幸せな時間は終わってしまい、僕の背中を響子コーチにたたかれて終了、ご苦労様、また明日ね。そう言われた。
 
 脳みそのすべてが響子コーチになっていて、響子コーチ以外の何も見たくないし、ほかの人の声も聞きたくない。そんな気持ちで帰る支度をしていた時に古岡コーチに話しかけられた。がっかりだ。
「悠太、3年の大会に向けて最近の結果を見ると、俺は自由形一本に絞るべきだと思うし、場合によっては背泳ぎもなくはないと思う。背泳ぎのタイムはかなり良いからね。でも自由形が全国決勝とか狙えちゃいそうなくらいに上がっている以上、ここは自由形1本にするべきだと、百瀬コーチや向上コーチの意見もあるんだ。俺もそう思うけれど、お前はどう思うか。そろそろ他の大会も含めて戦略を立てたいと思うんだ」古岡コーチは僕のタイム表を手に持って話している。
「僕はメドレーがやりたいです。できれば長距離メドレーがやりたいです、これが僕の希望です。響子コーチは僕のバタフライではダメだって言ってますか?」それを聞いた古岡コーチが言った。
「響子コーチはギリギリまで様子を見たいって言ってるよ」
「じゃあもう少し待ってください。響子コーチが僕のバタフライではダメだと言ったら諦めます。でも僕はもう少し頑張りたいです」
「わかった。じゃあ2週間様子を見たうえで、もう一度話し合って決めよう」

 この2週間、三橋コーチは休んでいた。前だったらクラブ以外の時間に響子コーチが三橋コーチの家に行って、病気の三橋コーチの看病をしているのではないか?とかモヤモヤから逃げられなくなっていたけれど、最近はあんまり感じなくなった。響子コーチが僕の腕に触れたり、僕の名前を呼んだり、僕の背中が響子コーチの体温を感じたりする幸せは、その他の僕が感じる嫌なことを全部帳消しにした。響子コーチからストレッチ中に、このあと少し話せるか聞かれたので、首を何度も縦に振った。響子コーチはそれを見て笑いながら、じゃあコーチ室で話しをしようと言ったので、「この幸せなストレッチ部屋ではダメですか?」と聞くと、笑いながらわかったと答えてくれた。

「悠太君はメドレーをやりたいって言ってると聞いたんだけど、この気持ちは変わらない?」
「それを目標にしたい気持ちは変わりません。でも響子コーチが違うっていうなら変わります」
「なにそれ?前提としてメドレーにこだわる理由を教えてくれる?」
「え?今更ですか?僕はバタフライだと選手コースにも残れないけど、メドレーだったら響子コーチに教えてもらいつつ選手コースにも残れる」
「そうかそうか。えぇとね、まず私が教えるチャンスが増えるのは、確かにメドレーかもしれないね。でもね、覚えていないかもしれないけれど、初めて悠太君の泳ぎを見た時に感じたクロールの魅力は今でも感じていて。もし私が魅力を感じた悠太君のクロールで結果を出してくれると、私はすごくうれしい気持ちになる。さてここで問題です。私が悠太君に教える時間ができるメドレーという道と、私をうれしくさせるクロールに集中するという道と、2つの道があります。あなたはどちらを選びますか?」響子コーチはマイクを僕に向けるような仕草をした。
「そんなの選べません。いやちょっと待って、ちゃんと考えます。こうやって響子コーチと話していると、僕は本当に呼吸が深くなって、楽になって、本当に幸せな気持ちになります。だから響子コーチに教えてもらいたい気持ちがあります。だけど響子コーチを喜ばせたいというのも、僕にとっては大切なことです。どうしたらいいかわかりません。メドレーが速くなって結果が残せれば最高かもだけど」
「そうだね。でもそれはちょっと難しいかもだね。全国レベルで見た時にどうかと言われれば、悠太君のバタフライは通用しないと思う。はっきりでごめんね。でも自由形であれば私は十分通用するんじゃないかって思っている。悠太君の背泳ぎも好きなんだけど、今の年齢や状況を考慮した時に、私はやっぱり自由形一本に絞った方が結果を出せる可能性は高まると思うの。今は自分の欲しいもの全部を狙うタイミングじゃないかな?ってのが私の意見だね」
「でもそうすると、ずっと三橋コーチになっちゃう。それは嫌かも」
「三橋コーチは嫌い?」
「嫌いじゃないけど嫌い。響子コーチを呼び捨てで呼んだり、体に触るし。だから嫌い」
「そうかそうか。えぇとね、難しいな。悠太君にとって私は大人かもしれないんだけど、私はまだ大学生で大人になり切れていないところがたくさんある。だから悠太君に対して伝える事柄について、何が正しいかの判断も間違えているかもしれない。これから悠太君に伝えようと考えている事がそうだから、もし悠太君を嫌な気持にさせたらごめんねって先に謝る。三橋コーチはこのクラブには戻ってこないと思う。それと私は三橋コーチとお付き合いをしていたんだけど、こないだちょっとした事件があってお付き合いはやめたの。大学でも学部が違うから会わないだろうしね。だから悠太君が自由形に切り替えたとしても、担当は三橋コーチにはならない。高田コーチか向上コーチか、場合によっては百瀬コーチかもしれない。三橋コーチではないことは確か。だって彼はこのクラブには帰ってこないから」途中から響子コーチの言葉はあまり聞こえていなかった。今だけが終わった。これだけが僕の心を占めていた。
「ちょっとなんで泣いてる?嫌な気持にさせた?ごめんね。駄目だね私は」そういうと響子コーチはジャージのポケットから、小さめのタオルを取り出して僕にくれた。それで涙を拭くと響子コーチの匂いに包まれた。本当に幸せな気持ちだ。酸素が濃い場所にいるような感じ。
「でも響子コーチに教えてもらう事がなくなっちゃう?」
「そうだなぁ……例えばさあ、悠太君がクロール1本に絞るけれど、短距離から長距離まで全距離コンプリート、泳ぎ方コンプリートのメドレーではなく、種目はスペシャリストで距離コンプリートを目指すのであれば、持久力アップのためのジムトレはこれからも私に任せてほしいって古岡コーチに言う事は可能だよね。結果の約束はできないけれど」今まで考えてこなかった、距離のコンプリート。
「響子コーチに教えてもらうことと、響子コーチを喜ばせること。両方が叶えられるかも」響子コーチを見ながら言った。
「ははは。そうだね。私も悠太君に関わる事ができるし、悠太君の結果を見てうれしくなれるし」
「それにします。でもできるだけ古岡コーチに強く言ってください。僕は響子コーチでなければ長距離はダメダメだって」
「わかったよ。言ってみるね」響子コーチは何度か小さくうなずいた。
「響子コーチにもう1つお願いがあります。頑張るけれど結果が出せるかはわからないけど、頑張ったご褒美が欲しいです。響子コーチからのご褒美が欲しいです」
「ご褒美かぁ。例えば何か買ってほしいものとか?」
「そういうのではなくて。キスしてほしいです。したことないけど。僕の初めてのキスは響子コーチがしてください」
「え~!?大胆だなぁ。それはまずいかな。っていうかさぁ、頑張っただけでキスはできないよ。じゃあこうしよう。三年の全国大会で優勝したら悠太君のファーストキスをその表彰台の上で私が奪うってのはどうかしら?」いたずらっぽい笑顔で響子コーチは言った。
「絶対ですよ、絶対約束してくれますか?」
「私に二言は無いよ。約束する」こうやって僕はクロール1本に絞ることになった。何度も何度も、表彰台の上で響子コーチがキスしてくれるシーンを思い浮かべた。

 そのあとも、クラブでの練習は幸せな時間が続いた。古岡コーチは響子コーチの言葉を受けて、持久訓練は響子コーチを担当につけてくれていた。泳ぎの時間は主に向上コーチになった。気分転換や身体のバランスを考えて、野球を続けることは古岡コーチにも勧められていたので、日曜日の野球は続けていた。
 
 ある日曜日の野球のあと、みんなで河原の近くにあるバッティングセンターに行くことになった。バッティングセンターでの打撃練習が終わった夕方、あたりが薄暗くなり始めた河原のサイクリングロードをみんなで自転車で走っていると、何人かの不良っぽい若い男性グループと、響子コーチと三橋コーチが電車の橋の下にいた。男性グループの大きな声がしたので気が付いて、気が付いた瞬間に僕は自転車を放り出して河原を走り下りていた。

「響子コーチ!!」大きな声で叫びながら土手を走り降りていくと、男性グループがこちらを見て何かしら言いながら、歩き去った。
「響子コーチ、どうしたの?」
「悠太君こそ。どうしたの?こんなところで?」
「野球練習の後でバッティングセンターに寄ったんだ。その帰りだよ。そんなことより大丈夫?」
「久しぶりだな、悠太。自由形1本に切り替えたんだって?」三橋コーチが話しかけてきたが、僕はそれよりも響子コーチに話し続けた。
「大丈夫?変なことになっていない?」振り向くと野球チームのエースで四番の身長185センチの高橋を筆頭に、チームの全員がケースから出したバットを肩に担いでいた。多分これを見て、さっきのグループは去っていったんだと考えた。
「ごめんね。三橋コーチから相談があるって言われたから聞いていたら、変な連中にからまれて」
「何もなきゃそれでいいけど。本当に響子コーチは大丈夫?」そういうと少し微妙な顔をして言った。
「うん問題ないよ。ありがとうね。私ももう帰るね」
「じゃあ駅まで一緒に帰ろうよ。僕たち全員で送るよ。また変な奴らにからまれたら困るからさ」
「わかったよ」そういうと響子コーチは僕らのほうに向かって歩き出した。
「じゃあまたな響子。悠太も自由形頑張れよ」そういうと軽く手を挙げて、三橋コーチは先ほどの男性グループとは反対方向に歩いて行った。野球チームのみんなに響子コーチを紹介して、僕一人で響子コーチを駅まで送る事になった。僕は自転車を押して響子コーチと駅に向かって歩き出した。高橋はすでにケースにしまったバットをかざして、変な連中にからまれそうになったら、フェニックス2番バッターの実力を見せちゃえよ。そう言って笑いながら自転車をこぎだした。

 僕は響子コーチの隣を、自転車を押して歩いていた。
「本当に暴力とかされていない?」
「絡まれ始めてすぐに悠太君たちが助けてくれたから、大丈夫だよ。ありがとうね」
「三橋コーチにも変なことされていない?強く腕つかまれたりされてない?響子コーチが嫌なこと言われたり、されたりしていない?」一瞬だけ顔が変わったが、響子コーチはすぐにこちらを見て言った。
「大丈夫だよ。もう彼氏じゃないんだから、何かあったらあんな奴、警察に突き出してやるよ」そう言った。
「付き合ってないのに何で相談になんか乗るの?」
「あら、だって悠太君だって付き合ってないけれど、真理雄君とか篤君が相談あるって言ったら乗るでしょ?」
「それは男だからだよ。僕は女子に相談があるって言われても行かないもん」
「何?悠太君は私にヤキモチを焼いてくれるのかな?」
「これがヤキモチかどうかはわからないけれど、響子コーチが嫌な目に合うのは絶対に許せない」
「ありがとうね。もしかしたら悠太君は私の白馬に乗った王子様なのかもしれないね」
「白馬に乗った王子様になりたい。響子コーチだけの王子様になりたい。どうしたらなれるのかわからないけれど。白馬も持っていないけれど」
「もうなっているかもよ。自由形頑張ってくれているし。私と同級生だったらよかったのにね」
「僕が年下だから王子様にはなれない?」
「今はまだ悠太君は中学生だもん。いくらなんでも早いよね。これから私の王子様がどんな男になっていくか、楽しませてもらうよ」
「何歳になったら王子様として見てくれる?高校生?大学生?社会人?僕はいつまで響子コーチにとって子ども扱い枠なの?僕が今だけって呪文を唱えるのはいつまで?」
「なあにその呪文って?」
「僕が響子コーチの事で頭がおかしくなりそうだった時に、真理雄が教えてくれたんだ。僕が響子コーチを幸せにできるようになるまで、守れるようになるまで、今は、今だけは響子コーチを守るのが僕じゃなくても仕方ないっていう呪文だよ」立ち止まって響子コーチは僕の顔をすごく真剣な表情でじっと見た。
「真理雄君も悠太君も大人だね。私より大人かもしれないな。ねえ悠太君、どうしてそんなに私を幸せにしたいって、守りたいって思ってくれるの?私は悠太君が思っているような女じゃないかもしれないよ?悠太君はまだ私の事を全然知らないじゃん」真剣な顔のままで、僕の目をじっと見て少し怒ったように言った。
「僕は今でもあの日初めて受付カウンターで響子コーチを見た時のことを忘れない。おかしいけれど、初めて響子コーチを見た時に頭の中に音楽が流れ始めたんだ。お父さんが好きでよく聞いている歌なんだけど、すれ違う君に見とれてスローモーションはねたワイン、って曲なんだけど。歌詞は全然関係ないんだけど、なんでかこの曲がずっと流れていたんだ。今こうしているときにも、あの歌が頭の中に流れている」
「ふふふ。なんで私を?の答えにはなっていないね」
「理由はわからない。でも響子コーチに幸せになってもらいたいし、響子コーチが嫌だって感じる全てを僕がなくしたいんだ。死ぬまでずっと変わらないよ」
「そう思ってくれ始めてから1年弱だね。先は長いぞ少年よ。そうだ。これから初めて2人が逢った日を2人の記念日にしようか?」
「本当に?!!それはすごくうれしい。僕と響子コーチの間に初めて何かができた。水泳以外の何かは初めてだ」
「ははは、そうだね。クラブ以外で悠太君と話すもの今日が初めてかもね」
「うん、僕は響子コーチが水着とジャージ以外の姿でいるのを初めて見た」
「そうだよね。そうかぁ。まだお互い知らないことだらけだね。悠太君の野球のユニフォーム姿を見るの、私も初めてだね」
「汚れてて恥ずかしいよ。僕、野球ではセカンドで打順は2番なんだよ。背番号が2番なのは、前はキャッチャーだったんだけど、水泳本気でやり始めてから怪我するの嫌だったから、キャッチャーはやめさせてもらったんだ。」
「え?水泳の為にキャッチャーやめるのは嫌じゃなかった?私のせいかな?」
「う~ん、キャッチャーは楽しかったけど、どのポジションでも野球は楽しいし、それに僕が水泳を選んだんだから、響子コーチのせいではないよ」そう言いながら、前に百瀬コーチに言われたことがつながった気がした。そうか、響子コーチのせいになっちゃうってのはこういう事なんだ。だから僕が自分の意思で選ばなければならないんだ。
「ねえ響子コーチ」
「ん?」
「キスしてください」そういうと響子コーチは驚いた顔をして、何かを思い出した顔になり言った。
「キスはダメだよ。今日はダメ。今日の私の唇はダメ。でも助けてもらったしね」そういうと僕より少し背の高い響子コーチは、自転車を支えている僕の前に立ち、僕の頭を響子コーチの胸に強く抱きしめてくれた。そして耳元で小さい声で言った。
「私の王子様、ありがとう。私も王子様にふさわしい生き方をしなきゃね」言葉の意味は分からなかったけれど、響子コーチの早い心臓の音が聞こえた、響子コーチが呼吸をする音が聞こえた。響子コーチの胸に僕の耳がくっついていたので、くぐもったような振動と一緒に、響子コーチの言葉が僕の心に直接響いてきた。クラブでストレッチをしている時よりもずっと大きな音が聞こえた。野球の練習後だったから、僕は汗臭くないか少しだけ心配だったけど、響子コーチの匂いが僕の肺を通して僕の身体に充満していき、僕の中に響子コーチが入って来る気がした。
「僕の体の中に響子コーチが入ってくる。もっともっと、僕を響子コーチでいっぱいにしたい」僕も思わず小さな声で言葉にしてしまった。
「私なんかじゃ、悠太君が汚れちゃうから。できれば悠太君にはもっと素敵な人とキレイな恋をしてほしいかな」そういうと響子コーチは抱きしめていた僕の頭を離して、僕の両ほほを両手で挟んで言った。見たことがないような真剣な顔だった。嫌だ。嫌だ。絶対に嫌だ。
「響子コーチじゃないんだったら僕は何もいらない。他には何もいらない」
「悠太君は私を知らないからそう思ってくれるんだろうけれど、もしかしたら私は悠太君にはふさわしくない女なのかもしれないって思う」顔がすごく近くにあって、僕は人生で一番心臓が速くなっている。
「じゃあ響子コーチのことを教えてよ。三橋コーチと付き合っていたことも知っているけど、僕の気持ちは変わらない」
「私の事を好きでいてくれるのは嬉しいけれど、私の存在が悠太君を不幸にするのは悲しいから、悠太君はもっと広い視点で――」遮るように僕は言った。
「なんであきらめさせるようなことばかり言うの?僕が僕の意思で響子コーチが好きなんだから、響子コーチが僕の想いを否定するのはやめてよ」僕は胸がはちきれそうになって、涙が止まらなくなった。
「うん、そうだね。わかった。今日はありがとうね、ここからは一人で帰れるから大丈夫だよ。またクラブでね」そう言うと響子コーチは背中を向けて歩き出し、一瞬振り返って笑顔を僕に見せてくれて歩いて行った。僕は心配な気持ちや、わかってもらえないもどかしい気持ちを言葉にすることができず、響子コーチの背中を見送った。

 その後のクラブでの練習では、この日のことは無かったかのように、響子コーチは今まで通りの感じで振舞っていた。自由形一本に絞った中学三年生の大会では、地方大会では自由形のすべての距離で表彰台に乗ることができたが、関東大会ではどの距離でも表彰台に乗ることができずに全国大会には出場すらできなかった。残念ながら僕のファーストキスは響子コーチに奪われることは無く、中学時代の競泳は幕を閉じた。僕のファーストキスの約束は、高校大会でも継続されるのかを響子コーチに聞いたら、高校生に継続した場合、表彰台の上では無理だけど、大会の後のお祝いの席でなら。というお返事を引き出したので、僕は高校でも水泳を継続する事になる。そもそも響子コーチがこのクラブにいる間はやめるつもりはないけれど。野球は高校になると本気度が上がるので中学で終わりにした。

 高校に進学した僕は、なんと真理雄と同じ学校になった。真理雄の学力を考えればどう考えてもこの高校ではないが、真理雄なりの考えがあり1番近い高校を選ぶという事にブレは無かったようだ。これについて1番理解を示したのは百瀬コーチで、真理雄に「最後まで流されるなよ」と1言投げかけられて「この高校から初めての理科三類になります」と返していた。それを聞いていた向上コーチはちょっとうれしそうに「後輩ができるの楽しみにしてるね。相談がある時はいつでも言ってね」と声をかけていた。僕はこれらの会話が理解できなかったけれど、真理雄と同じ学校であることは嬉しかった。それは真理雄も同じ気持ちであると言ってくれた。健治は高校に入ると水泳は部活に移行するという事で退会した。篤はこのままクラブの選手コースを続けることになった。篤は私立の有名大学の付属幼児舎からのエスカレーターに乗って高校に進学。勉強に関しては、僕が一番ダメなのかもしれない。そんな気持ちになったりしたが、自分が将来なりたいものなどまだ何も見えていないので、重要な事でもない気がしていた。

 高校一年のゴールデンウィークが終わり、これから暑くなるという時期に、響子コーチが昼の時間帯に夏の間アルバイトとして神奈川の海水浴場のライフセーバーをやるというウワサを聞いた。場所を聞き出して僕もアルバイトできないか電話をしてみたが、残念ながらライフセーバーのアルバイト枠は埋まっている事と高校生は募集していないと断られた。どうにかしたくて同じ海水浴場にある海の家のアルバイトを探し出して電話をして、必死にお願いすると面接をしてくれることになった。夏の間は学校の代わりにアルバイトで海の家に行く。そうなるようにまずは面接を頑張ろう。
< 3 / 12 >

この作品をシェア

pagetop