ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線

第3章 高校時代 買物と花火とリセットボタン

 響子コーチがライフセーバーとして働く海水浴場で僕も働きたい。少しでもそばにいたくて、ネットでアルバイトを探したが、夏休み期間中、高校一年生で昼だけで働けるところが無い。求人情報では見つからなかったけれど、観光情報から、年齢条件などが書いていない募集情報を見つけた。
 その海の家に、アルバイト応募の電話をすると、喋り方が荒っぽく怖そうな「おじさん」と電話がつながった。交通費が高くなるから、遠くに住んでる人は雇えないと言われた。どうしてもこの海の家で働きたいと粘っていると、どんどん口調が強くなり「なぜウチで働きたいのか正直に言え」と言われたので、本当の事を話した。
 「つまりは好きな女が働いているから、この海水浴場で働きたい。あんちゃんが見つけた、たった一つのアルバイト先が、ウチの海の家だったって事だな?」と確認されたので、このままだと「仕事は遊びじゃない!」と怒られて電話を切られてしまうと思い、言い訳を考えていると面接の日取りが決まった。

 なぜ本当の事を言ったら、面接をしてくれる流れになったのかはわからないけれど、とにかく頑張って面接に合格しようと思った。僕はアルバイトをするのも初めてだから、面接も初めてになる。
 
 ネットで調べると、電車でかかる移動時間は1時間半くらいとなっていたので、2時間前に家を出た。まだ海の家は完成していないから、その海の家を経営する民宿に来るように言われた。家を出て1時間半後にはその民宿の前にいた。汚れを隠すために何度も白いペンキで塗られたような2階建ての大きな建物。
 高級旅館のような和風ではない、昭和な建物には大きな看板で「漁師民宿かんなみ」と書いてあり、1階の入り口ガラスドアには「神波漁師食堂」と書かれている。
 どうやら宿泊者以外でも入れる食堂?レストラン?のような飲食店になっている。約束の20分前には着いていたのでお店の前で待っていると、民宿の脇の大きな駐車場の奥の方から、腰のあたりまである長い髪の毛の、肩から下にウェーブがかかっているような髪型の、向上コーチより若く見える、たぶん20代前半くらいの凄い美人の女性が声をかけて来た。
 僕は響子コーチ以外好きにならないけれど、テレビや映画で見る、どの女優さんよりもずっと奇麗な人だ。背は向上コーチより少し低い。なんだかすごくまぶしいものを見ている感じで、目を閉じてしまいそうになる。
「もしかして安田君かなぁ?」
「はい、そうです。安田悠太です。僕の特技は水泳です。高校1年生で――」僕がここまで言うと、この美人が笑いながら話を遮った。
「うんうん。まだ面接じゃないから、自己紹介はしなくていいですよぉ。こっちから中に入りなぁ」手招きをしたので僕は小走りでそちらに行った。
 
 ちゃぶ台がある和室に案内されたので、キョロキョロ部屋を見回しながら正座で待っていると、白髪の短い髪をオールバックのようにした、60歳くらいの日焼けした肌の、目元のしわが深い小柄なおじいさん?おじさん?が入ってきた。
 
「あんちゃんが安田君か?」座布団に座りながら聞いてきた。
 とても緊張しながら僕は言った。「はいそうです。安田悠太と言います。これが履歴書です。特技は水泳です。高校1年生です。まじめに頑張ります」
「そんな事より安田君よぉ、ライフセーバーに好きな女がいて、その女追っかけてきたってのは本当だろうなぁ?」とても迫力のある目でギロリと僕の目を見た。
「はいすみません。こういう理由でアルバイト先を決めるのはダメなのかもしれないですけれど、どうしても響子コーチ、えぇと、僕の好きな女性のそばにいたいので、どうか働かせてください。お願いします」僕はちゃぶ台にぶつけるくらいの勢いで頭を下げた。
「もしそれが絵空事だったら承知しねぇからな。神様仏様に誓えるってなら安田君の事を雇ってやるよ」僕は本当にうれしくなった。
「ありがとうございます。なんでもやります。がんばります」こうやって僕の夏のアルバイト先が響子コーチの近くで決まった。

 夏休みに入りアルバイトが始まった。僕がアルバイトをすることになった海水浴場は、神奈川県の人気が高いスポットだ。朝7時に起きて、7時半には家を出る。僕が海の家に到着する9時には、既に店長や他の人は働いている。店は8時からやっており、9時過ぎくらいから海水浴のお客さんが増え始める。本当は17時までと言われていたが、面接のときにスイミングの都合で15時までとお願いしたうえで働かせてもらえることになっていた。
 初めの3日間はお店の中で掃除をしたり、厨房で洗い物をしたりしていたが、今日からは外に出てお客さんを呼び込んだり、パラソルを埋めたりする手伝いもする。昨日までは外に出ていなかったし、初めてのアルバイトで余裕もなかったので、響子コーチが働く監視事務所を気にする時間はなかったけど、外で呼び込みをやっていれば、絶対にバレてしまうだろうとは思っている。少しでも響子コーチのそばにいたい、という想いだけでこのアルバイトを始めたけど、僕がそばにいる事を響子コーチにも知って欲しい気持ちはあるし、僕の存在をアピールすれば、響子コーチ狙いの男も減るんじゃないかとも思っている。
 
「安田く~ん。まだ人が少ない時間から慣れた方が良いから、みっちゃんと外お願いね~」この海の家の店長であるウルトラ美人の冴子店長が厨房の中から僕に声をかけてきた。この冴子店長が面接の時、僕に手招きしてくれた、どの映画主演女優よりも美人な人である。僕を面接して採用してくれた、しゃべり方の荒っぽい漁師民宿経営者の娘さんだ。
 みっちゃんは30代後半のずんぐりむっくりとしたおじさんである。まだ詳しくは知らないけれど、冴子さんの実家の漁師民宿食堂で働いている人で、朝早くから漁に出て、それが終わってから海の家を手伝っているらしい。冴子さんの方がずっと年下のはずだが、みっちゃんは冴子さんの弟のような感じだ。

 この3日間で分かった事がいくつかある。僕は「響子コーチが全て」だから関係ないけれど、冴子店長はとにかく美人である。僕が見てきたこの地球のどんな女性よりも、美人なのではないか?と思う美人だ。
 そして冴子店長のお父さんはお昼ご飯をここで食べる。そしてたくさんの地元のおじさん達も、お昼ご飯をここで食べる。
 ここは海水浴場の海の家であり、本来観光客相手の海の家のはずなのに、お昼ご飯の時間は、ほぼ地元のおじさん達で店が埋め尽くされる。この海水浴場には20件くらいの海の家があり、僕が働くこの海の家も、古い昔ながらの海の家というデザインではなく、「ビーチクラブ」と言った方がピッタリとくる、若い人が多いこの海水浴場にピッタリのデザインだ。
 白いペンキが塗られた横張板の壁と、ライムグリーンの屋根でできた、とてもオシャレなものだ。それなのに見た目がいかついおじさんたちであふれていて、若いカップルや、若い女性と、それを目当てにした若い男性のお客さんは少ない。だからおじさんたちが来る11時までに、どれだけの観光で来たお客さんを確保できるかが、この海の家の1日の売り上げに直結している。
 
 外に出たみっちゃんは通る人通る人に、本当に人の良さそうな笑顔で、おいしいごはんの海の家ですよ~。漁師食堂が経営している海の家ですよ~。漁師が取った海の幸で作った、料理がおいしい自慢のお店にいらっしゃい。いらっしゃい。
 
 こんな感じで、お客さんを呼び込んでいる。毎年海の家の場所は、くじ引きで決まるらしいが、今年は中央入り口から東に2店舗目なので、わりと来たばかりのお客さんが捕まえやすい。
 中央入り口には監視事務所があり、そこがライフセーバーの詰め所なので響子コーチは2軒隣にいる事になる。外でみっちゃんの客寄せを見学していると、突然監視事務所から大きな声と共に男性ライフセーバーが海に向かって砂浜を猛ダッシュで走って行った。事故でもあったのかと思い、驚いてみっちゃんを見たが、野良猫でも見るように笑顔で見送っている。
「みっちゃんさん。事故でもあったんですかね?」そう聞くと、みちゃんは笑いながら答えた。
「そうじゃあないよぉ。10分おきにライフセーバーがパトロールに行くんだよ。大きな声で自分の名前言って、パトロールに行く方向を言って、行ってきま〜す。みたいなことを叫んでから出かけるんだ。本当に事故があったらもっと大人数で走っていくし、叫びもしないから緊張感がもっとあるよぉ」みっちゃんが教えてくれた。ライフセーバーも大変な仕事だと思った。プールの監視員のように、高い椅子に座っているだけかと思っていた。
 いや、実際はプールの監視員だって、高い椅子に座っているだけじゃないのだろうけれど、ライフセーバーのイメージ的に、あんなラグビー部のような感じとは想像していなかった。男性ライフセーバーは、筋肉質で身体も大きくて迫力があるなと思った。その後もみっちゃんは、歩いている観光客に声をかけ続けていた。
 
 ビーチパラソルを借りたいという家族がいたので、みっちゃんに言われた通りにパラソルを抱え持って、みっちゃんと一緒に浜に出た。今日の風向きや潮の満ち引きで場所を決め、砂浜に充電ドリルで穴をあける。パラソルを立てて、スコップで穴の隙間を砂で埋めるのは僕の仕事だ。
 太陽ギラギラの砂浜でのスコップ作業は大変だなと思ったら、また叫び声と共にライフセーバーが走っていった。驚いたことに今度は小柄な女性ライフセーバーだ。あれ?慌ててみっちゃんに質問をした。
 
「みっちゃんさん。女性のライフセーバーもパトロールに行くんですか?」
「あたりまえだよ~」笑いながら答えた。さっき走っていったのは小柄な女性だけど、響子コーチもパトロールに出るって事なのか?それともアルバイトはあんな事やらされないのかな。ちょっと心配になった。
 11時を過ぎてお昼時間も近くなり、たくさんの地元のおじさん達でごった返し始めた店内を、ひたすら料理や飲み物を運んでいた。
 
 入口の方で僕に手を振って、かき氷メニューの張り紙を指差す夫婦連れのお客さんが来たので注文を聞きに行った。
「いらっしゃいませ。何味にしますか?」
「おすすめは何かしら?」40代くらいの中年の夫婦で、長袖長ズボンに身を包んだ、奥さんの方が僕に聞いてきた。本当は、僕はまだこの店のかき氷は食べたことが無かったが、地元のおじさん達は「練乳抹茶小豆」をよく食べている。
「一番人気は練乳抹茶小豆ですね」
「あなたもそれが好き?」
「はい。僕もそれが1番好きです」少しのうそで、僕は大人に近づいた。
 奥さんは旦那さんの方を向いて聞いた。「あなたも同じでいい?」旦那さんはうなずいた。
「じゃあ2つね」
 お客さんからお金を預かった時に、聞きなれているけれど、聞いた事のない声がした。石油ストーブに触ってしまった手を無意識に引っ込めるように、脳が考える前に、声の方に体が動いていた。

 僕の目の前を、サングラスをかけた女性が走っていく。1度だけ、一瞬だけ顔をこちらに向けた後は、全力で水際まで走り、ヒザ下程度の水深をスムーズに走るために、膝から上を回すような独特の内股の走り方で海面に入り、イルカのようにジャンプ入水を繰り返し、水深が腰高になると泳ぎだした。間違いなく響子コーチだ。
 完全に気を取られ預かったお金を落としてしまった。「あなた大丈夫?」
 お客さんの奥さんに声をかけられて我に返った。「はい、すみません」
 そう言って、落としたお金を拾い店の奥の厨房に戻り、店長に練乳抹茶小倉のかき氷を2つと伝えた。
 
「おい安田君、もしかしてお前の目当ての女がパトロールに出たのか?」僕の行動を見ていた、昼ご飯を食べに来ていた店長のお父さんがニヤッと僕を見た。
 
 出来上がった練乳抹茶小倉かき氷を2つお盆に乗せて、入り口で待っているお客さんに渡した後で、僕はビーチを見回した。響子コーチはどこにいるんだろう?もう事務所に戻ってしまったかな。辺りをキョロキョロ見渡していると、僕がいる海の家の反対方向の水際を歩きながら、首を左右に振って周囲を警戒している響子コーチを見つけた。僕は手を振りたい気持ちを抑えた。
 店の中から僕を呼ぶ声がしたので、慌てて店の中に戻り、料理を運んだ。13時半くらいになり、少しだけ落ち着いたなと思っていた時に、入口に人影が見えたので、急いで「いらっしゃいませ~」と言いながら向かった。
 入り口に響子コーチが立っていた。

「なんで?」響子コーチはちょっと怒ったような感じで僕に聞いてきた。
「響子コーチのそばに居たくって、その理由を話したらこの海の家で雇ってもらえました」そういうと響子コーチの顔がみるみる赤くなり、恥ずかしいような、びっくりしたような表情をした。
 
「あ~!その人が安田君の女神さまなのね~?」そう言いながら冴子店長が出てきた。
 響子コーチが小声で僕に聞いた。「女神さまって、悠太君はいったい何をどんな風に言って雇ってもらったの?!女神さまってなに?!」
 僕は響子コーチに答えた。「好きな人がこの海水浴場でライフセーバーをやるのだけれど、好きな人のそばにいたいので、ここで働きたいって言っただけです」
「私はこの店の店長で冴子って言います。あなたが響子コーチね。よろしくね!響子コーチ!」店長は右手で手を振った。
「はい、えぇと、林葉響子といいます。うちの悠太君がお世話になります。若輩者ですがよろしくお願いします」響子コーチはドギマギしながら言った。
「よく頑張ってくれてますよぉ。何よりこんな真面目に響子コーチ一筋な人ですもん。うちの父もお気に入りなんですよぉ。」そういうとまだ店の奥にいた、冴子店長のお父さんがこちらに向かって手を上げた。

 この日は初めて外で呼び込みをやったり、パラソルを何本も立てたりもして疲れてはいたが、 響子コーチに、僕がそばにいる事を気付いてもらえたので、すっごく元気だった。帰りの電車の中でも、この3日間はウトウトしていたけれど、今日は目が覚めている。

 時間に余裕が無さすぎるのは困るので、海の家のバイトには、スイミングクラブの準備も持って行ってる。だからバイト終わりに家には寄らず、直接電車でクラブに行くことになる。
 高校になると中学の時より、選手コースの開始時間が遅くなる。響子コーチはコーチだから中学生の時間も教えているけれど、僕はクラブに来る時間が遅くなった。古岡コーチから、帰りが遅くならないように、先にジムトレを済ませるか?という提案もしてもらったけれど、小、中学生コースがジムトレをやっている時間では、響子コーチが僕に関わってくれる時間が減ってしまうのではないのか?そう考えたので、ジムトレは泳ぎが終わってからの時間を維持している。

 プールの時間はいつものようにクロールを泳ぐ。高校に入ってからは、前半も後半もクロールだけだ。ちゃんとやってみると、あまり好きではなかったクロールも、なるほどが多い。僕は元々短距離選手だったので、クロールもバチャバチャせわしない感じだったけど、長距離のクロールは別物で、ちゃんと伸びてちゃんと息継ぎしないと、すぐバテちゃう。だからクロールに関しては、長距離の方が気持ち良いかも。

 プールが終わってジムトレに向かうと、腰に両手を当てた響子コーチがいた。
「いったいどういう事なのよ?!なんで悠太君があそこにいるの?なんで私がライフセーバーやってるの知ってるの?」矢継ぎ早に聞かれた。
「怒ってるんですか?僕が同じビーチでバイトを決めたから?それとも面接の時に、好きな人がライフセーバーで働いているから、どうしてもあの海の家で働きたいって本当の理由を話したから?」
「別に怒っては無いけどさぁ。驚くじゃん。前もって言って欲しかったのはあるよね」
「だとしたらごめんなさい。でも前もって言って、止められたら嫌だったので、言えなかったです。響子コーチが知っていたら止めましたか?」
「う〜ん、止めたかもしれないなぁ……」
「それはなぜですか?僕がそばにいるのは気持ち悪いですか?響子コーチにとって、僕がそばにいたいと思うことは、迷惑で嫌なことですか?そうだとしたら、全部考え直します」僕は結構必死になっていた。
「いやいや、気持ち悪いなんて思わないよ。なんか久しぶりに、なんて言うか……ど真ん中に豪速球投げてくるなぁというか……」
「ははは。野球に例えてくれるとわかりやすいかも」僕は思わず緊張が解けて笑った。
「笑っいてる場合かって話よ。まったく。とにかくこれからはさぁ、ちゃんと話してほしい。できる限りは、そのぉ、拒否はしないからさ」
「では響子コーチも嫌な時は言ってください。僕は響子コーチを嫌なことから守りたいって気持ちしか持ってない。それなのに、僕が響子コーチを嫌な気持ちにさせてたら意味がないから」
 この後のジムトレは響子コーチが一緒にいてくれた。ストレッチはいつものように、響子コーチの体温や呼吸をそばで感じることができて、とても幸せな時間だった。
 
 週末は選手コースがお休みなので、17時までアルバイトをする。響子コーチのお休みがわからなかったから、面接のときにお休みについては後で決めたいと伝えてあった。これからお昼で忙しくなる少し前の時間帯に、海の家では冴子店長がスマホで誰かと電話をしていた。
「悠太く~ん。これから忙しい時間なんだけどさぁ、ちょっと頼まれごとされちゃったの~。お願いできる?」
「僕で出来ることは何でもやります。どうしたらよいですか?」
「来週末にねぇ、このビーチで花火大会があるのよ。不足しているものの買い物、荷物持ちに監視事務所に行ってきてくれる?」
「わかりました」もしかしたら響子コーチに会えるかもしれない。とルンルン気分で監視事務所に向かった。

 監視事務所の前には、ジャージを着た響子コーチがいた。僕は思わず満面の笑みになって走っていった。
「響子コーチ!僕は荷物持ちに来たんですが、中に入ればいいですか?」
 響子コーチは首を左右に振りながら言った。「隊長が若い荷物持ちを同行させるって言ってたけれど、まさかの悠太君かぁ。これから駅の方にあるマーケットに行って、一緒に買い物だよ」僕はフワフワと宙に浮くような気持ちになった。
「やった!響子コーチと買い物だ!!」僕の言葉を聞いた響子コーチは、笑いながらまたしても首を左右に振った。

 マーケットは歩いて15分くらいの距離にある。僕は本当に身体が軽くって、ピョンピョン歩きながら色々なことを響子コーチに聞いたり伝えたりした。僕が本当に聞きたいこととは違うことばかりだし、僕が本当に響子コーチに伝えたいこととも違うけれど、それでも少しずつでも響子コーチを知りたい気持ち、僕を知ってもらいたい気持ちから、色々なことを話した。
 響子コーチが小学生のころ、走る事が好きだったし速かったことや、中学生の時には陸上部に所属しつつ、民間のスイミングスクールで泳いでいたこと。自分の選手としての才能には見切りをつけて、選手を支える専門家になろうと勉強をしていること。好きな女性アーティストとバンドも聞いた。お肉が好きな事やファッションが好きで、帽子や靴をたくさん持っていることも聞いた。
 マーケットに着いても、色々な話をしていた。響子コーチはメモを見ながら僕が押しているカートに、色々な商品を入れていった。あっという間に時間が過ぎた。帰りには僕が全部の荷物を持った。響子コーチも持つと言ったけれど、僕は響子コーチに荷物は持たせない。どんなに重い荷物でも、僕が笑って持つために泳いだり砂浜でスコップを振り回しているのだ。
 響子コーチは後ろ手に組んで、僕の方を時々見て、話しの合間には八重歯の笑顔をくれた。僕は身体も荷物もとても軽く感じていたし、本当に幸せな時間だった。

 僕が監視事務所に荷物を運び終えると、響子コーチが言った。「ありがとうね。悠太君、重かったから手が真っ赤になってるよ」
 心配そうに響子コーチに握られた僕の手は、確かにビニール袋が食い込んだような跡が残っていたけれど、なんともない。響子コーチと一緒に街を歩いて、一緒に買い物に行けた。
「また響子コーチが買い物に行くときには、僕を荷物持ちに連れて行ってください」僕が言うと響子コーチは笑いながら、バイバイのように手を振った。海の家に戻ると、お昼時間のごった返した店内で、冴子店長やみっちゃんがてんてこ舞いだった。それでも成り立っているのがこの店の面白いところで、お客さんのほとんどが冴子店長のファンだから、注文した料理を自分で厨房に取りに行ったり、食べ終わった食器を自分で厨房に届ける。みんな冴子店長の姿を見たいし、冴子店長と少しでも言葉を交わしたいのである。

「ただいまもどりました」僕が言うと、厨房から顔を出した冴子店長は、本当に美しい笑顔で言った。
「おかえり~。ごくろうさまね~。ありがとうね~」振り向くと、お店の全おじさん達が冴子店長の笑顔を見たてニンマリしていた。
 後でみっちゃんから聞いたことだけど、海水浴場のライフセーバーの隊長は地元の人だから、何かしらの理由を見つけると、必要のないことまでも冴子店長に電話をしたり頼みごとをしにきたりして、困ったもんだと笑っていた。冴子店長が奇麗なおかげで、僕は響子コーチと買い物に行けたんだから、冴子店長が奇麗なことに感謝しなければと思った。

 毎日安定した幸せな日々が過ぎていく。アルバイトも順調だし、スイミングクラブでもジムトレは響子コーチが付いてくれている。自由形の中長距離も、それなりのタイムを維持できている。正直に言うと、三橋コーチが辞めてからのスイミングクラブは、僕にとって本当に幸せな場所になっている。響子コーチは別れたって言ってたし、学校でも会わないって言ってたし。僕の気持ちがモヤモヤすることはなく、楽しい時間が過ぎている。
 練習が終わった後で、ロッカールームで着替えていると、真理雄が話しかけてきた。
「悠太君、来週なんだけど悠太君がバイトしている海の家に遊びに行っていい?」
「え?良いけど、どうしたの?」
「いま僕はここで練習しているか家で勉強ばっかりなんだけどさ、高校生の夏休みだから、僕もそれっぽいことしようと思ったんだ。土曜日は練習もないしね。ネットで調べたら、海の家はロッカーを有料で借りると、その海の家で休めるって書いてあったから、例えば僕が悠太君の海の家のロッカーを借りれば、海を見ながら勉強できるのかな?って思ったんだけど。どうかな?」
「う~ん。お昼時間はだいぶ騒がしいから、勉強に向いているかはわからないけれど、家族連れのお父さんとかは、子供や奥さんが海で遊んでいる時間も、ずっと店でビール飲んでいたりするから問題ないと思うよ」
 そんなやり取りがあって、来週の土曜日は真理雄が遊びに来ることになった。

 僕の高一の夏の毎日が過ぎていき、翌週の土曜日、いつものように僕が9時に海の家の着くと、店内に真理雄がいた。ビックリして真理雄に声をかけた。
「おはよう真理雄。早かったね」
「う、うん。おはよう。今日はよろしくね」真理雄の言葉はいつも自信に溢れてるというか、背が小さい真理雄が大きく見える感じだけれど、今日の真理雄はなんだかモジモジしてるというか、小さく見える。
「大丈夫?なんかあった?」
「ううん、何も無いよ。いつも通りだよ」真理雄は僕をみるでも、教科書をみるでも、海を見るでもなく、宙に浮いたような目線で答えた。初めての場所で緊張してるのかな?と思って、それ以上真理雄に声をかけるのはやめておいた。

 いつものように、忙しくなるランチの時間までは、みっちゃんと外に出てパラソルの設置やかき氷販売をしていた。
 時々真理雄に目をやるが、場違いと言えば場違いなくらい、教科書を読んでいた。冴子店長に声をかけられると、真理雄はおかしな様子で飲み物を頼んだりしていた。
 今日は二度、響子コーチがパトロールに行くのを見届けて幸せだったが、いつもの三倍くらいパラソルを立てた気がする。かき氷もドリンクもいつもより売れている。
「今日はいつもより人手が多いですね」みっちゃんに言うと、人差し指を空に向けて言った。
「今日は花火大会だからねぇ」僕はすっかり今日が花火大会であることを忘れていた。
 
 花火大会の日だって、いつものように地元のおじさん達でごった返したランチタイムが終わり、午後になって一落ち着きする時間になった。いつもだったらスイミングコーチの仕事があるから、仕事をあがっている響子コーチが、ライフセーバーのユニフォームのままで店に入ってきた。
「今日は花火大会で、私も夜まで仕事だからお昼ご飯を食べに来たよ」サングラスを外しながら、響子コーチは言った。僕は猛スピードで、店員の僕から見やすい場所に案内した。
 僕の後を歩いて店の中に進んだ響子コーチが真理雄に気がつき声をかけた。「あ!真理雄君だ!どうしたの?」
 真理雄がロボットのように言った。「こんにちは響子コーチこんにちは。今日は悠太君のアルバイト先で、高校生の夏らしい事と勉強を両立させています」響子コーチは少し首をかしげながら、感情が全く含まれないようなしゃべり方で答えた真理雄を見た。
 響子コーチが早足で前を歩く僕に追い付き、僕の耳元で小声で言った。「真理雄君、何かあったの?様子が変だけど……」
 僕も響子コーチの耳に顔を近づけて、小声で言った。「僕より早くから来てるんですけど、朝からあんな調子で……何かあったのかと聞いても、何もないって言うのでそれ以上は聞いてません」僕はここまで言って、響子コーチの耳に顔を近づけたままでいると、話の続きを待っていた響子コーチが顔をこちらに向けて、僕に話の続きを促すように言った。
「で?」僕と響子コーチの唇の距離は10センチくらいだった。僕は響子コーチの顔が目の前にあるので、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしてた。
 響子コーチの顔のすぐそばで僕は言った。「真理雄についての話はそれだけだけど、キスして下さい」
 響子コーチは顔を赤くして、すぐに顔を離して言った。「バカ!悠太君のバカ!!」僕の脳みそは、響子コーチの麻薬にジャブジャブに浸されていた。

 冴子店長のランチはとても美味しく、響子コーチはライフセーバーの間でも評判のシーフードドリアを食べていた。頼まれてもいないのに、僕が勝手にセットにしたので、僕が作ったサラダも響子コーチは食べる事になる。
 自分が作ったものを響子コーチが食べる。それが響子コーチの一部になると考えると、心の底から感無量だ。
 もちろん冴子店長のドリアを完食し、僕が作ったサラダも完食してくれた。
 響子コーチに、料金はいただけないと申し出たのだが「そういう事はやめて」とピシャリと言われたので、単品料金だけを請求してセットの分は僕がこっそり払った。
 響子コーチが笑顔で「美味しかった、また来ます」と冴子店長に言っていたので、僕がシーフードオムライスもおススメであることを伝えた。毎日だって来て欲しい。毎日僕が作ったサラダを食べてほしい。だからどれだけオムライスがおいしいか、天国のような卵の半熟ぶりを熱弁した。
 
 夕方薄暗くなり始めた頃に、普段はランチの時間だけ集まる地元のおじさんたちが海の家に戻ってきていた。今日はおじさん達の奥さんや子供、お父さんやお母さん、つまりおじいちゃんとおばあちゃんだが、テラス席に集まって飲んだり食べたりしている。
 花火が目の前で上がるこの海水浴場で、家族サービスであろう。おじさんたちだけじゃなく、その家族達からも冴子店長は人気者である。美人過ぎて、自分の夫やお父さんである地元のおじさん達には、絶対に手が届かない高嶺過ぎる花だから心配はいらないし、本当に美人で懐が深い人だから女性にも人気がある。
 冴子店長は美人であるというだけではなく、とても大きな優しさで懐が深い。地元の漁師食堂と民宿の看板娘さんだからか、とてもみんなに愛されているキャラクターだ。

 ――ドッカ〜〜ン
 
 花火の号砲が鳴った。僕は思わず手を止めて、店の外を見た。
 みっちゃんが僕に言った。「どうせ皆んな花火が上がっている間は何も注文しないから、安田君も花火を見てきなよぉ」
 僕は冴子店長を見ると、頷きながら指で外を指した。外に出ると、ライフセーバー達も皆んな外に出てきていた。
 一番端に、みんなから少しだけ離れて空を見上げる響子コーチを見つけた。僕は響子コーチの隣まで走った。
 僕は仕事中だったから、エプロンをしたまま夜空を見上げた。隣にはライフセーバーのユニフォームを着たままの響子コーチがいた。
 火薬が爆発する凄い音圧と共に。花火が本格的に始まった。
「すごいキレイ……」響子コーチがつぶやいた。
 
 ――ドドォ~ン、バァ~ン、パラパラパラパラ
 
 花火の音はとても大きく迫力があったけど、僕は響子コーチの声を、つぶやきを一つも聞き逃したくなかった。
 僕は花火じゃなくて、色々な色の花火が染める響子コーチの横顔を……花火が変えさせる響子コーチの表情を……息をのんでずっと見ていた。響子コーチのどんなことも、一つも見逃さないように、ただただじっと、響子コーチの横顔を見ていた。
 響子コーチは何度かチラッと僕を見て、その全部で僕と目が合うので笑いながら僕を見た。
「悠太君、うえうえ。花火見なきゃ。せっかくなんだから」
 僕はそれでも響子コーチから目を離さずに言った。
「僕は今日ここで、僕と花火を見ている響子コーチを見ていたいです。響子コーチが驚いて口を開けたり、嬉しそうに目を広げたり、そんな響子コーチを見ていたいです」
 響子コーチは僕と花火を交互に見ながら言った。「私の事はいつだって見られるけれど、花火は年イチなんだから」
 僕は首を横に振りながら言った。「今日の響子コーチは一生に1回です」
 僕を見た響子コーチは首を左右に振りながら、花火に視線を戻した。
 それからも色々な花火が上がるたびに、響子コーチは子供のように喜んで、うれしい顔や驚いた顔をした。僕は僕に録画機能が付いていない事を、心から残念に思った。

 沢山の大迫力の花火がクライマックスに入った頃、花火をじっと見ながら響子コーチは小さな声でつぶやいた。
「私じゃ悠太君には不釣り合いだよ……」僕はその言葉の意味を確かめたい気持ちを必死に抑えた。そして花火の音で聞こえていないフリをした。
 僕はただ、おなかに響く迫力ある花火の音の中で、響子コーチの横顔を見つめ、響子コーチの言葉に耳を傾け、響子コーチに僕のすべてを傾けていたこの夜を、忘れる事はないと思った。
 
 次の日も、朝海の家に着くと真理雄いた。
「どうしたの?」僕が驚いて聞くと真理雄は相変わらずモジモジして言った。
「うん、昨日勉強がはかどったし、花火もきれいだったし、高校生の夏を満喫できたし。もうしばらく来てみようと思ったんだ」
「花火は今日はやらないよ?それでもいいの?」
「うん、問題ないよ」真理雄は僕を見ずに、海とか教科書とかを見ていた。

 今日も外に出て、みっちゃんと仕事をしている。響子コーチはお昼までに3回パトロールに出た。みっちゃんが笑いながら言った。
「悠太君はさぁ、あの人がパトロールに出ると本当にうれしそうだね~。上野動物園で初めてパンダを見たような顔をするね~」僕は恥ずかしくなった。

 店が忙しくなるお昼ごろに、冴子店長のお父さんが真理雄に言った。「真理雄!テラス席にこれ運んでくれ!」真理雄はさっと席を立って、上手に料理を3つ持ってテラス席に届けた。僕より上手だ。その後も、冴子店長のお父さんは、真理雄をアルバイトのように使っていた。
 席に戻ってなぜか嬉しそうに教科書を読んでいる真理雄に僕は言った。「真理雄、真理雄もお客さんなんだし、勉強できなくなっちゃうから、僕が運ぶよ」
 真理雄は首を横に振りながら言った。「全然大丈夫だよ。じっとしていると集中力が切れちゃうから、適度に身体を動かしたほうがいいんだ」
 僕は思った。こんなにうれしそうな真理雄は初めて見たかもしれない。真理雄はウェイターに向いているのかな?「わかったよ。でも嫌だったら言ってね。僕がうまい事、冴子店長に言うからさ」
 真理雄はすごい勢いで、首を左右に振った。「ぜんぜんぜんぜん大丈夫だよ。僕の勉強のためにも、僕の気晴らしを取らないでよ」
「わ、わかったよ……」僕はわからなかったけど、わかったと伝えた。

 次の日も、その次の日も、真理雄は海の家に僕より早く来ていた。「真理雄君はさぁ、開店少し前に来てさぁ、開店準備を手伝ってくれるんだよ。船長と一緒に車で食材運んだりもしてくれてさぁ、俺、楽になっちゃった」と驚きの現状をみっちゃんが教えてくれた。
 みっちゃんは、冴子店長のお父さんのことを船長と呼ぶ。真理雄はウェイターというよりか、海の家や飲食店の運営が楽しいと感じているのか?
 自分の全部をかけて1人でも多くの人命を救うって言ってたのに。でも、楽しいことが見つかるのはいいことなのかな……僕はこの件については、真理雄に突っ込まないようにした。

 そんなある日、昼前位に篤と健治、外岡雅と佐久間花恵という男女4人組が海の家に来た。どうやら真理雄が毎日来ていることを知って、自分たちも夏休みに海水浴に行こうとなったらしい。
 この日以降、僕が中学生の選手コースで一緒に泳いでいた友達もよく来るようになった。そしてそれぞれが、その友達もつれてきたりするようになって、地元のいかついおじさんばかりだったこのお店は、だんだん平均年齢が若くなっていった。
 
 響子コーチも何度か昼ご飯を食べに来てくれた。僕はその都度、次回のおすすめを熱弁していた。響子コーチもスクール生がいることに初めは驚いていたけれど、だんだん当たり前になってきたようだ。

 高校生男子には敷居が高過ぎて、男子が冴子店長と話すことはあまりなかったが、高校生女子は、何かにつけて冴子店長に相談を持ち掛けるようになっていた。ちょっとした占いのお店のようになっている。そのほとんどは恋愛に関する相談で、これだけ美人な冴子店長は、きっとたくさんの恋愛経験をしているだろうとみんな思っていた。
 冴子店長のアドバイスは、ちょっと変わった内容の事が多くて、さすが僕ら高校生にはわからない、大人の恋愛をたくさんしてきたんだろうなぁ、という感じだった。冴子店長の恋愛論を聞きたくて、冴子店長が相談に乗っている時には、地元のいかついおじさんたちも、静かに聞き耳を立てている。
 
 僕の楽しい毎日は何も変わらずに、パラソルを立てたり、料理を運んだり、クロールで泳いだり、ジムトレをやったり。
 テラス席に座っていた、高校生くらいの女子3人組のお客さんに、注文された料理を持って行った。何度か来てくれているお客さんだ。
「お待たせしました。シーフードドリアのセットとシーフードオムライスのセット。フィッシュバーガーのセットになります」先に飲み物とサラダは持ってきていたので、メインを同時に3つ運んだ。
 3人組の1人が、1番手前に座っている女の子に言った。「ほら!はやく!」
 言われた女の子は、一瞬僕を見た後で、目をそらしてテーブルの上に手紙を乗せて言った。「あの、これ読んでください」そういうと両手で顔を覆った。
「ん?はい、わかりました」僕はその手紙を手に取って、テーブルを離れた。お客さんがたくさんいる時間だったので、僕はその手紙をエプロンのポケットに入れて、ほかの料理を運んでいた。

 忙しい時間が過ぎて、ふと思い出したので、その手紙を開けてみた。その手紙には、その女の子が高校二年生である事、山下南さんという名前である事と彼女の電話番号が書いてあった。最後に「付き合ってください」と書かれていた。僕は顔がカァーっと熱くなった。生まれて初めて告白されたってことなのか?僕なんかが告白されるなんて、何かの間違えなんじゃないか?頭の中がパニックになった。

「悠太君、どうしたの~?」店の奥で、手紙を両手で持ったまま、顔を赤くして固まっている僕に冴子店長が言った。
「あの、これ、さっき、お客さんが、読んでくれって……」僕はその手紙を冴子店長に見せた。
「あ~それは私が読んじゃダメなやつじゃな~い?」冴子店長は両手を立てて、ストップのようなジェスチャーをして言った。「なんて書いてあるのか知らないけれど、多分勇気を出して書いた手紙だろうからね、悠太君はその勇気にちゃんと答えなきゃだめだと思うわよ~」
 冴子店長は微笑みながらも、まじめな表情で言った。僕は無意識に、自分が響子コーチに気持ちを伝えた時の事を考えていた。勢いとかもあったけれど、僕はそのたび本当に勇気を振り絞って響子コーチに言葉を伝えてきた。僕は響子コーチ以外はあり得ないんだけれど、ちゃんと好きな人がいる事を伝えなくてはダメだと思った。
「冴子店長。ちょっとだけ彼女を探してきていいですか?」
「うんうん、いいよ~」冴子店長はうなずいた。

 僕は店を出て辺りを見渡した。浜辺を少し歩いていると、さっきの3人組を見つけることができた。僕は彼女たちに声をかけた。
「すみません。あの、ちょっといいですか?」2人の女の子は、僕に手紙をくれた女の子に何かを言って、彼女を手で突き出すように僕の方に押した。
 彼女はうつむきながら言った。「あの、えと、すみません。迷惑でしたか?」
「迷惑なんてないです。僕は生まれて初めて女の人から、その、告白してもらったので、嬉しかったです。でも、ごめんなさい。僕は好きな人がいます。付き合ったりはしていないけれど、その人じゃなきゃダメなので、ごめんなさい」僕は頭を90度まで下げた。

 店に戻ると冴子店長が言った。「見つかったのね~」
「ハイ、すみませんでした」
「ちゃんと言えたぁ?」
「ハイ。好きな人がいるから付き合えないけれど、初めて告白されたので、うれしかったと言いました」
「そうかそうかぁ。私もね~2回告白されたことあるんだよ~なんかうれしいよね~」冴子店長はトロ~ンとした笑顔で言った。え?2回ってなんだ?
「2回って、2回って何ですか?」
「だから、私でも2回も告白されたことあるんだって~すごいでしょ~」なんか言っていることがよくわからない。身長3メートルの人が、ダンクシュートを2回やったことがあると言っているようだ。
「冴子店長の言っていることはよくわからないですけど、それでも、まあ、ありがとうございました」僕は頭を下げて、自分の仕事に戻った。

 次の日から、3日連続で違う女の人から、連絡先を教えてほしいと言われた。それを見ていたみっちゃんからは、悠太君がナンパされまくりだぁと笑われた。付き合っている人いますか?とか、遊びに行きましょうとか、いったい僕の人生はどうなってしまったのでろう?僕はあと数日で死ぬので、神様がサービスをしてくれているのだろうか?だとしたら、響子コーチと2人でどこかに行くようなサービスのほうがいいのに。

 そんな神様サービスタイムが起こっている時に、響子コーチがランチを食べに来てくれた。僕はルンルン気分で席に案内した。今日は真理雄の隣のテーブルに座った響子コーチは、料理を待っている間、真理雄と話しをしていた。
 僕も座って話しがしたいな……そんなことを厨房の前に立ってぼんやり考えていた時に、僕より少し年上位の、女子が2人お店に入ってきた。
「いらっしゃいませ。店内でご飲食ですか?お持ち帰りですか?」僕はそう聞くと、前に立っていた女子が後ろの女子を指さして僕に言った。
「私の名前は一ノ瀬花楓(いちのせ かえで)。この子があなたに話があるのよ」
 前に立っていた女子は、後ろの女子の肩をつかんで、ぐっと自分の前に連れ出した。
「えっと、私の名前は、黒田美咲(くろだ みさき)といいます。高校三年生です。私、実は競泳をやっていて。クラブは違うんですけど、安田君のことは大会とかで以前から知っていて。その、ギューンっと伸びるあなたのブレストの大ファンです。えっと、すごくファンなので、ずっと前からファンなので、安田くんが小六で出た東京大会の時からファンなので……お友達になってもらえませんか?」彼女はみんなが見ている店の中で僕に言った。僕は驚いたのと同時に、響子コーチを見た。響子コーチは、ニンマリ笑顔でこちらを見ていた。僕はパニックになった。
「何ですか?!困ります!僕は仕事中なので、お客さんじゃないなら出ていってください!」僕は怒鳴るような大声で彼女に言ってしまった。厨房から冴子店長が出てくると、彼女たちの様子を見て僕に言った。
「安田君は洗い物してて。さぁ、ちょっとこっちにいいかしら?」そういうと、涙ぐんでいる黒田美咲さんの両肩に手を当てて、テラス席に向かった。僕は後悔や、なんだかわからない動揺や、いろんな気持ちで頭の中がぐちゃぐちゃになって突っ立っていた。
「安田く~ん。奥で洗い物しちゃってね~」みっちゃんが声をかけてくれて、僕は厨房に入り洗い物をした。

 なんであんな言い方をしてしまったのだろう?嬉しくない訳じゃないのに、きっと勇気を出して言いに来てくれたのに、僕はひどい言い方をした。
 ずっと前に、練習後のサウナ室の中で、響子コーチが見ている前で同級生の外岡に話しかけられた時も同じ気持ちになったのを思い出した。
 僕がほかの女子と話しているところを、響子コーチに見られたくない。そんな気持ちで勇気を出してくれた相手の気持ちを、考えることができなくなってしまった。最低だ。僕は最低だ。
 自分だって響子コーチ告白した時に、あんな口調で迷惑だって言われたら、本当に立ち直れないくらい傷つくのに。最低だ……。

 しばらくすると、冴子店長が厨房に戻ってきた。幼稚園の子供がやってはいけないことをやったときのような表情で僕に言った。
「安田君。安田君の心を私はわかってあげられないけれど、それでもあんな言い方をするのはよくないと思うわよ。人にね、好きって伝えるのって、とっても勇気がいる事じゃない?彼女は勇気を振り絞って安田君に、自分の気持ちを伝えてくれただけなのに、それを迷惑だなんて言うのはね、とっても傷つける事よ。言葉ってね、一度自分の口から出たら、決してもう引っ込められないものなのよ。あとで謝っても、何しても、もう戻せないものなの。ナイフで刺されてもね、傷はそのうち見えなくなるけれど、言葉で付いた傷はずっと残るの。何度も何度も思い出して、何度も何度も同じだけ傷つくの。だからね、あんな言い方はダメよ。私がでしゃばる事じゃないかもしれないけれど、彼女には、安田君はにはとても好きな人がいるから、残念だけどわかってあげてねって伝えておいたわ」
 冴子店長の言葉を聞きながら、本当に僕は最低だと思った。自分の事しか考えられなかった自分は最低だと思った。冴子店長は僕を優しく諭すように言った。
「もう彼女たちは帰ったから。どんな時でも誰かの想いを踏みにじるようなことは、しないでね」
「すみませんでした。ありがとうございました」僕は頭を下げて厨房から出た。みっちゃんが僕の背中を「パン」と1回軽くたたいた。

 響子コーチが食事を終えて、席を立って僕の方に歩いてきた。見られたくないところを見られたり、僕の最低さを見られたり、響子コーチの目が見られない。僕は床を見たまま響子コーチに言った。
「なんか、すみませんでした」
 すると響子コーチは僕の肩に手を置いて言った。「悠太君モテモテだねぇ」
 僕の頭の中は「バンッ」と音を立てた。
「モテモテって何ですか?なんなんですか?どこがモテモテなんですか?どういう意味ですか?なんなんですか?一体何なんだよ!!僕は響子コーチが好きなんだ。僕が他の人に告白されて、気分がいいなんて思われるのはすっごく嫌なんだ。こんなに好きなのに、なんでわかってくれないんですか?どうしたら……どうしたらわかってくれるんですか!!」僕はさっきより大きな声で怒鳴ってしまった。
 それを見ていた冴子店長がすぐに出てきた。「林葉さん。それは悠太君に対してちょっと失礼よ?悠太君があなたに一途な恋をしているのは知っているでしょ?軽い気持ちで悠太君を元気づけようとしたのかもしれないけれど、一途な気持ちを自分に向けてくれている人に対して、それは失礼だと思うわ」冴子店長は、初めて見る厳しい表情で響子コーチに言った。僕のせいだ。僕のせいでこんなことになった。
 僕は冴子店長に言った。「ごめんなさい。僕のせいです。響子コーチは悪くないです。悪いのは僕です」僕は涙が止まらなくなってしまった。
 響子コーチはバツが悪そうな表情で言った。「ごめんね悠太君。茶化すつもりはなかったんだけど、茶化したみたいに聞こえちゃったかもね。ごめんね。冴子さんもごめんなさい。大人げない発言でした」響子コーチは頭を下げて、みっちゃんにお金を払って出て行った。

 最悪だ。
 最低だ。
 リセットボタンがあるんだったら、すぐにリセットボタンを押したい。
 最悪だ……。

 この後、僕はどんな顔をしてクラブで響子コーチと会ったらいいんだろう。どんなことを言えばいいんだろう。全部から逃げ出したい気持ちだ。
 
「悠太君」うつむいていると真理雄が声をかけてきたので見上げた。
「悠太君、わかっていると思うけれど、響子コーチはからかうつもりで言ったんじゃないと思うんだ。さっきの場面で響子コーチが言っていたんだけれど、ライフセーバーの人たちの中でも、ちょっとしたうわさ話になっているんだって。冴子さんのお店の悠太君が、毎日のように女子からナンパされている、みたいなことが。で、響子コーチに片思いな悠太君がそんなことになっている訳だけど、そんなイケメン高校生を待たせている年上ライフセーバーとしては、どんな気分か?みたいなことを、響子コーチも聞かれてるらしいんだ。だから、からかわれているのは響子コーチの方みたいでさ。響子コーチも、そんなこと言われているから、なんかどうしたらよいのかわからなくなっちゃったんじゃないかな」
「はぁぁぁぁ。僕のせいで響子コーチがからかわれているなんて。僕の存在が、響子コーチにとって最悪じゃん。僕は響子コーチが嫌だと感じる事から守りたいとか言ってるくせに、自分のせいで響子コーチが嫌な思いをしているなんて。ホントもう最悪だよ」
 
 真理雄が少し考えてから言った。「僕もわかんないけどさ、人間はたくさんの人たちの認知で自分を特定しているんだと思う。だから自分が行動すれば、それは自分だけじゃなくって、たくさんの人たちに影響が出る。でもだからってさ、誰かを好きになる気持ちは止められるモノじゃないし、止めてはいけない気がするんだ。だから僕も止めないし、僕のこの想いが、誰かを傷つけたとしても、僕はこの想いを止めるつもりはない。だから悠太君も、今までどおり響子コーチが好き。それを貫いていいと思う」
「真理雄……僕は今、頭が回らないんだけれどさぁ、真理雄は好きな人ができたってこと?」
「うん。好きな人。できたよ」最近少しおかしくなっていた真理雄の言葉は、以前のように圧倒的な自信に満ち溢れたものになり、顔もキラキラ輝いている。
 人が誰かを好きになると、こんなにもわかりやすいものなのだろうか?ということは、僕もこんな風にわかりやすく、響子コーチが好きだってことを、日本中のみんなに伝えて歩いているんだろうか?

 ……リセットボタンを押してしまうと、花火の夜の、響子コーチの横顔も消えてしまうなら……それは嫌だと気が付いた。
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