ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線

第4章 高校時代 運命の捩れ

 三橋コーチがいた時には、こんな気持ちになったことがある。響子コーチには逢いたい。だけどクラブまでの足が重い。僕は一生懸命歩いたけど、風が強かったり、地震が来たり、電車が止まったり、僕のせいじゃなくって行けなかった。そんなふうにならないかと思っちゃう。今日は久しぶりにその感じだ。三橋コーチはもういないけれど、響子コーチに会いたい気持ちと会いたくない気持ちと。
 
 それでもクラブに着いた。ロッカーで着替えている時に、真理雄から「いつも通りにしていれば大丈夫」と言われてはいたけれど、あれ以来ずっと、僕が響子コーチに怒鳴ってしまったこと、響子コーチが冴子店長に謝っていたことを、何度も頭の中で繰り返してしまっている。
 きっと大人はこんな時にお酒を飲んで、考えちゃうのをやめるんだろうなと妙に納得した。
 スイミングクラブのプールで、準備体操の時に響子コーチと目が合った。響子コーチは軽く右手を上げた。僕は頭を下げた。僕はクロールだから、泳いでいる時にはバタフライの響子コーチと話す機会はない。
 
 プールが終わってジムトレに向かった。響子コーチがすでにジャージに着替えてジムにいた。
「一言だけ言わせて、昨日はゴメンね。悪気はなかった。それだけ」響子コーチはちょっと僕から視線を外して言った。
「僕こそごめんなさい。これからあんなことが無いようにします」
 それでもいつものように。というにはほど遠い感じでジムトレは始まった。ストレッチの時にも、いつもより響子コーチの身体が触れてくる感覚は少なかった。手だけで触れていた感じ。
 
 声も呼吸を、いつもより遠くに感じた。僕の心がそう感じさせているのか、実際に響子コーチが距離を取っているのかはわからないけれど、心も身体も、僕と響子コーチの距離が遠くなった気がした。
 クラブの帰りに電車に乗って家に向かっている時も、ドアによりかかりながら「ふぅ~」とため息が出た。そして僕の頭の中にはこんな言葉が浮かんだ。「もうスイミングやめようかな……」
 結局僕は、泳ぐことが好きなわけではなく、響子コーチとつながっていたいから、泳ぎ続けているだけなんだと痛感した。
 僕にとって小さくはないが、大人の人にとってはこんな小さなことで、ただ感情的になってしまっただけで、僕は全部投げ出したくなってしまう。自分はまだまだ子供なんだと思う。

 そんなことを考えていると、スマホが振動した。僕はスマホを見ると、心臓が大きく1回「ドックン」となった。三橋元コーチから「話したいことがある」というメッセージが届いた。
 こんな気分を引きずって夜を越えるのは嫌だったので、今夜だったら大丈夫と返信すると、僕の家の3つ先の駅のコーヒーショップで待ち合わせることになった。

 僕は10分足らずで到着して、冷たいカフェオレにガムシロップをたっぷり入れて、座って待っていた。スマホで「ねこの動画」を見て気持ちを落ち着かせていると、うわぁ、肉球ってもう犯罪だって思い目を上げると、三橋元コーチが入ってきた。彼はコーヒーを買って、僕が座っている席に着いた。
「久しぶりだな、悠太。クロール頑張ってるんだってな。お前は絶対自由形の才能があるから、俺も楽しみだよ」スクールで会うより、ずっと機嫌がよさそうな笑顔で僕をほめてくれた。ちょっといい人に思えてきた。さっきまであんなに会うのは嫌だったのに。
「まだまだです。今年は地区大会で負けちゃったけれど、あと二年間は自由形でいきたいって思っています」
「うんうん。たのしみにしているよ」三橋元コーチはコーヒーを飲みながら言った。
「で、話って何ですか?クロールの事ではないですよね?」
「ああ、それな。ここからは男同士の話ってことでOK?」
「男同士の話って?」 僕は少し怪訝な顔をして聞いた。
 三橋さんは前屈みになってちょっと小声で話し始めた。「いやさぁ、今俺がコーチやっているクラブでね、自由形の早い女子高生がいるんだよ。これが結構可愛い子なんだけど。良い体しててさ。胸も結構デカくてな。でな、どうもその子が俺のこと好きになっちゃってるみたいでさ、まあ俺としては気分いいんだけど、今度の大会で良い成績が出たら、付き合ってくれって言っててさ。それは俺クビになっちゃうからマズイよって言ったら、じゃあクラブやめるって言う訳よ。それは困るから、じゃあ優勝したら付き合ってあげるよって言ったんだけど、問題ないよな?」
 僕も前屈みになって答えた。「もうじき大学卒業して社会人になる三橋さんが、生徒の女子高生に手を出すのはマズいんじゃないですか?相手の親御さんとか出てきたらどうするんですか?」
 三橋さんは、身体を引いて椅子にもたれかかった。「そうなんだよ。悠太にはわかってるな。それが響子の今の立場だ。悠太と響子の立場。響子はマズい立場に立たされつつある。外から見れば、誰が見たってそう見えるよ。だから響子にも言ったんだ。自分の立場をわきまえろってな。で、俺は今日悠太に言いに来たわけだ。お前は自分の立場をわきまえろ。それとな、お前が響子を好きだというのであれば、響子の立場を考えろ。古岡さんとかは甘いから、なあなあでやっているけどさ、中学、高校の男子生徒が、女性コーチに恋愛感情を抱いてると知ったなら、普通担当外すぞ?俺は確かに男としては自分勝手なところあるかもしれないけれど、それでも響子を社会的に追い詰めるようなことはしないぞ。悠太。今のお前はそれをしているんだよ」
「なんでそんなこと三橋さんに言われなきゃならないんですか?関係ないじゃないですか?!」
「まあお前から見たら関係ないんだけどさ、響子から相談されたからこうやって時間を作ってきてるわけだ。だから響子から見た時に、俺は関係ないわけでもないんだよな」
「響子コーチが、響子コーチが僕の事を三橋さんに困っているって相談したって事ですか?」
「困っているとは言っていないけどな、悩んでいるとは言ってたな」 
 そのあと、どんな話をされたのか僕は何にも覚えていない。やっぱり僕の存在は、響子コーチを悩ませているし困らせている。追い詰めている。それに僕が原因で響子コーチが三橋さんと2人きりで会っている。別れたはずの三橋さんに僕のせいで会っている。
 僕から見たって、大学生のコーチが高校生の生徒に手を出すのはマズいって事はわかる。なのに僕はそれを響子コーチに望んでいる。
 三橋さんどころではないくらい、僕は響子コーチにとって困った存在だった。僕は何をどうしたらよいか、わからなくなった。次の日、僕は海の家に電話をして、体調が悪いから休むと言って、クラブも休んだ。

 響子コーチは三橋さんと、どこで会ったんだろう?どんな顔で三橋さんと話したんだろう?そんなことばかり考えていた。一日中ベッドの中で、同じことをグルグル考えていた。 響子コーチは僕の事を三橋さんに相談する時に、手を握ったのか?とか、お礼にキスしたのか?とかバカみたいなことを、ずっと考えていた。
 
 夜になってお父さんが帰ってきた。珍しく僕が家にいて、電気もつけずに寝ていたので、ノックして僕の部屋のドアを開けた。
「ただいま悠太。どうした?具合でも悪いのか?」お父さんはベッドのわきに座った。
「ごめんね。少し体調が悪かったから寝てた」僕は身体を起こして言った。
「そうか。最近毎日が楽しそうで、休みなくバイトに行ってたからな。さすがの高校生も疲れがたまったんだろう」お父さんは僕のおでこに自分の手を当てて、熱を測っていた。
「少し熱いな。何か心配事があったら、遠慮なく相談してな」
「お父さん」
「ん?」
「お父さんとお母さんはどこで知り合ったの?」
「なんだ?そんなこと聞くの初めてだな。同じ会社だったんだよ。いわゆる同期入社ってやつでな、彼女は頭がよくって仕事ができたんだ。俺はこう、雑なところがあったから、彼女に色々助けてもらったんだよ。人生もこんな人が助けてくれたら、俺はもっと幸せになるなって思ってからは、アタックしまくった。そんな感じだ」ちょっと照れ臭そうに言った。
「もしもさ、僕が誰かを好きになる事で、その人に迷惑がかかるようなときにはさ、やっぱりあきらめるのが男として正しい事なのかな?」
「う~ん。まず男としてってのはなんだか時代錯誤だな。男としてなんて言ったって、星の数ほど男はいるんだから、悠太としてどう考えるか?ってことが重要だろうな」
「僕はその人の事がすっごく好きだ。その人の為なら僕の全部を変えることもできる。でもその人のために、その人を好きでいるのをやめるのは、結構無理かもしれない」
「そうかぁ。そうだなぁ。俺は悠太が誰かをそんなに好きになった気持ちは大切にしてもらいたいと思う。本当にその気持ちが、その人に迷惑かけるものなのか?相手はそれを迷惑だって言ってきているのか?」
「迷惑じゃないし、気持ち悪くもないとは言ってくれている」
「じゃあそれを信じればいいんじゃないか?母さんを悲しませたことがあってさ。同じ会社に俺の元カノがいてさ。俺とお母さんが付き合っているのを知った、その元カノが結構嫌がらせみたいなことを俺にしてくるんだけど。俺がフォローしなければならないミスをわざとしてみたり、取引先に手を回して、俺と元カノが組まないと仕事できない状態にしたり。俺がそれに困ってるって、お母さんには言えなかったんだよ。なにせ元カノの話なんかしたくないだろ?結局俺が元カノと関わる時間が増えていって、二人でやる残業とかも増えていってな。そしたらお母さんは俺が元カノと、よりを戻したがってるって思ったみたいなんだ。で、お母さんにバシッと言われた。そんなに戻りたければ別れてあげるってね。俺は慌てたよ。だから今起こっている事を全部伝えた。はじめっから言えと怒られた。そのあとお母さんが何をしたんだか、俺にはわからなかったけれど、数日で嫌がらせは終わった。何をしたかは怖くて聞けなかったよ」お父さんは笑いながら部屋を出て行った。
 
 僕は自分の親のことでも知らないことがたくさんある。恋愛だって経験が無いから知らないことだらけだ。響子コーチの事も知らないことだらけ。だから、正直にまっすぐぶつかっていこう。響子コーチに、ど真ん中ストレートを怖がらずに投げよう。それで打たれたんだったら、僕の力不足だ。相手のヤマを読んで、投げたくない球を投げて、それを打たれるのは一番悔しい。僕はこれから、どんなことでもど真ん中に、渾身のストレートを投げよう。
 僕はさっきまで頭痛がしていたけれど、だいぶ楽になった。お父さんありがとう。そんな夜だった。

 海の家のバイトと、スイミングクラブには次の日からちゃんと行った。今までよりも相手を信じて、どんなことでも、まっすぐにぶつかるようにした。僕の言葉や行動が、少しみっちゃんに似てきたと、冴子店長に笑われた。そうか。みっちゃんは本当に正直にまっすぐぶつかってくる人だ。ちょっと格好悪い太ったおじさんに見えていたけれど、僕の目標の人かもって少しだけ思った。

 海の家には相変わらず、僕の同級生やその友達が来てくれる。僕は時々、女の子から手紙をもらったり、付き合っている人はいるかと聞かれる。今は響子コーチの前でも、ちゃんと話を聞いて、ちゃんと「とても大切でとても好きな人」がいることを伝えている。うやむやに誤魔化しても何も解決しないことを知ったから。

 そんなある日、篤と健治が海の家に来た。真面目な顔をして、テーブルの二人が僕に手招きをした。二人は真理雄にも手招きをした。
 真理雄は、すっかりこの店のアルバイトのようになっている。バイト代はもらっていないと言っていたが、冴子店長のお父さんから、新鮮な魚介類をもらっていて、真理雄のお母さんは「おいしい海の幸」をとても喜んでいるという。もしかしたら、その原価額では、僕よりもらっているんじゃないか?とも思うけど、真理雄も楽しそうにしているし、僕は真理雄が好きなので、一緒に過ごせて楽しい。

「なに?バイト中だからあんまり時間取れないよ。真理雄はバイトじゃないから、大丈夫だけど」僕が篤と健治に言うと、二人は気まずそうな顔をしている。
 篤が切り出した。「健治がさぁ、ちょっとまずいものを見ちゃったって言うんだけど……これを悠太に見せるかどうか相談されてさぁ。俺もどうしたらよいか悩んだんだけど、言わないよりか言ったほうが、俺たちの後悔が少ないってなったんだ。だから来た」
 僕は真理雄をチラッと見ながら言った。「なに?ちょっと怖いよ」真理雄も真剣な顔でうなずいた。すると健治がスマホを出してた。
 僕は言った。「また誰かの隠し撮りとかしたの?」僕は向けられたスマホを見た。そこには想像と違う画像が映っていた。どこかのラブホテルの入り口に、手をつないで入る男女の画像。その二人は明らかに三橋元コーチと響子コーチだ。僕は呼吸が苦しくなった。
 真理雄が言った。「これさぁ、いつの画像なの?昔付き合ってたんでしょ?」
 健治が答えた。「昨日の夜だよ。俺友達とカラオケに行ってさ。その帰りに響子コーチに似た人を見かけたんだ。おや?って思ったら隣を歩いていた男と手をつないで。その男は明らかに三橋コーチでさぁ。え?って思ったらそのままラブホに入っていったんだ。俺よせばいいのに、写真撮っちゃってさ……」
 僕は目の前が真っ暗になっていた。昨日?ってことは響子コーチが僕の事を三橋元コーチに相談したタイミングより後だ。そのあとよりを戻したってことなのか?僕は頭がパンクしそうになっていた。
 真理雄が言った。「悠太君、これは何か理由があるかもしれないからさ、落ち着いてから、ちゃんと響子コーチに聞いてみたほうがいいよ。悠太君が暴走するのはよくないよ」真理雄が僕をじっと見ていたが、僕の頭にはあまり届かなかった。

 正直にまっすぐって思っていたけれど、こんなこと響子コーチに聞けない。笑顔で軽く「ホテルに行ったんですかぁ?」って聞く?「三橋元コーチとより戻したんですかぁ?」って聞く?無理に決まっている。この記憶を消したい気持ちでいっぱいだった。響子コーチに会いたくない。僕が響子コーチに本当に会いたくないって思う時が来るなんて……。

 次の瞬間、僕は何か神様を怒らせるようなことをしたのだろうか?と思った。僕が今だけは会いたくないと思っている響子コーチが、書類をもって海の家の入り口に立っていた。

「冴子さ~ん。隊長がこの書類を届けろというので持ってきました~。ってあら、健治君も久しぶりだね~」響子コーチの八重歯の笑顔は、相変わらず可愛いけれど、今日の僕には、苦しみのすべてを消し去る効力はなかった。
 健治がさっと席を立って、響子コーチの元まで行った。
「久しぶりです。響子コーチ。昨日の夜、どこ行ってたんですか?」健治は聞いた。
「え?何?藪から棒だなぁ……」響子コーチは困った顔をした。
「響子コーチ。三橋コーチとまだ付き合ってるんですか?」健治はズカズカと聞いた。
「だから一体なんなのよ?!健治君」厨房から冴子店長も出てきていた。
「あら、響子さん。こんにちは。ご苦労様ね」そういうと書類を受け取った。冴子店長はただならぬ雰囲気を察して言った。
「なぁに?なにかあったの?」
 健治が冴子店長の方を見て言った。「自分、昨日響子コーチが、三橋コーチ、ええと、元カレと歩いているのを見ちゃったので、また付き合ってるのか聞いていました」
 冴子店長はちらっと僕を見た。
 健治はもう一度響子コーチの方に向きを変えて聞いた。「まだ付き合いってるんですか?」
「いや、確かに前は付き合っていたけれど、もう別れたよ。昨日は偶然街で会ったけど、それだけだよ」響子コーチは答えた。
「じゃあこれは何ですか?」健治は自分のスマホを響子コーチに向けた。
「え~?ちょっとひどくない?何こんなの撮ってるの?」響子コーチの顔が赤くなった。
「自分見ちゃったんです、写真撮ったのはすみません、消します。でももう付き合ってないんですよね?」
「ちょっと話をした後でね。その、ほら、流れで?」響子コーチはしどろもどろで答えた。

 僕はいたたまれなくなって、店長に何も言わずにそのまま海の家を飛び出した。
 もう無理だ。もう無理だ。ブツブツつぶやきながら、電車に乗るわけでもなく、ただ海沿いを歩いていた。早歩きで歩き続けていると、何も考えないで済む。ただただ早歩きで歩いていた。僕が働く海水浴場の3つ先の海水浴場まで歩いた。炎天下の中を2時間くらい、何も飲まずに休まずに歩いた。僕はエプロンをしたままで、砂浜に体育すわりをした。喉が渇いた。疲れた。もういいや。全部もういいや。

 もう全部終わりにしよう。スイミングも……全部を終わりにしよう。だって、もう意味がない。意味がない……お父さんには悪いけど、もう、生きているのは嫌だ。もう……
 
「あれ?安田君じゃない?」
 
「顔が真っ赤だよ。汗もすごいし、大丈夫?」声をかけてくれたのは、僕に告白をしてくれた黒田美咲さんだった。
 
 彼女は黒髪のロングヘアーで、大きなたれ目の僕より2学年上の人だ。デニムのショートパンツと白いTシャツを着ている。
「これ、嫌じゃなかったら飲んで」僕にペットボトルを渡してきた。僕はそれを受け取って飲んだ。一気に飲んだ。彼女は僕の隣に、同じ体育すわりで座った。
「私の家さぁ、この海岸の近くなんだよねぇ。だからこうやって毎日散歩したりしてるんだ。驚いたよ。何かあった?」彼女は僕の膝の上に手を置いた。僕は涙がブワッと溢れてきた。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、僕の膝の上にあった手を、僕の頭の上に乗せて言った。
「私は安田君よりお姉さんだから、辛そうな安田君には甘えさせてあげよう」そう言って僕の頭をグッと自分の胸に引き寄せた。
 僕は彼女の胸で泣いた。
 
 何も言わずにただ僕の頭を抱きしめてくれた。響子コーチの匂いとは違うけれど、僕は安堵感を覚えた。ずいぶん長い時間そのままでいた。その間彼女は何も言わず、ただ僕の頭を自分の胸に抱いて、赤ちゃんを寝かすように僕の頭を手のひらで、トン、トンと、リズムを取っていた。
 
「うん」と彼女は小さい声でつぶやくと、さっと立ち上がって言った。
「安田君。付いてきて」僕は言われるがままに彼女について行った。

 彼女は後ろ手に組んで、僕の前を歩き、時々振り返って笑顔をくれた。でも何も聞かなかった。気が付くと海沿いのホテルの前に来て立ち止まった。
 振り返って僕の顔を見て、少しの笑顔と、少しの恐怖心のような顔をして、僕の手を取ってホテルに入った。
 彼女は笑いながら言った。「こんなことするの初めてだからね」そう言うと、フロントで鍵を受け取り二人は部屋に入った。

 「さぁ」彼女は僕をベッドに寝かせた。彼女は自分の服を脱いで下着姿になった。寝ている僕のエプロンを外して、シャツを脱がせた。僕は何も考えることができなかった。薄暗い部屋のあかりはまだ灯されていなかった。
 遠くに聞こえる車のクラクション。とても静かな部屋の中。僕は心地よかった。
 
 ベッドに仰向けになり、腕で顔を隠している僕の横に来て、僕の胸の上に彼女は自分の耳を乗せた。
「安田君の心臓の音が聞こえる……強くて速い……」彼女はつぶやいた。人を好きになる気持ち。僕は思い出していた。ストレッチの時に僕の身体に身体を重ねてくる響子コーチの体温。呼吸の音。匂い。すべてが心地よい。
 僕は今、彼女にその心地よさを提供しているのだろうか?僕は何も感じていないのに、僕は今、黒田さんを心地よくさせているんだろうか?人を好きになるって何なんだろう?黒田さんが僕の上に跨ってきた。
 僕の陰部と彼女の陰部が重なって、温かく柔らかい彼女の秘部が、彼女の下着越しにわかる。
 僕はといえば、こんなボロボロの心境なのに、響子コーチのことを頭に浮かべながら、黒田さんの下で勃起をさせている。最低だ。僕は最低だ。
 
 黒田さんが僕の顔に顔を近づけてきた。ダメだ。僕は黒田さんを両手で止めた。
「黒田さん、ダメだよ。僕は今、黒田さんと一緒にいるのに、黒田さんとホテルのベッドにいるのに、頭の中では他の人のことを考えている。こんなの黒田さんにあんまりにも失礼だ」
 
 僕の言葉を遮るように、黒田さんは僕の唇に人差し指を置いた。「安田君。私は今でもあなたが好き。こうして私と二人きりでいるのに、安田君が他の誰か想っているとしても、私は安田君の事が大好きなの。初めてあなたのブレストを見た時に、なんて伸びやかな平泳ぎなんだろうって思ったわ。泳ぎ終えたあなたの嬉しそうな顔を見た時からね、恋しちゃったの。ずっと好きなの。すごく好きなの。話したこともないのに、すっごく好きになっちゃったの。だから、今はあなたが他の誰かを好きでもいいわ。時間をかけて振り向かえさせてみせる。時間をかけてあなたを私で満たしてみせる。だからチャンスを頂戴。私にも、あなたに愛してもらえるチャンスを頂戴。あなたが望むのであれば、私は都合のよい女で構わない。なんだって構わない。あなたが私を乱暴に扱いたいなら、それでも構わない。受け入れるわ。私の全部をあなたにあげるわ。あなたが欲しいもの、全部あげるわ。だからね。チャンスを頂戴。あなたに愛されるチャンスを、私にください。一度だけでいいから、私にもあなたに愛してもらえるチャンスを。ください」彼女はとても暖かく、とても真剣な表情で言った。僕はまた涙が溢れだした。
 
「黒田さん……美咲さん。僕は今、黒田さんが僕を思ってくれているのと同じくらいの強さで、同じくらいの大きさで、好きな人がいます。こうして黒田さんに想いを告げてもらって、生まれてきてよかったかもしれないって感じています。さっきまでは、生まれなければよかった。死んでしまおうって思うくらい、全部どうでもよくなっていました。でも、黒田さんになら、わかってもらえると信じます。たぶん僕が、黒田さんのその想いに流されてしまったら、自分のすべてを否定して生きることになります。今、黒田さんに抱きしめられて、僕は黒田さんを抱きしめたい気持ちでいっぱいです。まだしたことがないキスも、黒田さんとならいいかも、って思いもあるし、このまま黒田さんと一緒に生きていくのも良いかも、って気にもなっています。でも黒田さん。僕にも、僕にもあの人に愛されるチャンスをください。僕にも、僕にももう一度だけ、あの人に愛されるチャンスをください」
 
 僕の顔に黒田さんの涙が落ちた。黒田さんは深くゆっくりとうなずいて、片手でロングヘアーをかきあげながら、僕の額にキスをした。僕の額に黒田さんの額を付けた。僕と黒田さんの唇の距離は、ほんの3センチ足らずだ。
「大好きなんだけどなぁ。こんなにも、安田君の事が大好きなんだけどなぁ」黒田さんの額を僕の唇にあて、黒田さんの額を僕の胸に当て、ゆっくりと体を起こした。

  黒田さんは僕に跨ったままで、ブラジャーを外した。僕の手を取って、彼女の乳房にあてた。黒田さんはずっと涙を流していた。
「こんなに……こんなにも好きなんだけどなぁ……」黒田さんは小さい声で言った。

 薄暗い部屋の中、パンティーしか身に着けていない黒田さんの裸はとてもキレイだった。僕の手を、黒田さんの手と乳房でサンドイッチして、ズボンの中で勃起した僕の陰部に、黒田さんの秘部を押し付けていた。黒田さんは少し腰を動かして、小さくうめき声を出し、時々眉間にしわを寄せた。本当にキレイだった。

 静かな部屋に、ベッドがきしむ小さな音と、黒田さんのほんの小さな快感の声がしばらく続いた。
 長いワンレングスの髪の毛を、両手でかきあげて天井を見上げた黒田さんの、白くきれいな肌に恥ずかし気に張り付いた、薄いピンク色の小さな乳首が、窓から入る月明かりに照らされて、本当にきれいだった。
 
 黒田さんは首を左右に大きく振って言った。「わかったわ。私がこんなに好きな人に、生涯苦しい思いをさせるのは、私の恥ね。でも安田君、覚えておいてね。私、これでも結構モテるのよ?こんな私をふったんだから。あの時、私の気持ちに応えればよかったかな?ってずっと後悔していてね。私の全部をあげるって言ったのに、いらないって言った自分を後悔し続けてね。それが安田君にできる、私の想いへの……つぐないかしらね」黒田さんは僕の鼻にキスをして身体を起こして僕の上から降りた。

 その後、二人でモスバーガーに行って、夕飯を食べた。黒田さんの学校での話や、水泳の話はとても楽しかった。僕は二人で夕飯を食べている時間、一度も響子コーチの事を思わなかった。好きな人と過ごす時間とは、本来こんな風に穏やかで、他の男の人のこととかを考えず、相手のことだけを考えている、心和む時間なんだろうと思う。僕のそれとは、似ても似つかない。心の傷がいえていくような時間だった。

 黒田さんは帰りに、連絡先を交換してしまうと、私はずっと安田君からの連絡を待ってしまうから、連絡先の交換はしないと言った。もし私にとっての「運命の人」が、安田君であるならば、また巡り合えるから、私は安田君に恥じない生き方をするね。彼女がそういうと、電車のドアがハサミのように閉まり、僕たちの関りを切った。

 電車に乗った僕を、黒田さんはホームで見送ってくれた。ずっと手を振って、ずっと見送ってくれた。

 次の日いつもより早く家を出て、いつもより早く海の家についた。僕は勇気を出して大きな声で言った。
「昨日は勝手に帰ってすみませんでした」頭を下げた。
 みっちゃんが「おはよう~今日は早いね~」と声をかけてくれた。
 冴子店長もウンウンとうなずいてくれた。
 僕の後ろから、冴子店長のお父さんと真理雄が、発泡スチロールの箱をもって入ってきた。
「あ、おはよう悠太君。良かった。今日は僕一人でウェイターやるのかと心配したよ」笑いながら真理雄が言った。
 冴子店長のお父さんが言った。「今日もしっかり働いてもらうぞ」そう言いながら僕の背中を「バシッ」と強くたたいた。

 いつもの毎日が戻った。響子コーチと会いにくい気持ちはあったけれど、それでも誰かを好きになる想いは、決して誰かを不快にさせるものではない事を、昨日教えてもらった。黒田さんが僕に伝えてくれた想いは、今でも僕の心を温め続けているし、僕も響子コーチのことを、そんな風に温められたら良いなと思っている。だから今日も、響子コーチに笑顔で伝えよう。僕は響子コーチが大好きだってことを。

 いつものように、みっちゃんと外に出てお客さんに声をかけていると、見覚えのある女性がこちらに歩いてきた。すごい剣幕で僕に言った。
「ちょっと!あんたどういうつもりなのよ!あんた美咲に何したの!?」僕は驚いたし、彼女は黒田さんがこの店に来た時に、一緒にいた一ノ瀬花楓(いちのせ かえで)さんという名前の人だと思いだした。あまりの剣幕に、みっちゃんがとにかく中に入るように言って、彼女は店のテーブルに座った。冴子店長も出てきて、僕と三人がテーブルに座った。

「あんた美咲に何したのよ!?あの娘、一晩中泣いてたのよ!?幼稚舎から長年友達やってるけれど、涙なんて一度も見たことないんだから!あの娘、中二の時に関東競泳選手権の見学に行った時から、表彰台にも登れなかったただのバカ小6男子に、バカみたいに夢中になって、何十人からの告白を棒に振って――」
 冴子店長が言った。「まぁ、落ち着いて話しましょうよ。昨日は色々あった一日だったからね~」そう言い終わると僕を見た。
「黒田さんに助けてもらいました。僕は昨日好きな人の事で色々あって、どうでもよくなってしまって、仕事中にこの店を勝手に出て行ってしまいました。黒田さんと偶然会って、色々な話をしました。僕はもう死んでしまいたいって思っていたんですが、黒田さんに助けてもらったんです。だから、僕は謝ることしかできません」
 
 冴子店長が言った。「黒田さんとの間に何かあったの?そのぉ、具体的に何か……」
「あったと言えばあったし、なかったと言えばなかったです。黒田さんと二人でホテルに入りました」ここまで言うと花楓さんは僕のほっぺたを叩いた。
「あんた最低ね!」
 冴子店長が止めた。「ちょっと待ってよ。ちゃんと話を聞きましょう。ね?最後まで」
 僕は話を続けた。
 「ホテルに入って、彼女は僕に対する想いを言葉で伝えてくれました。たぶんそれは、僕が好きな人を想う強さと同じくらいなんだって感じました。だから僕はこのまま黒田さんと何かをしてしまえば、ずっと黒田さんと僕自身を裏切り続ける事になると思いました。だから、二人は何もしませんでした。ただ言葉で僕に想いを伝えてくれた。僕も言葉で自分の気持ちを伝えた。それだけです」僕は正直に答えた。
「花楓さんの気持ちもわかるし、悠太君の気持ちもわかるのよね。でもね、黒田さんと悠太君の事は、他の人にはわからない事だと思うの。友達思いで立派な花楓さんにも、それはわかるでしょ?」冴子店長が優しい口調で言った。
「わかるけど……わかるけど、あの娘は本当に良い娘なんです。あの娘何も言わないけど……本当はアンタがあの娘をホテルに連れ込んで……何かしたんだったら許さないから!アンタがホテルに連れ込んどいて、何もしなかったなら許さないから!私みたいないい加減な女とは違うんです。それなのに、そんな娘を泣かせるなんて……私は許せません」花楓さんは強い口調で言った。
 冴子店長はやさしい笑顔のままで言った。「でもね、花楓さん。こればっかりは花楓さんにも私にも、そして悠太君にもどうにもできない事なのよ。黒田さんの問題だわ。友達であってもね、代わりはできないのよ。だからね、花楓さんは友達として、黒田さんをしっかり支えてあげてほしいわ。これから黒田さんの人生に何が起こるのか、私にはわからないけれど。人生ってね、一生懸命生きているとね、驚くようなことが起こるのよね。私もまだ30年しか人間やっていないけれど、それでも、色々あったのよ。もう終わりかなぁ?って思ったことも何度かあるけれど、驚くようなことが起こるのよ。だからね、そんな時に一緒に喜んであげられる、お友達でいてあげて欲しいわ」
 その後も僕に文句を言い続けた花楓さんは、冴子店長には頭を下げて帰って行った。

 冴子店長は僕を見て笑顔で言った。「昨日は色々あったわね~これからも色々あるだろうけれど、悠太君は悠太君らしく、正直に一生懸命な悠太君でいてね」
 僕は冴子店長に言った。「わかりました。本当に連続で迷惑をかけてすみませんでした。それと、冴子店長は30歳なんですか?」
 冴子店長は笑いながら言った。「なぁに?今日まで何歳だと思っていたのぉ?」そう言いながら厨房に歩いて行った。「どう見ても20代前半でしょう……」と僕はつぶやいた。顔を上げるとみっちゃんと目が合って、みっちゃんが笑顔で言った。「それな~」

 この後もぼくの夏休みは続いた。初めからアルバイトの雇用期間はお盆休みまでだったので、8月17日を最後に僕の初めてのアルバイトは終わった。「また来年も来てね」と冴子店長に言ってもらえて、僕も「お願いします」と言った。みっちゃんからもハグされて、「来年はアルバイト募集しないで待っているからね~」と言ってもらえた。誰かに自分の存在を認めてもらうのは、こんなにもうれしいことなんだと思った。
 
 苦しさも、温かさも、嬉しさも、腹立ちさも、僕の16回目の夏は一番充実した夏になった。大人の階段を一段登った気がしていた。花火の日の、響子コーチの横顔は絶対に忘れる事が出来ないし、冴子店長の懐の深さも、みっちゃんの正直さも僕がなりたい「大人」のそれだった。
 
 特に黒田さんには、僕の心に深く刻み込まれる言葉をたくさんもらった。彼女は僕に、誰かを好きになることの重さ、言葉や態度で誰かを深く傷つけてしまう怖さ。誰かに想われる温もりや柔らかさ、強さや覚悟とか、いろいろなことを教えてもらった。
 僕にとって黒田さんは生涯、抜く事の出来ない心の棘のように、これからの僕が誰かを傷つけないでいるための痛みを、ずっとあたえてくれるように感じていた。
 少なくとも僕は、誰かに傷つけられるより、誰かを傷つける方がずっと辛い事を知った。

 夏休みも終わりに近づき、学校関係のやらなきゃならないことに追われながら過ごしていた。SNSでの報告によれば、真理雄は今日も海の家や冴子店長の実家の食堂で手伝いをしているらしい。
 バイト代はもらわずにだ。いくら冴子店長の実家が漁師の家であり、新鮮でおいしい魚介類をお土産にもらっているからといって、真理雄はどうしてしまったのだろうと首をかしげる。
 まあ、真理雄の事だから、全てちゃんとやるんだろうから、学校への提出物がなにも終わっていない僕が心配する立場にない事だけは確かである。

 スイミングクラブでの僕は、以前のように誰彼かまわずに、響子コーチのことが好きだと言って回るのはやめた。若さゆえの熱が冷めたと思われるのは心外だったけれど、僕の独りよがりだったことに気が付いたからだ。僕の行動や言動が、響子コーチを追い詰める事もあることを今は知っている。僕はしっかりと、響子コーチに対する想いを確かめて、積み重ねていこうと思っている。

 この気持ちの変化を、響子コーチには伝えたかった。少し距離を感じたままの、響子コーチとのジムトレが終わった後で、響子コーチに言った。
「響子コーチ。一度話がしたいです。時間を作ってくれませんか?」
 ちらっと壁掛け時計を見た響子コーチが言った。「ここで良い?」
 僕は首を振った。「クラブ以外の場所で話がしたいです」
 響子コーチは一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに切り替えて笑顔で返した。「わかったよ。早い方がいいかな?今日22時からだったら時間作れるけど、さすがに遅いかな?」
「いえ、22時でお願いします。場所は駅前のマックで良いですか?」
 響子コーチは笑顔で言った。「わかったよ。22時にマックね」そういうと響子コーチはコーチ室へと引き上げた。
 僕は着替えて自転車に乗ってマックへと向かった。

 お腹もすいていたから、僕はビッグマックのセットを頼んで、テーブル席で食べていた。スマホで「ねこ動画」を見たり、マンガを読んだりして時間をつぶしていた。約束の15分前に響子コーチもやってきて、僕のテーブルのビッグマックの空箱を見て、自分もダブルチーズバーガーを注文した。
「こんな時間にダブチーはまずいかなぁ……」そう言いながら、もぐもぐと食べ始めた。
「今日は時間ありがとうございます。響子コーチにちゃんと話しておきたいことがあったので、時間を作ってもらえてうれしいです」
「なぁに?そんなにあらたまって」響子コーチはポテトを食べながら言った。

「この夏は初めてのアルバイトを経験したり、色んなことがありました。いろんな人に迷惑をかけた夏だったけれど、僕なりに色々な事を知ることができた時間でした」
 響子コーチは食べるのを止めて言った。「私は悠太君傷つけるようなことしちゃったからね。偉そうなことは言えないよ」
「一度僕の中で、全部終わりにしちゃいたいような、投げやりな気持ちになったときがあります。その時に助けてくれた人がいます。その人は僕に鏡を見せてくれました。僕が響子コーチをすごく好きでいるのと同じくらい、僕を好きでいてくれる人です。その人の言葉や態度を見ていて。僕の響子コーチに対する行動や言動は、独りよがりだったとすごく反省しました。響子コーチ」僕は一度話を止めた。
 
「なぁに?」響子コーチは僕を見た。
「僕は響子コーチのことが好きです。すごく好きです。本当に好きです。でも僕が響子コーチの事が好きである事よりも、響子コーチが幸せだと感じてくれる方が僕にっとって大事です。だから僕は、人前で響子コーチのことが好きだ、ってことを言うのはやめました。すごく素直になりにくいけれど、三橋さんにも言われたのですが、僕がそれを言いふらすことは、僕じゃなくって響子コーチに降りかかる何かを生んでいることに気が付きました。だから人前ではあまり言わない事に決めました。でもそれは、僕の気持ちが少なくなったわけではなくって、僕が今までよりも、自分の気持ちより響子コーチを優先したに過ぎないってことを、ちゃんと知っておいてほしいです」
響子コーチは少し驚いた顔をした。「大人になったんだねぇ」

「僕を好きでいてくれる人に手を差し伸べられた時に、僕はその手をつかんでしまいそうになりました。結局はつかまなかったけど、それでも人は苦しい時に誰かに手を差し出されると、その手に頼りたくなる、流されたくなる気持ちがわかりました。響子コーチが三橋さんとそうなったのは、どんな気持ちなのか僕にはわからないことだけど、それでも僕はそう感じました。だから、僕は強くなって響子コーチが苦しい時に、僕が手を差し出せるようになりたいって心から思いました。響子コーチがどの差し出された手を選ぶのか、僕には口出しできないけれど、僕はいつでもそんな気持ちでいるってことを知っておいてください」
「……」響子コーチは黙っていた。

 「それと、できれば僕の親に会ってほしいです。僕のことをもっと知ってほしい。響子コーチの家族にも会いたいです。響子コーチのことももっと知りたい。響子コーチにとって僕が何歳になったら、三橋さんが言っていた社会的責任とかに問題がなくなるのかわからないけれど、これから強くなるので、僕が社会人になったら、僕と結婚を前提に付き合ってください」
 響子コーチはうつむいて、テーブルの下の床をじっと見ていた。

「あのね、悠太君。なんていうか、それが悠太君らしい一生懸命さというか、真面目さというか、一途というか……それはわかるんだけれどね、極端だよ。極端すぎる。悠太君は自分をまだ子供だと思っていて、私を大人だっていう前提で話してくるけれど、私だって全然大人なんかじゃないんだよ。社会に出れば21,22なんてガキ同然なわけでさ。実際自分でも、なすべきことをなさずに、したい事を優先する事なんかしょっちゅうでさ、そう意味では悠太君の方がずっと大人だと感じているよ。だからさ、何て言ったらいいか難しいけれど、焦らないで欲しいんだよね。今までお付き合いした人だって、その人の親に会ったことなんてないしさ。まだ高校生の悠太君に、親にあって欲しいって言われても、これからの私はどんな風になっていくのかもわからないし、悠太君がどんな風になっているかもわからないじゃん。だからね、あんまり先の事を言われても、正直……困るよ」
 響子コーチは床を見たままで、言葉を探しながら話した。僕はずっと響子コーチを見つめたままだった。
「響子コーチ」
「ん?」響子コーチは夜っと顔を上げてくれた。「なぁに?」
 僕はうれしくて笑顔になってしまった。それを見て響子コーチが言った。「そういうのずるいよ。もう。ずるいよ」響子コーチはまた床に目を落とした。
 僕はもう一度響子コーチを見つめ続けたまま言った。「響子コーチ」
「だから何ですか?」響子コーチは赤くなった顔を僕に向けてくれた。
「僕は響子コーチがどうしようもなく好きです。本当に好きです。大好きです。これはこれからもずっと変わりません。僕のこの気持ちは、僕が勝手に抱いている気持ちであって、響子コーチには関係ありません。そりゃぁ、響子コーチも僕を好きになってくれれば、それはもう……それはもう最高なことですが、僕は響子コーチが大好きなので、響子コーチの毎日が幸せであればそれでいいと思っています。だから僕は、自分の気持ちを一方的に押し付けるつもりはありません。でも、僕の気持ちもちゃんと伝えておかなければ、僕が僕を裏切ることになっちゃいます。だからもう一度言います。僕が社会人になった時に、もし響子コーチが嫌でなければ、僕と結婚を前提に付き合ってください。お願いします」僕はテーブルの上におでこが当たるまで下げて、右手を響子コーチの方に出した。
 30秒か1分か。実際の時間はどのくらいたったのかわからないけれど、僕的には1時間くらい手を出していた感じだ。
 僕の右手がフワッと暖かくなった。顔を上げると響子コーチが両手で僕の右手を握ってくれている。その手を動かしながら、響子コーチは言った。
「もう頭は上げてちょうだい。今日この場で、悠太君と付き合う事を約束することはできないよ。でも、もしタイミングっていう名前の神様が、悠太君が社会人になって、それでも私の事を好きでいてくれて、私が悠太君の気持ちに応えることが出来る状態だった時には、お付き合いをしてみましょう。約束は何もできないけれど、拒否している訳じゃないって感じで、今日は許してもらえないかな?」響子コーチの両手の温かさは、僕を天まで昇らせる。僕はこれからも頑張って、そのタイミングが来た時に、響子コーチに選んでもらえる男になりたい。そう思った。
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