ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線

第5章 高校時代 初耳初見初キッス

 僕の毎日は、学校と水泳だ。アルバイトもしようかと考えたけれど、夏になったらまた、冴子店長の海の家で働きたいから、他のアルバイトをしても、夏にはやめなければならない。それでは迷惑がかかる。
 夏休み中は、昼の海水浴場の響子コーチと夜のスイミングクラブの響子コーチ。二つの場面で会えていたので、なんだかすごく関係が近くなった気がしていた。今はスイミングクラブだけなので、僕の中で響子コーチとの関係が、すごく減った気がしている。元に戻っただけなんだけれど。

 競泳の地区大会では、自由形全距離で良い成績が出ていて、古岡コーチや他のコーチから褒められることが多い。あまり感情を見せない百瀬コーチから指導を受けている時に、僕はいつも通り百瀬コーチの顔を見てうなずきながら聞いていたら、突然百瀬コーチが笑顔で僕の頭をなでてくれた。「お前はホント……」と言われたけれど、ホント何なのかは言ってくれなかった。

 今の僕は、ただただ社会人になったら響子コーチと結婚してもらえる男になりたいと思っているだけだし、冴子店長やみっちゃんのように、目の前の誰かを大切にして、その誰かに正直でありたいと思っているだけだ。
 ずっと前に、百瀬コーチから「お前はどう生きるんだ?」と怒られたことがあって、その時はちょっと百瀬コーチが何を言いたいのかわからなかったけれど、今は少しわかる気がしている。だから僕は、どんな時も面倒くさがらずに、ちゃんと生きたいって思っている。

 ある日いつものようにクラブに行って、ロッカーで着替えていると真理雄がやってきた。
「悠太君おはよう」
「さっきまで学校で一緒だったのに。なんか変だよ」僕は笑った。
「ははは。癖かね?そんなことよりも、響子コーチのこと聞いた?」
 僕は今までのこのパターンはやばいと感じて、心がギュッとなった。「な……なに?」
「冴子さんから聞いたんだけど、響子コーチ入院したらしい」
「え?!どこか悪いってこと!?」
「なんか心臓が苦しい時があるから検査したら、問題が見つかったからしばらく検査入院になるってことみたい」
「えぇ!!?」僕は居ても立っても居られない気持ちになった。
「どこの病院に入院しているの?今からでも行けるかなぁ?!!」僕は真理雄の両肩をつかんで聞いた。
「落ち着いてよ悠太君。痛いよ。病院は冴子さんから聞いているよ。でも今夜これからは、もう面会時間過ぎるから無理だよ。今日はちゃんと泳いでさ、明日、学校帰りに行けばいいよ」真理雄は僕を諭すように言った。
「そうだな。わかった。ところで真理雄。なんで冴子さんがそんなこと知っているの?」
「なんだか響子コーチが、冴子さんにいろいろ相談したりしているみたいだよ。冴子さんが言うには末っ子気質かしらね。って言ってたけど」
「それに真理雄は海の家から4か月経って、もう今年も終わろうとしているけれど、今でも冴子店長とそんなにつながっているの?」
「へへへ。週末は泊りで民宿手伝ってる」真理雄らしからぬ笑顔を見せた。

 次の日僕は、学校帰りに響子コーチが入院しているという病院に行った。駅のそばの花屋さんで花を買っていった。
 受付で響子コーチが入院している部屋を聞いて、その階の廊下の一番奥にある病室の扉の前に立った。扉の横には4人の入院している人の名前が書いてあり、その中に「林葉響子」という名前を見つけた。
 軽い深呼吸をして部屋に入ると、奥の窓際のベッドに響子コーチがいた。僕は思わず走り出した。響子コーチは僕に気が付くと言った。「走らない。病院は走っちゃダメ」僕は慌てて早歩きに切り替えた。

「真理雄から、冴子さんから聞きました。驚きました。大丈夫ですか?」
「ごめんね、心配かけて。わざわざありがとうね」病院で貸し出す格好悪いパジャマでも、響子コーチが着るとすごく可愛い。僕は勝手に顔を赤くして、買ってきた花を渡した。
「これ」
「病気になったわけじゃないんだから、よかったのに。まあ病気が見つかったといえるのかな?検査入院だからさ。私は別に元気なんだよ。ほら、この通り」響子コーチは両腕を上に伸ばして、肘を曲げて体操のようなポーズをとった。
「元気ならよかったです。でも、僕の大切な大切な、本当に大切な響子コーチなんですから、無理はしないでくださいね」僕は言った。
「うん、ありがとう。先生もそれほど心配することは無いと思うけれど、ちゃんと知っておくことは大切だからって言ってたしね」響子コーチは僕を見て言った。毛布の上に無造作に置かれた、響子コーチの手を握りたくてしかたなかったけれど、心臓の検査をする状況なのに、僕が手を握って驚かせたりするわけにはいかないと考えて思いとどまった。

 僕はそれから、学校とクラブの間の時間に、毎日響子コーチの病院に行った。あまり長い時間だと迷惑になるから、30分と決めていた。なんで30分かというと、病院の受付の壁に「患者様の負担軽減のため、お見舞いは30分程度を目安に」と書いてあったから。僕は甘えて、上限いっぱい響子コーチと一緒にいることにした。

 お父さんには、お世話になっている、僕が大好きな響子コーチが入院している事を話した。僕は毎日、もちろん負担軽減のため、30分だけお見舞いに行くから、掃除とかできないって伝えてあった。
 響子コーチがいないクラブでは、ジムトレの時間は他のコーチが付いてくれた。響子コーチが居なくても、僕はちゃんと泳いで、ちゃんとジムトレやって、ちゃんと過ごした。

 一週間くらいの検査入院と言っていたけど、そろそろ退院かなと思っている日曜日。朝からずっと行っていたかったけれど、響子コーチの負担軽減のため、30分をどこで行くか考えた結果、いつものように夕方行くことにした。
 いつものように響子コーチの病室に入ると、枕もとの台には、花瓶に入った綺麗な花が二つあった。
「響子コーチ。今日も元気ですか?」僕は言った。
「うん、ありがとうね。もう退屈で死にそうだよ」
 僕は花瓶の花をちらっと見て、頭に三橋さんが浮かんだけれど、それをかき消して言った。「綺麗な花ですね。誰かお見舞いに来たんですか?」
「うん。百瀬コーチと驚く人が来た」僕は百瀬コーチの名前を聞いて安心して、驚く人と聞いて、また三橋さんの顔が浮かんだ。
「もしかして、三橋さんですか?」僕は響子コーチの顔を見て聞いた。
「ははは。正直に言えば前に一度来たよ。でもあれは花なんて持ってこないよ。悠太君、あれとはもう本当に終わっているから。変に思わないでね。流されちゃうことも、今後もうないよ。それは断言できる」響子コーチは何か強い確信を持った顔をして言った。僕は何か、ずっと引っかかっていたことの一つが流れていく気がした。
「……よかった」僕は思わず口走った。
「ははは。いろいろゴメンね。嫌な思いもさせたからね。ごめん」ベッドわきの椅子に座る僕の頭を、響子コーチが撫でた。僕の心臓はドキドキしながら、とても穏やかな気持ちになった。響子コーチの手はとても温かい。僕はずっとこの手を握っていたい。
「でもじゃあ、驚く人って。僕が知っている人ですか?」僕は心配そうに尋ねた。
「知ってる知ってる。すっごい知っている人だよ」響子コーチは僕の頭にのせた手を、さらに動かしながら笑顔で言った。
「誰だろう?誰なんだ?……」
「悠太君のお父さんが来てくれたんだよ」僕は口がガバッと開いた。漫画とかでは見たことあるけれど、突然すごく驚くと、本当に口が開くことにも驚いた。
「え!?僕のお父さん!?」
「そう。イケメン紳士が来たから、病院の人かな?って思ったのよ。そうしたらそっちの、右側の豪華な花束を持って言うの。初めまして、いつもお世話になっている安田悠太の父、安田幸太郎ですって。もう驚いたなんてもんじゃなかったわよ」多分きっと、僕の方が驚いている。
 響子コーチのビックリした顔や、僕に話してくれる笑顔は、本当に夢中になる。僕が見とれていると響子コーチは少し真面目な声質に変わって話をつづけた。
「あのね、悠太君。私は今日、私が知らなかった悠太君に触れたの。お父さんから悠太君のこと、いろいろ聞いた。悠太君はお母さんのこと……覚えている?」
「あぁ、そんなに気を使ってくれなくても大丈夫ですよ。僕もう高校生だし。お母さんが死んだのは僕が小学生になる前の話だし。覚えているか?って聞かれたら、正直覚えていないです。小さい頃は写真を見ていたかもしれないけれど、僕が小学生の間は、お父さん早く帰ってきてくれて、料理もうまいんですよ。授業参観とかも、ずっとお父さんが来てくれていたから、淋しいって気持ちになったことはないかな」僕は響子コーチの顔を見つめながら言った。
 響子コーチは、顔の向きを横に座った僕から、前向きに変えて、ベッドを仕切るカーテンをぼんやり見ながら言った。
「なんかね。お父さんから聞いた悠太君の毎日は、私が過ごしてきた毎日なんかより、ずっと……大変な毎日だったんだなぁって」
 僕は笑いながら言った。「そんなことないですよ。野球させてもらって、水泳させてもらって、ご飯も毎日作ってくれて。僕が大変なことなんて一つもない。中学生になってからは、洗濯や掃除や、買い物や下手だけど料理や。できることはやっていたけど。真理雄だってお父さんいなくって、いろいろ家の事を僕よりもたくさんやっているし。それで勉強もすっごいできるなんて。ヤバいですよね?」
「悠太君が拾った猫を、一所懸命飼える人を探した話とか、学校でいじめられている子を必死で守った話とか。私……私……」響子コーチはワァっと泣き出してしまった。僕はただオロオロと、響子コーチの手を握ったり、響子コーチの背中をなでたりしかできなかった。鼻水が出ている響子コーチも可愛いなって思いながら、ティッシュを取ったりしていた。

「私これから、悠太君にどう接したらいいか、わかんなくなっちゃった……」響子コーチはまた泣き出してしまった。僕も響子コーチにどう接したらいいかわからなかったけど、わけも分からず響子コーチの頭を抱きしめた。僕のおなかあたりに響子コーチの頭を抱きしめていると、僕のおなかはとても温かくなる。響子コーチの筋肉の動きや、呼吸や声や、全部を僕の身体で感じられる。たぶん3分くらいこうしていたけれど、僕には10秒くらいに感じた。
「悠太君、もう大丈夫」ちょっと苦しそうな響子コーチの声がして、僕は慌てて頭を離した。
「ごめんなさい。強すぎて痛かったですか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。こんな場所で悠太君に抱きしめられるなんて……何だか変な感じ」響子コーチはクスっと笑った。
「お父さんから、僕がお化け屋敷で泣いた話とか、なんかいろいろ変なこと聞いたんじゃないかって心配しちゃいました」
「変な話もいっぱい聞いたよ」響子コーチは悪戯な顔をして笑って続けた。
「でも今日聞かせてもらった、私の知らない悠太君の話たくさん。その全部あわせて、悠太君はいい男だなって思ってる。見直した」今度は響子コーチが僕の頭をなでてくれた。
 僕も悪戯な顔で言った。「じゃあ今すぐ結婚してください」響子コーチは笑いながら言った。
「法律上、悠太君と私はまだ結婚できないの」
「僕はまだまだ弱いし、恥ずかしいこともたくさんしてきました。それでも、それも合わせて、響子コーチに知ってもらえたことはうれしいって感じます。もっともっと僕を知ってほしいし、響子コーチのことももっと知りたいです」
 響子コートは少し苦しそうな表情をした。「私なんて……悠太君が恥ずかしいって思っていることより、たくさん恥ずかしいことしているよ……」
「大丈夫です。さっき鼻水が垂れている響子コーチも可愛いって思って見ていました。響子コーチの恥ずかしいは、僕にとってのごちそうです」僕は胸を張っていった。
「……ちょっと違うんだけどね」響子コーチは小さな声で言った。

 響子コーチは気持ちを切り替えるように「フッ」と短く強く息を吐いて僕を見た。
「とにかく悠太君。私は今日、私が知らなかった悠太君を知って、ますます悠太君が好きになったよ」僕が話を遮った。
「じゃあ結婚してください」
 響子コーチが僕の顔に手のひらを向けて言った。「最後まで聞きなさいよ。これからも悠太君が良い成績が出せるように、頑張って水泳を教えるし。水泳以外でも、悠太君の悩みとかあれば、このお姉さんが相談に乗るから何でも言ってね」響子コーチはとびきりの八重歯の笑顔を僕にくれた。

 響子コーチは月曜日に退院して、その日からコーチに戻った。今まで通り水着で泳いでいるから心配したけれど、いざという時に飲む「ニトログリセリン」をいつも持っていれば、今まで通りの生活をして問題ないと言われたから大丈夫と言っていた。あんまり激しい運動はして欲しくないなぁと思ったけれど、精密検査の結果がそうならば、僕が心配することはないと自分に言い聞かせた。

 気のせいかもしれないけれど、僕のお父さんと話してからの響子コーチは、前よりも優しくなった気がする。声をかけてくれる回数も増えたし、ジムトレのストレッチの時にも、前みたいに、むしろ前よりも強く体を乗せてくるようになった。ヒザ裏が伸びる痛さより、響子コーチの重さや体温を感じる方がずっと幸せな僕は、泳ぐよりストレッチだけやっていたいと感じる毎日だった。
 もちろんストレッチは、頑張ってクロールを泳いだご褒美なので、僕は自由形の全距離制覇を目指して頑張って泳いだ。

 クリスマスとかお正月とか、街がにぎやかな時も普段と変わらずに通りに過ぎていった。真理雄は学校でぶっちぎり1位のテスト成績を維持し続けている。学校行って、泳いで、民宿や食堂を給料なしで手伝って。いったいどこに勉強する時間があるんだろう?真理雄に聞くと、学校の事業をちゃんと聞いていれば、学校のテストはできるでしょ。と言われた。少しムカついた。

 高校二年生になり、ますます時間が早く流れていく。ゴールデンウィークが明けたくらいに、学校で僕から真理雄に相談した。
「今年も冴子店長の海の家でアルバイトしたいと思っているんだけど、どう思う?」
「どう思うも何も。もう悠太君が来ること前提で話が進んでいるよ」
「なんか真理雄の言い方は、冴子さんの家の子みたいな言い方だなぁ」
 真理雄は「らしくない」ちょっとバカっぽい、そうだあれだ。健治が向上コーチの写真を自慢するときのような笑顔で言った。「へへへ。僕が冴子さんに悠太君確定のことは言っておくよ」僕の中の真理雄像が、少し崩れた。
 なんにしても夏のアルバイトは決まった。僕が早めにバイトの事を気にした理由は、なぜか百瀬コーチから、今年も響子コーチは去年と同じ海水浴場でライフセーバーのバイトをするって言ってたけれど、悠太も同じ海の家に行くのか?と聞かれたのがきっかけだった。僕が冴子さんの海の家でバイトをしていたことを知っているなんて。百瀬コーチは地味に情報通だと思った。

 残念ではあったけれど、自由形の大会結果は地区予選では全距離表彰台に上がったけれど、相変わらず関東大会では表彰台にも立てなかった。今年も全国大会には出られなかったけれど、古岡コーチからは3年生の来年が勝負だから、今年までは準備と思っていい。来年は全国目指そうといわれた。
 響子コーチからも、来年の為に今まで以上に頑張ろうと言われていた。
 全国大会に出ることができると、冴子さんの海の家で働けなくなってしまうことを真理雄に相談すると、それは自分も同じだし、出てから悩もうと「たしなめ」られた。
 
 31歳のはずの冴子店長は、去年よりさらに美人になっていて、みっちゃんのおなかも、去年より出っ張った気がした。
 去年と同じ様に、僕は定期的に知らない女子から連絡先を渡されたりしたけれど、去年大人の階段を少し上った僕は、ちゃんと、丁寧に、希望にこたえられない理由を伝えて、ありがとうと伝えられた。
 それが響子コーチの前でも、いやな気持にならずにちゃんと伝えられた。冴子店長に厨房で頭をなでてもらって「さっきは偉かったよ~」と褒めてもらったり、みっちゃんからも「大人になったねぇ~」と褒めて?もらったりもした。

 冴子店長の美人度上昇とみっちゃんのおなか以外の変化は、真理雄が完全にバイトを通り越して、この店の子になっている点だ。僕の方が先輩なはずなのに、どんなに店が混んでも、僕やみっちゃんに的確な指示を出して、お客さんを必要以上に待たせることなくさばいていく。
 お店内の配置や仕事の流れも、真理雄が出した多くの意見が取り入れられて、去年よりスムーズに働ける気がした。何より真理雄は、冴子店長のお父さんと、時々来るお母さんに「えらく」気に入られている。無料で手伝いをしていたからだろうか?それとも真理雄の頭の良さだろうか?
 去年より若い人も来てくれたけれど、相変わらず地元の「いかついおじさん」たちが集まるお店は、順調に夏を乗り切った。

 もちろん響子コーチのライフセーバーぶりもカッコよく可愛く、僕も18歳になったら、冴子店長の海の家ではなく、ライフセーバーとしてアルバイトしたいと狙っていた。
 今のうちから隊長と仲良くなっておいた方が良いと思い、去年よりたくさん監視事務所にも行って、響子コーチだけじゃなく、隊長とも話しをした。
 副隊長のかなりイケメンの押尾さんという人から、モテモテ悠太とあだ名をつけられたが、もう気にしない。肝心な人からはモテない悠太と、長いあだ名で呼ばれたときには、僕もうまく返したかったけれど、否定できる現実ではなかったので、胸を張って「呼びましたか?」と答えた。

 花火も響子コーチと一緒に見た。今年の響子コーチの横顔も本当に可愛くって、僕は花火を見ずにずっと響子コーチの横顔を見ていた。
 響子コーチは笑いながら、僕と手をつなぎながら花火を見てくれた。僕は本当に幸せだった。
 響子コーチと手をつないで花火を見たことは、僕にとってはすごく幸せだったし、手のぬくもりを感じながら、響子コーチの横顔を見ているのは、とてもドキドキする時間だった。
 そうなんだけれど、最近ちょっと感じていることがある。それは響子コーチが僕に触れてくれることが増えたし、話しかけてくれたり、気にかけてくれることも増えたのだけれど、それは例えばお姉さんが弟の面倒を見ているような、お母さんが子供の世話をしているような……
 家族のような感覚なんじゃないか?と感じている。ストレッチの時に、響子コーチの体を僕の体に乗せることを避けていたような時に比べれば、今のほうが幸せなはずなんだけれど、なんだかあの時の方が響子コーチと付き合える日が近い気がしていた。
 僕は響子コーチと結婚したいので、家族になりたいと言い換えられることもできるけれど、ちょっと違うんだよなぁという気持ちが強い。大事なところを飛ばしちゃっている気がしてならない。

 水泳の方は高校2年の秋ごろから、トレーニングが結構キツくなった。僕が狙う大会は、学年別ではないので、3年の時が1番結果を出せる可能性がある。
 百瀬コーチ曰く、50歳の2年は4%だけど15歳の2年は15%の違いがあるという点と、1日単位での成長著しい15歳の2年は50歳のそれとは100倍の違いがあるとのことだ。だから今日1日を何気なく過ごすなと言っている。
 その話の横で、古岡コーチが苦い顔をしていたのが、おもしろかった。

 多分このクラブの高校生では、いや、大学生を入れても、僕のメニューは1番厳しいと思う。真理雄の学校内での学力は別格で1番だけど、それくらい別格で1番な厳しいメニューだと思う。
 まあ、僕は響子コーチのキスがかかっているし、毎日ストレッチで、背中に響子コーチの体温を感じて急速充電させてもらっているし、結果が出せると響子コーチが喜んでくれるし、全国優勝とかすれば、テレビで響子コーチのおかげ様でとか言えるし。
 全く問題なくメニューはこなしていた。

 ジムトレインターバル中に、真理雄が話しかけてきた。
「悠太君、大丈夫なの?」
 僕は平然と言った。「なにが?見ての通り余裕だよ?」
 真理雄は「ハア?」って顔で言った。
「いやいやいや。やばい顔だよ」
 どうやら僕は、余裕でメニューをこなしているつもりだったけど、はたから見る限り、かなり追い込まれて必死に、なんとか、ギリギリ追いついているように見えているらしい。
 本当のことを言えば、チラッと大鏡に映る自分の顔やゼェゼェぶり、汗や目つきは、ちょっとヤバそうな感じになっているなぁと、少しだけ気がついていた。
 ソトヅラはともかく、自分的には「キツイけど、もう少しキツくてもいける」気がしていた。僕以外の人たちは、限界を超えるハードトレーニングを、僕が根性でやっているように見えている。らしい。
 さらに響子コーチが優しくなったのは、このソトヅラ効果なのかもしれない。

「悠太君」汗だくになるので、ジムトレ後のシャワーを浴びて帰ろうと思ったら、響子コーチが声をかけてくれた。僕は満面の笑みで振り向いた。
「うわぁ~疲れている顔してるね~あれだけのトレーニングだもんね。ほんと、よく頑張っている。すごいよ」僕の満面の笑みとは違う反応が返ってきた。
「どうしたんですか?」
「いやさ、今年ももうじき終わる訳ですけれど。来年の大会に向けてね、もしよろしければ、初詣に行って必勝祈願はいかがかと?」僕に少し早く神様が下りてきた。
「え?後でがっかりするの嫌なので確認させてもらいたいのですが、2人で、でよろしいですか?」
「はい。悠太君が嫌じゃなければ」
「どうして嫌なわけがあるんですか?すっごくうれしいです」
「ほんとに~?場所は私が決めて良い?」
「もちろんです」
 時間や場所は、明日にでも伝えるとなった。僕は小さい頃から中学生になるまでの間、お父さんのよくわからないこだわりで、12月31日の夜に電車に乗って埼玉県の山の中の駅で降りて、寒い中をお父さんが作ったおにぎりを食べたりしながら、5時間以上山道を歩いてたどり着く神社で初詣をしていた。お父さんが言うには、足腰の神様といっていたけれど、なんでお正月に足腰の神社に僕を連れて行っていたのかはわからない。登山中にお父さんから教えてもらったのは、初詣は新しい1年のおねだりをする場所ではなく、去年1年の安全ありがとうございました、というお礼の機会だということだ。それと寒いところで食べる人肌のおにぎりと、ポットに入れた温かいお茶は最高ということも。
 だから響子コーチが言う、必聴祈願はお礼の場には「そぐわない」と思ったのだけれど、口にしてしまうとせっかく日付を間違えて早めに僕のそばに降りてきた神様が帰ってしまうかもしれないので、口にはしなかった。

 僕のそれほどキツイと感じないトレーニングの中で、もっとも驚いたのはあの百瀬コーチまでが僕にわかりやすい優しさと心配をしてくれたこと。僕はメニューを満点でこなしていた。
「ギリギリできるかできないところを、狙って組んでいるんだけどなぁ~」と古岡コーチは言っており、確かに毎週少しずつ修正されてキツくなる。が、僕は全部やる。そのうちできない日も来るのかもしれないけれど、今のところ僕は全部クリアしている。
 12月30日から1月3日までの5日間はトレーニングがお休みとなり、なんか良いのかな?という気分になった。古岡コーチには、休養もメニューの一環だから、勝手に走ったりしないようにと言われた。走らないし。

 30日は真理雄に呼ばれて……なんで真理雄が呼ぶのかはわからないけれど、神波食堂に行ってお昼ご飯をごちそうになってきた。真理雄はなぜか店のエプロンをして、しつこいようだけど「その家の子」にしか見えない。
 お父さんにも保冷バックに入れたお土産をもらって家に帰った。響子コーチは海産物は好きかな?これをお土産に渡したいって連絡したら、今日も会えるかな?そんな姑息な作戦も考えたけれど、お父さんにも食べさせたいとも思ったので、今回はお父さんを優先した。
 31日は家の掃除をやった。お父さんもお休みだったので、二人で普段やらないところまでやった。正月前に大掃除をやったのは久しぶりな気がした。
 僕としては、夜に響子コーチに会えると思うと、ウキウキな気持ちで一日を過ごした。会えるって言っても、いつものクラブでもなく、時間も夜だ。深夜に近い夜だ。もう、ウキウキだ。
 
 僕はあまりファッションセンスは良くないと自覚しているけれど、自分が持っている中でできるだけオシャレをした。深い意味はないけれど、シャワーも浴びた。歯も磨いた。
 一秒でも長く一緒にいる為には、もし5分早く響子コーチが来てくれた時に、5分長くいられるわけだから、念のため10分前には行っておこう。そうすると万が一響子コーチが10分前に来てくれると、10分長く一緒にいられるんだから。一応15分前には行っておいた方が……

「悠太君、早いね。まだ15分前だよ」響子コーチが手を振ってくれた。大好きだ。僕は響子コーチが大好きだ。
「いま来たばかりです」僕は鼻水をすすりながら言った。
「本当は?」
「45分前です」
「もう~。大会あるし、ハードトレで抵抗力も下がってるかもなんだから、無理したらダメなんだからね~」響子コーチは両手を腰に当てて言った。

 響子コーチが選んだ神社は、東京の中では大きい神社で、真夜中なのに参拝者は結構いることで有名。なので、静かな場所で二人っきりで……的な神社ではない。
 年末年始の山手線は、一晩中動いてくれているし。だから何時になっても問題はないんだけど、響子コーチはどうなんだろう。僕は響子コーチに聞いた。
「響子コーチ。僕は響子コーチがどこに住んでいるのか知りません。僕は山手線から私鉄に乗り換えて2駅目なので、今日は一晩中帰ることには困りません。響子コーチの帰りは、時間を気にしておく必要があれば、先に教えてほしいです。響子コーチと一緒にいられるのに、この後ずっと電車の時間を気にしているのは健康に悪いです」
 響子コーチは八重歯の笑顔で言った。「健康に悪いか。それは良くないね。私は山手線沿いだから、時間は気にしないで家に帰れるよ。ありがとう」僕の方が笑顔になった。

 二人で歩き出したが、もう結構遅い時間なのに、人がたくさんいる。カップルは3割くらいで、5割はグループ。他は家族や一人ってところか。日曜日のオフィス街より、ずっと多くの人が街を行く。
 僕は隣の響子コーチの顔を見て言った。「もし迷子になったら、どうするか決めておきましょう」
 響子コーチは、さっきよりも大きく笑いながら言った。「スマホもあるでしょ。心配?」
「もしかすると僕は、初めてかもしれません。高校3年生にもなって、友達と初詣に行ったことはないかもしれません。だから少し心配になっただけです」
 僕がそう言うと、響子コーチは僕の目をいつもより強く見た。「わかったよ。じゃあこうしよう」
 そう言うと響子コーチの左手は、僕の右手につながれた。響子コーチは僕を見上げながら言った。「離しちゃダメだぞ」
 僕が離すわけがない。僕がこの手を離すわけがない。僕は心の中で何度も言った。

 「こんな季節のこんな時間でも、お面って売れるのかなぁ?お面の屋台も出ているんですね。大人が買うのかなぁ?……」不思議に思って僕は響子コーチに話しかけた。
 僕と手をつないだままで、深夜の人込みを歩きながら、響子コーチが答えてくれた。「大人でも買うかもしれないね。ノリや遊びで。子供が欲しがる感じとは全然違うだろうけど。悠太君の小さい頃は、何が流行っていたのかな?どんなキャラクターのお面を買ってもらったか覚えてる?」
 僕は少し左上の空を見あげて、思い出してから言った。
「いや、僕は買ってもらったことはないですね。お父さんと2人だったから、夕飯代わりに食べたり飲んだりばかりでした」僕は笑いながら言った。響子コーチの握る手が、ちょっと強くなった。
「そうか、ごめん」響子コーチが言った。僕は慌てて返した。
「謝らないでくださいよ。お父さんと2人だったのは、本当に悲しくもなんともないんですから」
 参道までの道を歩いていると、道の端に、小学低学年くらいの泣いている女の子が見えた。僕は響子コーチの手を決して離さずに、響子コーチごとそちらに移動した。
 僕はそれでも響子コーチとの手は離さずに、膝を曲げてこの女の子と同じくらいの高さになった聞いた。「どうしたの?迷子になった?」
 女の子は一瞬、泣くのをやめて僕を見て、1回うなずいて、また泣き始めた。
 「お巡りさんかなぁ、やっぱりこういう時は」僕は言葉に出しながら右後ろ上にいる、響子コーチに顔を向けた。
 そんな時に、ちょっと離れたところから「あゆみ~」と人を呼ぶ声が聞こえて、振り返ってその声の方を見ると、僕の前にいた女の子は走り出していた。どうやらご両親が見つけてくれたようだ。
「よかった」僕は立ち上がり、また響子コーチと歩き始めた。
「悠太君は放っておけないタイプなんだね」響子コーチは僕を見て言った。
「困っている人がいて、僕ができることで解消できるのであれば、どうにかしたいと思います。でも僕にできることってのが問題で、迷子くらいしか……迷子くらいでもどうにもできないかなぁ」僕は響子コーチの手の温かみを感じていた。

 響子コーチが言った。「悠太君は迷子のならなかった?」僕はこれについては覚えていることがあったので、思い出すもなくすぐに答えた。
「迷子になった事はあります。割と多いかな?迷子になった時に大人の人が、お母さんはどうした?って聞いてくれるんですよね。ほぼ鉄板で。僕は悪意なく、死んじゃったって答えると、怒りだす大人とオロオロする大人がいました。だんだんと、死んじゃったと返すのは、大人と僕にとって良くないと思い、使わなくなりましたけど。面白いなぁとは思っていました」僕は本当に面白いと思っていた事柄だったので、笑いながら話をして響子コーチを見た。響子コーチは眉毛を下げて、おみくじで大凶を引いたような悲しい顔をした。
 なんだか響子コーチは、話の内容が僕のが幼い頃につながってしまうと、僕が淋しくなると思っているのか、悲しそうな顔をするので、今とか、未来とか、について歩きながら話した。
 勉強のこととか、高校卒業後とか、僕にとって未来の話は、全部響子コーチとかかわりがあることなので、色々話しができてよかった。響子コーチの考えとかも聞きながら、僕がこれからどうしようという画像を頭の中で作っていた。
 響子コーチの子供の頃の話になると、僕はとても楽しいし嬉しくなるけれど、響子コーチが僕をチラチラ見て、つないでいる手が強くなったりする。たぶん自分が小さかったころと、僕が小さかったころを重ねて、僕のお母さんが亡くなっていることを気にしちゃうんだろうと思った。響子コーチの割と最近の過去話は、三橋さんの顔が映像としてチラついたりして僕が微妙になってしまう。僕の知っている男の人とか、僕が知らない男の人とか、僕は勝手に色々な映像を妄想してしまう。気が付くと僕が響子コーチとつないでいる手を、ぎゅっと強くしてしまう。

 参拝者が多くて、本殿に近寄るにつれて渋滞のようになったけれど、並ぶのがこれほどまでに嬉しいと感じたことは初めてだった。だって響子コーチといる時間が増える。響子コーチと手をつないでいられる時間が増える。僕にとって最高だ。順番が来て、僕は去年のお礼と、今年もさっそくこんな時間をもらえたので、まだ始まったばかりだけど、先にお礼を言っておいた。僕のお礼を言う時間が長すぎたのか、最後の1礼をして隣を見たら、僕の顔を覗きこんで、響子コーチが笑っていた。

 本殿の裏から出て、たくさんのベンチが並べられている広場に入った。見渡すと、甘酒を配っていたので、僕は二人分をもらってきた。二人で紙コップの甘酒で乾杯をして飲み始めると、街にはびこる偽物の甘酒ではなく、本物の甘酒だった。温かい分ちょっとせき込んでしまった。
「悠太君はお酒は飲むの?」響子コーチは本物の甘酒を飲みながら僕に言った。
「飲んだことが無いです。そんな余裕はなかったです。時間的にも気持ち的にも」
 響子コーチが笑いながら言った。「そうだよね~そこまで追いつめていたコーチ側が、こんな質問したらダメだよね~」
「お父さんはお酒飲むの?」響子コーチが言った。
「……そういえば見たことがないですね。お父さんがお酒飲んでいるのは、見たことがない」僕は意外な事に気が付いた。
「私はさ、嫌いじゃないけど強くはないんだよね」
「気を付けないとあんなですか?」僕が指をさした方には子供が両手を両親につかまれて、FBIに摑まった宇宙人のように歩いてる親子がいた。
「あそこまでにはならないよ。まずいでしょ?」響子コーチは意味深な笑顔で僕を見た。
「これからも僕がいない時には、十分気を付けてくださいね」僕は結構真面目に言った。

 甘酒も飲み終えて、僕は響子コーチを見ていた。
「悠太君。ちょっと早いけど、あけましておめでとう」改まって響子コーチが言った。
「おめでとうございます。響子コーチが大好きです」僕は響子コーチの目を見て言った。
「まだしばらくは、練習もキツくなるし、大変だね」
「響子コーチがストレッチしてくれるし。問題ないです」
「そっか。家族連れが多いところとか、私が悠太君が嫌だと思うところに誘ったら、ちゃんと教えてね」
「ぜんぜんですよ。気にしないでください。本当に僕はもう何ともないので。気にされちゃうと逆に気にするようになっちゃいますよ」僕が言った。
「悠太君。私は悠太君を傷つけてばかりいて、悠太君に何にも出来ていないね」
「ちょっと、テンションがおかしいですよ。まさかスイミングクラブやめるとかじゃないですよね?」
「やめないよ。悠太君は本当にすごくってさ、真面目で、一生懸命な気持ちと、それを実行できる身体と。なんで?」
「何がですか?何がなんで?」僕は聞き返した。
「なんでこんな悠太君が、私を好きでいてくれるのかしら?私に好きって言ってくれるのかしら?」
「前にも言ったじゃないですか。神様のファンファーレが聞こえて、まあお父さんが好きな曲ですけど、それで……」

 同じベンチの隣に座っている響子コーチが、突然僕の方を向いたと思ったら、両手を僕の頭に回して、ぎゅっと響子コーチの胸に押し当ててきた。
 僕は腰を曲げて、響子コーチの胸に抱かれた。
「……悠太君、大きくなったね。いつの間に私より大きくなったの?」響子コーチは小さな声で言った。
「やだなぁ。高1の夏……思い出した。響子コーチに、めちゃくちゃ泣かされた、冴子さんの海の家の初めてのアルバイトの時には、僕の方が高かったですよ」
 響子コーチはさらに力を込めて、僕の頭を抱いた。僕の大好きな響子コーチの匂い。寒いけどわかる、響子コーチの体温。厚着しているけどわかる、響子コーチの鼓動、呼吸。僕はこの人が大好きだ。響子コーチが大好きだ。
 僕は頭を響子コーチに抱かれたまま言った。「僕は響子コーチが大好きです。もう……他に言葉はないのかなって、いっつも考えるんですけど、見当たらないので、大好きって言葉を繰り返すことになっちゃう。僕は響子コーチが大好きです」
 
 響子コーチは突然僕の頭を開放したと思ったら、僕の顔を両手で挟んだ。
 僕の目の前には、僕が大好きな響子コーチの顔がある。僕は一瞬で心臓が5倍くらいの速さになった。中学校2年生の夏に初めて会った響子コーチに、こんなに近い距離でこんな風に見つめられたのは初めてだ。薄い茶色の響子コーチの眼の色。その目が僕の目をじっと見ている。僕ははじめて見えた、響子コーチの眼の放射状の虹彩(こうさい)をじっと見ていた。5年間も響子コーチをあんなにたくさん見ているのに、響子コーチの虹彩(こうさい)を見たのは初めてだ。
「キレイ……」僕は響子コーチの虹彩に気を取られていて、無意識につぶやいた。その瞬間、響子コーチの唇が僕の唇に触れた。
 
 僕は響子コーチの虹彩から目を離すことが出来ずにいる。もっと他にするべきことがあるだろ!僕は僕に叫んでいるけれど、ただただ響子コーチの虹彩から目が離せずにいる。

「……悠太君……もっと唇の力を抜いて……」僕の大好きな響子コーチから指示が飛んだ。僕は言われるがままに、唇の力を抜いた。
 響子コーチの唇は、僕の人生で食べたことがある、あらゆるものより柔らかい。
「もっと力を抜いて……もっと唇の力を抜いて」響子コーチの指示に従う為に、みっともない表情になっても構わないから、顔中の全筋肉を脱力させた。顔面麻痺のように、唇も口角もほっぺたも、全部「ダラーン」とさせた。
 響子コーチは、柔らかい唇を僕の唇に這わせながら言った。「うん、上手になってきた……」
 柔らかい響子コーチの唇が、僕の唇の上を這っていく。左右に、上下に這っていく。唇の隙間から、歯が当たったり、さらに柔らかい舌が僕の唇の上を縦横無尽に這っていく。
 凄く柔らかな響子コーチの唇の後、期待を裏切るように響子コーチの硬い歯が僕の唇を刺激すると、すぐに響子コーチの歯茎の温かさを僕の唇は察知する。その直後、響子コーチの舌の表面が、響子コーチの液体と、体温より熱い温度を僕の唇に届けて来る。次の瞬間には、響子コーチの舌の裏側が、最高に繊細な感覚を与えて来る。僕は無意識に、響子コーチの口の中に舌を入れた。響子コーチは唇をほんの数ミリだけ離して言う。「力を抜いて。ダメよ。力を抜いて」そう言って、また唇を合わせた。
 僕はさっきより、どんな表情になってもいいので顔の力を抜いた。唇や舌を動かすのではなく、首を使って頭全体を動かして、柔らかくした唇や舌は、スライムのように隙間なく響子コーチの唇を覆った。

 今までも色々あったけれど、本当に何にも考えられなくなる時間だ。何にも考えられない。そうだ。泳いでいるのと同じだ。無意識に手が水をつかんで、脚が水を蹴るのと同じだ。
 僕は無意識に響子コーチの唇の上に、全神経を集中して柔らかくした、僕の唇や舌を重ねて這わせている。響子コーチは僕の頭の後ろに手を回して、その手を使って、這わせる圧力を僕に指示しているように感じる。
 僕は響子コーチの動きの全部を感じながら、響子コーチの指示を逃さないように従った。
 
 響子コーチの口が、ほんの1センチくらい開いた。これは僕に入ってくるよに指示をしている1センチだ。僕は舌に力を入れないよに、形を維持するのが困難なくらい柔らかい、ポッテっとしたわらび餅のようにした舌を、響子コーチの唇に当てた。
 響子コーチの体の中に、僕の舌がズルっと引き込まれた。
 僕のわらび餅のように柔らかくした舌を吸い込んだ響子コーチは、唇で挟み込んだ。
 漏れる唾液を吸う、ジュルジュルという音。
 顔じゅう性感帯になった様な感覚。
 みっともないとか、格好悪いとか、恥ずかしいと嫌われちゃうというスイッチを切ったような、完全な無意識での行動になっていた。

 僕は考えずに両ヒザを地面について、ベンチに座る響子コーチの両足の間に体を入れて、僕の勃起した陰部を、響子コーチに押し付けている。
 響子コーチは、僕の頭の後ろに片手を回し、どの程度の圧力でキスをするかを指示しながら、もう一方の手を僕の腰に回して、キスの圧力指示と同じように、僕の勃起した陰部をどの程度の強さで押し付ければいいかを指示してくれている。
 腰に回した響子コーチの手が、グッと僕の腰を押せば、僕は勃起した陰部を響子コーチにググっと押し付けて、指示が弱まった時には素早く、その指示通りの圧で勃起した陰部の押し付けを弱める。時にリズミカルに、時にゆっくしと僕に対する指示は続く。
 そして響子コーチは、自分の腰をゆっくりと前に突き出して、僕の勃起した陰部と、響子コーチの秘部を押し付けてお互いの感覚を確かめ合う。ゆっくり長く押し付けたあとは、腰を一度引いて、すぐにクイッと下から上へ、響子コーチの秘部で僕の勃起した陰部をこすり上げてくる。多分今こすり上げてくれたところに、響子コーチのクリトリスがあることがわかる。本物は見たことがないけれどわかる。響子コーチは僕を欲しがってくれている。僕も響子コーチが欲しい。全部何もかもどうでも良いから、一つになりたい。

 秘部をこすり上げたり、顔の力を完全に脱力させた、唾液が口から零れ落ちるレロレロのキスを、多分白目をむくようなバカな顔で僕はしている。好きな人との特別な時間は、こんなにも本能任せになることを知った。
 僕と響子コーチに搭載されている、全部のブレーカーが落ちる0.3秒前だった。

 ―― ドーン、ドドーン
 ―― ごぉ~~ん
 
 二人は日付が変わった瞬間に打ちあがり始めた、花火の音で我に返った。それと同時に除夜の鐘が鳴りだした。響子コーチが唇の唾液を腕でふき取りながら、初めて見る目がトロ~ンとした女の顔で言った。
「煩悩って……」
 二人は笑い出した。
 経験したことない、重厚な満足感と、強烈な欲求不満があった。この欲求不満とは今後長い間、付き合っていくことになる。

 テレビや動画で見ていたキスとは全然別ものだった。雑誌やネットで勉強したキスとも全然別ものだった。想像していたものと、響子コーチと交わしたキスは、全然違うものだった。
 うん。響子コーチのキスは挨拶じゃなくって、まごうことなき「前戯」だ。「前戯」以外のなにものでもない。そのこと以外は何にも考えられない日々が続いた。
 響子コーチがキスのあと僕に言った。
「……私が悠太君を守ってあげたい……でも、今夜のことは、忘れてね……」
 どうして響子コーチは、あの時あの場所で、あんな本物のキスをしてくれたのか?その意味はわからないけれど、忘れるのはちょっと無理だ。でも響子コーチの言う事は絶対だから、僕から話には出さないでおこうと決めていた。
 
 凄い新年の迎え方だった。響子コーチの煩悩が全部僕に向いてほしい。僕の煩悩は全部響子コーチに向いているから。こうなってくると、煩悩って何だろう?ってなる。それは純愛ではないのかな?定義が曖昧で、判断が難しい事ばかりだと思った。
 
 初詣で僕のファーストキスは、響子コーチに奪われた訳だから、僕が大会で頑張る理由がなくなった。というわけではなかった。
 その後も僕は、古岡コーチがどんどんスケジュールを厳しくしていっても、ちゃんとこなしたし、タイムも伸ばしていた。
 響子コーチとのジムトレ、ストレッチは、なんか更に暖かく柔らかなものに感じられ、僕はあのキスが忘れられないでいた。キスというのは、もっとこう、チュって、唇の先を、チュって。唇と唇で突っつき合うものだと思っていた。アダルトビデオのディープキスだって、舌と舌を絡ませて、こう……そう。突き出した唇を相手の口に入れて、レロレロと舌を動かすような。そういう事なんだと思っていた。
 本で読んだし。ネットでも調べた。はじめてのキスHowToとか。
 でもそういうのと全然違った。ただただ柔らかく、ただただ柔らかい。そして温かく汁っぽい。少なくても響子コーチのキスはそうだった。
 恥ずかしいけど、あの夜の後は自分の腕とキスしまくっている。もっと力を抜くように、もっと柔らかくなるように。次にしてもらえるチャンスがあったら、練習の成果を見せたい。でも響子コーチには、今夜のことは忘れろと言われているので、響子コーチには一切報告していない。
 
 あ、キスの話に逸れてしまったので話を戻すと、響子コーチが初詣の時にキスをしてくれたからといって、泳ぐ訓練をさぼらなかったし、やる気も維持していたし、頑張った。
 高校3年生の集大成の大会結果としては、自由形の200メートルと400メートルは全国大会初出場となった。他の距離は全国大会には届かなかった。
 
 全国大会では200メートルが1回戦予選落ち。400メートルは決勝を泳いだけれど7位だった。中途半端な順位だった。
 コーチ達、真理雄や敦には「凄い」って言ってもらえたけれど、小学校の時から結構な時間とお父さんのお金をつぎ込んできた。その結果として、1回だけ全国で7番目に速かった。僕に才能はないと判断するべきなんだろうなって思った。
 もし泳いでいなければ、響子コーチと出会うことはなかったわけだから、その為の競泳であるのならば全然納得できる。
 
 あれ?とすると、もし響子コーチが三橋コーチと付き合っていなかった場合、僕と響子コーチは出会っていないということになる。だとすると、その為の三橋コーチであると考えれば、いろいろ納得できる。
 
 いや出来ない……響子コーチの顔を10回思い浮かべるとすると、3回三橋さんの顔も浮かべている僕は、もしかして三橋さんも好きなのかな……

 ちがう
 
 野球だと甲子園出場という肩書は、結構役に立つらしい。中学まで一緒にやっていたエースで4番の高橋は、高校3年生の夏、高橋自身は控えの投手として地方大会では数回投げた程度だったが、群馬の高校から甲子園に出た。甲子園では初戦敗退だから、全国25位から50位くらいの間という結果になるが、僕は全国7位だ。高橋はこの結果で大学に行けるらしいが、僕のこの肩書は役に立つとは思えないし、まあ人に言うもんでもないかと思っている。

 そんなわけで全国大会があったので、3年生の夏は冴子さんの海の家で働く事は出来なかった。響子コーチは週末だけライフセーバーに行っていた。真理雄は完全に冴子さんの家の子になっていた。真理雄のお母さんも、盆休みに民宿に泊まったりしていたようだ。真理雄がどこに向かっているのか、ちょっとわからなくなっている。もしかして、民宿屋のおやじに夢を変えたんだろうか?漁師かな?

 とにもかくにも。
 僕の高校生活での競泳の結果としては、僕的には残念な結果だったという感想だ。大学でも続けるかについては、今後色々な状況によってかな。
 そう、僕はなんだかんだ言って、大学に行く事になった。僕の高校では、真理雄が当然我が高校初の、国東理三合格で大騒ぎになっていたのだが、僕は地味に私立大学に一般入試で合格した。

 僕のこれからは、将来響子コーチとの結婚生活に直結することだったので、とりあえずお父さんにも相談した。お父さんの仕事は自分で機械屋と言っているが、病院で使う検査診断機械、いわゆる医療機器を作って販売する仕事だ。
 お父さんは僕が小さい頃から、他の子はお母さんがやってくれる「ぞうきん」を縫ったり、タコウインナーの入ったお弁当を作ったりしてくれていたけれど、この歳になって思い返せば、器用だ。職人だ。
 
 僕はどうなんだろうと考えたときに、僕もお父さんと同じような仕事はどうかと思って、真理雄にも相談した。
 真理雄の意見としては、僕の特徴として
 ・同じことの繰り返しを根気よく続けられる。
 ・人の意見を否定的ではなく肯定的に受け入れられる。
 ・どんな状況になっても、投げ出さず打開策を見つける、つまりあきらめが悪い。
 
 だから僕は機械を作る側でもいいけれど、機械を使う医療技師の仕事の方が良いのではないか?とアドバイスをくれた。
 お父さんは「お父さん達が作った機械を、僕が使って人の役に立ちたい」とか僕に言われたもんだから、「お金のことは心配するな」と二つ返事で私立の大学を認めてくれた。
 これも真理雄の「アドバイス」という名の入れ知恵だ。
 
 いろいろあった高校生活は、僕にいろいろなことを教えてくれた。
 いろいろあったなんて言葉で片づけて良いのか?といういろいろだったけど、お父さんや響子コーチも、真理雄も篤もこんなにいろいろあるんだろうか?
 そうだとすると、人が生きていくというのは、とてもいろいろあるんだと思う。こんなことを考えている時は、いつも百瀬コーチを思い出す。何があったのか知らないけれど、片足が義足の百瀬コーチは、多分僕よりいろいろあったんだと思う。百瀬コーチは義足だから僕にもそれが想像できるけれど、例えば百瀬コーチが学習塾の先生だったら、僕は百瀬コーチが義足だってわからないから、百瀬コーチはいろいろあったなんて思えないかもしれない。
 全員が主役の物語がたくさんあるんだと思う。僕は僕のいろいろだけで目一杯だけど。
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