ReTake2222回目の世界の安田雄太という世界線
第6章 大学時代 極右過激マイノリティーと左派マジョリティー
僕は18歳。響子コーチは25歳の春。僕は大学生になった。僕はスイミングクラブの選手コースはやめた。高校生で結果が出せなかった訳だし、1種目だけで全国7位では、今後伸びる才能があるとも思えない。
競泳の場合、日本で10本指に入ってもあんまり意味がなく、最低でも日本では常に3本指に入り、世界で10本指に入っていないと意味がないと思っている。
選手コースは総人数も上限があるし、微妙な僕が居座るよりも、才能ある人を磨いた方が良い。それにそもそも響子コーチが、この春でスイミングクラブをやめた。僕が続けている理由の9割が消失した訳だ。
響子コーチは、大学で取った理学療法の国家資格を使い、昼は病院でリハビリを行っている。夜は英会話の勉強を始めたと言っていた。僕の心配が増える。黒人の人のアレは動画を見る限りではすっごい長いし。
僕と響子コーチの関係は、スイミングクラブを二人ともやめた事。僕が18歳になった事。これらによって、週1回、一緒にご飯を食べる間柄になった。SNSでの連絡は毎日だ。
あの日のキスの事に響子コーチは触れない。僕は2度だけ言いかけたけれど、止められたのでそれ以上はしていない。
あのキスは思い出したくもないから触れないのか、恥ずかしいから触れないのか……後者であってくれる事を祈りつつ、本当になかった事にされてしまうのは、僕としては不本意甚だしいと思っている。
響子コーチとイタリア料理店で食事をしている時に、体力を維持向上したいからトライアスロンを始めると言っていた。それなら僕も始めなくてはならない。
調べた結果、僕にとって厳しいのは自転車だ。お父さんに甘える事もできない訳ではないけれど、私大に行かせてもらっていて……しかもこの自転車というのが、平気で40万円とかする。初心者用で。世間知らずな僕は気軽に考えていた訳だったが、自分の希望を叶えるには、何事もお金がかかるんだと思い知った。
鉄人レースなんだから、道具に頼らずに泳ぐのと走るのだけでいいじゃないか!と思ったけど、そこに文句言っても仕方ない。
別の機会に、響子コーチが所属した、トライアスロンチームに僕も参加したいと言ったが、いくらでもチームはあるんだから、私と一緒のチームじゃなくってもいいじゃないと言われた。響子コーチと一緒のチームじゃなきゃ意味がないんだけどなと思った。
少ない情報と、インターネットで調べた情報を照らし合わせて、響子コーチが所属しているであろうチームを3つに絞った。それぞれにメールで参加希望の申し込みをして、練習に参加してみた。それぞれのチーム練習に、3回ずつ参加してみたけれど、3か月かけて得た結果は、どれも響子コーチが参加したチームではないという事実。この事実も踏まえて、響子コーチにもう一度、同じチームでトライアスロンをやりたいから、チームを教えてほしいと頼んではみたが、響子コーチからは「怖いよ」と笑われただけだった。
響子コーチがそこまで嫌がるのであれば、響子コーチに嫌な思いをさせない僕の生き方に反するので、違う道を考えねばならなくなった。
とりあえず、僕もトライアスロンを始めて、技術的な相談などで響子コーチとの関係を深めていく作戦がベストだと判断した。前に参加したチームの中から、一番良さそうなチームを選んで、再度練習に参加する事になった。
水泳は僕が一番上手かったので、むしろ僕が泳ぎを教えた。でも僕は、あくまでも競泳の出身であり、1500メートルとかは泳いでいたけれど、遠泳の経験はなかった。これにかこつけて、響子コーチと会う時には、遠泳についての泳ぎ方の話しをしていた。響子コーチと一緒にいられないのは淋しかったけれど、同じ趣味を持つあこがれの響子コーチとお話しできるのは、それはそれで楽しいとも感じた。
大学の友達に、今沢という男子がいる。彼はちょっとした有名人なのだが、その理由は怪しいバイトに人を紹介するという、怪しい特技を持っている事である。
僕は自転車をどうにかしなければならなかったため、今沢君に効率の良いアルバイトを探していると伝えた。僕の条件は、できるだけバイト代が高い事。学業をおろそかにはできないので、夜の仕事である事。できれば不定期な仕事。この3つだ。
今沢君はちょっと考えて、にやっと笑って僕に言った。
「安田君の希望を考えて、僕が紹介してあげられるのは、君が元競泳選手だって事を生かしたものだ。最も君の希望にマッチしているのは、その道のおじさんとデートをする事。君次第で、一晩10万円とか稼げるよ。ただし、それなりに覚悟もいる事だから、その覚悟を緩やかにしたのが、そんなおじさん達の為に、写真撮影会にモデルとして参加する事。君はモデルとしてリクエストされたポーズをとっていればいいだけだ。大勢のカメラを構えたおじさん達の前で、肛門やちんこを露出する事は必要になるけどね。試験薬の人体実験もマッチしていると言えるけれど、君の身体を考えた時に写真を撮られるだけの方が、幾分マシだろ?」
今沢君はいとも平然と言う。その道のおじさんとは一体?と聞こうとも思ったけれど、僕だって大学生だから予想はできる。肛門まで見せるんだから。
こういうアルバイトは、響子コーチに知られると僕が嫌われる確率が上がる。すっごく上がる。だから競泳をやっていた事を生かすにしても、別の方向は無いのか聞いた。
「世間は安田君が考えているほど甘くはないんだけど、時間単価を引き下げれば無い訳じゃないよ」僕はこの後で今沢君が説明してくれたアルバイトを紹介してもらう事にした。
このアルバイトは、夜の10時から11時くらいに指定された場所に集まる。対象のお店が閉店してかしばらく待ち、連絡があったら店の裏口が開くため、集まったみんなで突入。店内の商品を入り口に集めて、トラックが到着し次第、それらの集めた商品の全部をトラックに載せて搬出。
次のトラックが到着し次第、そのトラックから新型機種を下ろして、さっき外した商品があったところまで運ぶ。今度は新品なので傷つけないように慎重に。結構重い。そして電動工具で取り付ける。冴子店長の海の家で、パラソルを立てる時にみっちゃんが愛用していたのと同じ形の、電気式ドリルだ。全部取り付けた後は、リーダー格の人から言われた通りの設定をして、テストをして終了となる。
パチンコ屋さんのパチスロ機、新装開店「パチスロ台の入れ替え」作業のアルバイトは、定期ではない代わりに1回の単価がとても良い。ただし、エレベーターが無い、使えないレベルの地下1階から地上2階程度のお店が多い為、古いパチスロ台を外してそれを担いで搬出し、新しいパチスロ台を、傷つけないように、より丁寧に担いで搬入するのは、結構体力が必要だ。そこに僕の競泳選手だった事が生かされる。それに次の日の朝までというリミットが明確なのも、良いところだ。
ちなみにパチスロメーカーの社員の人が言うには「パチンコ台」は取り付け設置の角度などが微妙なので、僕ら体力勝負な大学生のアルバイトでは取り付けられないそうだ。
ロードバイクを自力で購入する為に、そんなアルバイトを始めた事を響子コーチに話すと、他にやるべき事がたくさんあるのではないか?と説教をされた。みんなアルバイトくらいやっているから、僕だって無理ない範囲でやるのは間違えてはいないはずだと答えた。
そもそも響子コーチだって、大学時代のアルバイトで僕に会ったわけだし、大学の夏休みは、ライフセーバーもやっていたんだから。
響子コーチは「無理しないように」と、ちょっと怖い顔で言った。こういう時はコーチに戻る。
平日の昼は大学で勉強をする。夜は時々アルバイトに行って、時々響子コーチとご飯を食べる。週末は僕が参加したトライアスロンチームの練習に行く。
トライアスロンを始めて、朝早起きして1時間くらい走る習慣ができた。アルバイトや響子コーチと会えない日には、区営プールで泳いでいる。金銭的な問題で、区営プールを選んだ。
1か月くらいたったころ、響子コーチからSNSで食事の誘いがあった。当然僕は秒速で「よろこんで~」と返信した。
「実は悠太君にね、ロードバイクを譲ってイイよって人がいてさ、中古だけどしっかりとしたものだからどうかな?と思って」響子コーチが言った。僕は驚いたし、うれしかった。
「それは嬉しいですね。どこのバイクですか?」僕は響子コーチとの話しが深まるように、ロードバイクについても勉強は欠かしていない。
「なんとビアンキだよ。中級機だけど、その人があまり乗っていないバイクがあるって言うから、バイク始めたい子がいるんだけどって話しをしたら、何ならあげるよって話になってさ」響子コーチは嬉しそうに言った。でもその嬉しそうが、僕に自転車を渡す事ではなくって、バイクをあげるよって言った人の事を思ってうれしそうになっている気がした。そもそも会った事もない僕に、中古とはいえそんなロードバイクをタダでくれるっておかしい。
「そんな、あしながおじさん、みたいな人は誰なんですか?」僕は自分の中に久しぶりに現れた、モヤモヤした気持ちを隠しながら聞いた。
「私のチームのキャプテンなんだよ。何でも相談できて頼もしい人だよ」この笑顔がモヤモヤを増幅させる。
「新しい彼氏ですか?」我慢ができなくなって、僕はちょっと不機嫌に聞いた。
「またそんな顔して。まあ付き合っているって言えば付き合ってるけど、それほどラブラブって訳じゃないからさ」響子コーチが言った。余計ダメじゃん。付き合っていると言えば付き合っているって言い回しは、エッチはしているって事でしょ?でもラブラブじゃないって事は、すっごい好きって訳じゃない人だけどエッチはしているって事でしょ?僕はすごくモヤモヤした。
「僕は自分で買うのでいりません。断っておいてください」僕はつい強めな口調になった。
「バイト大変なんでしょ?悠太君がバイク手に入れれば、私と一緒にツーリングに出かける事もできると思ったのに」
「ちょっとひどいですよ。僕が響子コーチの事、すごく好きなのは覚えていますか?あの夜のキスの事だって、僕は寝ている時だって1分に1度は思い出しているんですよ?一緒にツーリング行けると思ったって、そんな言い方僕にしたら、僕は大好きな響子コーチがエッチしてるっぽい人からもらった自転車に乗って、響子コーチとツーリングに行くという、本来相容れない2つを強制的に相容れさせる事になるじゃないですか!」
「考えすぎだよ。悠太君は昔からそういうところあるけどさぁ。自転車をもらえるってだけの話だし、その自転車で私と一緒にツーリング行こうって誘ってるだけの話しじゃん。なんでそんなに怒るかなぁ。意味が分からないよ」響子コーチが少し目を大きくして言った。僕の方が全然意味が分からないよ。僕は首を左右に振り続けた。
「響子コーチ、その人とエッチしてるんでしょ?僕とのたった1回のキスは無かった事にするけれど、その人とは何回も何回もエッチしてるんでしょ?そんな人からもらいものなんかしたくないです」僕は机をたたきそうになったけれど、代わりに両手をそっとテーブルの上に置いて言った。
「あ~もうやっぱりあの夜に悠太君にキスしたのは間違いだった。ホント、時間を戻せたら取り消したい!」
そのあとは少し険悪な雰囲気のまま、早めの解散となった。なんで響子コーチは、響子コーチが大好きな僕に、あんな事を言うんだろう?僕が響子コーチの事が大好きだって気持ちは、全然届いていないのかな。僕がふざけて言っていると思われているのかな。僕は怒りや寂しさや、悔しさや、とにかくネガティブな塊となって家に戻った。
どうしようもない気分だったので、できるだけ短く、だけど結果長文で、真理雄に今日起こった事を伝えた。冷静な事実報告というよりかは、僕視点に立った、僕の正当化と響子コーチの問題点に終始した愚痴っぽい内容になってしまった。
基本的に真理雄は忙しいので、僕が何かを伝えても返信はしてこない。来週土曜日の昼ご飯を一緒に食べられるか?とか、真理雄の答えで僕の行動が変わる時には素早く返信してくれる。だから今日は返信されないだろうと思って、正直な気持ちを文章にした。書いているうちに落ち着く事がよくあるから。
夜11時過ぎに家のチャイムが鳴った。セールスにしても非常識だと思っていたら、お父さんの声がした。「悠太、真理雄君が来たよ」僕は驚いた。真理雄はお父さんに鯵を味噌で叩いたものが入ったアルミホイルを渡していた。そのままでもおいしいし、焼いてもおいしいですと言っていた。お父さんは時間も気にせずに、さっそくそのまま食べようとしている。
真理雄が僕の部屋に入ってきた。「急にごめんね」
僕は言った。「漁師さんなのかしら?」真理雄は聞こえないように、僕の部屋の床に座った。
「価値観の相違だよね。悪口としてじゃないから、それ前提で聞いてね。僕が知っている限り、響子コーチは異性関係、つまりセックスにはオープンな人だ。中央値よりも左側。極左とは言わないけれど、結構な左派だと思う。それに比べて悠太君はさ、もう極右もいいところ。過激極右ゲリラだよ。世間的には圧倒的に、悠太君の方がマイノリティーだ。これを自分で意識すべき」真理雄は社会政治学について語りだした。
「真理雄だって極右じゃないの?」僕は言われた事を突き返した。
「そうだよ。でも僕は自分が極右派だと自認している。それが正義であるというのは、ごく一部にしか理解されない正義である事も含めてね。僕が見る限り、悠太君は自分の正義が唯一の正義だと思っている節がある。ここまでどう思う?」
真理雄はいつだってこうだ。真理雄は小学生、中学生の頃からこうだ。人間はそんなもんじゃないはずだ。右とか左とか。もっとフワフワしているもんだ。
「いま悠太君は、人間の心は、人間の感情はもっとフワフワしているもんだとか思っているんでしょ?そうだよ。その通りだ。だから響子コーチは人間らしくフワフワと生きている。それに比べて、フワフワを許容しない生き方をしているのは悠太君じゃん」
……真理雄はいつだってこうだ……
「じゃあ真理雄は、僕が他の女子とエッチしたり、響子コーチみたいに、ラブラブじゃないけどってよくわからない気持ちでエッチすれば良いって言うの?」
「だ・か・ら。そうじゃないんだって。悠太君が超マイノリティで、響子コーチはマジョリティだって事を理解する。つまり二人の間には、結構強い流れの、幅が広い川が流れている。前からずっと変わらずにね。今更その川を渡るのか、ほかの対岸を探すのかなんて聞かないけどさ。誰が自分の価値観を押し付けてくるような相手と、共に生きていきたいと思うの?」
「え?ちょっと待った。響子コーチが他の人とエッチする事を認めろって事?」
「冷静に考えてみようよ。悠太君は純愛を語っているけれど、結局のところいつだって苦しむのはセックスなんだ。それは自分が未経験だから、過度な期待を持っているのか……過度な美しさを求めているのか知らないけどさ、野生の生物の9割は繁殖期ごとに相手を変えるんだよ?自分の遺伝子をより効率よく残すためにね。だからそっちが生物学的には正しい事。どこぞの偉い人が、自分の立ち位置を守るために作った文化にまんまとはめられているだけじゃないの?」
「え?え?ちょっと待った。自分だって……え?真理雄は今、色んな人とエッチしてるの?」今更前提変更がなされたかもしれない可能性に気が付いて、僕は確認した。
「僕は色んな人とエッチはしていないよ。僕はたった一人とエッチする。だから僕もマイノリティだって言ってるじゃん。僕が好きになった人は、色々な条件で僕や悠太君と同じ極右といえる生き方をしているけれど、話しを聞いていれば、本来的にはそうではないと思う。だから僕は結果がラッキーだっただけだ。悠太君は現実的にも本来的にも、左側の生き方をしてる人を好きになったし、左側と分かっているのに、好きでいる自分をひたすら擁護している訳だから。まあ、ド変態、ドMなんだろうね」
真理雄は僕の目をじっと見た。僕は返す言葉がなかった。純愛とはド変態でドM。と知った夜だった。
真理雄にド変態扱いされた夜を機に、僕は結構考え込んでいた。まあ僕がド変態でドMであることは認める事にした。真理雄が帰ったあとで、詳しい「経緯」は何も伝えずにSNSで、真理雄にド変態でドMと言われたと篤に送ったら、数秒で「何をいまさら?」と返ってきた。納得いかない僕はすぐに健治にも送ったら、数秒で「知ってるけど。。。」と返ってきた。よって認める事にした。完全敗北の夜だった。
何を考え込んでいるかといえば、僕が響子コーチのセックス観について引っ掛かっていると言われたところだ。もっと言えば、世間の多数派が持つセックス観について引っ掛かっていると言われたところだ。確かに大学では、俗にいうワンナイトの為に、みんな飲み会に参加している。男子がそうであるって事は、篤や健治やその他大勢の行動で知ってはいたけれど、考えてみれば女子だってそれをわかって参加しているって事だ。
僕がこれを汚らわしいと思っているのか?客観的に考えた事がなかった。つまり僕は響子コーチを汚らしいと思っているのか?が議題である。
汚らわしいと思っているのか?と問われれば、そんな風には思っていない。でもYESかNOで答えろと言われれば、正しいとは思えない。ということは汚らわしいと思っている事になる。自分の部屋で、実際に頭を抱えて考えていたら、部屋のドアのノックが鳴ってお父さんが入ってきた。
「あのな悠太……何か問題か?」お父さんは頭を抱えた息子の僕を見て言った。
僕は頭を抱えたままで答えた。「問題ない」お父さんはちょっと怪訝な顔をしながら首を縦に振った。
「実はお父さん、札幌研究所に転勤になったんだ。急で悪いけれど来月1日からだ。このマンションは当然そのままにしておくから、しばらく独り暮らしになるな。まあ、今までだって、実質独り暮らしみたいなものだったから、俺としては心配していないんだけど。問題あるか?」お父さんは言った。ちょっと突然で頭が付いて行かない。
「お父さん。恥ずかしながらですが……僕、幼稚園の頃からお父さんと2人でやってきて、ずっと2人だったから……今、よくわからない不安?恐怖?ん?なんだか……とにかく何が心配なんだかわからないけど。僕は結局、お父さんに甘えまくって来た訳で。電気や水道も、そこから出てくるものだと思っていたんだけど、それはお父さんがちゃんとお金を振り込んでくれているからで、お金はいつどんな風に払ったら良いかもわからないし、それに、それにだよ?」僕がオロオロと頭を抱えたままで、不安をぶちまけそうになっていたので、お父さんは話を遮った。
「悠太、ちょっと待て。まず心配はいらない。そういうのは全部カード払いだから、お父さんのカードから自動的に落ちるから大丈夫。社会は進んでいる。お前の見てないところで、お父さんが苦労して生活を支えているなんて事は、一つもない。社会の仕組みが昔と違う。大丈夫。問題ない」お父さんは両手の平を僕に向けて、ゆっくり頭を上下に動かして「落ち着け落ち着け」とジェスチャーしながら言った。そしてお父さんは笑いながら言った。
「日本で7番目にクロールが早い俺の息子。気が付いたら俺より背が高くなっている俺の息子。意外と子供な事に気が付いて、嬉しい気持ちになるよ」僕も笑い出した。
落ち着いてみれば、お父さんがこの世からいなくなる訳じゃないし、スマホで顔見ながら話す事もできるし、SNSだってある。今と何も変わらないって事だ。
僕がセックスに対してマイノリティであるという悩みは、すっかり僕の頭から飛んでいた。
次の日から、お父さんの必要な荷物をまとめるのを手伝ったり、一緒にいらないものを片づけたりしていた。
お母さんの写真が入っているアルバムを、札幌に持って行っていいか?と聞かれたので、僕はもう10年以上見ていないから、持っていって良いよと言った。お母さんの顔……思い出せない。今そのアルバムを開けば、多分思い出す。
僕は開かない事にした。気持ちがどうなるかわからないのは嫌だ。僕は自分でお父さんや響子コーチに、どんな言葉で何を伝えるかは選べるけれど、三橋元コーチと響子コーチが、腕を組んでラブホテルに入る夢を見た後で、響子コーチと食事に行くとちょっと攻撃的になっちゃう自分を抑えられない。
お母さんの顔を思い出して、自分が望まない気持ちになってしまった時に、僕はそれをコントロールできないから見ない事にした。
こういうのなんて言うんだっけ?君子危うきに近寄らず?触らぬ神にたたりなし?臭いものに蓋?最後のは違うな。
とにかく、僕は弱い人間だから、自分が把握しているヤバい事には近寄らない。そうしている。今までだってずっとそうしてきた。競泳の練習の時だって、みんなは「よくやっている」「すごい」って言ってくれていたけれど、僕は弱いから自分が流されそうな場所には近づかないようにしていただけだ。
響子コーチから食事のお誘いの連絡が来ていなかったので、僕の方から連絡をした。断りにくくするために、お父さんが転勤になって心配なので相談したいと書いた。こういうところ、僕はズルい。
響子コーチからすぐに返信があって、一緒に食事しながら話そうと言ってくれた。
響子コーチと食事をしながら、本当はたいして心配していない事まで、さも心配のように相談した。響子コーチは自分も一人暮らし長いけれど、自分ができているから問題は無いと答えてくれた。それからはまた、週に一度くらい響子コーチと会うことができている。響子コーチが誰とどんなエッチをしているかについては、やはり僕の中でモヤモヤしちゃうところがあるけれど、それでも響子コーチの八重歯の笑顔から聞く事ができる、響子コーチの毎日は、僕に喜びを与えてくれる。
そんな中で最近僕をとても苦しめる問題がある。僕にとっては問題だ。響子コーチはどうして僕が響子コーチの事を大好きでい続けている。という気持ちを忘れちゃうんだろう。
トライアスロンチームに柔道整復師がいて、その人のマッサージが自分に合っている。ここまで身体が快調で楽なのは初めてかもしれない。値段も割り引いてくれて、その分施術を受ける回数が増えて助かるとか言っている。
僕にマッサージをさせてくれるんだったら、もちろん無料だ。なんなら僕が響子コーチにお金を払ってもいい。なのに響子コーチはヘラヘラとこんな話を僕にする。
僕は「僕にも響子コーチにマッサージをさせて欲しい。響子コーチに専用の最高のマッサージを覚えて見せる」と言ったけど、僕は僕でやる事をしっかりやれと説教された。
もう、本当にわかっていない。僕の気持ちをぶつけても、定期的に説教されて終わりだ。
真理雄に相談したいけれど、なにぶん真理雄はこんな相談に乗っていられない毎日を送っている。僕の生活と比べて、ビックリするようなハードな場所で戦っているんだろうと思う。だからこんなバカっぽい相談はしない。それに返す言葉が1つもない、とても鋭い刀で切り捨てられるのは避けたい。
仕方ないから久しぶりに篤と会って、食事をしながら相談した。
「響子コーチの専属無料マッサージ師になりたいって事?そう思うんだったら、悠太が日本一のマッサージ師になればいいだけだろ。一緒に泳いでいる頃にさあ、悠太が自由形に切り替えた時、俺はビックリしたぞ。あの時と同じだろ」僕は目からうろこだった。
なんか中学校の時は、固定されている事なんて1つもなくて、その時の1番を考えて選んで実行出来た気がする。選び方が今よりバカだけど。
ここまで考えて笑いが止まらくなった。少なくても篤と僕は、あの頃と同じで選び方がバカのままだ。真理雄にどうしても相談したくなって、その場でSNSを使って「大事な相談がある。僕の将来の事だ」と送ったら、数秒で返信があった。
「来週の金曜日。僕は結婚する事になったから、その時に話そう。夕方かんなみ民宿に来て」
僕は口にしたアイスコーヒーを全部噴出した。慌ててお手拭きで拭いた。篤がびっくりしていた。篤に伝えて良いのか???手順を思考していると、篤のスマホにも着信があった。
「おいおいおいおいおい。真理雄結婚って、俺聞いてないぞ!!!」篤が大きな声で言った。
「僕だって聞いていない。誰と?」と僕は言った。
「悠太が知らないのに俺が知るわけないだろ」と篤が言った。
その後、結婚相手を知るために真理雄にSNSを送ったが返信は無かった。めちゃくちゃな夜だった。
久しぶりに「漁師民宿かんなみ」に来た。篤と健治も呼ばれているらしいけど、住んでいる場所の違いから別々に行動した。
ここに来たのは、多分15歳のゴールデンウィーク明け。ということは4年ぶりくらいか。僕は1階の「漁師食堂神波」に入った。
海の家でたむろしていた、地元のおじさん達もいっぱい来ている。真理雄のお母さんだ。なんかちゃんとした格好している。僕は普段着の中では、ちょっと真面目そうに見える洋服を着ていた。スーツとかの方がよかったのかな……
お店に入った僕に、みっちゃんや冴子さんのお父さんや2年間海の家でお世話をしてくれた?おじさん達が声をかけてくれた。
情報が細切れで、バラバラで、よくつかめない。
篤や健治もやってきて、真理雄の友達席は僕ら3人となった。
健治が頭を僕に近づけて言った。「これは真理雄の結婚式って事?」
僕と篤はわからないを表現する為に、首を横に振った。
健治はつづけた。「真理雄は誰と結婚するんだ?そして何でここなんだ?さらになんで今なんだ?」
僕と篤はさらにわからないを表現し続けた。
お店の中を見渡しても真理雄は見えない。
しばらくすると、真理雄のお母さんが僕らのテーブルに来てくれた。
「久しぶりね。3人とも大きくなったわね」真理雄のお母さんは感慨深げに言った。
こういう時は健治だ。健治が言った。「お久しぶりです。僕のこと覚えてくれていてうれしいです。ところで真理雄は誰と結婚するんですか?」
僕と篤は、真理雄のお母さんの方に顔を向けた。
「え?真理雄はそんな事も言ってないの?本当にあの子は大事のところをすっ飛ばすわよね」お母さんは笑ている。健治が言った。
「で、真理雄は誰と結婚するんですか?」
お母さんは答えた。「冴子さんよ」
篤は口元に運んだコップに入った水を噴出した。
そのあと冴子さんのお父さんが立ち上げり、集まった人たちに対して一例をした。真理雄のお母さんはそれに気が付いて、主賓席の方に戻った。
「え~、本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。わが自慢の娘である冴子と出会い18年が経ちました。私たち夫婦にとっては、本当に大事な本当の娘です。皆さんもご存知の通り、私にはせがれがおりましたが、あの台風の日に、さすがに若すぎるという思いは今でも残りますが、漁師らしい終わりを遂げました。バカ親ではありますが、冴子の美貌を考えた時には、こんな漁師の家に縛り付けておく事は良くないと夫婦で話し合いましたが、冴子にとってそれは、冴子からたった一つの家を、家族を奪う事と同義である事に気づかされました。それ以降、私たちは本当の家族として共に生きてきた訳でございます。冴子の美貌から、多数の害虫が寄ってきた訳でございますが、私ども夫婦と、ここに集まっていただいた近隣の方々のおかげで、私達の愛娘である冴子を守る事ができた事を、ここで改めて御礼申し上げます。人のえにしとは不思議なもので、ある時に私たち夫婦には、もう一人せがれというべきか、孫というべきか、愛すべき人間との出会いがありました。めでたい今日この日、晴れてその人間を息子に迎える事ができる機会を得ました。このとても優秀で素晴らしい息子を育ててくれた、彼のお母さまとも、今後より深い家族関係を形成していけたらと願っております。それでは、皆さんにお披露目いたしたく、私ども……私どもの……」
「がんばれ!」「船長!」
「ありがとう。私どもの大事な大事な子供たちをご紹介します。真理雄と冴子です」
冴子さんのお父さんが涙をこらえながらそう言うと、奥から和装で着飾った、真理雄と冴子店長が頭を下げながら出てきた。僕らは何が何だかわからずにいたけれど、なぜだか3人とも涙が出てきていた。そして多分生涯で一番の拍手をした。
宴たけなわな中で、真理雄が僕たちのテーブルに来ていた。店の中は大騒ぎになっている。僕は真理雄と篤と健治に聞こえるように大きな声で言った。
「もう頭が整理できないけれど、とにかく冴子店長と真理雄が結婚する。真理雄が婿養子に入る。そもそも冴子店長はこの神波家の子供ではなく、生まれてすぐ育児放棄された子供として施設で育った。15歳からここに住み込みで働いた。このかんなみ家には優志さんという、冴子店長と同じ歳の息子がいた。2人は恋に落ちて18歳で結婚した。2人の間に子供いなかった。優志さんは23歳の時に台風の中での操船事故で亡くなってしまった。冴子店長は行く場所がないから、神波家にとどまった。お父さんは冴子店長狙いの男共をバッサバッサと切っていった。バイトも冴子さん狙いばかりだった。だから響子コーチ狙いだった僕は面接に合格できた。こんな感じであらすじは合っている?」
真理雄は笑いながら大きな声で答えた。「概ね正解だよ。僕は悠太君が始めたアルバイトの海の店に行って初めて冴子さんと出会った。僕は冴子さんを好きになって作戦を考えて実行した。冴子さんは15歳まで施設にいて、15歳からここで住み込んでいるから、男性と接点がなかった。そして優志さんと結婚した。優志さんが亡くなった後は、お父さんが近寄ってくる輩は切って捨てていた。それどころか、冴子店長のいきさつを知る、この町のほぼ全員のおじさんやおばさん達、びっくりするような数の小姑たちが冴子さんを身体目当ての男たちから守ってきたわけだ。だから優志さん以外に告白をされた事はなかった。そこに現れたのが、悠太君よりずっと背が低く、勉強ばかりの僕。お父さんやお母さんや、この町の人から見たら、僕なんかは男じゃなかったから完全にノーマークだった。だから僕は情報を集めて、抜け道を探して、一人でドリブルで持ち込んでシュートを決めた。それが今日につながったって感じだね」真理雄は背は低いけれど、本当に大きく見える。
真理雄が他のテーブルにあいさつに行くと、冴子さんのお父さんとお母さんが来てくれた。相変わらず言葉が荒っぽいお父さんが言った。
「安田君、元気か?今日はありがとうな」「本当にありがとうね」
僕たち3人は頭を下げた。篤がお父さんに聞いた。
「何となく経緯はわかりつつあるんですけど、冴子さんを守ってきた”かんなみ”の人や地域の人が、真理雄を認めた理由は何ですか?」好奇心満点な顔している。
「いやぁ。真理雄はもっと、こうなんてんだ?なあ母さん」お父さんはそう言いかけてお母さんを見た。
お母さんは笑いながら言った。「真理雄は垂らしなんだよ。人間垂らし。この子が政治家になったら怖いね」漁師の妻らしい、ちょっと男気のある言い方でお母さんが答えた。
健治がお母さんに聞いた。「人間垂らしって、どんな感じですか?」
「真理雄は状況を読んで、冴子に近づく前に私達を取り込んだの。初めにお父さんを取り込んで、ある時からお父さんは真理雄をカワイイカワイイって言い始めて。次は私よ。私もカワイイカワイイって言い始めた。一生懸命で、真面目で、率直で、素直で。もう忠犬、ミニ芝って感じで抱きしめたくなっちゃう。最後まで抵抗していたのはたった一人、みっちゃんだけは簡単じゃなかったみたいね」その言葉を聞きながら、お父さんも首を縦に振っている。途中から話を聞いていたみっちゃんが言った。
「言い方悪いよ~お母さん。 僕は抵抗なんかしていないよ。でも僕には真理雄君がアンコウみたいに見えたんだよね~。アンコウの捕食みたいにさぁ~、アンテナを上手に振って僕たちの目を惹かせるんだよ~。でカワイイ良い子だなぁって思ったらパクって喰われるのは、見てたらわかるよ~。僕はアンテナを見ないで真理雄君を見ていただけさ~。それでサエちゃんが幸せになるならいいけどさ~。そうでないなら追い払わなきゃって思ってただけだよ~」みっちゃんらしい、わかりやすい例えだった。
僕は独り言のように言った。「真理雄はこの地区の、全員を捕食した。でよろしいですか?」そのテーブルにいた全員が笑った。
僕たちもおいしいご飯をごちそうになり、地域の人と色んな話をした。シーズンオフは漁師をしている?正しくは漁師が夏だけライフセーバーをしている隊長とも話をした。
僕が知らなかった響子コーチの面白い話も聞けたし、もっと突っ込んで聞きたくなる話も有った。
何より一番結婚と縁がなさそう、というか少なくても一番遅くに結婚しそうな真理雄が、18歳で学生結婚になるとは思ってもみなかった。
自分が婿養子となって苗字も変わるというのは、ちょっと凄い覚悟だ。僕も響子コーチが望むなら、苗字を変える覚悟はあるけど。
真理雄と冴子さんが、二人で僕たちのテーブルに来た。冴子さんが言った。
「悠太君、これからもよろしくね~。真理雄はこれから大変だから、みんなで応援していこうって話ているのよ」和装でも美人は美人だ。
「驚きました。僕ら3人とも、本当に何も聞いていなかったので。でも考えてみれば、なぜかここの子のようになっている真理雄がいた訳で。ああそうか。とも思います」
「そうだね~真理雄君は私のために、先に家族を説き伏せたからね~凄いよね~」最高にきれいな笑顔で冴子さんが言った。まんざらでもなさそうな顔で聞いていた真理雄が僕に言った。
「悠太君。で、相談ってなに?」
そうかと思いだして僕は言った。「なんかもうさ、どうでもよくなっちゃったけど。篤に言われてさ、僕の将来の目標を変えようかと思たんだ。実はマッサージ師をね……」できるだけ簡単にまとめて、今回僕がマッサージ師になろうと思った経緯を話した。
僕の目をしっかり見て、時に篤の目もじっと見ていた真理雄が言った。
「篤君が正しいともいえるし、悠太君が間違えているともいえるよね。篤君の理論は理論としてはアリだと思うよ。悠太君がずっと向かい合ってきたものだよ。響子コーチが喜ぶ事をしたい。響子コーチをって概念だ。でも響子コーチ云々はきっかけでしかなくて、もし響子コーチの存在を消して考えた時に、医療技師ではなくマッサージ師を選んだ事を是とできるか?ずっと前に百瀬コーチにも言われた事だよ。その先にある結果の責任を、響子コーチに背負わせない前提はあるのか?って」
一度言葉を止めた真理雄は、百瀬コーチの声まねをして言った。「悠太、お前はどう生きるんだよ?」冴子さん以外、僕と敦と健治は大笑いした。
競泳の場合、日本で10本指に入ってもあんまり意味がなく、最低でも日本では常に3本指に入り、世界で10本指に入っていないと意味がないと思っている。
選手コースは総人数も上限があるし、微妙な僕が居座るよりも、才能ある人を磨いた方が良い。それにそもそも響子コーチが、この春でスイミングクラブをやめた。僕が続けている理由の9割が消失した訳だ。
響子コーチは、大学で取った理学療法の国家資格を使い、昼は病院でリハビリを行っている。夜は英会話の勉強を始めたと言っていた。僕の心配が増える。黒人の人のアレは動画を見る限りではすっごい長いし。
僕と響子コーチの関係は、スイミングクラブを二人ともやめた事。僕が18歳になった事。これらによって、週1回、一緒にご飯を食べる間柄になった。SNSでの連絡は毎日だ。
あの日のキスの事に響子コーチは触れない。僕は2度だけ言いかけたけれど、止められたのでそれ以上はしていない。
あのキスは思い出したくもないから触れないのか、恥ずかしいから触れないのか……後者であってくれる事を祈りつつ、本当になかった事にされてしまうのは、僕としては不本意甚だしいと思っている。
響子コーチとイタリア料理店で食事をしている時に、体力を維持向上したいからトライアスロンを始めると言っていた。それなら僕も始めなくてはならない。
調べた結果、僕にとって厳しいのは自転車だ。お父さんに甘える事もできない訳ではないけれど、私大に行かせてもらっていて……しかもこの自転車というのが、平気で40万円とかする。初心者用で。世間知らずな僕は気軽に考えていた訳だったが、自分の希望を叶えるには、何事もお金がかかるんだと思い知った。
鉄人レースなんだから、道具に頼らずに泳ぐのと走るのだけでいいじゃないか!と思ったけど、そこに文句言っても仕方ない。
別の機会に、響子コーチが所属した、トライアスロンチームに僕も参加したいと言ったが、いくらでもチームはあるんだから、私と一緒のチームじゃなくってもいいじゃないと言われた。響子コーチと一緒のチームじゃなきゃ意味がないんだけどなと思った。
少ない情報と、インターネットで調べた情報を照らし合わせて、響子コーチが所属しているであろうチームを3つに絞った。それぞれにメールで参加希望の申し込みをして、練習に参加してみた。それぞれのチーム練習に、3回ずつ参加してみたけれど、3か月かけて得た結果は、どれも響子コーチが参加したチームではないという事実。この事実も踏まえて、響子コーチにもう一度、同じチームでトライアスロンをやりたいから、チームを教えてほしいと頼んではみたが、響子コーチからは「怖いよ」と笑われただけだった。
響子コーチがそこまで嫌がるのであれば、響子コーチに嫌な思いをさせない僕の生き方に反するので、違う道を考えねばならなくなった。
とりあえず、僕もトライアスロンを始めて、技術的な相談などで響子コーチとの関係を深めていく作戦がベストだと判断した。前に参加したチームの中から、一番良さそうなチームを選んで、再度練習に参加する事になった。
水泳は僕が一番上手かったので、むしろ僕が泳ぎを教えた。でも僕は、あくまでも競泳の出身であり、1500メートルとかは泳いでいたけれど、遠泳の経験はなかった。これにかこつけて、響子コーチと会う時には、遠泳についての泳ぎ方の話しをしていた。響子コーチと一緒にいられないのは淋しかったけれど、同じ趣味を持つあこがれの響子コーチとお話しできるのは、それはそれで楽しいとも感じた。
大学の友達に、今沢という男子がいる。彼はちょっとした有名人なのだが、その理由は怪しいバイトに人を紹介するという、怪しい特技を持っている事である。
僕は自転車をどうにかしなければならなかったため、今沢君に効率の良いアルバイトを探していると伝えた。僕の条件は、できるだけバイト代が高い事。学業をおろそかにはできないので、夜の仕事である事。できれば不定期な仕事。この3つだ。
今沢君はちょっと考えて、にやっと笑って僕に言った。
「安田君の希望を考えて、僕が紹介してあげられるのは、君が元競泳選手だって事を生かしたものだ。最も君の希望にマッチしているのは、その道のおじさんとデートをする事。君次第で、一晩10万円とか稼げるよ。ただし、それなりに覚悟もいる事だから、その覚悟を緩やかにしたのが、そんなおじさん達の為に、写真撮影会にモデルとして参加する事。君はモデルとしてリクエストされたポーズをとっていればいいだけだ。大勢のカメラを構えたおじさん達の前で、肛門やちんこを露出する事は必要になるけどね。試験薬の人体実験もマッチしていると言えるけれど、君の身体を考えた時に写真を撮られるだけの方が、幾分マシだろ?」
今沢君はいとも平然と言う。その道のおじさんとは一体?と聞こうとも思ったけれど、僕だって大学生だから予想はできる。肛門まで見せるんだから。
こういうアルバイトは、響子コーチに知られると僕が嫌われる確率が上がる。すっごく上がる。だから競泳をやっていた事を生かすにしても、別の方向は無いのか聞いた。
「世間は安田君が考えているほど甘くはないんだけど、時間単価を引き下げれば無い訳じゃないよ」僕はこの後で今沢君が説明してくれたアルバイトを紹介してもらう事にした。
このアルバイトは、夜の10時から11時くらいに指定された場所に集まる。対象のお店が閉店してかしばらく待ち、連絡があったら店の裏口が開くため、集まったみんなで突入。店内の商品を入り口に集めて、トラックが到着し次第、それらの集めた商品の全部をトラックに載せて搬出。
次のトラックが到着し次第、そのトラックから新型機種を下ろして、さっき外した商品があったところまで運ぶ。今度は新品なので傷つけないように慎重に。結構重い。そして電動工具で取り付ける。冴子店長の海の家で、パラソルを立てる時にみっちゃんが愛用していたのと同じ形の、電気式ドリルだ。全部取り付けた後は、リーダー格の人から言われた通りの設定をして、テストをして終了となる。
パチンコ屋さんのパチスロ機、新装開店「パチスロ台の入れ替え」作業のアルバイトは、定期ではない代わりに1回の単価がとても良い。ただし、エレベーターが無い、使えないレベルの地下1階から地上2階程度のお店が多い為、古いパチスロ台を外してそれを担いで搬出し、新しいパチスロ台を、傷つけないように、より丁寧に担いで搬入するのは、結構体力が必要だ。そこに僕の競泳選手だった事が生かされる。それに次の日の朝までというリミットが明確なのも、良いところだ。
ちなみにパチスロメーカーの社員の人が言うには「パチンコ台」は取り付け設置の角度などが微妙なので、僕ら体力勝負な大学生のアルバイトでは取り付けられないそうだ。
ロードバイクを自力で購入する為に、そんなアルバイトを始めた事を響子コーチに話すと、他にやるべき事がたくさんあるのではないか?と説教をされた。みんなアルバイトくらいやっているから、僕だって無理ない範囲でやるのは間違えてはいないはずだと答えた。
そもそも響子コーチだって、大学時代のアルバイトで僕に会ったわけだし、大学の夏休みは、ライフセーバーもやっていたんだから。
響子コーチは「無理しないように」と、ちょっと怖い顔で言った。こういう時はコーチに戻る。
平日の昼は大学で勉強をする。夜は時々アルバイトに行って、時々響子コーチとご飯を食べる。週末は僕が参加したトライアスロンチームの練習に行く。
トライアスロンを始めて、朝早起きして1時間くらい走る習慣ができた。アルバイトや響子コーチと会えない日には、区営プールで泳いでいる。金銭的な問題で、区営プールを選んだ。
1か月くらいたったころ、響子コーチからSNSで食事の誘いがあった。当然僕は秒速で「よろこんで~」と返信した。
「実は悠太君にね、ロードバイクを譲ってイイよって人がいてさ、中古だけどしっかりとしたものだからどうかな?と思って」響子コーチが言った。僕は驚いたし、うれしかった。
「それは嬉しいですね。どこのバイクですか?」僕は響子コーチとの話しが深まるように、ロードバイクについても勉強は欠かしていない。
「なんとビアンキだよ。中級機だけど、その人があまり乗っていないバイクがあるって言うから、バイク始めたい子がいるんだけどって話しをしたら、何ならあげるよって話になってさ」響子コーチは嬉しそうに言った。でもその嬉しそうが、僕に自転車を渡す事ではなくって、バイクをあげるよって言った人の事を思ってうれしそうになっている気がした。そもそも会った事もない僕に、中古とはいえそんなロードバイクをタダでくれるっておかしい。
「そんな、あしながおじさん、みたいな人は誰なんですか?」僕は自分の中に久しぶりに現れた、モヤモヤした気持ちを隠しながら聞いた。
「私のチームのキャプテンなんだよ。何でも相談できて頼もしい人だよ」この笑顔がモヤモヤを増幅させる。
「新しい彼氏ですか?」我慢ができなくなって、僕はちょっと不機嫌に聞いた。
「またそんな顔して。まあ付き合っているって言えば付き合ってるけど、それほどラブラブって訳じゃないからさ」響子コーチが言った。余計ダメじゃん。付き合っていると言えば付き合っているって言い回しは、エッチはしているって事でしょ?でもラブラブじゃないって事は、すっごい好きって訳じゃない人だけどエッチはしているって事でしょ?僕はすごくモヤモヤした。
「僕は自分で買うのでいりません。断っておいてください」僕はつい強めな口調になった。
「バイト大変なんでしょ?悠太君がバイク手に入れれば、私と一緒にツーリングに出かける事もできると思ったのに」
「ちょっとひどいですよ。僕が響子コーチの事、すごく好きなのは覚えていますか?あの夜のキスの事だって、僕は寝ている時だって1分に1度は思い出しているんですよ?一緒にツーリング行けると思ったって、そんな言い方僕にしたら、僕は大好きな響子コーチがエッチしてるっぽい人からもらった自転車に乗って、響子コーチとツーリングに行くという、本来相容れない2つを強制的に相容れさせる事になるじゃないですか!」
「考えすぎだよ。悠太君は昔からそういうところあるけどさぁ。自転車をもらえるってだけの話だし、その自転車で私と一緒にツーリング行こうって誘ってるだけの話しじゃん。なんでそんなに怒るかなぁ。意味が分からないよ」響子コーチが少し目を大きくして言った。僕の方が全然意味が分からないよ。僕は首を左右に振り続けた。
「響子コーチ、その人とエッチしてるんでしょ?僕とのたった1回のキスは無かった事にするけれど、その人とは何回も何回もエッチしてるんでしょ?そんな人からもらいものなんかしたくないです」僕は机をたたきそうになったけれど、代わりに両手をそっとテーブルの上に置いて言った。
「あ~もうやっぱりあの夜に悠太君にキスしたのは間違いだった。ホント、時間を戻せたら取り消したい!」
そのあとは少し険悪な雰囲気のまま、早めの解散となった。なんで響子コーチは、響子コーチが大好きな僕に、あんな事を言うんだろう?僕が響子コーチの事が大好きだって気持ちは、全然届いていないのかな。僕がふざけて言っていると思われているのかな。僕は怒りや寂しさや、悔しさや、とにかくネガティブな塊となって家に戻った。
どうしようもない気分だったので、できるだけ短く、だけど結果長文で、真理雄に今日起こった事を伝えた。冷静な事実報告というよりかは、僕視点に立った、僕の正当化と響子コーチの問題点に終始した愚痴っぽい内容になってしまった。
基本的に真理雄は忙しいので、僕が何かを伝えても返信はしてこない。来週土曜日の昼ご飯を一緒に食べられるか?とか、真理雄の答えで僕の行動が変わる時には素早く返信してくれる。だから今日は返信されないだろうと思って、正直な気持ちを文章にした。書いているうちに落ち着く事がよくあるから。
夜11時過ぎに家のチャイムが鳴った。セールスにしても非常識だと思っていたら、お父さんの声がした。「悠太、真理雄君が来たよ」僕は驚いた。真理雄はお父さんに鯵を味噌で叩いたものが入ったアルミホイルを渡していた。そのままでもおいしいし、焼いてもおいしいですと言っていた。お父さんは時間も気にせずに、さっそくそのまま食べようとしている。
真理雄が僕の部屋に入ってきた。「急にごめんね」
僕は言った。「漁師さんなのかしら?」真理雄は聞こえないように、僕の部屋の床に座った。
「価値観の相違だよね。悪口としてじゃないから、それ前提で聞いてね。僕が知っている限り、響子コーチは異性関係、つまりセックスにはオープンな人だ。中央値よりも左側。極左とは言わないけれど、結構な左派だと思う。それに比べて悠太君はさ、もう極右もいいところ。過激極右ゲリラだよ。世間的には圧倒的に、悠太君の方がマイノリティーだ。これを自分で意識すべき」真理雄は社会政治学について語りだした。
「真理雄だって極右じゃないの?」僕は言われた事を突き返した。
「そうだよ。でも僕は自分が極右派だと自認している。それが正義であるというのは、ごく一部にしか理解されない正義である事も含めてね。僕が見る限り、悠太君は自分の正義が唯一の正義だと思っている節がある。ここまでどう思う?」
真理雄はいつだってこうだ。真理雄は小学生、中学生の頃からこうだ。人間はそんなもんじゃないはずだ。右とか左とか。もっとフワフワしているもんだ。
「いま悠太君は、人間の心は、人間の感情はもっとフワフワしているもんだとか思っているんでしょ?そうだよ。その通りだ。だから響子コーチは人間らしくフワフワと生きている。それに比べて、フワフワを許容しない生き方をしているのは悠太君じゃん」
……真理雄はいつだってこうだ……
「じゃあ真理雄は、僕が他の女子とエッチしたり、響子コーチみたいに、ラブラブじゃないけどってよくわからない気持ちでエッチすれば良いって言うの?」
「だ・か・ら。そうじゃないんだって。悠太君が超マイノリティで、響子コーチはマジョリティだって事を理解する。つまり二人の間には、結構強い流れの、幅が広い川が流れている。前からずっと変わらずにね。今更その川を渡るのか、ほかの対岸を探すのかなんて聞かないけどさ。誰が自分の価値観を押し付けてくるような相手と、共に生きていきたいと思うの?」
「え?ちょっと待った。響子コーチが他の人とエッチする事を認めろって事?」
「冷静に考えてみようよ。悠太君は純愛を語っているけれど、結局のところいつだって苦しむのはセックスなんだ。それは自分が未経験だから、過度な期待を持っているのか……過度な美しさを求めているのか知らないけどさ、野生の生物の9割は繁殖期ごとに相手を変えるんだよ?自分の遺伝子をより効率よく残すためにね。だからそっちが生物学的には正しい事。どこぞの偉い人が、自分の立ち位置を守るために作った文化にまんまとはめられているだけじゃないの?」
「え?え?ちょっと待った。自分だって……え?真理雄は今、色んな人とエッチしてるの?」今更前提変更がなされたかもしれない可能性に気が付いて、僕は確認した。
「僕は色んな人とエッチはしていないよ。僕はたった一人とエッチする。だから僕もマイノリティだって言ってるじゃん。僕が好きになった人は、色々な条件で僕や悠太君と同じ極右といえる生き方をしているけれど、話しを聞いていれば、本来的にはそうではないと思う。だから僕は結果がラッキーだっただけだ。悠太君は現実的にも本来的にも、左側の生き方をしてる人を好きになったし、左側と分かっているのに、好きでいる自分をひたすら擁護している訳だから。まあ、ド変態、ドMなんだろうね」
真理雄は僕の目をじっと見た。僕は返す言葉がなかった。純愛とはド変態でドM。と知った夜だった。
真理雄にド変態扱いされた夜を機に、僕は結構考え込んでいた。まあ僕がド変態でドMであることは認める事にした。真理雄が帰ったあとで、詳しい「経緯」は何も伝えずにSNSで、真理雄にド変態でドMと言われたと篤に送ったら、数秒で「何をいまさら?」と返ってきた。納得いかない僕はすぐに健治にも送ったら、数秒で「知ってるけど。。。」と返ってきた。よって認める事にした。完全敗北の夜だった。
何を考え込んでいるかといえば、僕が響子コーチのセックス観について引っ掛かっていると言われたところだ。もっと言えば、世間の多数派が持つセックス観について引っ掛かっていると言われたところだ。確かに大学では、俗にいうワンナイトの為に、みんな飲み会に参加している。男子がそうであるって事は、篤や健治やその他大勢の行動で知ってはいたけれど、考えてみれば女子だってそれをわかって参加しているって事だ。
僕がこれを汚らわしいと思っているのか?客観的に考えた事がなかった。つまり僕は響子コーチを汚らしいと思っているのか?が議題である。
汚らわしいと思っているのか?と問われれば、そんな風には思っていない。でもYESかNOで答えろと言われれば、正しいとは思えない。ということは汚らわしいと思っている事になる。自分の部屋で、実際に頭を抱えて考えていたら、部屋のドアのノックが鳴ってお父さんが入ってきた。
「あのな悠太……何か問題か?」お父さんは頭を抱えた息子の僕を見て言った。
僕は頭を抱えたままで答えた。「問題ない」お父さんはちょっと怪訝な顔をしながら首を縦に振った。
「実はお父さん、札幌研究所に転勤になったんだ。急で悪いけれど来月1日からだ。このマンションは当然そのままにしておくから、しばらく独り暮らしになるな。まあ、今までだって、実質独り暮らしみたいなものだったから、俺としては心配していないんだけど。問題あるか?」お父さんは言った。ちょっと突然で頭が付いて行かない。
「お父さん。恥ずかしながらですが……僕、幼稚園の頃からお父さんと2人でやってきて、ずっと2人だったから……今、よくわからない不安?恐怖?ん?なんだか……とにかく何が心配なんだかわからないけど。僕は結局、お父さんに甘えまくって来た訳で。電気や水道も、そこから出てくるものだと思っていたんだけど、それはお父さんがちゃんとお金を振り込んでくれているからで、お金はいつどんな風に払ったら良いかもわからないし、それに、それにだよ?」僕がオロオロと頭を抱えたままで、不安をぶちまけそうになっていたので、お父さんは話を遮った。
「悠太、ちょっと待て。まず心配はいらない。そういうのは全部カード払いだから、お父さんのカードから自動的に落ちるから大丈夫。社会は進んでいる。お前の見てないところで、お父さんが苦労して生活を支えているなんて事は、一つもない。社会の仕組みが昔と違う。大丈夫。問題ない」お父さんは両手の平を僕に向けて、ゆっくり頭を上下に動かして「落ち着け落ち着け」とジェスチャーしながら言った。そしてお父さんは笑いながら言った。
「日本で7番目にクロールが早い俺の息子。気が付いたら俺より背が高くなっている俺の息子。意外と子供な事に気が付いて、嬉しい気持ちになるよ」僕も笑い出した。
落ち着いてみれば、お父さんがこの世からいなくなる訳じゃないし、スマホで顔見ながら話す事もできるし、SNSだってある。今と何も変わらないって事だ。
僕がセックスに対してマイノリティであるという悩みは、すっかり僕の頭から飛んでいた。
次の日から、お父さんの必要な荷物をまとめるのを手伝ったり、一緒にいらないものを片づけたりしていた。
お母さんの写真が入っているアルバムを、札幌に持って行っていいか?と聞かれたので、僕はもう10年以上見ていないから、持っていって良いよと言った。お母さんの顔……思い出せない。今そのアルバムを開けば、多分思い出す。
僕は開かない事にした。気持ちがどうなるかわからないのは嫌だ。僕は自分でお父さんや響子コーチに、どんな言葉で何を伝えるかは選べるけれど、三橋元コーチと響子コーチが、腕を組んでラブホテルに入る夢を見た後で、響子コーチと食事に行くとちょっと攻撃的になっちゃう自分を抑えられない。
お母さんの顔を思い出して、自分が望まない気持ちになってしまった時に、僕はそれをコントロールできないから見ない事にした。
こういうのなんて言うんだっけ?君子危うきに近寄らず?触らぬ神にたたりなし?臭いものに蓋?最後のは違うな。
とにかく、僕は弱い人間だから、自分が把握しているヤバい事には近寄らない。そうしている。今までだってずっとそうしてきた。競泳の練習の時だって、みんなは「よくやっている」「すごい」って言ってくれていたけれど、僕は弱いから自分が流されそうな場所には近づかないようにしていただけだ。
響子コーチから食事のお誘いの連絡が来ていなかったので、僕の方から連絡をした。断りにくくするために、お父さんが転勤になって心配なので相談したいと書いた。こういうところ、僕はズルい。
響子コーチからすぐに返信があって、一緒に食事しながら話そうと言ってくれた。
響子コーチと食事をしながら、本当はたいして心配していない事まで、さも心配のように相談した。響子コーチは自分も一人暮らし長いけれど、自分ができているから問題は無いと答えてくれた。それからはまた、週に一度くらい響子コーチと会うことができている。響子コーチが誰とどんなエッチをしているかについては、やはり僕の中でモヤモヤしちゃうところがあるけれど、それでも響子コーチの八重歯の笑顔から聞く事ができる、響子コーチの毎日は、僕に喜びを与えてくれる。
そんな中で最近僕をとても苦しめる問題がある。僕にとっては問題だ。響子コーチはどうして僕が響子コーチの事を大好きでい続けている。という気持ちを忘れちゃうんだろう。
トライアスロンチームに柔道整復師がいて、その人のマッサージが自分に合っている。ここまで身体が快調で楽なのは初めてかもしれない。値段も割り引いてくれて、その分施術を受ける回数が増えて助かるとか言っている。
僕にマッサージをさせてくれるんだったら、もちろん無料だ。なんなら僕が響子コーチにお金を払ってもいい。なのに響子コーチはヘラヘラとこんな話を僕にする。
僕は「僕にも響子コーチにマッサージをさせて欲しい。響子コーチに専用の最高のマッサージを覚えて見せる」と言ったけど、僕は僕でやる事をしっかりやれと説教された。
もう、本当にわかっていない。僕の気持ちをぶつけても、定期的に説教されて終わりだ。
真理雄に相談したいけれど、なにぶん真理雄はこんな相談に乗っていられない毎日を送っている。僕の生活と比べて、ビックリするようなハードな場所で戦っているんだろうと思う。だからこんなバカっぽい相談はしない。それに返す言葉が1つもない、とても鋭い刀で切り捨てられるのは避けたい。
仕方ないから久しぶりに篤と会って、食事をしながら相談した。
「響子コーチの専属無料マッサージ師になりたいって事?そう思うんだったら、悠太が日本一のマッサージ師になればいいだけだろ。一緒に泳いでいる頃にさあ、悠太が自由形に切り替えた時、俺はビックリしたぞ。あの時と同じだろ」僕は目からうろこだった。
なんか中学校の時は、固定されている事なんて1つもなくて、その時の1番を考えて選んで実行出来た気がする。選び方が今よりバカだけど。
ここまで考えて笑いが止まらくなった。少なくても篤と僕は、あの頃と同じで選び方がバカのままだ。真理雄にどうしても相談したくなって、その場でSNSを使って「大事な相談がある。僕の将来の事だ」と送ったら、数秒で返信があった。
「来週の金曜日。僕は結婚する事になったから、その時に話そう。夕方かんなみ民宿に来て」
僕は口にしたアイスコーヒーを全部噴出した。慌ててお手拭きで拭いた。篤がびっくりしていた。篤に伝えて良いのか???手順を思考していると、篤のスマホにも着信があった。
「おいおいおいおいおい。真理雄結婚って、俺聞いてないぞ!!!」篤が大きな声で言った。
「僕だって聞いていない。誰と?」と僕は言った。
「悠太が知らないのに俺が知るわけないだろ」と篤が言った。
その後、結婚相手を知るために真理雄にSNSを送ったが返信は無かった。めちゃくちゃな夜だった。
久しぶりに「漁師民宿かんなみ」に来た。篤と健治も呼ばれているらしいけど、住んでいる場所の違いから別々に行動した。
ここに来たのは、多分15歳のゴールデンウィーク明け。ということは4年ぶりくらいか。僕は1階の「漁師食堂神波」に入った。
海の家でたむろしていた、地元のおじさん達もいっぱい来ている。真理雄のお母さんだ。なんかちゃんとした格好している。僕は普段着の中では、ちょっと真面目そうに見える洋服を着ていた。スーツとかの方がよかったのかな……
お店に入った僕に、みっちゃんや冴子さんのお父さんや2年間海の家でお世話をしてくれた?おじさん達が声をかけてくれた。
情報が細切れで、バラバラで、よくつかめない。
篤や健治もやってきて、真理雄の友達席は僕ら3人となった。
健治が頭を僕に近づけて言った。「これは真理雄の結婚式って事?」
僕と篤はわからないを表現する為に、首を横に振った。
健治はつづけた。「真理雄は誰と結婚するんだ?そして何でここなんだ?さらになんで今なんだ?」
僕と篤はさらにわからないを表現し続けた。
お店の中を見渡しても真理雄は見えない。
しばらくすると、真理雄のお母さんが僕らのテーブルに来てくれた。
「久しぶりね。3人とも大きくなったわね」真理雄のお母さんは感慨深げに言った。
こういう時は健治だ。健治が言った。「お久しぶりです。僕のこと覚えてくれていてうれしいです。ところで真理雄は誰と結婚するんですか?」
僕と篤は、真理雄のお母さんの方に顔を向けた。
「え?真理雄はそんな事も言ってないの?本当にあの子は大事のところをすっ飛ばすわよね」お母さんは笑ている。健治が言った。
「で、真理雄は誰と結婚するんですか?」
お母さんは答えた。「冴子さんよ」
篤は口元に運んだコップに入った水を噴出した。
そのあと冴子さんのお父さんが立ち上げり、集まった人たちに対して一例をした。真理雄のお母さんはそれに気が付いて、主賓席の方に戻った。
「え~、本日は、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。わが自慢の娘である冴子と出会い18年が経ちました。私たち夫婦にとっては、本当に大事な本当の娘です。皆さんもご存知の通り、私にはせがれがおりましたが、あの台風の日に、さすがに若すぎるという思いは今でも残りますが、漁師らしい終わりを遂げました。バカ親ではありますが、冴子の美貌を考えた時には、こんな漁師の家に縛り付けておく事は良くないと夫婦で話し合いましたが、冴子にとってそれは、冴子からたった一つの家を、家族を奪う事と同義である事に気づかされました。それ以降、私たちは本当の家族として共に生きてきた訳でございます。冴子の美貌から、多数の害虫が寄ってきた訳でございますが、私ども夫婦と、ここに集まっていただいた近隣の方々のおかげで、私達の愛娘である冴子を守る事ができた事を、ここで改めて御礼申し上げます。人のえにしとは不思議なもので、ある時に私たち夫婦には、もう一人せがれというべきか、孫というべきか、愛すべき人間との出会いがありました。めでたい今日この日、晴れてその人間を息子に迎える事ができる機会を得ました。このとても優秀で素晴らしい息子を育ててくれた、彼のお母さまとも、今後より深い家族関係を形成していけたらと願っております。それでは、皆さんにお披露目いたしたく、私ども……私どもの……」
「がんばれ!」「船長!」
「ありがとう。私どもの大事な大事な子供たちをご紹介します。真理雄と冴子です」
冴子さんのお父さんが涙をこらえながらそう言うと、奥から和装で着飾った、真理雄と冴子店長が頭を下げながら出てきた。僕らは何が何だかわからずにいたけれど、なぜだか3人とも涙が出てきていた。そして多分生涯で一番の拍手をした。
宴たけなわな中で、真理雄が僕たちのテーブルに来ていた。店の中は大騒ぎになっている。僕は真理雄と篤と健治に聞こえるように大きな声で言った。
「もう頭が整理できないけれど、とにかく冴子店長と真理雄が結婚する。真理雄が婿養子に入る。そもそも冴子店長はこの神波家の子供ではなく、生まれてすぐ育児放棄された子供として施設で育った。15歳からここに住み込みで働いた。このかんなみ家には優志さんという、冴子店長と同じ歳の息子がいた。2人は恋に落ちて18歳で結婚した。2人の間に子供いなかった。優志さんは23歳の時に台風の中での操船事故で亡くなってしまった。冴子店長は行く場所がないから、神波家にとどまった。お父さんは冴子店長狙いの男共をバッサバッサと切っていった。バイトも冴子さん狙いばかりだった。だから響子コーチ狙いだった僕は面接に合格できた。こんな感じであらすじは合っている?」
真理雄は笑いながら大きな声で答えた。「概ね正解だよ。僕は悠太君が始めたアルバイトの海の店に行って初めて冴子さんと出会った。僕は冴子さんを好きになって作戦を考えて実行した。冴子さんは15歳まで施設にいて、15歳からここで住み込んでいるから、男性と接点がなかった。そして優志さんと結婚した。優志さんが亡くなった後は、お父さんが近寄ってくる輩は切って捨てていた。それどころか、冴子店長のいきさつを知る、この町のほぼ全員のおじさんやおばさん達、びっくりするような数の小姑たちが冴子さんを身体目当ての男たちから守ってきたわけだ。だから優志さん以外に告白をされた事はなかった。そこに現れたのが、悠太君よりずっと背が低く、勉強ばかりの僕。お父さんやお母さんや、この町の人から見たら、僕なんかは男じゃなかったから完全にノーマークだった。だから僕は情報を集めて、抜け道を探して、一人でドリブルで持ち込んでシュートを決めた。それが今日につながったって感じだね」真理雄は背は低いけれど、本当に大きく見える。
真理雄が他のテーブルにあいさつに行くと、冴子さんのお父さんとお母さんが来てくれた。相変わらず言葉が荒っぽいお父さんが言った。
「安田君、元気か?今日はありがとうな」「本当にありがとうね」
僕たち3人は頭を下げた。篤がお父さんに聞いた。
「何となく経緯はわかりつつあるんですけど、冴子さんを守ってきた”かんなみ”の人や地域の人が、真理雄を認めた理由は何ですか?」好奇心満点な顔している。
「いやぁ。真理雄はもっと、こうなんてんだ?なあ母さん」お父さんはそう言いかけてお母さんを見た。
お母さんは笑いながら言った。「真理雄は垂らしなんだよ。人間垂らし。この子が政治家になったら怖いね」漁師の妻らしい、ちょっと男気のある言い方でお母さんが答えた。
健治がお母さんに聞いた。「人間垂らしって、どんな感じですか?」
「真理雄は状況を読んで、冴子に近づく前に私達を取り込んだの。初めにお父さんを取り込んで、ある時からお父さんは真理雄をカワイイカワイイって言い始めて。次は私よ。私もカワイイカワイイって言い始めた。一生懸命で、真面目で、率直で、素直で。もう忠犬、ミニ芝って感じで抱きしめたくなっちゃう。最後まで抵抗していたのはたった一人、みっちゃんだけは簡単じゃなかったみたいね」その言葉を聞きながら、お父さんも首を縦に振っている。途中から話を聞いていたみっちゃんが言った。
「言い方悪いよ~お母さん。 僕は抵抗なんかしていないよ。でも僕には真理雄君がアンコウみたいに見えたんだよね~。アンコウの捕食みたいにさぁ~、アンテナを上手に振って僕たちの目を惹かせるんだよ~。でカワイイ良い子だなぁって思ったらパクって喰われるのは、見てたらわかるよ~。僕はアンテナを見ないで真理雄君を見ていただけさ~。それでサエちゃんが幸せになるならいいけどさ~。そうでないなら追い払わなきゃって思ってただけだよ~」みっちゃんらしい、わかりやすい例えだった。
僕は独り言のように言った。「真理雄はこの地区の、全員を捕食した。でよろしいですか?」そのテーブルにいた全員が笑った。
僕たちもおいしいご飯をごちそうになり、地域の人と色んな話をした。シーズンオフは漁師をしている?正しくは漁師が夏だけライフセーバーをしている隊長とも話をした。
僕が知らなかった響子コーチの面白い話も聞けたし、もっと突っ込んで聞きたくなる話も有った。
何より一番結婚と縁がなさそう、というか少なくても一番遅くに結婚しそうな真理雄が、18歳で学生結婚になるとは思ってもみなかった。
自分が婿養子となって苗字も変わるというのは、ちょっと凄い覚悟だ。僕も響子コーチが望むなら、苗字を変える覚悟はあるけど。
真理雄と冴子さんが、二人で僕たちのテーブルに来た。冴子さんが言った。
「悠太君、これからもよろしくね~。真理雄はこれから大変だから、みんなで応援していこうって話ているのよ」和装でも美人は美人だ。
「驚きました。僕ら3人とも、本当に何も聞いていなかったので。でも考えてみれば、なぜかここの子のようになっている真理雄がいた訳で。ああそうか。とも思います」
「そうだね~真理雄君は私のために、先に家族を説き伏せたからね~凄いよね~」最高にきれいな笑顔で冴子さんが言った。まんざらでもなさそうな顔で聞いていた真理雄が僕に言った。
「悠太君。で、相談ってなに?」
そうかと思いだして僕は言った。「なんかもうさ、どうでもよくなっちゃったけど。篤に言われてさ、僕の将来の目標を変えようかと思たんだ。実はマッサージ師をね……」できるだけ簡単にまとめて、今回僕がマッサージ師になろうと思った経緯を話した。
僕の目をしっかり見て、時に篤の目もじっと見ていた真理雄が言った。
「篤君が正しいともいえるし、悠太君が間違えているともいえるよね。篤君の理論は理論としてはアリだと思うよ。悠太君がずっと向かい合ってきたものだよ。響子コーチが喜ぶ事をしたい。響子コーチをって概念だ。でも響子コーチ云々はきっかけでしかなくて、もし響子コーチの存在を消して考えた時に、医療技師ではなくマッサージ師を選んだ事を是とできるか?ずっと前に百瀬コーチにも言われた事だよ。その先にある結果の責任を、響子コーチに背負わせない前提はあるのか?って」
一度言葉を止めた真理雄は、百瀬コーチの声まねをして言った。「悠太、お前はどう生きるんだよ?」冴子さん以外、僕と敦と健治は大笑いした。