Anonymous〜この世界にいない君へ〜

佳奈の話によると、泰造の妻は彼女が屋敷で使用人として働き始めた二年前に家を出て行き、それから一度もこの家に戻ってくることはなかったという。

「奥様は私がこの家で働くことにかなり怒っていましたから」

「えっ、どうしてですか？」

蓮が訊ねると佳奈は悲しそうに目を伏せる。

「奥様は私が旦那様に色目を使うのではと恐れていました。……きっと、過去に女性関係で揉めたことがあるのかもしれません」

それからは、誰も口を開くことなく泰造がいる応接室を目指した。長い廊下を歩くこと約一分、佳奈がある部屋の襖の前で足を止めた。

「旦那様、刑事さんたちが到着されました」

「ああ。入ってくれ」

佳奈が襖を開けると、柔らかそうなソファに泰造が座っていた。少し窮屈そうなグレーのスーツを着て、足を組んで新聞を読んでいる。

「お茶とお菓子をお持ちしますね」

佳奈はそう言い、紫月たちに背を向けて足早に去って行く。紫月たちは「お入りください。どうぞ座って」と泰造に声をかけられたため、応接室のソファに各々腰掛けた。