婚約破棄直前に倒れた悪役令嬢は、愛を抱いたまま退場したい

第四話 王子は瞳に囚われる


◇◆◇

 スティーブは、卒業パーティーでクロエとの婚約を破棄し、アメリアとの婚約を結ぶと宣言するつもりだった。
 しかし、婚約破棄を宣言する前に、クロエが倒れてしまった。
 彼女が倒れるなど予想外で、スティーブは狼狽える。

「……どうした? 同情でも誘うつもりか?」

 スティーブはアメリアの手をそっと自らの腕から外すと、クロエの元へ向かってその顔を覗き込む。
 そして。
 頬に伝うクロエの涙を見た瞬間、スティーブは衝撃を受けた。濁っていた彼の青い瞳は見開かれ、光を映す。

「クロエ……?」

 クロエは、ここ数年、涙を見せたことがない。それどころか、心からの笑顔も。
 幼い頃はよく泣き、よく笑う、可憐な少女だったのに……いつからだろうか。
 何故、彼女は本心を見せてくれなくなったのだろう。何故、婚約者である自分を頼ってくれなくなったのだろう。

(――私は、いつからそれを寂しく感じ、不満を覚えるようになってしまったのだろうか)

 スティーブは、頭を覆っていた靄が晴れ、次第に思考がすっきりするのを感じていた。
 しかし、揺らぐ心に思いを馳せている場合ではない。

「クロエ。クロエ!」

 彼女の身体を揺らすが、反応はない。

 クロエは、以前からこんなに痩せていただろうか?
 あまり根を詰めるな、と努力家の彼女にねぎらいの言葉をかけたのは、いつのことだっただろう。
 少なくともここ一年は……、と思ったところで、スティーブの頭に鈍い痛みが走る。

(――ここ一年、私は一体何をして、どのように過ごしていたのだったか……?)

 思い出そうとすると、頭によぎる暗い靄が邪魔をする。
 スティーブは、混乱する頭の中で、とにかく急いでクロエを医師の元に――そして自分自身も、医務室に行く必要があると判断した。

「彼女を医務室に運ぶ! 道をあけてくれ!」
「スティーブぅ。そんなの、全部他の人に任せればいいじゃなぁい」
「いや、私が――」

 その時。
 クロエを抱き上げようとするスティーブの腕に、アメリアが触れた。
 振り向いたスティーブは、彼女の紫の瞳に、囚われた。光を宿していた青い瞳は、再び暗く濁っていく。

(――ああ、彼女の瞳は、いつ見ても美しい)

 スティーブはその瞳をいつまでも見ていたかったが、目の前で気を失っているクロエを放置するわけにはいかない。

「しかし……」
「あなたが他の女に触れるところなんて、見たくないのぉ」

 アメリアは、スティーブに腕を絡める。青い瞳は、さらにどんよりと濁ってゆく。

「そう……か。なら、誰かかわりに、彼女を医務室へ」

 スティーブは、彼女の腕から、瞳から、抜け出せない。
 運ばれていくクロエを遠くから見送ると、彼は暗く濁った瞳で、アメリアに微笑みかけた。

 アメリアはスティーブの耳元に唇を寄せ、甘い声で囁く。

「ねえ、スティーブぅ。邪魔者もいなくなったしぃ、今日こそわたしを愛してほしいの……」
「すまない、アメリア。それは、できない」

 スティーブは、即答する。アメリアの表情が、醜く歪んだ。

「……ちっ。まだ墜ちないの?」
「今、何と?」
「何も言ってないよぉ」

 アメリアは再び可憐な笑顔を浮かべて、スティーブに頭を預けた。
 スティーブの頭には、一瞬、違和感がよぎったものの、すぐさま思考に暗い靄がかかる。違和感は頭の隅に追いやられてしまったのだった。
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