ずっと、この恋が終わるまで、きみのヒロインだと思っていた。
くちびるとくちびるが触れるまで、あと、髪の毛一本の隙間しかなかった。
近くで感じた息は熱を含んでいて、少しだけ、お酒の匂いがした。身体の奥底でわきたった血のざわめきが、頭蓋骨の内側に反響した。脳がじんと痺れて、眠るようにまぶたを閉じた。だんだんとかすんでゆく意識の中で、私は確かに、岬さんとキスをしてもいいと思った。けれど、できなかった。まぶたの裏に突然現れた凌一が、あの場所から私を連れ出してしまったから。
*
「ひかりちゃん、今日ね、午後から岬さんの予約が入っとるよ」
店長の彩さんからそう言われたとき、私は目を見ひらいた。岬さんとの関わりは、もう終わってしまったのだと思っていたから。あの日まで結構頻繁にやりとりをしていたアプリのトーク画面は、「こちらこそすみません」という私のメッセージで止まっている。
「二時にカットですね。わかりました」
パソコンの予約画面を見ながら、普段通りの声で言ったつもりだった。けれどもしかしたら、普段通りではなかったのかもしれない。彩さんがにやにやしながらこちらに寄ってくる。
「どしたん、岬さんと何かあったん? 何回かデートしたんやろ?」
「別っ、に、」
最悪。噛んだ。内心で焦りながら、「ないですよ」と返した。
「ふぅん」
と、彩さんはやっぱりにやにやしている。
「岬さんと幼馴染の子、天秤にかけよるの?」
「はあっ!?」
上司に向かって、遠慮のない声が出た。「すみません」と顔をしかめ、声のトーンを落とす。
「何でですか。彩さんも知ってるやないですか。凌一が結婚するの」
「でもさ、月9とかでよくあるやん。ギリギリになって気付くホントの気持ちとかそういうの」
顔をしかめたまま何も言えないでいると、
「ごめんごめん、あんま言ったらセクハラやね……ん、モラハラか?」
と、彩さんは私を解放した。
彩さんってばなんてことを、と開店準備を再開しながら思う。これから、凌一の婚約者の春奈さんと、フォトウェディングの打ち合わせをするのに。
「えっ、車の免許持ってないの?」
ブライダルルームに、春奈さんの高い声が反響した。春奈さんはくるんとした大きな目をもっと大きくして、鏡越しに私を見た。春奈さんは私よりひとつ年上の二十八歳だけれど、二十歳だと言われても信じてしまうくらいに可愛らしい顔立ちをしている。なんか、成人式の打ち合わせって感じもするなぁ、なんて思いながら、「そうなんです」と答えた。
「大体みんな、高校が自由登校になったら免許取るじゃないですか。でも私、誕生日が四月一日なんです」
「ああ、十八にならないと免許取れないから」
春奈さんは納得だという表情で頷いた。
「専門学校の間に取るつもりではいたんですけど、この辺、市電で動き回れるじゃないですか。別に不便さも感じなかったから、結局、ずるずる教習所に行かなくって。就職したら忙しくなったし……」
「そっか。だから買い物とかは、凌一と一緒に行ってるんだね」
何気ないような春奈さんの言葉に、どきっとした。
「すみません、足に使っちゃってます」
と、冗談めかして答えながら、首の後ろに冷たい汗がにじんだ気がした。
「全然いいよ。じゃあ、本番、よろしくお願いします」
春奈さんは何の含みも感じられない笑顔でそう言って、椅子から立ち上がった。さっぱりとした話し方は、「写真だけでいいよ。結婚式より、もっと実用的なことに百万使いたい」という言葉が、いかにも似合うなぁと思った。鏡の前のテーブル上にあるのは、ブライダル用のヘアカタログやウェディング雑誌。けっして、成人式なんかじゃない。
駐車場に出て、春奈さんを見送る。敷地を出る直前に、春奈さんは私に向かって会釈をしてくれた。私は大きく頭を下げる。顔を上げたとき、運転席の窓越しに見えた横顔の、鼻先から顎へと結ばれる完璧なEラインは、凌一と同じだ。
車が完全に見えなくなってから、ブライダルルームに戻った。美容室本体は二階で、ピロティタイプの駐車場のすぐ横に、独立してブライダルルームがある。中に入ると、すうっと汗が引いていった。八月はちょっと外に出ただけで汗をかく。部屋を片付け、壁にかかっている時計を見上げると、十二時少し前。あと二時間で、岬さんがやってくる。
岬さんは、きっかり二時にやってきた。私を認めると、「お久しぶりです」とやわらかに微笑んでくれた。私を見つめる瞳には、何のためらいも含みも感じられなくて、私は、肩や手のひらにこもっていた力を持て余す。「いつもありがとうございます」と頭を下げて、シャンプー台に案内した。
シャンプー後、セット椅子に移動した。「今日はどうされますか」と尋ねると、「お任せします」と返ってきた。いつもと同じやりとりだ。二十代後半がターゲットのメンズ雑誌を参考にしながら、夏らしい、少し短めの髪型を提案する。「じゃあそうします」と岬さんは微笑んだ。このやりとりも、いつもと同じものだ。
「あの、実はお願いがありまして」
岬さんが切り出したのは、ある程度、髪型ができたときだった。
「また、うちの雑誌に出てもらえませんか。読者モデルの子が、美容室やエステを体験するってコーナーがあって、工藤さんに施術をお願いできたらと思っているんですけど」
岬さんはタウン誌の編集者だ。私がいったんシザーを置くと、岬さんは言葉を続けた。
「店長さんにも、少しお話してるんです。工藤さんが大丈夫なら、会社から正式に依頼をかけます」
話を聞いてみると、以前受けたようなロングインタビューではないらしい。少し考えて、「私でよければ」と答えると、「ありがとうございます」と岬さんは、ほっとしたような顔をした。私はカットを再開する。
「わざわざ、それを言うために来てくださったんですか。電話でも全然……」
「いえ。そろそろ工藤さんに髪を切ってもらいたかったんです。でも、」
岬さんは一旦言葉を切った。数秒の間があって、苦笑交じりの声が続いた。
「実は、この話は口実なんです。仕事だって言い聞かせないと、顔を合わせる勇気がなかったから」
どくん、と心臓が音を立てたのが分かった。
「この前は、すみませんでした」
「いえっ、そんな、謝られることじゃ……だって、」
――あのキスは、私も受け入れるつもりだったから。
そう言おうとした。けれど、鏡に反射する光が明るい。隣のセット面からは、後輩の玲香ちゃんと、常連の坂口さんが話している声が聞こえてくる。からからに乾いた喉から、辛うじて、「その、私こそすみません」なんて言葉を引っ張り出した。――でも、どうしよう。これじゃ、岬さんが悪いことをしたみたい。
「工藤さん、シャインズ。連敗、抜けましたね。よかったですね」
「あっ、はい……っ、そうなんです」
岬さんは、優しい人だ。「ルールは分かる」と言っていた野球について、まるで同じシャインズファンのように話題を広げてくれる。前に、「優しいですね」と言ったら、「優しいというより、ただの仕事のスキルですよ」と返された。けれど、そんなことは決してないと思う。あとはシャワーで髪を流すだけ、というところまで順調に施術が進んだ。今は私の方が仕事中だというのに、岬さんの優しさに甘えてしまったことがふがいない。わずかに顔をしかめながら、シザーを置いたときだった。
入店のベルが鳴った。
「えっ、工藤さん、いるじゃないですか」
入ってきたのは、ふだん私が担当している浅井さんだった。ハイヒールをかつかつと鳴らしながら、浅井さんは私の方にやってくる。私が身体を強張らせると、彩さんが私と浅井さんとの間に滑り込んだ。
「浅井様、いらっしゃいませ」
「いやあの、工藤さんいるじゃないですか。さっき、工藤さんの予約は取れないって言いましたよね?」
「二時ですと、工藤は他のお客様の予約が先に入っておりましたので」
彩さんはあくまでも冷静に返すが、
「でも私、いつも工藤さんなんですけど」
と、浅井さんが声をとがらせる。さらにこちらに視線を向けられて、私は息を呑む。それとほぼ同時に、袖が軽く引かれた。岬さんだった。
「僕、もう髪を流すだけですよね。どうぞ、あちらの方をやってあげてください」
そう耳打ちされ、積み重なるふがいなさに眉根を寄せながら、「すみません」と深く頭を下げた。
岬さんのおかげで何とか事なきを得た――かと思ったものの、シャンプー後のヒアリングで、浅井さんはまた声を尖らせた。
「でも、どうしてもこの色がいいんです」
浅井さんのスマホに表示されているのは、赤みがまったくないアッシュカラー。ブリーチで髪の色素を抜いたあと、さらにカラーを入れるダブルカラーでないと出せない色だ。当然髪へのダメージが大きくなるけれど、浅井さんの髪にはすでにかなりのダメージが蓄積されている。これ以上髪にダメージを重ねるのは望ましくないこと、無理にダブルカラーをしても色落ちがかなり早くなることを何度も説明する。代替案としてワンカラーで近い色味が出せるカラー剤の提案もした。それでも浅井さんは納得しない。結局、岬さんの髪を乾かしている彩さんに相談し、髪へのダメージと色落ちの速さを了承してもらった上で、ダブルカラーを施術することになった。
ブリーチの用意をしているときに、お会計をしている岬さんと目が合った。すみません、と口を動かし、頭を下げる。岬さんからは、微笑みと会釈が返ってきた。
その日の帰宅途中、市役所前の通りで凌一と出くわした。何なの追い打ち? とげっそりしながらも、マンションまで車に乗せてやるという申し出は素直にありがたかった。重い足をひきずりながら助手席に乗り込む。
「何買ったん?」
私が持っていたドラッグストアの袋を見て、凌一が訊く。「二重テープ」と答えると、凌一は訊いてきたくせに、「ふーん」と気のない相槌を返してきた。
「生命線なの」
私は口をとがらせる。
「もともと二重の人には分からんやろうけど」
言いながら、凌一のくっきりとした二重の線を恨めしく見つめたとき、突然、身体の中心に氷のかたまりが落ちてきたような心地がした。心臓が低い音を立てて、びくっと肩を竦める。そうして気付く。春奈さんのまぶたも、くっきりとしたきれいな二重だった、と。――でも、どうしよう。もう、車に乗ってしまった。
「春奈、どうやった?」
追い打ちをかけるように、凌一が訊いてくる。私は小さく息を吸い、自分の膝に視線を落とす。
「大人っぽい雰囲気にしたいって。でも春奈さん、顔立ちが可愛い系やけん、どうしようかなぁって」
「あいつ、童顔なの気にしよるけんなぁ」
凌一が、ふっと息をもらす。自分が今、とても甘い声を出していることに、きっと凌一は気付いていない。
「ま、なるべくでいいけん叶えてやって」
「いやそれは、ちゃんと満足してもらえるようにするよ」
「へえ、頼りにしてるぜ。天才メイクアップアーティスト様」
「ちょっ、」
私は顔をしかめる。『天才メイクアップアーティスト』とは、前に岬さんの取材を受けたとき、雑誌に掲載された記事のタイトルだ。ヘアメイクコンテストの全国大会で優勝したことについての記事だったためそんなタイトルになってしまったのだけれど、ことあるごとに凌一はそれでからかってくる。「あー、もー」と私がうなると、凌一は目尻にくしゃっとしわを寄せて笑った。その笑顔を瞳に映すと、喉の奥が、ぎゅっと締め付けられたように苦しくなった。私の内心なんてまったく知らない凌一は、
「そういえば、編集者、どうなん? 付き合っとんの?」
と、訊いてくる。今思い出したように何気ない調子で。――違う、『ように』じゃない。凌一は本当に今思い出して、本当に何気なく訊いているだけだ。
「付き合っとらんよ」
「へえ、そうなん? 何やらかしたん?」
「何でよ」
半笑いの凌一を横目で睨むが、前を向いて運転をしている凌一には伝わらない。「え、違うん?」などと追加でからかってくる。
「何も、」そう呟いて、凌一から視線を外した。前の車が、ライトを点灯させて左に曲がった。目の前に、真っ直ぐな道路が広がる。「……してないし」
「何だ。ついに彼氏ができたんかと思ったのに」
凌一が軽く笑ったそのとき、交差点を曲がってきた選挙カーが、後ろについた。「みさき太一、みさき太一です」ウグイス嬢の高い声が、私を追いかけてくる。みさきみさきって、何なの、選挙カーまで追い打ち?
私が眉根にしわを寄せると、「ごめんって」とまったく悪びれない声で、凌一が謝ってきた。
マンションのベランダは、部屋と部屋とを隔てる壁が、欄干の分だけ隙間がある。だから顔を覗かせれば、会話をすることができる。私のお父さんと凌一のお父さんは、週に何度も、電車のダイヤがどうとか連結がどうとか、マニアな話をしている。凌一は就職を機にマンションを出たけれど、私たちも学生の頃は、ベランダでよく話をした。もちろん、電車の話ではない。学校の宿題についてだとか、クラスであった出来事とか、結構頻繁に替わっていた凌一の彼女についてだとか。
欄干に腕をかけて、ぼんやりと空を見つめ続けた。夏の夜風は、温くて湿っぽい。その上、エアコンの室外機も熱のこもった風を足に吹きつけてくるから、身体全体がじっとりと汗ばんできている。
左側から、かちゃりと鍵のひらく音がした。「お、ひかり」と少し驚いた様子の凌一は、電子タバコを左手に持ち替える。色のない煙を吐く凌一に、ちらりと視線を向けた。
「今日、こっち泊まんの?」
「おう。咲都子と一緒に寝る」
「うわ出た、シスコン」
「はぁ? 咲都子は可愛いやろ」
そう返されれば、黙り込むしかない。凌一の十八歳下の妹、咲都子ちゃんは確かに可愛いからだ。
「あーそういえば、合唱コンクールの日、咲都子の髪やってくれたんやろ? サンキューな、さっき写真見たけどめっちゃ可愛かった」
「あぁ……。いーよ、喜んでもらえて私も嬉しかったし」
「おー、めっちゃ喜んどった。ピアノの発表会のときもやってもらう約束したって」
そうだ、約束しちゃったけど、と薄い光を降らせる星を見上げながら思う。私が咲都子ちゃんと仲良いって、春奈さんからしたらあんまり気分の良いことではないかもしれない。でもピアノの発表会は二月だって言っていたから、凌一の入籍より後だ。だったら大丈夫かな。いや、余計に駄目なのかな。――ていうかそもそも、春奈さんはそんなこと気にしたりしないのかな。
「何しよったん? ここ、暑いのに」
凌一の声に意識を引き戻される。「いや別に」といったん答えたあと、
「空を見よったの。今日、ブラックムーンやけん」
と、ニュースサイトでたまたま見た情報を付け加えた。
「へえ、月に二回、新月があるってやつ?」
特に興味がなさそうに、凌一は電子タバコを咥える。
「何かあったん?」
突然、凌一が優しい声を出した。「え、」と私が訊き返すと、
「車でも、アホみたいに疲れた顔しとったやん」
と、言葉が続けられた。
凌一は、私の表情の違いによく気付く。中学生の頃、凌一に初めて彼女ができたときもそうだった。私は目を伏せて、「今日、浅井さんが来たから」とだけ言った。
「あぁ、市議会議員のお嬢様」
凌一に、職場であったことを話せる部分だけ話すと、
「お前も面倒なのに気に入られたよな。出禁にできんの?」
と、凌一は眉根にしわを寄せる。その表情を見ながら、私は小さく息を吐いた。凌一が、私に春奈さんのヘアメイクを依頼してきたときのことを思い出す。凌一は、とてつもなく言いにくそうに話を切り出した。「ひかりちゃんがあんたのこと好きやったら可哀そうよって、母さんは言うんやけど」――言いにくそうに言ってきても、言ってくる時点で、本当にそうだなんて凌一は思っていない。
自分の部屋に戻ると、ベッドへ後ろ向きに沈み込んだ。まぶたの上にのせた手の甲がきらめくのは、アイシャドウのラメのせい。今さら、泣いたりなんかしない。
凌一の初めての彼女は、学年で一番人気の女の子だった。目がぱっちりとした子で、まぶたに刻まれた二重の線がきれいだった。泣いて腫れた目を鏡で見たとき、厚ぼったい一重まぶたが嫌だと思った。それまで全く気にしたことがなかったのに、そのときに初めて、変わりたいと思った。
私は今、メイクで二重まぶたになっている。でも、だからといって凌一の幼馴染以外の何かになれるわけじゃない。
「岡江くんと幼馴染なんてラッキーやん」って、中学でも高校でもよく言われていたけれど、現実の幼馴染なんて、ドラマやマンガに出てくる甘酸っぱいものとは全然違う。
*
次の休みは、夏未に会った。夏未は高校の同級生だ。地銀の総合職をしていて、今は高知の支店に配属されている。本社出張で松山に来るというので、仕事後に会うことになったのだ。場所は、何度か来たことのあるカジュアルイタリアンのレストランだ。適当に近況なんかを伝え合っていると、夏未が今度合コンをするという話が出た。私は首を傾げる。
「前に言ってた、よく遊びよるって人は?」
「ああ、まだ遊びよるよ」
「え、じゃあ合コン行ったら駄目やないの?」
指摘してみるが、「えー全然大丈夫。別に付き合ってるわけやないし」と夏未の方は平然としている。
「そうなん?」
「そうそう。全然、いつでも切れるし」
「そうなんだ」と一旦は頷いたものの、うーんとまた首を傾げた。夏未の顔をちらりと見るが、気後れして、サラダの中の、紫色の葉っぱをフォークですくって口に入れた。少し苦いけれど、柔らかくて美味しい。葉っぱを飲み込むと、意を決して訊いてみる。
「その、友達? ……と、身体の関係があるのかと思いよったんやけど」
私の方は声を潜めたのに、夏未は普段通りのボリュームで、「ああ、あるよ」とあっさり頷いた。私の方が慌てたけれど、よく考えてみれば、「ああ、あるよ」だけだったら、他の人に聞こえたって何の問題もない。大丈夫だ、と思い直す。
「何か……、大人の関係なんやね」
「別に? 普通やない?」
にべもなく言って、夏未も紫色の葉っぱをフォークで刺した。
「それ、ちょっと苦いけど美味しかった」
「何だっけ……トレビス?」
夏未は葉っぱをちらっと見て、口に運んだ。「うん、そうだ」と夏未が頷いたので、この葉っぱはトレビスというらしい。
「ああそうだ、合コン、もう一人探してるんだけど、ひかりも来る?」
当たり前のように訊かれて、「えー何でよ。わざわざ愛媛から」と半笑いで返す。
「だって、彼氏おらんのやろ。出会いは大事よ?」
「そんなん愛媛でいいやん。わざわざ高知に行かんでも」
「でも、愛媛で出会えてんの?」
ぐっと言葉に詰まったとき、岬さんのことが頭に浮かんだ。そういえば、夏未には岬さんのことを言っていない。私だって一応――そう思って、口をひらこうとしたとき、突然、くちびるにかかった岬さんの息の温度を思い出した。瞳が小刻みに揺れたのが自分でも分かった。夏未はそれをどう解釈したのか、急にものすごく優しい顔になって、「岡江のこと、まだ好きなん?」と訊いてきた。
「……何でよ。凌一、結婚するって言ったやん」
動揺が身体の中心からあふれてきて、咄嗟にグラスを掴んだ。手に触れた冷たさにはっとした。なるべく自然に息を吐いて、肩の力を抜くと、普段と同じ動作で水を飲む。冷えた水が、熱を持った中心に落ちてゆく。――いや何でよ、収まってよ。
「いっかい好きって言ってみたら?」
夏未は私がまだ凌一を好きだということを決定事項として話を進める。中途半端にひらいた口をどうにもできずにいると、夏未はさらに追い打ちをかけてくる。
「意外といけるんじゃない? ひかりと岡江は結局付き合うもんだって思ってたし。あんたたち、ザ・幼馴染って感じやし。漫画とかドラマのド定番でしょ。そばにいすぎて気付かなかった愛? みたいな? 大体くっつくやん、幼馴染って」
「いやでも、凌一はもう結婚するんよ」
話の切れ目にようやく言葉を挟むと、「ギリギリまだやん?」と即座に返ってくる。
「でも、」
違うのだ。私と凌一は、漫画やドラマに出てくるようなそんな関係とは明らかに違う。私が岬さんと出かけているのを知ったって、凌一は何も、ひとつも、戸惑いがなかった。そばにいすぎて気付かないだとか、そんな風には思えなかった。けれどきちんと説明できる言葉が見つからなくて、夏未には、「現実はそんなんじゃないよ」としか言えない。からからになった喉にグラスの水を流し込むと、下腹部がきりりと痛んだ。そろそろ生理がくるかもしれない、と思いながら、眉根を寄せる。夏未は、「ま、あくまで私の考えよ」と笑うと、話題を切り替えてくれた。
私は、生理痛が重い方だと思う。
ドラッグストアで医薬品のコーナーを目指しながら、昨日夏未と別れたあと、ここに寄ることを思いつかなかった自分を呪う。薬が切れているのは、先月から分かっていたことなのに。腰を襲う痛みに顔を引き攣らせながらも、何とか目当ての薬を手に入れた。小さく息を吐いて、レジに向かおうとしたときだった。
春奈さんがいた。同じ通路の、少し離れたところで、棚をじっと見つめている。ためらいがちに棚へと伸びた指が、何かの商品に触れたとき、春奈さんがふっとこちらを向いた。視線が重なった。
「ひかりちゃん」
「あっ、こんにちは!」
へらっと笑いながら、まるで今気付いたみたいな風を装って春奈さんに近付いていく。春奈さんは、手が触れたばかりのものを反対側の手に持っていたカゴへと落とした。プラスチックの青いカゴの中に隠れるまでの一瞬に、パステルピンクの平たい箱が見えた。春奈さんが立っている横の棚を確認する。目線の高さにずらっと並んだ避妊具。その少し下、端の方に置かれているパステルピンクは、やっぱり、妊娠検査薬だ。
春奈さんは、困ったような笑みを浮かべながら、目を伏せた。
「違うかもしれないし、分からないから、……凌一には言わないで」
私の視線の流れに、春奈さんは気付いていた。「はい」と頷く声が掠れた。私の視線は、すごく不躾だったはずだ。それなのに春奈さんは明るい声で、「仕事終わり?」と話しかけてくれた。それどころか春奈さんの方が、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。すみませんなどと謝るのも余計に不躾なようで、「そうなんです」と何事もなかったかのように言葉を返す。
少しだけ立ち話をして店内で別れるつもりだったのに、春奈さんがマンションまで送ってくれることになった。車の中で、春奈さんがシートベルトを締めるとき、思わずお腹を見てしまった。慌てて視線を逸らして、それを自分の膝の上に落とす。お腹が痛い。腰が痛い。自分の身体の奥底から込み上げる鈍い痛みを意識したら、喉の奥の方までもが痛くなってきた。息の仕方が、急に難しいことのように思えてきた。
「大丈夫? 具合悪い?」
春奈さんの声が、とても優しい。
「いえ、生理なんです、……あはは」
大丈夫。笑うときに眉間にしわが寄っていたとしても、それは、生理痛が苦しいから。
「あぁそっか。重い人は大変だもんねぇ」
「薬飲めば全然平気なんですけど、切らしてて、今買ったんです」
「そうなんだ。あっ、じゃあちょっと待って」
春奈さんは、締めたばかりのシートベルトを外し、後部座席に身を乗り出した。動きを追うと、エコバッグの中から、五〇〇ミリリットルのペットボトルが取り出された。
「ちょっと温くなったかな? ……炭酸大丈夫?」
最後の問いに頷くと、「じゃあ、あげる」とペットボトルを差し出された。無味の炭酸水だった。
「あんまり変わらないかもしれないけど。ちょっとでも早く薬飲んで」
私が恐縮すると、春奈さんは「いいの。そこのスーパーで安売りしてたからまとめ買いしたの」ともう二本、同じペットボトルを見せて笑った。
私が薬を飲むのを見届けてから、春奈さんは車を出した。「夕方はちょっと涼しくなってきたね」と春奈さんが言って、「はい、夕方は大分過ごしやすいですね」と私が返した。市電で三駅分の距離は、車では五分とかからない。けれど、春奈さんと私との、目的のない会話はどこかぎこちない。少しだけ、時の流れが遅くなったような感じがした。それはたぶん、春奈さんも同じだ。
春奈さんを見送って、エントランスに入った。オートロックを解除するための暗証番号を入力していたら、突然、伸ばした腕に水滴が落ちた。それを映す視界も、虫眼鏡を通したようにぼやけて、ぐにゃりと歪んだ。ゆっくりと、自分の頬に指を伸ばす。確かな水の感触があって、私はその場にしゃがみ込んだ。
翌朝、洗面台の鏡に映った自分の目の下には、これまで見たことのない濃いクマができていた。これはいつものコンシーラーでは消えない。頭の中心が麻痺したような、ぼんやりとした意識の中でそう思った。洗顔を済ませて、お母さんが用意してくれていたトーストを食べて、メイクに取り掛かった。ほとんど使っていないオレンジのリップをコンシーラー代わりにして、クマはなんとかカバーできた。最後に、生理痛の薬を飲んだ。これで、今日は痛みに苦しむことなく働ける。今日は、以前岬さんに依頼されていた取材だ。
取材は、最近お店に導入した新しいカラー剤を、読者モデルの子が体験するという内容だった。モデルは、子犬のように可愛らしい学生さんだった。学生さんのインタビューが終わると、私の番になった。玲香ちゃんが、ブローに使ったドライヤーとロールブラシを片付けに来てくれた。「ありがとう」と声を掛けると、玲香ちゃんは微笑む。改めて、岬さんに向き直った。「お客さんの反応はどうですか」と訊かれた。質問の内容はあらかじめ教えてもらっていたので、用意していた答えを述べる。取材は穏やかに進んでいき、問題なく終わるかと思われた。
入口のドアが荒っぽくひらいて、入店のベルが高い音を立てた。中にいた誰もが、音をした方を見た。そこに立っていたのは、眉をいっぱいいっぱいにつり上げた浅井さんだった。
「工藤さんっ」
浅井さんは声を荒らげ、こちらにやって来る。私は椅子から立ち上がり、「どうされましたか?」と緊張した声で尋ねる。浅井さんはいらだった様子で、「見て分かりません?」と顎を上げた。
「この髪、毎日毎日色が変わって、こんな色になったんですけど」
浅井さんの髪の、根元から毛先までしっかりと目線を流す。全体がレベル十八くらいの明るい金髪になっていて、毛先が明らかに広がっている。
「色落ちとダメージについては、施術前に、私と彩さ……宮道から、あらかじめ申し上げております。それにご同意いただい上で、施術をさせて、いただきました」
「でも、こんなになるなんて思わないじゃないですか」
私は震えそうになる声で、「精一杯、説明はさせていただきました」と返す。
「でも、私にちゃんと伝わってなかったってことですよね? それって説明不足だと思うんですけど」
浅井さんの口調は鋭い。「すみません」と反射で言ってしまいそうになった。けれど、彩さんの毅然とした対応を寸前で思い出した。口を半端にひらいたままの情けない顔で固まりながら、駄目だ、と咄嗟に思った。――駄目だ、私が謝ったら、うちのお店が悪いことになる。横目で、玲香ちゃんが休憩中の彩さんに電話をかけているのが確認できた。息を吸い、「できる限りの説明を致しました」と返す。
「じゃあ技術不足ですか? こんなになるなんてありえないですよね? 『天才メイクアップアーティスト』って言ってもこんなものなんですね」
その言葉にくちびるをかんだとき、玲香ちゃんが私と浅井さんとの間に割って入った。
「店長が対応させていただきますのでっ!」
玲香ちゃんは浅井さんにスマホを差し出したけれど、その手は乱暴に払われた。
「工藤さんと話したいんです」
浅井さんが、私を睨みつける。
「施術は、精一杯させていただきました」
震える声で返すと、呆れたように笑われた。
「技術が足りてないからこうなってるんじゃないですか。明後日、父の後援会のパーティーがあるんです。こんな派手な髪じゃ参加できません。父に相談したら、弁護士さんを立てるとも言ってます。そんな大事にはしたくないから、今日来たんですけど」
私は息を呑む。「サービスでカラーの直しと、ダメージが治るまでトリートメントとかできないんですか?」重ねて詰め寄られて、――どうしよう。どうしようどうしようどうしよう、と頭の中がぐちゃぐちゃになる。そんなこと私が勝手に決められない、でも弁護士さんってどうしよう、私の給料から天引きでサービスするとか――そこまで考えが至ったそのときだった。
「髪が傷んでもいいし、色が抜けてもいいからどうしてもこの色にしたいって仰っていたのを、僕も聞いていましたよ」
穏やかな声を発したのは岬さんだった。「工藤さんがダメージの少ない方法を提案しても、痛みと色落ちなんて気にしないから、と仰ってましたよね」と続ける岬さんを、
「誰ですか、何ですか急に」
と、浅井さんが睨む。岬さんはそれをまったく意に介さず、にこやかに笑う。声と同じ、穏やかな笑みだった。
「これは失礼致しました。岬拓真と申します。浅井市議のお嬢様でいらっしゃいますよね? 浅井市議につきましては、みさき太一の後援会に入ってくださっていましたね。みさき太一をご支援頂き、誠にありがたく思っております。先日いらしていたとき、実は僕も隣におりまして」
浅井さんが目を見ひらいた。私も目を見ひらいた。みさき太一、――県知事選に出馬中の、現職の知事だ。
浅井さんが、何かを言おうとしている。くちびるをひらいて、閉じて、とそれが何度か繰り返されたけれど、言葉が発されることはなかった。かつかつと響くヒールの音。浅井さんは、傷んだ髪をなびかせ、出口に向かっていく。玲香ちゃんがその背中に声を張る。
「店長の宮道からです。浅井様、今回の従業員への暴言、および度重なる予約時間からの遅刻、無断キャンセルがございましたので、今後、当店のご利用はお断りさせていただきます、と」
言葉の途中で、ガチャン、と荒っぽい音がしてガラス扉が閉まった。
「す、……みませんっ。お騒がせしました」
岬さんと、呆気に取られている学生さんに頭を下げる。膝に手をつきながら、自分の息が上がっていることに気付いた。首の後ろには、大量の汗がにじんでいる。足元がふらついて、私はその場にしゃがみ込んだ。
岬さんは会社に電話をかけると、学生さんを先に帰した。「大丈夫ですか」と岬さんに顔を覗き込まれ、力なく頷く。彩さんとの電話を終えた玲香ちゃんに「椅子に」と促され、岬さんに腕を支えられて椅子に座った。
「岬さんって、知事の息子さんだったんですね」
遠慮がちな声を出したのは玲香ちゃんだ。
「いえ、違いますよ」
「えっ」と、玲香ちゃんと私の声が重なった。
「知事は、三つの崎で三崎ですから」
そう穏やかな声で言われて――そういえば、選挙中は名字がひらがなだけれど、ニュースなんかで見る知事の名前は「三崎太一」だった気がする。呆気に取られている玲香ちゃんと私に、「県政を指揮しているのは知事でしょう? 県政への協力について、僕は一県民として、お礼を述べたまでです」と岬さんは微笑む。
「それにしても、随分とお父様の地位に自信を持っていらっしゃる方でしたね。あんなに自信満々に振りかざされたら、店長さんも対応が大変だったでしょう」
確かに、彩さんは精一杯毅然とした態度を取っていたけれど、浅井さんの対応に苦慮していた。遅刻や無断キャンセルを理由に何度も入店拒否をしようとすると、そのたびにお父さんの人脈をちらつかされるなどしていたから(たとえば美容室は保健所の管轄だけれど、お父さんは保健所に知り合いがいるだとか)。浅井さんがそうまでしてうちのお店にこだわっていたのは私が雑誌に紹介されたからだろうけれど、私は彩さんたちの協力があって賞が取れただけで、そこまですごい美容師だというわけではないのに。
浅井さんが出て行ってから十分ほど経って、彩さんが息を切らしてお店に戻ってきた。
「ひかりちゃん大丈夫やったっ?」
「はいっ、すみません。休憩中に」
「そんなん違うんよ、ごめんね、ひかりちゃんに対応させて。玲香ちゃんも」
「店長もひかりさんも悪くないです! 悪いのは浅井さんです!」
玲香ちゃんが語気を強めて首を振る。私も首を振った。
「私は何も、……岬さんに助けてもらったので」
と、視線を少し伏せる。
「本当に、お客様なのに何度もご迷惑をおかけして申し訳ありません」
彩さんが深く頭を下げるのにあわせて、私と玲香ちゃんも頭を下げる。
「いえいえ、とんでもないです」
岬さんからは恐縮したような――けれどやっぱり穏やかな声が返ってきた。
そのあと、彩さんと岬さんが何やら話を始めた。もしまた浅井さんが何か言ってきたら知り合いの弁護士――三崎知事の本物の息子さんだという――を紹介する、と岬さんが言っていて驚いた。
今日は平日で、この後は予約が一件だけだ。彩さんが、「今日はもう上がってもいいよ」と言ってくれたので、甘えることにした。
岬さんが、マンションまで送ってくれることになった。お店を出て、岬さんの後ろについて階段を下りた。促されるままに助手席へと乗り込んでから、岬さんにきちんとお礼を言っていないことに思い至った。
「あの、ほんとに、ご迷惑おかけしました。助けてもらって、ありがとうございます」
「いえ、僕は大丈夫ですが、……本当に、大変でしたね」
岬さんの視線は、私を優しく労わるものだった。
車の中では、シャインズの話をした。昨日、一位のチームとの直接対決に勝ち、0.5ゲーム差に迫ったところだ。明日の試合で勝てば一位になれる。嬉しそうにその話を振ってくれた岬さんは、やっぱり優しい。
あっという間にマンションに着いた気がする。お礼を言いながらシートベルトを外そうとしたとき、
「今度、一緒に食事をいかがですか?」
と、遠慮がちな声がかかった。シートベルトを握ったまま私が返事をできないでいると、「あの、全然断ってください」と岬さんは苦笑する。
「きっと今、工藤さんは僕に恩を感じてます。だからって、無理に行かなくていいです」
私は、岬さんの目を見た。視線が重なった瞬間、岬さんは瞳を揺らめかす。
「すみません、今は卑怯なタイミングだって分かってるのに、言ってしまいました」
岬さんは、どこまでも誠実で優しい。小さく息を吸ってから、「私でいいなら」と返事をする。岬さんは驚いた顔をしたあとに、「それは、もちろんです」とほっとしたように笑った。
*
お店の定休日の第三日曜日が、岬さんとの約束の日だった。大街道周辺の駐車場は、どこも混みあっていた。日曜日だからかと思ったら、それだけではないらしい。「昨日と今日、お城でイベントがあってるんです」と岬さんが言った。
「そういえば広報で見たかも。昨日、お城が緑になってたのはそれでだったんですね」
「はい、今日も特別ライトアップが行われるみたいですよ」
岬さんは、昨日、イベントの取材に行っていたらしい。中秋の名月にちなんだイベントということで、お城のライトアップ以外にも、舞や、ダンスの披露、芋炊きなどの食事のふるまいもあるとのことだ。
空いている駐車場をどうにか見つけた。人波を抜け、岬さんに連れられて入ったのは、和食のお店だ。時間が早かったため、店内は比較的空いていた。以前、取材で来て美味しかったとのことで、どの料理もしっかりと出汁がきいた優しい味だった。
お店を出たのは、七時を少し過ぎた頃だった。駐車場まで歩きながら、「すみません。お酒、無理に飲ませてしまいましたか」と不安そうに訊かれた。私は大きく首を振る。
「いえっ、そんなことないです。久しぶりに飲んだからいい気分です。ていうか、私ばっかり飲んですみません」
「いえ、それはいいんですよ。ただ、」
岬さんは、そこで一旦言葉を切った。
「白状すると、お酒が入ってた方が許してもらいやすいかなぁって、ちょっと卑怯なこと考えてたから」
しばらく、沈黙があった。「あの」と岬さんが次に口をひらいたとき、反射的に耳を塞ぎたくなった。
「僕、工藤さんが好きです。仕事に対する一生懸命な姿勢がすごいなって、最初は尊敬みたいな感情だったんですけど。一緒に出かけて、可愛らしい人だなって思ったりして、だんだん、好きになりました」
まっすぐに目を見て言われた。瞳に込められた意思が強くて、私はたまらなくなって視線を落とす。
「無理矢理キスをしようとしたことが、伝えれば帳消しになるなんて思っていません。でも、叶うなら、どうか許してください。そして、もう一度、デートをしてくれませんか」
岬さんが頭を下げる。「やっぱり、今日言うなんて、僕はやっぱり卑怯ですね」――そう言いながら顔を上げたとき、岬さんは、瞳に悔しさをにじませていた。
どうして、私は岬さんに謝らせているのだろう。
「ち、がいます……っ、岬さんは悪くないです。あのとき、私も、」
喉の奥が苦しくなった。小刻みになる呼吸の合間を探して、言葉を挟み込む。
「私も、キスしていいと思ってた。するつもり、」
あのとき、私を捉えた凌一の瞳が、今ここでも私をまっすぐに射抜いた気がした。けれど、今、私を見つめているのは岬さんだ。そうだ、あのときも。まぶたをひらいたとき、目の前にいるのが岬さんであることが信じられなかった。凌一でないことが、信じられなかったのだ。
「するつもりだったのに……」
視界がぼやけて歪んだから、私は泣いているのだと分かった。俯き、頬をこすった。「ごめんなさい」と呟いた声は、岬さんまでちゃんと届いたか分からない。
「幼馴染の方(かた)ですか」
岬さんの言葉に、俯いたまま、目を大きくひらいた。
「マンションが隣の幼馴染がいるって言ってましたよね。前に、ショッピングモールで、多分その人なんだろうなって方と一緒にいるところを見たことがあります」
そう続けられた岬さんの言葉で思い知った。私の気持ちは、私の中にしまいきれていないのだ。言葉遣い。声の高さ。息の出し方。眉の動き。瞳の揺れ方。頬の緩み方。きっと私が行う動作の全てが、凌一への感情を示している。愕然とした。これからも、私はそうやって過ごしていくのだろうか。同じ言葉で、同じ仕草で、同じ顔で。凌一が春奈さんと結婚して、ふたりの間に子供ができたとしても。ずっと、凌一だけが気付かないままで。
「大丈夫です。その方に気持ちがあるのなら、僕のことは遠慮なく振ってください」
岬さんの声は優しい。けれど優しい声で、どうしても私に認めさせようとする。やめて。やめて。やめて。やめて――
「駄目なんです……っ」
発した声は、ほとんど叫び声だった。自分の声が鼓膜を激しく震わせた瞬間に息を呑んだ。岬さんを見上げて、「ごめんなさい」と茫然と呟く。「僕の方こそすみません」と、また岬さんが謝った。「違うんです」と、私は大きく頭を振った。
「凌一は、もう、結婚するから」
さらにもうふたつ、涙が頬を伝った。どうして泣くの、と口の中で呟く。凌一が結婚することなんて、何ヶ月も前から分かっていることなのに。春奈さんとフォトウェディングの打ち合わせをして、そんなこと、もうちゃんと分かっていることなのに。そうだ、あの日も。生理痛の薬を買いに行ったあの日、私は、どうして泣いたの。自分に問いかける。そうして、パステルピンクの箱に触れた白い指先と、困ったような微笑みがまぶたの裏によみがえったとき、ようやく気付いた。
「……デート、ホテルじゃ駄目ですか?」
見上げた岬さんの目は、大きく見ひらかれていた。岬さんが、くちびるをひらく。けれど、何も言わずに閉じられた。見ひらかれていた目も、一旦閉じた。それがひらいて、もう一度私を見つめたとき、岬さんは優しさと悲しさをないまぜにした瞳で微笑んだ。その瞳に捉えられたとき、私のくちびるは小刻みに震えた。
「わ、私、岬さんのこと、好きじゃないし、二十七歳なのに初めてです。それでも、いいなら……」
言いながら、何てひどいことを言っているのだろうと思った。私を好きだと言ってくれた岬さんに、何て仕打ちをしているのだろうと思った。――いいわけないですよね。そう言おうとしたとき、「分かりました」と、掠れた声が耳に届いた。
「僕は、構いません。工藤さんが、……それでいいなら」
私は、岬さんの瞳を見返した。私の方には問題なんてない。付き合っている人はいない。生理も、昨日終わった。だから、問題なんて、なんにもない。
初めて入ったラブホテルの室内は、想像していたように、ピンクや紫色であふれていたりはしなかった。ホワイトとグレーのツートンの壁紙に、黒で統一された家具類。デザイナーズマンションの一室にも思える。それでもやっぱり、普通のホテルと比べたらどこか違和感があった。その正体に気付いたのは、バスルームのガラス扉を見たときだった。――そうだ、この部屋には、窓がない。
シャワーを終え、着てきた服をもう一度着るべきかどうかしばらく迷った挙句、下着だけを着けて、脱衣所に備えてあった、シャツワンピースのようなパジャマを羽織った。ボタンを一番上まで留めて鏡を見たとき、目の下にできている濃いクマに、あ、と息を漏らした。クマだけじゃない。まぶたにどうにか残った二重の線は左右が不揃いで、眉毛は短くなっている。チークで作った頬の血色も、リップとグロスで作ったくちびるのツヤも、全部なくなっていて、顔全体がげっそりと不健康だ。もしかしたら、こういうときメイクは落とさないものだったのかもしれない。ドラマで見たシーンを思い浮かべ、羞恥と恐れが沸き起こる。メイク道具はバッグの中だ。途方に暮れながら脱衣所を出た。
「ああ、やっぱり、さすがプロだ。メイクを落とすと、全然雰囲気が変わるんですね」
俯き加減で部屋に戻った私に、岬さんはそう言った。顔を上げると、視線が重なった。穏やかで優しい瞳だった。きっと、その瞳に映り込んだ自分は短い眉をぎゅっと中央に寄せて、今にも泣きそうな顔をしていたはずだ。
「キス、してもいいですか」と岬さんは最初に訊いた。穏やかで優しい瞳は、少し湿った前髪の陰になっている。「はい」と頷く声は、きちんと声になっていなかった。それでも、ちゃんと岬さんに伝わった。岬さんの指が頬に触れて、目を閉じる瞬間に、思った。岬さんも、くっきりとした二重なんだな、と。
息の音は、私のものか、岬さんのものか、途中から分からなくなった。枕の横、破かれた避妊具の袋をかすむ視界に映しながら、私は奥歯に力を入れた。ただ、果てしなく痛かった。それ以外に、何も考えられなかった。
あのとき、岬さんは何かを考えていたのだろうか。
車のエンジン音を聞きながら、運転席の岬さんを横目で窺った。対向車のライトが、岬さんの向こう側から差し込んだ。岬さんの表情は、陰に溶け込み、分からない。私は視線を自分の膝に戻す。
もし考えていたのなら何を考えていたのだろう。今、何を考えているのだろう。
張り詰めた沈黙の中では服が擦れる音さえもやけに大きく聞こえて、身動きをするのも難しかった。だからと言って、言葉を見つけようともしなかった。何を話したとしても、言葉と言葉の間の沈黙がよりいっそう際立ってしまうだけだと思ったから。
マンションのエントランス前で、
「すみません、ありがとうございました」
と、ようやく言葉を発した。「いえ」と岬さんはまぶたを伏せて微笑む。ドアをあけ、地面に片足を下ろすと、脚の間が痛んだ。反射で眉根を寄せながら、車を降り、岬さんに頭を下げる。
「本当に、……ごめんなさい」
「いえ」と岬さんは微笑んだ。岬さんの声は、穏やかで優しかった。そして、最後に聞こえた息の音が、とても苦しそうだった。
「本当にすみませんでした」と送ったメッセージは、どれだけ待っても既読にならない。『ブロックされたか調べる方法』というブラウザの文字が涙でにじむ。そんな方法を、本当に試したりはしないけれど。通知の鳴らないスマホを握りしめながら、ベランダの床へとへたり込む。
岬さんの優しさは心地よかった。その心地よさに身を任せれば、凌一のことを忘れられると思った。岬さんを好きになれると思った。けれど結局、私は岬さんの向こうに凌一を見ていただけだ。
でもさ、月9とかでよくあるやん。ギリギリになって気付くホントの気持ちとかそういうの。
漫画とかドラマのド定番でしょ。そばにいすぎて気付かなかった愛? みたいな?
耳の奥に、彩さんの声と、夏未の声がよみがえる。彩さんにも夏未にも、そんなことはありえないと否定したけれど、本当は、誰よりも私がそれを信じていた。好きだと言う勇気なんて全然なかったくせに、都合の良い言葉を唱え続けた。私と凌一は幼馴染だ。私は凌一と幼馴染だ。――きっと、真っ白なシーツの上で、岬さんとキスをしたときも、まだ。
ここでつながりが切れてしまったって当然だ。抱きしめられても、肌に触れられても、岬さんのことなんて、全然見ていなかったのだから。分かっているのに、スマホの画面に涙が落ちる。――私はまだ、岬さんに優しくしてもらえると思っとったん?
「ひかり?」
ベランダを隔てる壁の向こう側から聞こえたのは、凌一の声だった。よろよろと立ち上がり、壁の隙間から、凌一と対峙した。一歩踏み出せば、また、脚の間がずきずきと痛んだ。つい数時間前まで、この痛みは、凌一から受け取るものだと疑っていなかった。
「泣きよん?」
凌一は電子タバコを左手に持ち替え、「どしたん?」と重ねて訊いてくる。電子タバコを持ち替えるのは、紙タバコを吸っていたときのクセだ。私に煙がかからないよう、きっと無意識に凌一はそうしてくれていた。欄干から肩を乗り出すようにして、凌一は私をまっすぐに見つめてくる。まばたきでわずかのあいだ隠れた瞳が、私を思いやるものへと変わった。ぎゅっと結ばれたくちびるは、私を案じる言葉を探している。凌一が何かを言う前に、私は息を吸った。
「失恋したの」
息とともに掠れた声を吐き出せば、瞳からもうひとつ、涙がこぼれた。
「あの編集者?」
それには答えずに、「ずっと、好きだったの」と言った。凌一の目を見て言った。
「他にもいいやつおるって」
優しい声とともに、優しい手が、私の頭に触れた。きっと凌一は、私がいつまでも幼馴染であり続けるのだと信じている。私が、いつか凌一と結ばれるはずだと信じて疑っていなかったように。私を見つめる瞳が、優しさと苦しさで揺れる。凌一はまだ私を慰めてくれるつもりだ。私は手の甲で涙を拭い、「そうやね」と凌一に背を向けた。
*
凌一と春奈さんのフォトウェディングの日、鏡の前に座った春奈さんの肌は、素の状態でも驚くような透明感があった。まぶたにくっきりと刻まれた二重の線も、ただ素直に、きれいだと思った。
メイクを済ませて、ヘアセットに取り掛かったとき、「ひかりちゃん」と春奈さんに呼ばれた。硬く、緊張したような声だった。メイクに何か不備があったかと咄嗟に考えた。けれど春奈さんが次に続けたのは、「ごめんね」という謝罪の言葉。何のことか分からず、首を傾げる。春奈さんは鏡越しに、私の目をまっすぐに見据えた。
「妊娠したかもしれないって、全然嘘なの。ドラッグストアで会ったのも偶然じゃないの。歩いてるひかりちゃんを見かけて、車で追いかけて、ひかりちゃんの前で検査薬を買ったの。……ほんと、やばいよね、私」
私が何も言えないでいると、春奈さんは俯いて言葉を重ねた。
「凌一とひかりちゃんが、あんまりにも幼馴染だったから。怖かったの。ひかりちゃんが凌一に好きって言ったら、凌一は本当の気持ちに気付くんじゃないかって、思い込んでた」
春奈さんは眉間にぎゅっとしわを寄せて、「本当にごめんね」と頭を下げる。
「……そうだったんですね」
私はようやく言葉を発しながら、春奈さんの恋の強さを知る。春奈さんは容赦なく私を封じ込めようとした。それは確かに、適切な効果を発揮した。
「あの、頭を上げてください。春奈さんが悪いとか、そんなんじゃないです」
春奈さんが何もしなくても、私は凌一と向き合えなかったはずだった。情けないけれど、それは断言できる。「それに、」と言葉を繋げ、鏡の中、ためらいながら顔を上げた春奈さんに微笑んだ。
「私は、もう、ちゃんと失恋できました」
誠実な言葉を届けてくれた優しい声が、耳の奥によみがえる。その声をなぞるように、言葉を紡いだ。
「だから、もう気にしないでください。春奈さんは花嫁さんなんだから、幸せな顔をしてほしいです」
耳に届いた自分の声は、とても穏やかなものだった。
凌一と春奈さんは、フォトウェディングのその日に入籍した。どうやら、ふたりの「真ん中バースデー」に当たる日だったらしい。凌一のSNSで知った。結婚の報告とともにアップされていたのは婚姻届の写真。「婚姻」の文字にそれぞれの結婚指輪が重ねられていて、何だかキラキラに加工もされている。SNSなんて、めったに更新しないくせにね。くすっと息をもらしながら、「いいね」をタップした。
タップした画面のかたさを指が忘れ始めた頃、お店に、岬さんから雑誌が届いた。以前取材を受けたときの記事が掲載されている号だ。お客さんが一段落したときに、彩さんが付箋を貼ってくれているページをひらいた。
ページの半分が写真で、もう半分が岬さんの文章だった。岬さんの文章は岬さんと同じだ。どこまでも誠実で優しい。読者モデルの学生さんや私の言葉をまっすぐに伝えてくれる。ひとことひとことを受け取りながら、喉の奥が、少しだけ苦しくなった。次に出会う人とは、ちゃんと恋をしよう。そんな気持ちがわきあがってきた。その人の目を見て、その人の言葉を聞いて、その人の温度を感じて、ちゃんとその人に、恋をしよう。
来店のベルが鳴った。雑誌を閉じて、目元ににじんだ涙を払い、「いらっしゃいませ」と明るい声を出した。
近くで感じた息は熱を含んでいて、少しだけ、お酒の匂いがした。身体の奥底でわきたった血のざわめきが、頭蓋骨の内側に反響した。脳がじんと痺れて、眠るようにまぶたを閉じた。だんだんとかすんでゆく意識の中で、私は確かに、岬さんとキスをしてもいいと思った。けれど、できなかった。まぶたの裏に突然現れた凌一が、あの場所から私を連れ出してしまったから。
*
「ひかりちゃん、今日ね、午後から岬さんの予約が入っとるよ」
店長の彩さんからそう言われたとき、私は目を見ひらいた。岬さんとの関わりは、もう終わってしまったのだと思っていたから。あの日まで結構頻繁にやりとりをしていたアプリのトーク画面は、「こちらこそすみません」という私のメッセージで止まっている。
「二時にカットですね。わかりました」
パソコンの予約画面を見ながら、普段通りの声で言ったつもりだった。けれどもしかしたら、普段通りではなかったのかもしれない。彩さんがにやにやしながらこちらに寄ってくる。
「どしたん、岬さんと何かあったん? 何回かデートしたんやろ?」
「別っ、に、」
最悪。噛んだ。内心で焦りながら、「ないですよ」と返した。
「ふぅん」
と、彩さんはやっぱりにやにやしている。
「岬さんと幼馴染の子、天秤にかけよるの?」
「はあっ!?」
上司に向かって、遠慮のない声が出た。「すみません」と顔をしかめ、声のトーンを落とす。
「何でですか。彩さんも知ってるやないですか。凌一が結婚するの」
「でもさ、月9とかでよくあるやん。ギリギリになって気付くホントの気持ちとかそういうの」
顔をしかめたまま何も言えないでいると、
「ごめんごめん、あんま言ったらセクハラやね……ん、モラハラか?」
と、彩さんは私を解放した。
彩さんってばなんてことを、と開店準備を再開しながら思う。これから、凌一の婚約者の春奈さんと、フォトウェディングの打ち合わせをするのに。
「えっ、車の免許持ってないの?」
ブライダルルームに、春奈さんの高い声が反響した。春奈さんはくるんとした大きな目をもっと大きくして、鏡越しに私を見た。春奈さんは私よりひとつ年上の二十八歳だけれど、二十歳だと言われても信じてしまうくらいに可愛らしい顔立ちをしている。なんか、成人式の打ち合わせって感じもするなぁ、なんて思いながら、「そうなんです」と答えた。
「大体みんな、高校が自由登校になったら免許取るじゃないですか。でも私、誕生日が四月一日なんです」
「ああ、十八にならないと免許取れないから」
春奈さんは納得だという表情で頷いた。
「専門学校の間に取るつもりではいたんですけど、この辺、市電で動き回れるじゃないですか。別に不便さも感じなかったから、結局、ずるずる教習所に行かなくって。就職したら忙しくなったし……」
「そっか。だから買い物とかは、凌一と一緒に行ってるんだね」
何気ないような春奈さんの言葉に、どきっとした。
「すみません、足に使っちゃってます」
と、冗談めかして答えながら、首の後ろに冷たい汗がにじんだ気がした。
「全然いいよ。じゃあ、本番、よろしくお願いします」
春奈さんは何の含みも感じられない笑顔でそう言って、椅子から立ち上がった。さっぱりとした話し方は、「写真だけでいいよ。結婚式より、もっと実用的なことに百万使いたい」という言葉が、いかにも似合うなぁと思った。鏡の前のテーブル上にあるのは、ブライダル用のヘアカタログやウェディング雑誌。けっして、成人式なんかじゃない。
駐車場に出て、春奈さんを見送る。敷地を出る直前に、春奈さんは私に向かって会釈をしてくれた。私は大きく頭を下げる。顔を上げたとき、運転席の窓越しに見えた横顔の、鼻先から顎へと結ばれる完璧なEラインは、凌一と同じだ。
車が完全に見えなくなってから、ブライダルルームに戻った。美容室本体は二階で、ピロティタイプの駐車場のすぐ横に、独立してブライダルルームがある。中に入ると、すうっと汗が引いていった。八月はちょっと外に出ただけで汗をかく。部屋を片付け、壁にかかっている時計を見上げると、十二時少し前。あと二時間で、岬さんがやってくる。
岬さんは、きっかり二時にやってきた。私を認めると、「お久しぶりです」とやわらかに微笑んでくれた。私を見つめる瞳には、何のためらいも含みも感じられなくて、私は、肩や手のひらにこもっていた力を持て余す。「いつもありがとうございます」と頭を下げて、シャンプー台に案内した。
シャンプー後、セット椅子に移動した。「今日はどうされますか」と尋ねると、「お任せします」と返ってきた。いつもと同じやりとりだ。二十代後半がターゲットのメンズ雑誌を参考にしながら、夏らしい、少し短めの髪型を提案する。「じゃあそうします」と岬さんは微笑んだ。このやりとりも、いつもと同じものだ。
「あの、実はお願いがありまして」
岬さんが切り出したのは、ある程度、髪型ができたときだった。
「また、うちの雑誌に出てもらえませんか。読者モデルの子が、美容室やエステを体験するってコーナーがあって、工藤さんに施術をお願いできたらと思っているんですけど」
岬さんはタウン誌の編集者だ。私がいったんシザーを置くと、岬さんは言葉を続けた。
「店長さんにも、少しお話してるんです。工藤さんが大丈夫なら、会社から正式に依頼をかけます」
話を聞いてみると、以前受けたようなロングインタビューではないらしい。少し考えて、「私でよければ」と答えると、「ありがとうございます」と岬さんは、ほっとしたような顔をした。私はカットを再開する。
「わざわざ、それを言うために来てくださったんですか。電話でも全然……」
「いえ。そろそろ工藤さんに髪を切ってもらいたかったんです。でも、」
岬さんは一旦言葉を切った。数秒の間があって、苦笑交じりの声が続いた。
「実は、この話は口実なんです。仕事だって言い聞かせないと、顔を合わせる勇気がなかったから」
どくん、と心臓が音を立てたのが分かった。
「この前は、すみませんでした」
「いえっ、そんな、謝られることじゃ……だって、」
――あのキスは、私も受け入れるつもりだったから。
そう言おうとした。けれど、鏡に反射する光が明るい。隣のセット面からは、後輩の玲香ちゃんと、常連の坂口さんが話している声が聞こえてくる。からからに乾いた喉から、辛うじて、「その、私こそすみません」なんて言葉を引っ張り出した。――でも、どうしよう。これじゃ、岬さんが悪いことをしたみたい。
「工藤さん、シャインズ。連敗、抜けましたね。よかったですね」
「あっ、はい……っ、そうなんです」
岬さんは、優しい人だ。「ルールは分かる」と言っていた野球について、まるで同じシャインズファンのように話題を広げてくれる。前に、「優しいですね」と言ったら、「優しいというより、ただの仕事のスキルですよ」と返された。けれど、そんなことは決してないと思う。あとはシャワーで髪を流すだけ、というところまで順調に施術が進んだ。今は私の方が仕事中だというのに、岬さんの優しさに甘えてしまったことがふがいない。わずかに顔をしかめながら、シザーを置いたときだった。
入店のベルが鳴った。
「えっ、工藤さん、いるじゃないですか」
入ってきたのは、ふだん私が担当している浅井さんだった。ハイヒールをかつかつと鳴らしながら、浅井さんは私の方にやってくる。私が身体を強張らせると、彩さんが私と浅井さんとの間に滑り込んだ。
「浅井様、いらっしゃいませ」
「いやあの、工藤さんいるじゃないですか。さっき、工藤さんの予約は取れないって言いましたよね?」
「二時ですと、工藤は他のお客様の予約が先に入っておりましたので」
彩さんはあくまでも冷静に返すが、
「でも私、いつも工藤さんなんですけど」
と、浅井さんが声をとがらせる。さらにこちらに視線を向けられて、私は息を呑む。それとほぼ同時に、袖が軽く引かれた。岬さんだった。
「僕、もう髪を流すだけですよね。どうぞ、あちらの方をやってあげてください」
そう耳打ちされ、積み重なるふがいなさに眉根を寄せながら、「すみません」と深く頭を下げた。
岬さんのおかげで何とか事なきを得た――かと思ったものの、シャンプー後のヒアリングで、浅井さんはまた声を尖らせた。
「でも、どうしてもこの色がいいんです」
浅井さんのスマホに表示されているのは、赤みがまったくないアッシュカラー。ブリーチで髪の色素を抜いたあと、さらにカラーを入れるダブルカラーでないと出せない色だ。当然髪へのダメージが大きくなるけれど、浅井さんの髪にはすでにかなりのダメージが蓄積されている。これ以上髪にダメージを重ねるのは望ましくないこと、無理にダブルカラーをしても色落ちがかなり早くなることを何度も説明する。代替案としてワンカラーで近い色味が出せるカラー剤の提案もした。それでも浅井さんは納得しない。結局、岬さんの髪を乾かしている彩さんに相談し、髪へのダメージと色落ちの速さを了承してもらった上で、ダブルカラーを施術することになった。
ブリーチの用意をしているときに、お会計をしている岬さんと目が合った。すみません、と口を動かし、頭を下げる。岬さんからは、微笑みと会釈が返ってきた。
その日の帰宅途中、市役所前の通りで凌一と出くわした。何なの追い打ち? とげっそりしながらも、マンションまで車に乗せてやるという申し出は素直にありがたかった。重い足をひきずりながら助手席に乗り込む。
「何買ったん?」
私が持っていたドラッグストアの袋を見て、凌一が訊く。「二重テープ」と答えると、凌一は訊いてきたくせに、「ふーん」と気のない相槌を返してきた。
「生命線なの」
私は口をとがらせる。
「もともと二重の人には分からんやろうけど」
言いながら、凌一のくっきりとした二重の線を恨めしく見つめたとき、突然、身体の中心に氷のかたまりが落ちてきたような心地がした。心臓が低い音を立てて、びくっと肩を竦める。そうして気付く。春奈さんのまぶたも、くっきりとしたきれいな二重だった、と。――でも、どうしよう。もう、車に乗ってしまった。
「春奈、どうやった?」
追い打ちをかけるように、凌一が訊いてくる。私は小さく息を吸い、自分の膝に視線を落とす。
「大人っぽい雰囲気にしたいって。でも春奈さん、顔立ちが可愛い系やけん、どうしようかなぁって」
「あいつ、童顔なの気にしよるけんなぁ」
凌一が、ふっと息をもらす。自分が今、とても甘い声を出していることに、きっと凌一は気付いていない。
「ま、なるべくでいいけん叶えてやって」
「いやそれは、ちゃんと満足してもらえるようにするよ」
「へえ、頼りにしてるぜ。天才メイクアップアーティスト様」
「ちょっ、」
私は顔をしかめる。『天才メイクアップアーティスト』とは、前に岬さんの取材を受けたとき、雑誌に掲載された記事のタイトルだ。ヘアメイクコンテストの全国大会で優勝したことについての記事だったためそんなタイトルになってしまったのだけれど、ことあるごとに凌一はそれでからかってくる。「あー、もー」と私がうなると、凌一は目尻にくしゃっとしわを寄せて笑った。その笑顔を瞳に映すと、喉の奥が、ぎゅっと締め付けられたように苦しくなった。私の内心なんてまったく知らない凌一は、
「そういえば、編集者、どうなん? 付き合っとんの?」
と、訊いてくる。今思い出したように何気ない調子で。――違う、『ように』じゃない。凌一は本当に今思い出して、本当に何気なく訊いているだけだ。
「付き合っとらんよ」
「へえ、そうなん? 何やらかしたん?」
「何でよ」
半笑いの凌一を横目で睨むが、前を向いて運転をしている凌一には伝わらない。「え、違うん?」などと追加でからかってくる。
「何も、」そう呟いて、凌一から視線を外した。前の車が、ライトを点灯させて左に曲がった。目の前に、真っ直ぐな道路が広がる。「……してないし」
「何だ。ついに彼氏ができたんかと思ったのに」
凌一が軽く笑ったそのとき、交差点を曲がってきた選挙カーが、後ろについた。「みさき太一、みさき太一です」ウグイス嬢の高い声が、私を追いかけてくる。みさきみさきって、何なの、選挙カーまで追い打ち?
私が眉根にしわを寄せると、「ごめんって」とまったく悪びれない声で、凌一が謝ってきた。
マンションのベランダは、部屋と部屋とを隔てる壁が、欄干の分だけ隙間がある。だから顔を覗かせれば、会話をすることができる。私のお父さんと凌一のお父さんは、週に何度も、電車のダイヤがどうとか連結がどうとか、マニアな話をしている。凌一は就職を機にマンションを出たけれど、私たちも学生の頃は、ベランダでよく話をした。もちろん、電車の話ではない。学校の宿題についてだとか、クラスであった出来事とか、結構頻繁に替わっていた凌一の彼女についてだとか。
欄干に腕をかけて、ぼんやりと空を見つめ続けた。夏の夜風は、温くて湿っぽい。その上、エアコンの室外機も熱のこもった風を足に吹きつけてくるから、身体全体がじっとりと汗ばんできている。
左側から、かちゃりと鍵のひらく音がした。「お、ひかり」と少し驚いた様子の凌一は、電子タバコを左手に持ち替える。色のない煙を吐く凌一に、ちらりと視線を向けた。
「今日、こっち泊まんの?」
「おう。咲都子と一緒に寝る」
「うわ出た、シスコン」
「はぁ? 咲都子は可愛いやろ」
そう返されれば、黙り込むしかない。凌一の十八歳下の妹、咲都子ちゃんは確かに可愛いからだ。
「あーそういえば、合唱コンクールの日、咲都子の髪やってくれたんやろ? サンキューな、さっき写真見たけどめっちゃ可愛かった」
「あぁ……。いーよ、喜んでもらえて私も嬉しかったし」
「おー、めっちゃ喜んどった。ピアノの発表会のときもやってもらう約束したって」
そうだ、約束しちゃったけど、と薄い光を降らせる星を見上げながら思う。私が咲都子ちゃんと仲良いって、春奈さんからしたらあんまり気分の良いことではないかもしれない。でもピアノの発表会は二月だって言っていたから、凌一の入籍より後だ。だったら大丈夫かな。いや、余計に駄目なのかな。――ていうかそもそも、春奈さんはそんなこと気にしたりしないのかな。
「何しよったん? ここ、暑いのに」
凌一の声に意識を引き戻される。「いや別に」といったん答えたあと、
「空を見よったの。今日、ブラックムーンやけん」
と、ニュースサイトでたまたま見た情報を付け加えた。
「へえ、月に二回、新月があるってやつ?」
特に興味がなさそうに、凌一は電子タバコを咥える。
「何かあったん?」
突然、凌一が優しい声を出した。「え、」と私が訊き返すと、
「車でも、アホみたいに疲れた顔しとったやん」
と、言葉が続けられた。
凌一は、私の表情の違いによく気付く。中学生の頃、凌一に初めて彼女ができたときもそうだった。私は目を伏せて、「今日、浅井さんが来たから」とだけ言った。
「あぁ、市議会議員のお嬢様」
凌一に、職場であったことを話せる部分だけ話すと、
「お前も面倒なのに気に入られたよな。出禁にできんの?」
と、凌一は眉根にしわを寄せる。その表情を見ながら、私は小さく息を吐いた。凌一が、私に春奈さんのヘアメイクを依頼してきたときのことを思い出す。凌一は、とてつもなく言いにくそうに話を切り出した。「ひかりちゃんがあんたのこと好きやったら可哀そうよって、母さんは言うんやけど」――言いにくそうに言ってきても、言ってくる時点で、本当にそうだなんて凌一は思っていない。
自分の部屋に戻ると、ベッドへ後ろ向きに沈み込んだ。まぶたの上にのせた手の甲がきらめくのは、アイシャドウのラメのせい。今さら、泣いたりなんかしない。
凌一の初めての彼女は、学年で一番人気の女の子だった。目がぱっちりとした子で、まぶたに刻まれた二重の線がきれいだった。泣いて腫れた目を鏡で見たとき、厚ぼったい一重まぶたが嫌だと思った。それまで全く気にしたことがなかったのに、そのときに初めて、変わりたいと思った。
私は今、メイクで二重まぶたになっている。でも、だからといって凌一の幼馴染以外の何かになれるわけじゃない。
「岡江くんと幼馴染なんてラッキーやん」って、中学でも高校でもよく言われていたけれど、現実の幼馴染なんて、ドラマやマンガに出てくる甘酸っぱいものとは全然違う。
*
次の休みは、夏未に会った。夏未は高校の同級生だ。地銀の総合職をしていて、今は高知の支店に配属されている。本社出張で松山に来るというので、仕事後に会うことになったのだ。場所は、何度か来たことのあるカジュアルイタリアンのレストランだ。適当に近況なんかを伝え合っていると、夏未が今度合コンをするという話が出た。私は首を傾げる。
「前に言ってた、よく遊びよるって人は?」
「ああ、まだ遊びよるよ」
「え、じゃあ合コン行ったら駄目やないの?」
指摘してみるが、「えー全然大丈夫。別に付き合ってるわけやないし」と夏未の方は平然としている。
「そうなん?」
「そうそう。全然、いつでも切れるし」
「そうなんだ」と一旦は頷いたものの、うーんとまた首を傾げた。夏未の顔をちらりと見るが、気後れして、サラダの中の、紫色の葉っぱをフォークですくって口に入れた。少し苦いけれど、柔らかくて美味しい。葉っぱを飲み込むと、意を決して訊いてみる。
「その、友達? ……と、身体の関係があるのかと思いよったんやけど」
私の方は声を潜めたのに、夏未は普段通りのボリュームで、「ああ、あるよ」とあっさり頷いた。私の方が慌てたけれど、よく考えてみれば、「ああ、あるよ」だけだったら、他の人に聞こえたって何の問題もない。大丈夫だ、と思い直す。
「何か……、大人の関係なんやね」
「別に? 普通やない?」
にべもなく言って、夏未も紫色の葉っぱをフォークで刺した。
「それ、ちょっと苦いけど美味しかった」
「何だっけ……トレビス?」
夏未は葉っぱをちらっと見て、口に運んだ。「うん、そうだ」と夏未が頷いたので、この葉っぱはトレビスというらしい。
「ああそうだ、合コン、もう一人探してるんだけど、ひかりも来る?」
当たり前のように訊かれて、「えー何でよ。わざわざ愛媛から」と半笑いで返す。
「だって、彼氏おらんのやろ。出会いは大事よ?」
「そんなん愛媛でいいやん。わざわざ高知に行かんでも」
「でも、愛媛で出会えてんの?」
ぐっと言葉に詰まったとき、岬さんのことが頭に浮かんだ。そういえば、夏未には岬さんのことを言っていない。私だって一応――そう思って、口をひらこうとしたとき、突然、くちびるにかかった岬さんの息の温度を思い出した。瞳が小刻みに揺れたのが自分でも分かった。夏未はそれをどう解釈したのか、急にものすごく優しい顔になって、「岡江のこと、まだ好きなん?」と訊いてきた。
「……何でよ。凌一、結婚するって言ったやん」
動揺が身体の中心からあふれてきて、咄嗟にグラスを掴んだ。手に触れた冷たさにはっとした。なるべく自然に息を吐いて、肩の力を抜くと、普段と同じ動作で水を飲む。冷えた水が、熱を持った中心に落ちてゆく。――いや何でよ、収まってよ。
「いっかい好きって言ってみたら?」
夏未は私がまだ凌一を好きだということを決定事項として話を進める。中途半端にひらいた口をどうにもできずにいると、夏未はさらに追い打ちをかけてくる。
「意外といけるんじゃない? ひかりと岡江は結局付き合うもんだって思ってたし。あんたたち、ザ・幼馴染って感じやし。漫画とかドラマのド定番でしょ。そばにいすぎて気付かなかった愛? みたいな? 大体くっつくやん、幼馴染って」
「いやでも、凌一はもう結婚するんよ」
話の切れ目にようやく言葉を挟むと、「ギリギリまだやん?」と即座に返ってくる。
「でも、」
違うのだ。私と凌一は、漫画やドラマに出てくるようなそんな関係とは明らかに違う。私が岬さんと出かけているのを知ったって、凌一は何も、ひとつも、戸惑いがなかった。そばにいすぎて気付かないだとか、そんな風には思えなかった。けれどきちんと説明できる言葉が見つからなくて、夏未には、「現実はそんなんじゃないよ」としか言えない。からからになった喉にグラスの水を流し込むと、下腹部がきりりと痛んだ。そろそろ生理がくるかもしれない、と思いながら、眉根を寄せる。夏未は、「ま、あくまで私の考えよ」と笑うと、話題を切り替えてくれた。
私は、生理痛が重い方だと思う。
ドラッグストアで医薬品のコーナーを目指しながら、昨日夏未と別れたあと、ここに寄ることを思いつかなかった自分を呪う。薬が切れているのは、先月から分かっていたことなのに。腰を襲う痛みに顔を引き攣らせながらも、何とか目当ての薬を手に入れた。小さく息を吐いて、レジに向かおうとしたときだった。
春奈さんがいた。同じ通路の、少し離れたところで、棚をじっと見つめている。ためらいがちに棚へと伸びた指が、何かの商品に触れたとき、春奈さんがふっとこちらを向いた。視線が重なった。
「ひかりちゃん」
「あっ、こんにちは!」
へらっと笑いながら、まるで今気付いたみたいな風を装って春奈さんに近付いていく。春奈さんは、手が触れたばかりのものを反対側の手に持っていたカゴへと落とした。プラスチックの青いカゴの中に隠れるまでの一瞬に、パステルピンクの平たい箱が見えた。春奈さんが立っている横の棚を確認する。目線の高さにずらっと並んだ避妊具。その少し下、端の方に置かれているパステルピンクは、やっぱり、妊娠検査薬だ。
春奈さんは、困ったような笑みを浮かべながら、目を伏せた。
「違うかもしれないし、分からないから、……凌一には言わないで」
私の視線の流れに、春奈さんは気付いていた。「はい」と頷く声が掠れた。私の視線は、すごく不躾だったはずだ。それなのに春奈さんは明るい声で、「仕事終わり?」と話しかけてくれた。それどころか春奈さんの方が、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。すみませんなどと謝るのも余計に不躾なようで、「そうなんです」と何事もなかったかのように言葉を返す。
少しだけ立ち話をして店内で別れるつもりだったのに、春奈さんがマンションまで送ってくれることになった。車の中で、春奈さんがシートベルトを締めるとき、思わずお腹を見てしまった。慌てて視線を逸らして、それを自分の膝の上に落とす。お腹が痛い。腰が痛い。自分の身体の奥底から込み上げる鈍い痛みを意識したら、喉の奥の方までもが痛くなってきた。息の仕方が、急に難しいことのように思えてきた。
「大丈夫? 具合悪い?」
春奈さんの声が、とても優しい。
「いえ、生理なんです、……あはは」
大丈夫。笑うときに眉間にしわが寄っていたとしても、それは、生理痛が苦しいから。
「あぁそっか。重い人は大変だもんねぇ」
「薬飲めば全然平気なんですけど、切らしてて、今買ったんです」
「そうなんだ。あっ、じゃあちょっと待って」
春奈さんは、締めたばかりのシートベルトを外し、後部座席に身を乗り出した。動きを追うと、エコバッグの中から、五〇〇ミリリットルのペットボトルが取り出された。
「ちょっと温くなったかな? ……炭酸大丈夫?」
最後の問いに頷くと、「じゃあ、あげる」とペットボトルを差し出された。無味の炭酸水だった。
「あんまり変わらないかもしれないけど。ちょっとでも早く薬飲んで」
私が恐縮すると、春奈さんは「いいの。そこのスーパーで安売りしてたからまとめ買いしたの」ともう二本、同じペットボトルを見せて笑った。
私が薬を飲むのを見届けてから、春奈さんは車を出した。「夕方はちょっと涼しくなってきたね」と春奈さんが言って、「はい、夕方は大分過ごしやすいですね」と私が返した。市電で三駅分の距離は、車では五分とかからない。けれど、春奈さんと私との、目的のない会話はどこかぎこちない。少しだけ、時の流れが遅くなったような感じがした。それはたぶん、春奈さんも同じだ。
春奈さんを見送って、エントランスに入った。オートロックを解除するための暗証番号を入力していたら、突然、伸ばした腕に水滴が落ちた。それを映す視界も、虫眼鏡を通したようにぼやけて、ぐにゃりと歪んだ。ゆっくりと、自分の頬に指を伸ばす。確かな水の感触があって、私はその場にしゃがみ込んだ。
翌朝、洗面台の鏡に映った自分の目の下には、これまで見たことのない濃いクマができていた。これはいつものコンシーラーでは消えない。頭の中心が麻痺したような、ぼんやりとした意識の中でそう思った。洗顔を済ませて、お母さんが用意してくれていたトーストを食べて、メイクに取り掛かった。ほとんど使っていないオレンジのリップをコンシーラー代わりにして、クマはなんとかカバーできた。最後に、生理痛の薬を飲んだ。これで、今日は痛みに苦しむことなく働ける。今日は、以前岬さんに依頼されていた取材だ。
取材は、最近お店に導入した新しいカラー剤を、読者モデルの子が体験するという内容だった。モデルは、子犬のように可愛らしい学生さんだった。学生さんのインタビューが終わると、私の番になった。玲香ちゃんが、ブローに使ったドライヤーとロールブラシを片付けに来てくれた。「ありがとう」と声を掛けると、玲香ちゃんは微笑む。改めて、岬さんに向き直った。「お客さんの反応はどうですか」と訊かれた。質問の内容はあらかじめ教えてもらっていたので、用意していた答えを述べる。取材は穏やかに進んでいき、問題なく終わるかと思われた。
入口のドアが荒っぽくひらいて、入店のベルが高い音を立てた。中にいた誰もが、音をした方を見た。そこに立っていたのは、眉をいっぱいいっぱいにつり上げた浅井さんだった。
「工藤さんっ」
浅井さんは声を荒らげ、こちらにやって来る。私は椅子から立ち上がり、「どうされましたか?」と緊張した声で尋ねる。浅井さんはいらだった様子で、「見て分かりません?」と顎を上げた。
「この髪、毎日毎日色が変わって、こんな色になったんですけど」
浅井さんの髪の、根元から毛先までしっかりと目線を流す。全体がレベル十八くらいの明るい金髪になっていて、毛先が明らかに広がっている。
「色落ちとダメージについては、施術前に、私と彩さ……宮道から、あらかじめ申し上げております。それにご同意いただい上で、施術をさせて、いただきました」
「でも、こんなになるなんて思わないじゃないですか」
私は震えそうになる声で、「精一杯、説明はさせていただきました」と返す。
「でも、私にちゃんと伝わってなかったってことですよね? それって説明不足だと思うんですけど」
浅井さんの口調は鋭い。「すみません」と反射で言ってしまいそうになった。けれど、彩さんの毅然とした対応を寸前で思い出した。口を半端にひらいたままの情けない顔で固まりながら、駄目だ、と咄嗟に思った。――駄目だ、私が謝ったら、うちのお店が悪いことになる。横目で、玲香ちゃんが休憩中の彩さんに電話をかけているのが確認できた。息を吸い、「できる限りの説明を致しました」と返す。
「じゃあ技術不足ですか? こんなになるなんてありえないですよね? 『天才メイクアップアーティスト』って言ってもこんなものなんですね」
その言葉にくちびるをかんだとき、玲香ちゃんが私と浅井さんとの間に割って入った。
「店長が対応させていただきますのでっ!」
玲香ちゃんは浅井さんにスマホを差し出したけれど、その手は乱暴に払われた。
「工藤さんと話したいんです」
浅井さんが、私を睨みつける。
「施術は、精一杯させていただきました」
震える声で返すと、呆れたように笑われた。
「技術が足りてないからこうなってるんじゃないですか。明後日、父の後援会のパーティーがあるんです。こんな派手な髪じゃ参加できません。父に相談したら、弁護士さんを立てるとも言ってます。そんな大事にはしたくないから、今日来たんですけど」
私は息を呑む。「サービスでカラーの直しと、ダメージが治るまでトリートメントとかできないんですか?」重ねて詰め寄られて、――どうしよう。どうしようどうしようどうしよう、と頭の中がぐちゃぐちゃになる。そんなこと私が勝手に決められない、でも弁護士さんってどうしよう、私の給料から天引きでサービスするとか――そこまで考えが至ったそのときだった。
「髪が傷んでもいいし、色が抜けてもいいからどうしてもこの色にしたいって仰っていたのを、僕も聞いていましたよ」
穏やかな声を発したのは岬さんだった。「工藤さんがダメージの少ない方法を提案しても、痛みと色落ちなんて気にしないから、と仰ってましたよね」と続ける岬さんを、
「誰ですか、何ですか急に」
と、浅井さんが睨む。岬さんはそれをまったく意に介さず、にこやかに笑う。声と同じ、穏やかな笑みだった。
「これは失礼致しました。岬拓真と申します。浅井市議のお嬢様でいらっしゃいますよね? 浅井市議につきましては、みさき太一の後援会に入ってくださっていましたね。みさき太一をご支援頂き、誠にありがたく思っております。先日いらしていたとき、実は僕も隣におりまして」
浅井さんが目を見ひらいた。私も目を見ひらいた。みさき太一、――県知事選に出馬中の、現職の知事だ。
浅井さんが、何かを言おうとしている。くちびるをひらいて、閉じて、とそれが何度か繰り返されたけれど、言葉が発されることはなかった。かつかつと響くヒールの音。浅井さんは、傷んだ髪をなびかせ、出口に向かっていく。玲香ちゃんがその背中に声を張る。
「店長の宮道からです。浅井様、今回の従業員への暴言、および度重なる予約時間からの遅刻、無断キャンセルがございましたので、今後、当店のご利用はお断りさせていただきます、と」
言葉の途中で、ガチャン、と荒っぽい音がしてガラス扉が閉まった。
「す、……みませんっ。お騒がせしました」
岬さんと、呆気に取られている学生さんに頭を下げる。膝に手をつきながら、自分の息が上がっていることに気付いた。首の後ろには、大量の汗がにじんでいる。足元がふらついて、私はその場にしゃがみ込んだ。
岬さんは会社に電話をかけると、学生さんを先に帰した。「大丈夫ですか」と岬さんに顔を覗き込まれ、力なく頷く。彩さんとの電話を終えた玲香ちゃんに「椅子に」と促され、岬さんに腕を支えられて椅子に座った。
「岬さんって、知事の息子さんだったんですね」
遠慮がちな声を出したのは玲香ちゃんだ。
「いえ、違いますよ」
「えっ」と、玲香ちゃんと私の声が重なった。
「知事は、三つの崎で三崎ですから」
そう穏やかな声で言われて――そういえば、選挙中は名字がひらがなだけれど、ニュースなんかで見る知事の名前は「三崎太一」だった気がする。呆気に取られている玲香ちゃんと私に、「県政を指揮しているのは知事でしょう? 県政への協力について、僕は一県民として、お礼を述べたまでです」と岬さんは微笑む。
「それにしても、随分とお父様の地位に自信を持っていらっしゃる方でしたね。あんなに自信満々に振りかざされたら、店長さんも対応が大変だったでしょう」
確かに、彩さんは精一杯毅然とした態度を取っていたけれど、浅井さんの対応に苦慮していた。遅刻や無断キャンセルを理由に何度も入店拒否をしようとすると、そのたびにお父さんの人脈をちらつかされるなどしていたから(たとえば美容室は保健所の管轄だけれど、お父さんは保健所に知り合いがいるだとか)。浅井さんがそうまでしてうちのお店にこだわっていたのは私が雑誌に紹介されたからだろうけれど、私は彩さんたちの協力があって賞が取れただけで、そこまですごい美容師だというわけではないのに。
浅井さんが出て行ってから十分ほど経って、彩さんが息を切らしてお店に戻ってきた。
「ひかりちゃん大丈夫やったっ?」
「はいっ、すみません。休憩中に」
「そんなん違うんよ、ごめんね、ひかりちゃんに対応させて。玲香ちゃんも」
「店長もひかりさんも悪くないです! 悪いのは浅井さんです!」
玲香ちゃんが語気を強めて首を振る。私も首を振った。
「私は何も、……岬さんに助けてもらったので」
と、視線を少し伏せる。
「本当に、お客様なのに何度もご迷惑をおかけして申し訳ありません」
彩さんが深く頭を下げるのにあわせて、私と玲香ちゃんも頭を下げる。
「いえいえ、とんでもないです」
岬さんからは恐縮したような――けれどやっぱり穏やかな声が返ってきた。
そのあと、彩さんと岬さんが何やら話を始めた。もしまた浅井さんが何か言ってきたら知り合いの弁護士――三崎知事の本物の息子さんだという――を紹介する、と岬さんが言っていて驚いた。
今日は平日で、この後は予約が一件だけだ。彩さんが、「今日はもう上がってもいいよ」と言ってくれたので、甘えることにした。
岬さんが、マンションまで送ってくれることになった。お店を出て、岬さんの後ろについて階段を下りた。促されるままに助手席へと乗り込んでから、岬さんにきちんとお礼を言っていないことに思い至った。
「あの、ほんとに、ご迷惑おかけしました。助けてもらって、ありがとうございます」
「いえ、僕は大丈夫ですが、……本当に、大変でしたね」
岬さんの視線は、私を優しく労わるものだった。
車の中では、シャインズの話をした。昨日、一位のチームとの直接対決に勝ち、0.5ゲーム差に迫ったところだ。明日の試合で勝てば一位になれる。嬉しそうにその話を振ってくれた岬さんは、やっぱり優しい。
あっという間にマンションに着いた気がする。お礼を言いながらシートベルトを外そうとしたとき、
「今度、一緒に食事をいかがですか?」
と、遠慮がちな声がかかった。シートベルトを握ったまま私が返事をできないでいると、「あの、全然断ってください」と岬さんは苦笑する。
「きっと今、工藤さんは僕に恩を感じてます。だからって、無理に行かなくていいです」
私は、岬さんの目を見た。視線が重なった瞬間、岬さんは瞳を揺らめかす。
「すみません、今は卑怯なタイミングだって分かってるのに、言ってしまいました」
岬さんは、どこまでも誠実で優しい。小さく息を吸ってから、「私でいいなら」と返事をする。岬さんは驚いた顔をしたあとに、「それは、もちろんです」とほっとしたように笑った。
*
お店の定休日の第三日曜日が、岬さんとの約束の日だった。大街道周辺の駐車場は、どこも混みあっていた。日曜日だからかと思ったら、それだけではないらしい。「昨日と今日、お城でイベントがあってるんです」と岬さんが言った。
「そういえば広報で見たかも。昨日、お城が緑になってたのはそれでだったんですね」
「はい、今日も特別ライトアップが行われるみたいですよ」
岬さんは、昨日、イベントの取材に行っていたらしい。中秋の名月にちなんだイベントということで、お城のライトアップ以外にも、舞や、ダンスの披露、芋炊きなどの食事のふるまいもあるとのことだ。
空いている駐車場をどうにか見つけた。人波を抜け、岬さんに連れられて入ったのは、和食のお店だ。時間が早かったため、店内は比較的空いていた。以前、取材で来て美味しかったとのことで、どの料理もしっかりと出汁がきいた優しい味だった。
お店を出たのは、七時を少し過ぎた頃だった。駐車場まで歩きながら、「すみません。お酒、無理に飲ませてしまいましたか」と不安そうに訊かれた。私は大きく首を振る。
「いえっ、そんなことないです。久しぶりに飲んだからいい気分です。ていうか、私ばっかり飲んですみません」
「いえ、それはいいんですよ。ただ、」
岬さんは、そこで一旦言葉を切った。
「白状すると、お酒が入ってた方が許してもらいやすいかなぁって、ちょっと卑怯なこと考えてたから」
しばらく、沈黙があった。「あの」と岬さんが次に口をひらいたとき、反射的に耳を塞ぎたくなった。
「僕、工藤さんが好きです。仕事に対する一生懸命な姿勢がすごいなって、最初は尊敬みたいな感情だったんですけど。一緒に出かけて、可愛らしい人だなって思ったりして、だんだん、好きになりました」
まっすぐに目を見て言われた。瞳に込められた意思が強くて、私はたまらなくなって視線を落とす。
「無理矢理キスをしようとしたことが、伝えれば帳消しになるなんて思っていません。でも、叶うなら、どうか許してください。そして、もう一度、デートをしてくれませんか」
岬さんが頭を下げる。「やっぱり、今日言うなんて、僕はやっぱり卑怯ですね」――そう言いながら顔を上げたとき、岬さんは、瞳に悔しさをにじませていた。
どうして、私は岬さんに謝らせているのだろう。
「ち、がいます……っ、岬さんは悪くないです。あのとき、私も、」
喉の奥が苦しくなった。小刻みになる呼吸の合間を探して、言葉を挟み込む。
「私も、キスしていいと思ってた。するつもり、」
あのとき、私を捉えた凌一の瞳が、今ここでも私をまっすぐに射抜いた気がした。けれど、今、私を見つめているのは岬さんだ。そうだ、あのときも。まぶたをひらいたとき、目の前にいるのが岬さんであることが信じられなかった。凌一でないことが、信じられなかったのだ。
「するつもりだったのに……」
視界がぼやけて歪んだから、私は泣いているのだと分かった。俯き、頬をこすった。「ごめんなさい」と呟いた声は、岬さんまでちゃんと届いたか分からない。
「幼馴染の方(かた)ですか」
岬さんの言葉に、俯いたまま、目を大きくひらいた。
「マンションが隣の幼馴染がいるって言ってましたよね。前に、ショッピングモールで、多分その人なんだろうなって方と一緒にいるところを見たことがあります」
そう続けられた岬さんの言葉で思い知った。私の気持ちは、私の中にしまいきれていないのだ。言葉遣い。声の高さ。息の出し方。眉の動き。瞳の揺れ方。頬の緩み方。きっと私が行う動作の全てが、凌一への感情を示している。愕然とした。これからも、私はそうやって過ごしていくのだろうか。同じ言葉で、同じ仕草で、同じ顔で。凌一が春奈さんと結婚して、ふたりの間に子供ができたとしても。ずっと、凌一だけが気付かないままで。
「大丈夫です。その方に気持ちがあるのなら、僕のことは遠慮なく振ってください」
岬さんの声は優しい。けれど優しい声で、どうしても私に認めさせようとする。やめて。やめて。やめて。やめて――
「駄目なんです……っ」
発した声は、ほとんど叫び声だった。自分の声が鼓膜を激しく震わせた瞬間に息を呑んだ。岬さんを見上げて、「ごめんなさい」と茫然と呟く。「僕の方こそすみません」と、また岬さんが謝った。「違うんです」と、私は大きく頭を振った。
「凌一は、もう、結婚するから」
さらにもうふたつ、涙が頬を伝った。どうして泣くの、と口の中で呟く。凌一が結婚することなんて、何ヶ月も前から分かっていることなのに。春奈さんとフォトウェディングの打ち合わせをして、そんなこと、もうちゃんと分かっていることなのに。そうだ、あの日も。生理痛の薬を買いに行ったあの日、私は、どうして泣いたの。自分に問いかける。そうして、パステルピンクの箱に触れた白い指先と、困ったような微笑みがまぶたの裏によみがえったとき、ようやく気付いた。
「……デート、ホテルじゃ駄目ですか?」
見上げた岬さんの目は、大きく見ひらかれていた。岬さんが、くちびるをひらく。けれど、何も言わずに閉じられた。見ひらかれていた目も、一旦閉じた。それがひらいて、もう一度私を見つめたとき、岬さんは優しさと悲しさをないまぜにした瞳で微笑んだ。その瞳に捉えられたとき、私のくちびるは小刻みに震えた。
「わ、私、岬さんのこと、好きじゃないし、二十七歳なのに初めてです。それでも、いいなら……」
言いながら、何てひどいことを言っているのだろうと思った。私を好きだと言ってくれた岬さんに、何て仕打ちをしているのだろうと思った。――いいわけないですよね。そう言おうとしたとき、「分かりました」と、掠れた声が耳に届いた。
「僕は、構いません。工藤さんが、……それでいいなら」
私は、岬さんの瞳を見返した。私の方には問題なんてない。付き合っている人はいない。生理も、昨日終わった。だから、問題なんて、なんにもない。
初めて入ったラブホテルの室内は、想像していたように、ピンクや紫色であふれていたりはしなかった。ホワイトとグレーのツートンの壁紙に、黒で統一された家具類。デザイナーズマンションの一室にも思える。それでもやっぱり、普通のホテルと比べたらどこか違和感があった。その正体に気付いたのは、バスルームのガラス扉を見たときだった。――そうだ、この部屋には、窓がない。
シャワーを終え、着てきた服をもう一度着るべきかどうかしばらく迷った挙句、下着だけを着けて、脱衣所に備えてあった、シャツワンピースのようなパジャマを羽織った。ボタンを一番上まで留めて鏡を見たとき、目の下にできている濃いクマに、あ、と息を漏らした。クマだけじゃない。まぶたにどうにか残った二重の線は左右が不揃いで、眉毛は短くなっている。チークで作った頬の血色も、リップとグロスで作ったくちびるのツヤも、全部なくなっていて、顔全体がげっそりと不健康だ。もしかしたら、こういうときメイクは落とさないものだったのかもしれない。ドラマで見たシーンを思い浮かべ、羞恥と恐れが沸き起こる。メイク道具はバッグの中だ。途方に暮れながら脱衣所を出た。
「ああ、やっぱり、さすがプロだ。メイクを落とすと、全然雰囲気が変わるんですね」
俯き加減で部屋に戻った私に、岬さんはそう言った。顔を上げると、視線が重なった。穏やかで優しい瞳だった。きっと、その瞳に映り込んだ自分は短い眉をぎゅっと中央に寄せて、今にも泣きそうな顔をしていたはずだ。
「キス、してもいいですか」と岬さんは最初に訊いた。穏やかで優しい瞳は、少し湿った前髪の陰になっている。「はい」と頷く声は、きちんと声になっていなかった。それでも、ちゃんと岬さんに伝わった。岬さんの指が頬に触れて、目を閉じる瞬間に、思った。岬さんも、くっきりとした二重なんだな、と。
息の音は、私のものか、岬さんのものか、途中から分からなくなった。枕の横、破かれた避妊具の袋をかすむ視界に映しながら、私は奥歯に力を入れた。ただ、果てしなく痛かった。それ以外に、何も考えられなかった。
あのとき、岬さんは何かを考えていたのだろうか。
車のエンジン音を聞きながら、運転席の岬さんを横目で窺った。対向車のライトが、岬さんの向こう側から差し込んだ。岬さんの表情は、陰に溶け込み、分からない。私は視線を自分の膝に戻す。
もし考えていたのなら何を考えていたのだろう。今、何を考えているのだろう。
張り詰めた沈黙の中では服が擦れる音さえもやけに大きく聞こえて、身動きをするのも難しかった。だからと言って、言葉を見つけようともしなかった。何を話したとしても、言葉と言葉の間の沈黙がよりいっそう際立ってしまうだけだと思ったから。
マンションのエントランス前で、
「すみません、ありがとうございました」
と、ようやく言葉を発した。「いえ」と岬さんはまぶたを伏せて微笑む。ドアをあけ、地面に片足を下ろすと、脚の間が痛んだ。反射で眉根を寄せながら、車を降り、岬さんに頭を下げる。
「本当に、……ごめんなさい」
「いえ」と岬さんは微笑んだ。岬さんの声は、穏やかで優しかった。そして、最後に聞こえた息の音が、とても苦しそうだった。
「本当にすみませんでした」と送ったメッセージは、どれだけ待っても既読にならない。『ブロックされたか調べる方法』というブラウザの文字が涙でにじむ。そんな方法を、本当に試したりはしないけれど。通知の鳴らないスマホを握りしめながら、ベランダの床へとへたり込む。
岬さんの優しさは心地よかった。その心地よさに身を任せれば、凌一のことを忘れられると思った。岬さんを好きになれると思った。けれど結局、私は岬さんの向こうに凌一を見ていただけだ。
でもさ、月9とかでよくあるやん。ギリギリになって気付くホントの気持ちとかそういうの。
漫画とかドラマのド定番でしょ。そばにいすぎて気付かなかった愛? みたいな?
耳の奥に、彩さんの声と、夏未の声がよみがえる。彩さんにも夏未にも、そんなことはありえないと否定したけれど、本当は、誰よりも私がそれを信じていた。好きだと言う勇気なんて全然なかったくせに、都合の良い言葉を唱え続けた。私と凌一は幼馴染だ。私は凌一と幼馴染だ。――きっと、真っ白なシーツの上で、岬さんとキスをしたときも、まだ。
ここでつながりが切れてしまったって当然だ。抱きしめられても、肌に触れられても、岬さんのことなんて、全然見ていなかったのだから。分かっているのに、スマホの画面に涙が落ちる。――私はまだ、岬さんに優しくしてもらえると思っとったん?
「ひかり?」
ベランダを隔てる壁の向こう側から聞こえたのは、凌一の声だった。よろよろと立ち上がり、壁の隙間から、凌一と対峙した。一歩踏み出せば、また、脚の間がずきずきと痛んだ。つい数時間前まで、この痛みは、凌一から受け取るものだと疑っていなかった。
「泣きよん?」
凌一は電子タバコを左手に持ち替え、「どしたん?」と重ねて訊いてくる。電子タバコを持ち替えるのは、紙タバコを吸っていたときのクセだ。私に煙がかからないよう、きっと無意識に凌一はそうしてくれていた。欄干から肩を乗り出すようにして、凌一は私をまっすぐに見つめてくる。まばたきでわずかのあいだ隠れた瞳が、私を思いやるものへと変わった。ぎゅっと結ばれたくちびるは、私を案じる言葉を探している。凌一が何かを言う前に、私は息を吸った。
「失恋したの」
息とともに掠れた声を吐き出せば、瞳からもうひとつ、涙がこぼれた。
「あの編集者?」
それには答えずに、「ずっと、好きだったの」と言った。凌一の目を見て言った。
「他にもいいやつおるって」
優しい声とともに、優しい手が、私の頭に触れた。きっと凌一は、私がいつまでも幼馴染であり続けるのだと信じている。私が、いつか凌一と結ばれるはずだと信じて疑っていなかったように。私を見つめる瞳が、優しさと苦しさで揺れる。凌一はまだ私を慰めてくれるつもりだ。私は手の甲で涙を拭い、「そうやね」と凌一に背を向けた。
*
凌一と春奈さんのフォトウェディングの日、鏡の前に座った春奈さんの肌は、素の状態でも驚くような透明感があった。まぶたにくっきりと刻まれた二重の線も、ただ素直に、きれいだと思った。
メイクを済ませて、ヘアセットに取り掛かったとき、「ひかりちゃん」と春奈さんに呼ばれた。硬く、緊張したような声だった。メイクに何か不備があったかと咄嗟に考えた。けれど春奈さんが次に続けたのは、「ごめんね」という謝罪の言葉。何のことか分からず、首を傾げる。春奈さんは鏡越しに、私の目をまっすぐに見据えた。
「妊娠したかもしれないって、全然嘘なの。ドラッグストアで会ったのも偶然じゃないの。歩いてるひかりちゃんを見かけて、車で追いかけて、ひかりちゃんの前で検査薬を買ったの。……ほんと、やばいよね、私」
私が何も言えないでいると、春奈さんは俯いて言葉を重ねた。
「凌一とひかりちゃんが、あんまりにも幼馴染だったから。怖かったの。ひかりちゃんが凌一に好きって言ったら、凌一は本当の気持ちに気付くんじゃないかって、思い込んでた」
春奈さんは眉間にぎゅっとしわを寄せて、「本当にごめんね」と頭を下げる。
「……そうだったんですね」
私はようやく言葉を発しながら、春奈さんの恋の強さを知る。春奈さんは容赦なく私を封じ込めようとした。それは確かに、適切な効果を発揮した。
「あの、頭を上げてください。春奈さんが悪いとか、そんなんじゃないです」
春奈さんが何もしなくても、私は凌一と向き合えなかったはずだった。情けないけれど、それは断言できる。「それに、」と言葉を繋げ、鏡の中、ためらいながら顔を上げた春奈さんに微笑んだ。
「私は、もう、ちゃんと失恋できました」
誠実な言葉を届けてくれた優しい声が、耳の奥によみがえる。その声をなぞるように、言葉を紡いだ。
「だから、もう気にしないでください。春奈さんは花嫁さんなんだから、幸せな顔をしてほしいです」
耳に届いた自分の声は、とても穏やかなものだった。
凌一と春奈さんは、フォトウェディングのその日に入籍した。どうやら、ふたりの「真ん中バースデー」に当たる日だったらしい。凌一のSNSで知った。結婚の報告とともにアップされていたのは婚姻届の写真。「婚姻」の文字にそれぞれの結婚指輪が重ねられていて、何だかキラキラに加工もされている。SNSなんて、めったに更新しないくせにね。くすっと息をもらしながら、「いいね」をタップした。
タップした画面のかたさを指が忘れ始めた頃、お店に、岬さんから雑誌が届いた。以前取材を受けたときの記事が掲載されている号だ。お客さんが一段落したときに、彩さんが付箋を貼ってくれているページをひらいた。
ページの半分が写真で、もう半分が岬さんの文章だった。岬さんの文章は岬さんと同じだ。どこまでも誠実で優しい。読者モデルの学生さんや私の言葉をまっすぐに伝えてくれる。ひとことひとことを受け取りながら、喉の奥が、少しだけ苦しくなった。次に出会う人とは、ちゃんと恋をしよう。そんな気持ちがわきあがってきた。その人の目を見て、その人の言葉を聞いて、その人の温度を感じて、ちゃんとその人に、恋をしよう。
来店のベルが鳴った。雑誌を閉じて、目元ににじんだ涙を払い、「いらっしゃいませ」と明るい声を出した。