初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
第一章
 初恋は実らないって、本当だった。

「みのりは、妹みたいなものだから」

 初恋の終わりを告げた言葉。あっけなく鼓膜を通り抜けて、いやおうなく脳に刻み込まれた言葉。それを私の心がどう受け止めたのか、ようやく忘れかけていたのに。

「みのりと話していると、妹と話しているみたいっていうか」

 どうしてまた、あの言葉を思い出させるの。

          *

「もー、たけくらべじゃあるまいし」
 半年前の歓迎会の日、私と同い年の、大卒新入社員のあの子がそう言って、今日の数十分前まで私の彼氏だったそのひとは、あの子の言葉をごく自然に受け入れたっけ。パンプスのストラップが切れたことがたけくらべ? せいくらべ? どうして? ――なんて、全然理解できなかった私だから、隼斗(はやと)に愛想を尽かされてしまったのかな。私を傷付けないようにいろんな優しさでつつみこまれた言葉の、その奥に込められた本心は、「きみは幼稚で話が合わない」ってことだったから。多分。
 あの子と私は同い年だよ。でも、あなたが幼稚だと思うのは私だけ。
 ――カツン、と響くヒールの音。高校を卒業して働き始めて、もう五年目。ちゃんと、ヒールの似合う大人の女性らしくなれたと思っていたけど。
 私は、やっぱり、妹みたい?
 は、と吸いこんだ息がひきつったように掠れて、嗚咽の中に溶けていく。一度こぼれたら次から次へと嗚咽が連なる。それに耐えかねていったん立ち止まり、目元を雑にこすった。アイシャドウの茶色とラメが手の甲でぐちゃぐちゃに溶けている。
 金曜日の午後七時半、別れ話をしたカフェから三番町を通って松山市駅を目指す道は、週末を楽しもうとする賑わいに満ちている。私だけぽつんと切り離されたみたい。十月下旬の秋風が、髪をさらって乱してゆく。夕方までキープできるように念入りにセットしたカールも、そろそろ崩れ始めるね。でも、もういいの。意味ないから。自嘲するような笑みの音をもらしたそのとき、男女入り交じった大学生集団とすれ違った。
「みぃちゃん?」
 え、と顔を上げて振り向けば、幼馴染の遥樹(はるき)だった。遥樹は愕然と目を見ひらいて、「どうしたの」と問うてくる。
「……ちょっとね」
 発した声は、湿っているくせにかさかさだった。くちびるを結んで遥樹から顔を背けると、「国崎くん?」と集団の中の女の子が遥樹を呼んだ。
「ごめん、やっぱ今日行かない」
 え、と戸惑う私が何かを言う前に、もともとそんなに行きたくなかったから。耳元にひそひそ声が落ちる。遥樹は私の手を引いて、「ほんとごめん」と彼女たちに言い置くと、まるで逃げるように人波に紛れた。
 手を離されたのは横断歩道を渡り切ってから。「ごめんね、足大丈夫?」とパンプスの私を気遣う遥樹は、私に付いて回っていた幼い遥樹のイメージと重ならない。お正月に帰省したときにも会ったけど。そのときも、こんな感じだったっけ。まるで――と思ったところで小さく息を呑む。
「みぃちゃん、飲みに行こ」
「え、」
「正月に会ったとき、俺が二十歳になったら飲みに連れてってくれるって言ってたでしょ。先月、誕生日来たよ」
 に、と笑うと涙袋がぷっくりとふくらんで、八重歯が右側だけにひょこっとのぞく。私の知っている遥樹だ。涼大(りょうた)じゃないね。

 終わりが近いということには、なんとなく気付いていた。隼斗が私に向ける眼差しの、温度が失われていることに気付いていた。だけど私はそれがゼロになる日を先延ばしにしたくて、朝はダッカールでちゃんとブロッキングしてから髪を巻いて、お昼用に栄養に気を配ったお弁当を作って、夜はファッション誌を見ながら静脈マッサージを続けた。そのどれも、全然意味なんてなかったんだけど。
 酔いのまわった舌が言葉をぽんぽん投げ捨てた。落とした言葉のぶんの喪失感を埋めるようにアルコールを摂取した。堂々巡りを「そろそろ終電になるよ」と遥樹が終わらせたときまで一応正気を保てていたつもりだけど、その認識は間違っていたのかもしれない。
 大街道(おおかいどう)の停留所まで歩く足取りは、決してふらついていたりしなかった、と思う。だけどパンプスのヒールがアスファルトの小さなへこみに引っかかったとき、私は簡単に足をもつれさせた。
「わ、大丈夫っ」
 遥樹が腕で私を受け止める。シャツと上着を挟んでいても、遥樹の腕は十分にあたたかかった。じわ、ととっくに収まっていたはずの涙が瞳ににじむ。ふくりと潤んだ視線の先、自分の腕に引っかかっているトートバッグの中には空のお弁当箱が入っている。市電に乗って、1LDKのアパートに帰ったら、洗面所の洗濯機の上にダッカールが、ローテーブルの上にファッション誌が。
「みぃちゃん?」
 揺れてゆがんだ視界、まばたきで涙を落とせば、私を覗き込む遥樹と視線がかち合う。私と別れ、晴れてあの子と付き合った隼斗は今頃、熱のこもった眼差しをあの子に向けているのかな。
「やだな。……帰りたくない」
 心でうめいたはずの言葉が耳に届いたからはっと息を呑む。「じゃあ、帰らない?」って遥樹の言葉にも。ごめん、ちがう、そうじゃなくて。口の中で言葉を転ばせていると、「つけこんでごめんね」と遥樹が苦しそうに顔をゆがめた。
「何回も諦めたけど、やっぱり、俺はみぃちゃんが好き」
 私を支えていただけの遥樹の腕が、明確な意志を持って私を抱きしめる。私は身体を強張らせ、「だ、めだよ」と声を絞り出した。
「だって、私は遥樹のことが好きじゃない。寂しいだけだもん」
 アルコールで鈍った思考でだって分かる。今日どうにかなったって、私は遥樹で都合よく自分をなぐさめたいだけだ。身じろいで、遥樹の腕を振りほどこうとする。でも遥樹はぎゅうっと腕の力を強めて、「いいよ」と囁いた。そして、ふっ、と小さく笑う。
「俺、みぃちゃんに何回失恋したと思ってるの。一回や二回増えたって変わんない。初恋は叶わないものだって、もう分かってるよ」
 その言葉に連なる切なげな息の余韻が消えないうちに、「兄ちゃんの代わりでもいいよ」と続けられた。私がそれに目を見ひらくと同時、頬に手が添えられて上を向かされる。遥樹の目は二重、涼大の目は一重。遥樹は左顎にほくろがある、涼大は右眉の下。涙袋の幅も違うし、涼大には八重歯がない。それに遥樹はみっつ年下だけど、涼大は私の五歳上。兄弟でも、全然似ていないのに、
「――みのり」
 私の名前を切なげに呼ぶ声。そのふるえが、叶わなかった初恋の残骸を揺さぶった。心のもっとも奥底に、ぐちゃぐちゃにつぶしてぎゅうぎゅうに押し込んで、泣くのをやめた日からずっと忘れたふりをしていた感情がよみがえってくる。無邪気に無防備に、あるいは無知に、ひたむきに信じていたものが崩れた絶望。縋ろうとした指先を振り払うことすらしてくれなかった。残酷なほど優しい微笑みを浮かべたまま、あなたは私じゃない人と恋をした。――結婚してくれるって、言ってたのに。
 ひっ、とこぼれた引きつれた息が、くちびるごと奪われる。私はキスを受け入れた。
 だって、目を瞑れば、まるで叶ったみたいだった。
 幼い小指でむすんだ約束が、ちゃんと叶ったみたいだった。

 結婚の約束をしていた。
 ランドセルを背負った涼大はプロ野球選手になるのが夢で、だから私はプロ野球選手のお嫁さんになるのだと信じていた。――もちろん、ままごとだったのだけど。
 涼大は小学校で野球を辞めて、中学では部活に入らなかった。丸刈りから随分髪の伸びた涼大に「プロ野球選手にはならないの?」と訊いたら「なれないな」と涼大は笑っていた。じゃあ私もプロ野球選手のお嫁さんになれないの、って戸惑ったけど、涼大の髪型が結婚の約束をした頃と同じになっていることに気付いて、まぁいっか、とも思った。プロ野球選手のお嫁さんじゃなくたって、涼大のお嫁さんになれればいいんだ、って。
 ――全部全部、ままごとだったんだよ。
 涼大がお嫁さんにするのは優奈(ゆうな)さんだ。涼大の、大学時代の後輩だった優奈さん。就職一年目で鬱っぽくなってしまったらしくて、今は仕事を辞めて涼大と同棲している。そろそろ結婚も考えているらしいって、涼大のお母さんと幼馴染の、私のお母さんを通して聞いた。
 枕元の時計を見下ろすと、AM九時三十八分。つい今しがた脱いだ、こういうホテルにありがちなワンピースタイプのパジャマ。自分の体温が残るそれを軽く畳んで、ベッドの上に置いた。トートバッグを手に取る。財布を出して、遥樹に声を掛けて、精算機へ。すると遥樹は、「みぃちゃん、俺が払うから」と私を押しとどめた。
「……そんなわけにはいかないよ。そっち学生だし」
「じゃあせめて割り勘。お願い払わせて」
 必死な声で、遥樹は言う。
「勝手なのは分かってる。ひどいのは分かってる。そんなのじゃないって分かってる。でも、幻覚でも勘違いでも間違いでもいいから、今日のことを思い出だって思いたいから」
 昔と変わらない表情だ。みぃちゃん、と無邪気に――あるいは必死に、私の背中を追っていた遥樹の表情だ。私は眉根をぎゅっと寄せ、逃げるように眼差しを足元へ落とす。その途中で視線に入った、不自然なシワが寄ったスカート。ブラウスにも、同じようなシワが入っているはず。
 結局、私が半額の四千円を遥樹に渡して、遥樹が精算機で支払った。私が全額払いたかったのに。払った金額のぶんだけ罪悪感が消えるんじゃないかって、勝手な予感がしていたから。

 ホテルを出て、大街道から私はJR松山駅行きの市電に乗る。遥樹は反対方向の環状線だ。遥樹の電車のほうが先にやってきた。「ごめんね」と私に言い置いて、遥樹は電車に乗り込んだ。私はそれになにも言葉を返せず、ただ呆然と遥樹を見送った。どうして、遥樹にばかり謝らせているの。そう自分に問うくせに、私はくちびるをむすんだまま。
 五分ほど遅れてやってきた電車に私も乗り込む。大手町駅前で降りて、十分ほど歩けばアパートに着く。帰りたくない、と悲痛な声で嘆いてみせたって、いつか帰ることになるのに。本当になにしてるんだろうね、私は。
 パンプスを脱ぎ捨て、すぐさまキッチンに向かった。ゴミ用のビニール袋を引っ張り出して、トートバッグの中のお弁当箱をミニバッグごと投げ入れる。次にローテーブルの上のファッション誌。その次に洗面所、洗濯機の上のダッカール。隼斗のぶんの歯ブラシも。お風呂に置いてある色違いのボディタオルも。分別する気力なんてなくて、見た瞬間に隼斗との記憶が掠めるものを全部全部放り込んだ。
 二年分の恋の残骸は三十五リットルのビニール袋二つ分。右手と左手に一つずつ持ったそれらは、見た目に比べてやけに軽い。
 ――みのりと結婚したら、毎朝起きてすぐ、おはようって言い合えるんだよなぁ。
 歯ブラシに歯磨き粉をつけるのと同じくらいの、ごく当たり前な気軽さで、隼斗はそんなことを言ってくれていたけど。
 気軽な言葉は、同じくらい気軽にうやむやにできるよね。
 ばかだな。また、私ひとりだけが勝手に未来に描き込んで。
 トスン、と袋が床に落ちる。その動きを追うように膝を折って床にへたり込んだ。くちびるを噛んで、鼻を啜ろうとしたそのとき、空気をふるわせたスマホの受信音。緩慢に首を動かして、腕を伸ばして、トートバッグからスマホを取り出す。遥樹からだった。十数分前に来ていた〈みぃちゃん、家に着いた?〉のメッセージと、今来たばかりの〈みぃちゃん大丈夫?〉のメッセージの横にそれぞれ既読の文字がつく。それをぼんやりと眺めていたら、手の中でスマホがふるえはじめた。メッセージじゃなくて電話だ。国崎遥樹の文字をしばらく見やったあとに、通話ボタンを力なくタップした。
「……はい」
「みぃちゃん、大丈夫っ?」
 切羽詰まった声が訊いたあとに、「……ごめんね、急に電話して」と続けられた。ううん、と首を振ったけど、声は遥樹にちゃんと届いたか分からない。
「……大丈夫じゃなさそうだね」
 遥樹が声を揺らめかす。「俺、今からバイトだけど、夜にまた会う? 明日も、夜なら空いてるし」
 なにを言っているの。そんなことをしたら、私はまた遥樹に都合よく縋ってしまう。力なく笑って、私は忠告する。
「それ、都合のいい男だよ。昨日も言ったけど」
 どうか拒絶してよ――そう思ったのに、遥樹は電話越しにふっと笑った。「それでもいいよ、って昨日も言ったよ」って。

 開けっぱなしのカーテン、窓から入り込む薄い光が空間全体に柔く佇む。ぼうっと天井を見上げていたら、時間の流れが分からなくなった。ひとりきりの室内は、私が興味をむけて介入しなければ、すべてがただ沈黙している。空気の流れも音の流れもなにも見えない。感じられない。時折まばたきで途切れる視界と、不意に自覚する心音が、時は止まっていないのだと辛うじて伝えてくる。
 着信音がして、びくりと肩を竦めた。緩慢な動きで、床に投げ出していたスマホを拾い上げる。遥樹だった。遥樹の名前とともにディスプレイに表示された時間は十五時二十分。時間の流れに唖然としながら通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「みぃちゃん、今バイト終わったんだけど。あのさ、」
 居酒屋のランチで接客していた名残か、遥樹の声が半トーンくらい高い。
「からあげいる? あとフライドポテトも」
 銀天街(ぎんてんがい)か大街道のアーケード街から電話しているのだろう。ざわざわとした人のにぎわいが感じられる雑音を背景にしながら、遥樹は続けた。
「余ったからもらったんだ。すごいいっぱい。だから、いるなら持ってくよ。もちろん、玄関先で追い返してくれていいから」
「……そんな」
 遥樹は、どこまでも都合のいい男に徹そうとする。私の方がやりきれない気持ちになって、「追い返したりしないよ」とぽつりと返した。
「からあげ、いる。そういえば、」
 ご飯食べてないや。そう続けてしまいそうになったけど、遥樹に無用な心配をかけてしまうと思い至って、寸前で言葉をとどめた。「そういえば?」続きを促す遥樹に、「ううん何でもない。からあげ食べたい」とだけ返して会話を終わらせる。
「……うん、住所ね。メッセージで送る。……うん、じゃああとで」
 電話を切って、アパートの住所と部屋番号をメッセージで送った。ローテーブルの上にスマホを置いて、深く長く息を吐いた。シワのついたスカート。シワのついたブラウス。帰ってきてからそのままだ。シャワーも浴びていない。いったん片膝を床に突いてから、ふらりと立ち上がった。今アーケード街にいるなら、遥樹が来るまで三十分くらいはある。シャワーを浴びて、髪を乾かして、簡単なメイクくらいまでできるはずだ。ふらふらとたどり着いた脱衣所で、シワの寄ったスカートとブラウスを脱ぐ。本当は洗濯ネットに入れたほうがいいのだけど、そんな気力はなくてそのまま洗濯機に放り込んだ。

 残業終わりに、隼斗と――桧山(ひやま)さんと、初めて一緒にご飯に行ったときだった。レストランに向かう道すがら、私は段差に靴先を引っかけて派手につまずいた。だって、ほんのわずかな煙草の残り香が届くくらいの距離にあなたがいて、胸のドキドキがうるさくて、また恋ができているのかもしれないって、よくわからない浮遊感でふわふわしていたんだもの。ことあるごとに、あなたはそれでからかってきたっけ。さあさあと熱を含んだ雨がまっすぐ降りそそいでいた、あの夜も。
 ――ほら、段差。危ないよ。
 ――見えてますぅ。いい加減しつこいですよ。桧山さん私のこと、子供とか妹みたいに思ってません?
 ――思ってない。須藤さんが子供や妹だったら困るよ。だって、
 さあさあと降ってくるシャワーが髪に絡みつく。髪先から滴った無色透明の熱は、肌をひたむきに滑り落ちて、足元で跳ねて流れてゆく。崩れかけの泡を吸いこみながら、一途に、排水口へ。
 ――だって俺、須藤さんのこと気になってるから。
 ひとつの傘の下、肩が触れる距離で囁き合った言葉たち。あなたの言葉が耳に触れるたびに私の心はどくんと跳ねた。頬に上ってゆく血の音を同時に聞きながら、ゆっくりと顔を上げて。そうして見つめた世界はかがやいていた。かがやいていると、そのときは思った。雨のしずくがきらきらと光っていたのは、繁華街のネオンや、点滅していた青信号や、車のスポットライトを反射していたからだったのに。
 蛇口を閉めた。しずくがひとつぶ落ちる音と、きゅ、とかたい手ごたえを残してシャワーが止まる。髪に縋りつく水滴を絞って、顔を上げた。鏡に映った自分は、表情という概念を忘れてしまったような顔をしていた。
 浴室を出て服を着て、髪を乾かしてメイクをした。パウダーをはたいて、眉を描いて、アプリコットオレンジのリップチークで血色を整えた。ぎゅ、とくちびるを横に引っ張ってみる。スーパーの服飾コーナーにある古びたマネキン人形くらいには表情を取り戻せた。そのタイミングで遥樹がやってきた。
 控えめに鳴ったインターフォンを聞いて、フローリングのリビングを裸足でぺたぺた通り抜けた。近所用のサンダルをつま先に引っ掛けて、ドアを開ける。
「みぃちゃん」
 重なった眼差しが、瞬間的に緊張する。きっとお互いに、昨夜の記憶が掠めたから。だけど私が視線を逸らす前に、遥樹は八重歯を見せて無邪気に笑った。
「見て、こんなに。若いんだからいっぱい食べなって店長に持たされちゃって」
 からあげとフライドポテトが入ったフードパックを掲げる遥樹の笑顔は、昔から知っているものだ。年下らしく可愛くて――幼い恋心を少しだけはみださせたきみの笑顔。
「ありがとう。お腹減ってたから嬉しい」
 フードパックを受け取って、「上がって」と促した。「うん、お邪魔しまーす」と弾むような声は軽いのに、框にのせる遥樹の足先には、慄くような惑いが見て取れた。
「ねぇみぃちゃん、エンロー好きだったよね? 今も好き?」
 だけど遥樹は笑顔を崩さず、私の好きな漫画の話を振ってくる。エンドオブヒーロー。十年以上前から週刊誌で連載されている少年漫画だ。涼大がエンローを読んでいたから私が読み始めた。そうしてきっと遥樹は、私がエンローを読んでいたから読み始めた。初恋にそそのかされた、健気でひたむきな鎖つなぎだった。
「好きだよ」と私は頷いた。今は涼大のことは関係なく、エンローを純粋に面白いと思っている。
 私の返事を聞いて、遥樹は嬉しそうに無邪気な笑みを深めた。
「登録してる配信サイトでアニメの見放題配信が始まったんだ。一緒に見ない?」
 遥樹はわざとらしいくらい、年下の可愛い幼馴染の顔で笑う。今の私に、これほど都合のいいことはない。
 電子レンジであたためたからあげとフライドポテトをつまみながら、エンローの劇場版一作目を観た。ローテーブルの上、ティッシュ箱とリモコンを支えにして立たせた遥樹のスマホを、ふたりでのぞきこむようにして。オープニングが流れているあいだに、とりとめのない昔話をしたりした。「そういえば昔、一緒に『神なる目!』とかやってたね、ルイの真似して影絵で」影絵を具現化させて戦うキャラがオープニングで必殺技を決めたのを見て、ふと思い出してそう言った。すると遥樹が笑いながら、頭の真上で両手を組む。「やってたやってた、コレでしょ?」――思い出ともいえないようなもの。幼馴染として過ごした時間に共通する過去。思いついた順番に、ひたすらにそれを並べ立てた。まるで、私たちの関係をかたちづくる枠組みを確認していくように。
 だから、場面が緊張するクライマックスのシーンで身体が思わず前のめりになったとき、遥樹と肩が触れ合ったってなにも問題なかった。「はぁ、面白かった! 次の劇場版が楽しみ!」「そうだね、映画館だと迫力がすごいだろうし」なんて、エンディングテーマを聴きながら無邪気に語り合うだけだった。
 約二時間の映画を観終わって、十八時半。スマホで時間を確認した。「からあげだけじゃお腹減ってるよね。ご飯作ろっか?」とごく軽い調子で言ったら、「えーやった、作ってくれるの?」と無邪気な返事があった。私は笑って頷き、「漫画でも読んでて」と言い置いてキッチンに立った。
 一昨日に作ったシチューの残りが冷蔵庫にある。冷凍のご飯もあるし、ドリアを作ろうと決めた。耐熱皿で、解凍したご飯と刻んだハム、塩コショウとケチャップを混ぜ合わせて電子レンジでチン。シチューを牛乳でのばしてホワイトソース代わりにして、冷凍のブロッコリーとチーズをのせてトースター機能で焼いただけの簡単ドリアだ。それにレタスをちぎってツナと合わせたサラダを添えただけ。だけど遥樹は「すごい、美味しい! 手作りのご飯食べるの久しぶり」と大げさなくらいに喜んでくれた。
「うそ。バイトでまかないもらってるのに」
 笑いながら指摘すれば、「あ、そうだ。店長のまかないも手作りだし美味しい」と遥樹は少しだけばつの悪そうな顔をする。
「えーじゃあ何て言えばいいんだろ。……家の料理って感じのご飯食べるの久しぶり。しかもすっごく美味しい!」
「家の料理ね。残り物で作ったドリアなんてお店じゃ出てこないもんね」
 大げさなくらいに褒められるから照れくさくなって、少しひねくれた言い方をしてしまった。そうしたら、
「え、待って。褒めてるんだよ。すごい家庭的で何だか安心する味って」
 慌てたように遥樹がまくし立てる。
「分かってるよ。ありがとう」今度は素直に笑って、湯気の立ったドリアをスプーンですくった。
 食べ終わったお皿をシンクに置きながら、「コーヒーでも飲む? インスタントだけど」と声をかけた。
「うん飲みたい!」
「はーい」
 電気ケトルのスイッチを入れて、食器棚にしているカラーボックスから不揃いのマグカップを取り出した。
 コーヒーを飲むのは久しぶりだ。カビ生えてないよね? と賞味期限がまだ十分(じゅうぶん)残っていることを確認してから、一応ビンの中をのぞきこむ。――うん、色も匂いも問題なさそう。
 頷いて、スプーン一杯ずつ、コーヒー粉をマグカップに入れた。お湯を注ぎながら、「牛乳入れる?」と遥樹に尋ねた。すると意外にも、「ううん、大丈夫」という返事だった。
「砂糖は?」
「いいかな。ブラックで大丈夫だよ」
「……遥樹、ブラック飲めるの?」
「うん、コーヒーはブラックの方が好きかも」
「えぇ」と私は目を丸くする。昔は、コーヒーゼリーも苦くて苦手だって言っていたのに。
 ローテーブルの後ろであぐらを組んで、ゆるくくつろいでいる遥樹を見下ろす。少しだけくせのあるアッシュよりの黒髪。長めの前髪の下からのぞく二重の瞳は丸っこくて、口元の八重歯は子猫みたいだ。ブラックコーヒーよりも、ミルクたっぷりの甘いカフェオレというイメージだと思っていたけど。
 驚いた表情のまま見つめていたら、遥樹がすっと立ち上がった。こちらへやってきた遥樹が、「運ぶよ」と私の隣に並ぶ。
 背も、高い。男の人としては高い方ではないのかもしれないけど、一五五センチの私よりも十五センチは高い。マグカップに添えられた手も私より全然大きくて、骨っぽくて、大人の男の人の手をしている。なんとなく胸がざわついて、私はそっと視線を外した。
 マグカップはふたつとも遥樹が運んでくれた。私は砂糖入れと牛乳パックを持って遥樹に続く。ローテーブルの角を挟んで隣り合った位置に座った。遥樹がマグカップを口に運ぶのを不思議な気分で眺めてから、私は自分のマグカップに砂糖をスプーンで二杯入れる。牛乳パックから牛乳も。適度に冷めた甘いカフェオレを飲み込んで、まだちょっと苦いかな、と砂糖をもう一杯。
 その日は遥樹を幼馴染のまま送り出した。次の日も、数回のメッセージのやりとりだけで会わずに済ませた。だからといって、どうして、もう大丈夫だなんて思ってしまったのだろう。
 砂糖たっぷりの甘ったるいカフェオレしか飲めない私は、幼稚でしかないのに。

 月曜日が大丈夫でなくちゃ本当に大丈夫だとは言えなかったのだと、会社の最寄りで電車を降りた瞬間に気付いた。靴先にアスファルトの硬さを感じた途端、金曜夜にひとりで歩いた道路の感触を思い出した。別れの予感――予感よりも強い確信を持って、指定されたカフェへ向かったヒールの足音。あぁ、このパンプスも捨てなくちゃいけなかったのだ。
 くちびるに痛みを感じてはっとした。噛みしめているのだと気付いて慌てて息を吸う。くちびるを笑みのかたちにむすびなおして、足を踏み出す。カツカツ鳴るヒールの音に怯むな。泣くな。今から仕事なんだから。公私混同なんてしない。
 オフィスに着いて、タイムカードで打刻をする。自分のデスクに行くまでに、桧山さんのデスクの横を通らなければならない。桧山さんはデスクに向かってスケジュールの確認をしていた。横目で確認して、足を進める。
 あと一歩で桧山さんのデスク、というところでヒールがひときわ高く鳴ったのは、つま先が空中で惑ったからかもしれない。
「おはよう須藤さん」
 桧山さんが私の目をまっすぐに見上げた。俺は公私混同はしない、という決意が強く込められた眼差しだった。声だった。イントネーションだった。笑顔だった。――終わらせたのは、あなたなのに。
 瞬間的に、泣きたいような気持ちが込み上げる。
「……おはようございます」
 私の声は、暗くて、よどんでいて、明らかにわだかまりを抱えていて、公私混同はしないなんて胸を張れるようなものではなかった。どうして、こんなはずじゃなかったのに。
 自分のデスクが途方もなく遠いように感じた。カツ、カツ、カツ、カツ。うるさいよヒール。なんで捨ててなかったの私のばか。
 だめだよ。全然だめだ。こんなのじゃだめだ。
 ようやくたどり着いた自分のデスク、崩れるように椅子に座り込んで思い知る。
 ――私は全然、大丈夫じゃなかった。

 須藤みのり、の名前が表示されたトーク画面をひらいたまま、左手で無意味にスワイプしたりメッセージ入力欄をつついてみたりしているあいだに、サンドウィッチもチョココロネもコロッケパンも食べ終えてしまった。ゴミをくちゃくちゃにまとめて、レジ袋に突っ込む。スマホ画面の上部で確認した時間はちょうど十二時半。あと十分で授業が始まる。みぃちゃん、とまで打ち込んだメッセージ入力欄を睨むようにして眉を寄せたそのとき、「遥樹」と声が降ってきた。その声に名前を呼ばれるのはあの日以来だ。俺は顔全体を緊張させて、声の主を見上げた。
「……遊佐(ゆさ)さん」
 かたい声でそう呼べば、「みいって呼んでよ。あたしは遥樹って呼んだんだから」と彼女――遊佐美衣子(みいこ)は笑った。その楽しげな口元を恐れるように目を逸らした俺は、みい、なんてとても呼べない。「……ごめん」と声を絞り出して、それからはっとして、スマホの画面を慌てて消す。
 遊佐さんは俺の前の席に腰掛けると、俺のテーブルに肘を突く。
「あたしが先輩と別れたの知ってるでしょ?」
 遊佐さんはきれいにマニキュアが塗られた指で、自分の頬をとん、とたたいて、俺の目を見つめる。マスカラで美しく縁取られた睫毛が繊細に揺れる。
「上手くいかなかったの。あたしが、遥樹に未練いっぱいだったから」
 心臓が低い音を立てる。その音を聞きながら、「ごめん」と一つ覚えのように繰り返すしかできない。遊佐さんはまばたきをして、大きなため息を吐く。
「みぃちゃん、なんでしょ。遥樹が、本当に好きな人。利夏(りか)が言ってたよ、金曜のこと。年上っぽい女の人をみぃちゃんって呼んで、その人と一緒にどっかに行っちゃったって」
 遊佐さんが、押し黙る俺の瞳をじぃっと覗き込んでくる。びくりと跳ねるように俺が後退れば、ガタンと椅子が大きな音を立てた。そんな俺を見て、遊佐さんはくすりと笑った。
「美衣子って、古くさい名前だから好きじゃないの。みいって呼んで。……って言ったのはあたしだけど」
 声に含まれる笑みが、乾いたものに変わる。
「あたしのこと、本当に、全然好きじゃなかったんだね」
 違うよ、と喉まで届いた言葉。だけど結局、それを呑み込んでしまったのが遊佐さんのことを全然好きじゃなかった証拠なのかもしれない。遊佐さんは甘やかなフローラルムスクの香りを残して、俺から離れた席に移動した。ミルクティブラウンの髪をたらしたその背中を、くちびるを噛んで見つめる。
 オーケーしたのは好きになれると思ったからだよ。遊佐さんと過ごす時間、ちゃんと楽しいと思っていたよ。適当に付き合っていたつもりはなかった。――きっとそのどれを言ったって、傷付けてしまうだけだ。だって、百人いる学科の同回生の中で遊佐さんのことをすぐに覚えたのは、彼女が周りから「みい」と呼ばれていたからなのに。彼女を呼ぶ声を聞きながら、胸の中でひっそりと、初恋のひとを思い出していた。彼女の肩口に顔を埋めて、耳元で名前を囁いたときも、もしかしたら。

 実家の冷蔵庫では大抵、三個パックのコーヒーゼリーか、三個パックのプリンが冷やされていた。兄弟の好みを交代で、お母さんが順番に買ってくるから。
 ――あ、今日はコーヒーゼリーなんだね。私のミルクあげるね。
 付属している小さなミルクの半分、いつも譲ってくれたお姉ちゃんみたいなひと。
 初恋のひとの初恋のひとは、俺の兄。自分の初恋を自覚したその途端に、失恋の切なさを味わった。たとえば、三人でテレビゲームをやった俺の家のリビング。たとえば、ブレザーを着た兄ちゃんがランドセルを背負った俺たちにアイスを奢ってくれたコンビニ。たとえば、「涼大の彼女、かな」と掠れた声が足元に落ちた夕やけの通学路。みぃちゃんの眼差しを追いかけるたびに、俺は何度だって失恋した。何度だって恋を諦めようとした。その延長線で遊佐さんと付き合って、それでも初恋を捨てられなくて、結果遊佐さんを傷付けて終わった。この初恋は、傷しか生み出せない。

 四コマ目の終わり。学科で仲良くしている(しょう)がスマホ片手に、「ボウリング行こうってなってんだけど」とこちらに身を乗り出してきた。とてもそんな気分ではなかったので、「今日はいい」と断ったら、翔はもっと身を乗り出してくる。
「なに、やっぱカノジョ? 金曜の」
 にやにや笑いに「まさか。あのひとは幼馴染だよ」と返したら、「え、てことは」と翔がなにかに気付いた顔をする。それを聞きたくなかったから、「じゃあまた明日」と強引に話を打ち切って席を立った。
 学食で早めの夕飯を取って、スーパーで菓子類を調達してから帰宅した。今日はお店が定休日なのでバイトはない。アパートのドアの前で、リュックの底の方からキーケースを探し当てたとき、ズボンのポケットの中でスマホがふるえた。一秒にも満たない長さだった。メッセージ? と思いながらスマホを取り出すと、ポップアップには、須藤みのりの名前で電話の着信履歴。目を見ひらくのと同時に折り返しで発信した。コール音七回、ひどくもどかしい気持ちが募って、スマホを握る手に力を込めたときにようやく、電話がつながった。
「みぃちゃん?」
 焦った声で呼びかければ、数秒の間があったのちに、「……ごめんね、遥樹」とようやくそのひとの声が聞こえた。「電話なんかかけて」続けられた言葉の終わり、それを掠れさせた息は、明らかに濡れていた。
「みぃちゃんどうしたの、今どこ?」
 俺の声に答えたのは鼻をすする音。
「みぃちゃん、行くから。そっちに行くから。だから今、どこにいるの?」
 努めて声を落ち着かせて、みぃちゃんに問いかける。途切れ途切れの涙声から、「三番町の公園」という言葉を聞きだした。
「分かった待ってて、すぐ行くから」
 スマホを握りしめたまま駆け出した。

 廊下ですれ違ったあの子から、仄かなフローラルの香りとともに煙草の匂いを感じたからってなに。バス通勤のはずのあの子を、市電の停留所で見かけたからってなに。桧山さんの家からわざと時間をずらして出勤するなんてこと、私だってやっていたじゃない。退勤後、残業のある桧山さんより先に市電に乗って、彼のアパートの斜め前にあるスーパーで食材を買うなんてことも。
 あの子が桧山さんの彼女になったんだから、何もおかしいことなんてない。それなのにどうして私は、こんなところまで逃げてきてしまったのだろう。おまけに自動販売機でカフェオレのボタンを押したつもりがブラックコーヒーが出てきたくらいで。
 それを飲んで「苦い」なんてつぶやいてどうして泣いたの。
 遥樹に電話までかけて、本当に私は、何をやっているの。
「――みぃちゃんっ」
 は、と顔を上げたら、息を切らした遥樹が公園に入ってきたところだった。子供たちのにぎわいが去り、まるでセピアのフィルターがかかったかのような景色の中を、私のもとへ。
「ごめんね、遥樹、」
 私の目の前に立った遥樹は、呼吸を整えないまま私の顔を覗き込んだ。ぐちゃぐちゃに濡れた私の頬を親指で拭って、「どうしたの」と問うてくる。
 どうしたんだろう。どうしちゃったのかな、私は。
 新たな涙をこぼした目をぎゅっと瞑って、コーヒーの缶を握る手のひらに力を込めた。たぷん、とぬるい液体が揺れる重さを手の中で感じた。
「……間違って、ブラックを買っちゃったの」
「え」
「ブラックくらい飲めるって思って、……でも、苦くて、全然飲めなくて……ほんとに、私はまだ幼稚で、」
 あはは、って笑ってみせようとした。だけど全然笑い声には聞こえなくて、嗚咽のような息が不規則につながっただけだ。
 遥樹が痛みを堪えるような眼差しで私を見つめている。だけど言葉は止まらなかった。舌に染み付いた苦みが、私が幼稚だという証拠をまた突き付けてきたから。
「苦いって言ったら、隼斗は笑ってた。煙草のあとのキスは、煙草の味がして、それで、……みのりは子供だなって」
 私は子供だから――だから、あの子と違って妹みたいに思えたんだろうね。どうしていつも、いつだって私は、好きな人の妹にしかなれないんだろう。
 またひとつ、涙がこぼれる。簡単にこぼれてくる涙も、妹の証拠みたいで嫌だ。遥樹から涙を隠すように、顔を手で覆おうとした、――けど。
 男の人の力で手首を掴まれた。情けない泣き顔をさらす戸惑いが生じるよりも早く、まぶたにやわらかな髪が触れた。ぐ、と親指で顎を押されてくちびるをこじあけられて、隙間から入り込んできた舌が私の舌をなぞる。染み付いた苦みを拭い去るように。ん、と鼻から声が抜ける。飲み下せなかった唾液が口の端を伝う。握っていたコーヒーの缶が、音を立てて地面に落ちた。
「……まだ苦い?」
 焦点の定まらないほど近くで眼差しを重ね合わせたまま、遥樹は掠れた声で囁いた。
「苦い」
 呆然とつぶやく私の頬を、性懲りもなく涙は滑り落ちる。
 遥樹の腕が私の頭の後ろに回る。私は目を瞑って、遥樹に縋りついた。

 初恋なんて、叶わないものなんだから。俺は傷付いたりしないよ。
 だからいつだって、電話したいときに電話して。呼びたいときに俺を呼んで。
 都合のいい男でいいから。俺は、みぃちゃんのそばにいたいから。だからね、みぃちゃんに呼ばれることは、俺にだって都合がいいんだよ。
 ――そんなはずないじゃない、と私の理性は冷たい声音でうったえたけど、肌に触れる遥樹のあたたかさがそれをうやむやにした。遥樹の髪からは、バニラに似た甘い匂いがする。私の記憶にこびりついた煙草の匂いをどうか上書きして。煙草の味のキスももう嫌だよ。
 私の肌よりほんの少し温度の高い指先が、耳の後ろをなぞって髪を梳く。声の絡みついた息をこぼして、祈るように目を閉じた。みぃちゃん、と切なげな声がくちびるに落ちる。潤んだ音を立てて、私の祈りは叶う。
 薄闇の中をひそやかに、慄くようにマットレスが軋む。みのり、と掠れた声が私を呼んだ。――幻覚でも、勘違いでも、間違いでも。夢なのだとしても。
 今の瞬間だけは、私は妹なんかじゃない。

 頭痛を覚えるのと同時に目を覚ました。自宅アパートの見慣れた天井の模様がまず視界に飛び込んできた。泣いたあとの頭痛だ、と眉根を寄せて身体を起き上がらせれば、掛布団と毛布が胸元から滑り落ちる。緩慢な動きで引き上げて身体に巻き付けると、「あ、みぃちゃん、起きた?」と朗らかな声が聞こえた。私はそれに身を竦め、ひゅっと浅く息を吸って、「……ごめん」と口走る。私に背中を向け、ローテーブルの前に座っている遥樹は、おそらくわざと聞こえないふりをした。「みぃちゃん、ご飯まだでしょ? 何か買ってこようか?」って、家に遊びに来たただの幼馴染の声で問う。
 それにどう答えるか数秒迷って、「お願いしてもいい?」と答えた。遥樹は私から微妙に視線をずらしてこちらを向くと、「おっけー、何がいい? この辺だとハンバーガーか牛丼か……あ、カレーもあるね。あとはコンビニのお弁当とか」と話を進めていく。
「コンビニで、……グラタンかパスタが食べたい」
「分かった、グラタン昔から好きだよね。パスタはカルボナーラ?」
「……うん」
「おっけー行ってくる。あ、こないだご飯ご馳走してもらったから俺の奢りね!」
 幼馴染の笑顔を残して、遥樹は玄関へ向かっていった。慌てて、背中に追い縋るように、「ありがとう」と声を掛ける。
「いーえ! じゃあ行ってきます」
 パタン、と軽やかにひらいた扉の音まで、どこまでも私に都合がよかった。

 大丈夫だと思い込んでは、またぐちゃぐちゃに泣いて、遥樹に縋って慰めてもらって、また幼馴染に戻って――それを何度繰り返したかな。
「遥樹」
 十一月の中旬、ノー残業デーの水曜日。冬の匂いをふくんだ風が髪をふわりと舞い上げた。顔にかかった髪を手櫛で整えながら、私を探している遥樹に向かって、反対側の手を振る。
「みぃちゃんごめんね、お待たせ。授業終わりにボウリングに連れてかれちゃって」
「いいよ、待ってない」
 小走りで私のもとまでやってきた遥樹は、チャコールグレーのダッフルコートを羽織っていた。もうすっかり冬仕様だ。
「コートあったかそう」
「あは、昨日出したばっかり」
 襟口をつまんで見せながら遥樹は笑った。インナーの、ゆるっとした白のシャギーニットも遥樹の雰囲気によく似合っている。「バイト終わりだと寒いから」と続ける遥樹の口元から八重歯がのぞいた。
「行こ」
 歩き出した遥樹の髪が風になびく。少しくせのあるアッシュよりの黒髪は、淡くやわらかくつめたい、冬の始まりの風に美しく馴染むんだなと思った。
 今日は、遥樹が通う大学の最寄り駅で待ち合わせて、大学生がよく行くという定食屋さんに連れて行ってもらった。店内に入った瞬間、壁を埋め尽くすように並んだ本棚に目を見ひらいた。数百――もしかしたら数千冊の漫画の単行本がある。
 慣れた様子で奥に進んでゆく遥樹についていきながら、部活の話をしている男子学生グループのテーブルを見てもっと目を見ひらいた。ご飯が山盛りだ。お茶碗の容量の三倍くらいのご飯が、まるでお祭りのかき氷みたいなかたちで盛られている。
 これが、遥樹が言ってたマンガ盛り。思ってたよりもっとすごい。なんてまじまじと見つめていたら、学生さんのひとりがこちらを向く気配がしたので慌てて目を逸らした。
 隅っこの席について、遥樹が差し出してくれたメニュー表をのぞき込む。ラミネート加工された表面に、醤油かソースのしみが貼りついている。それに懐かしさを覚えて一瞬動きを止めたら、遥樹が眉を下げて顔を寄せてくる。
「ここで……って言い方したらお店に失礼だけど、その……ここで大丈夫だった?」
 ひそひそ声で尋ねてくる遥樹に、慌てて笑った。
「うん、遥樹が美味しいって言ってたコロッケを食べたいし、見てみたかったの。マンガ盛りのご飯」
 だけどまだ不安そうな顔をしている遥樹に、感じた懐かしさについて話す。
「もしかしたら昔、お父さんとこういうお店に来たことがあるかもって思ったの。メニューについてた茶色のしみをみて、パンダの耳みたいだって言ったような」
「急に思い出したんだけどね」と続ける私を遥樹は神妙な眼差しで見つめるけど、お父さんが亡くなったのは私が五歳のときだ。胸に込み上げる寂しさはもう、鋭く激しいものじゃない。私はメニューを指差して、「私はコロッケ定食にする」と笑った。「俺もコロッケにする」と遥樹がつられたふうに笑う。
 遥樹が店員さんを呼んでくれた。店員さんがやってくるまでのあいだに、「ご飯は少なめって言ったほうがいいかも。普通が大盛りくらいだから」と遥樹が教えてくれた。
 そんな遥樹は普通盛りを頼んでいた。やがて二人分やってきたコロッケ定食は、握りこぶしほどの大きさのコロッケ四つに、お皿からはみ出しそうなキャベツの千切り、そして味噌汁。六百円の定食でこれだけの量が出てくるとは思わなかった。料理を目の前にして圧倒された私は、コロッケをひとつと、キャベツの三分の一を遥樹にもらってもらったのだけど。
「全部食べれる……?」
「食べれるよ。今日お腹減ってるし」
 事もなげに言った遥樹は、私とほとんど同時に、コロッケ(刻まれたゆで卵が混ぜ込まれていて、さくさくで、とても美味しかった)もキャベツも、味噌汁もご飯もきれいに食べ終えた。
「うそ、すごい! 全部食べた」
「一応、食べ盛りの男子学生だから」
 遥樹は口元から八重歯をのぞかせて、おどけた調子で笑う。そっか、いくら可愛くても、中性的な雰囲気でも、遥樹は二十歳の男の子なんだと思った。そう思うのと同時に、胸の深いところがざわついた。
 割り勘でお会計をした。夜の風のつめたさを感じながらお店を出ると、すれ違いで入店したグループの中に、虹色の髪の毛をした男の子がいたのでぎょっとした。歩きながら、思わず振り返ってしまった。赤、オレンジ、黄色、黄緑、緑、青、紫。しっかりとブロッキングされて七色に染められている。私の視線を追った遥樹が「あぁ、確かうちの大学の人だよ」と驚いた様子もなく言った。
「学祭があったから。毎年この時期はカラフルだよ。星の模様が入った人もいたし」
「星?」
「そう。星の形に黄色で染められてた。他の部分はピンクで」
 えぇ、と私は目を丸くした。大学生ってそんなにはっちゃけちゃうの? でもそういえば、大学生って今まであんまり関わったことがなかったっけ。県外の大学に進学した高校の友達とは、彼女が帰省しているときにしか会わなかったし。涼大とも、涼大が大学生になって最初の頃はよく会っていたけど、優奈さんと付き合い始めた頃から、涼大は地元大洲にあまり帰ってこなくなった。隼斗――じゃなくて桧山さんのことも、大学生だった頃のことは詳しく知っているわけじゃない。ああでもそういえば、昔は結構チャラい見た目をしていたとは言っていたな。ピアスもたくさんあいていたから、文学部っぽくないってよく言われていたって。
 文学部、というワードに胸がぎしっと軋んだ。
 あの子も文学部って言ってたっけ。大学で文学を勉強していたから、桧山さんと同じような世界を知っていたんだ。だから、パンプスのストラップが切れたことがたけくらべだって話題で盛り上がって、気が合って――。
 思考を振り切るように、遥樹の方を見た。
「遥樹はずっと黒だよね。染めようかなって思ったりしないの?」
「ええと……俺は自分の髪色、割と気に入ってる、っていうか」
「あ、分かる。遥樹の髪、ちょっとアッシュっぽくていいなって私も思うもん」
 自分がちゃんと笑えていることに内心でほっとしていると、「ほんと?」と遥樹が私の目をのぞき込んできた。やわらかな前髪の下からのぞく瞳が、街灯の光を受けてきらめいている。距離の近さに少しだけたじろぎながら頷くと、「あ、ごめんね」と遥樹がはっと気付いたように私から離れる。
 とん、と遥樹のスニーカーが軽やかにアスファルトを踏んだ。半歩分遅れた私のパンプスは、おろして二週間でようやく足に馴染み始めた。
「みぃちゃん、来週のエンロー劇場版楽しみだね」
 私を振り返った遥樹の髪が、風と楽しげに戯れる。

 電車に乗り込んだみぃちゃんが、窓越しに手を振ってくれた。手を振り返す俺は肌の下で、全身を巡る血のぬくもりを普段よりも鮮烈に感じていた。心に充満していたはずの切なさを、幸せが呑み込んでゆく感覚に戸惑った。
 だめだなぁ。簡単に浮かれちゃって。
 まるで少しずつ闇に溶けていくように、みぃちゃんが乗った電車は見えなくなった。車輪が線路を踏みしめる音を、風が微かに運んでくる。それに後ろ髪を引かれるような気持ちを振り切って、停留所を出ようとして、俺はぴたりと足を止めた。
 遊佐さんがいた。俺に気付いて目を見ひらいた彼女は、ふいと顔を背けて、素知らぬ顔で俺とすれ違おうとする。
 彼女からはどろどろに溶けたアイスクリームのような、ぐちゃぐちゃに踏みつけられたケーキのような、甘ったるくて無惨な匂いがした。どこか身に覚えのある匂いだった。
 香水の匂い? フローラルムスクと――おそらくきっと、俺が使っているのと同じ香水が混ざった匂い。 
 カツン、とレモンイエローのパンプスが音を立てた。立ちすくむ俺の横を彼女が通り抜けた瞬間、ほんの微かに、鼻を啜る音を聞いた。
「――遊佐さん」
 咄嗟に、彼女を振り返った。彼女は俺に背を向けたまま、「なに?」と低い声で邪険に応じる。
「その、……大丈夫?」
「国崎くんには関係なくない?」
「……ない、かも」
 でも、と追い縋ろうとした頼りない声はかき消された。電車が滑り込んできて、きぃぃっと高い音を立てて止まったから。カツン、とパンプスが鳴らした音を、耳が辛うじて拾う。逃げ込むように彼女は電車に乗り込んだ。
 翌日の二コマ目は遊佐さんと一緒だった。だけど彼女は欠席だった。授業終わり、彼女と仲のいい河野さんが、「みいから連絡来た」と友達と話しているのが聞こえてきた。その内容が気になったけど、昨夜の彼女の言葉を思い返す。
 ――国崎くんには関係なくない?
 そうだよね、と荷物をまとめて席を立つ。河野さんたちのそばを通らないようにして教室を出た。
 彼女の未練を受け止められない以上、中途半端な優しさで関わったって、余計に傷付けるだけだ。

 お昼ご飯をコンビニで買って会社に戻ったら、エントランスで桧山さんとすれ違った。「お疲れさま」と無理矢理引き上げられた頬から目を逸らさずに、「お疲れさまです」と返した。私の声は、特別な抑揚なんてついていなかった。同僚に挨拶を返す、ただの同僚の声。
 桧山さんの靴音が聞こえなくなってから、はあっ、と息を吐いた。心臓がぎゅっと縮まる感覚がして、呼吸が少しだけ苦しくなったけど、私は足を止めずに済んだ。カツン、とヒールの音が心なしか軽やかに響いた。

 今日は遥樹とエンローの劇場版を観る約束をしていた日だ。私が車を出して、松前町(まさきちょう)のショッピングモールまで足をのばした。
 土曜日だけあって人が多い。チケットを取っていた映画の上映まで二時間ほど時間があったから、早めの昼食を食べてから館内を回った。仕事用に使っていたトートバッグを捨ててしまったので、新しいものを探したかったから(ちなみに今は、パンのシールを集めるキャンペーンでもらったトートバッグを使っている)。
 映画の時間まで別行動しようか、とも提案したけど、「いいよ、俺も一緒に行く」と遥樹は軽い調子で私の隣に並んだ。三店舗目で丁度いい大きさのトートバッグを見つけた。前に使っていたものより少し小さめで、普段使いもできそうだ。グレーと淡いブルーのバイカラーのそれを持つ私を見て、「今日の服にも似合うね。タグ切ってもらったら」と笑った遥樹は、きっと女の子にモテるんだろうなと思った。なんとなく決まりが悪いような、照れくさいような、そんな気持ちを浮かべた顔を俯けて、店員さんにタグを切ってもらった。バッグの中身を入れ替えながら、私が知っていた年下幼馴染の遥樹とのギャップを改めて思い知る。「持つよ」って、元々持っていたバッグが入ったショップ袋に、当たり前のように手をのばしてくるところだって、ほら。
 知らず知らずのうちに遥樹の横顔を見上げていたみたいで「ん?」と首を傾げられた。「何でもない」と首を振って、遥樹より半歩先を歩いて映画館を目指す。
 映画は、さすが劇場版だった。遥樹と一緒なんだから、と涙を堪えようとしたものの、クライマックスであっけなく決壊した。エンドロールも終わって、明るくなったスクリーンで、遥樹が目を大きくして私を見る。
「わあっ、みぃちゃん大丈夫っ?」
 ぼろぼろこぼれ続けた涙は、アイシャドウもマスカラもぐちゃぐちゃにしているに違いない。
「ちょ……ちょっと、トイレ行ってくる」
「荷物預かるよ。外で待っとくね」
 遥樹にバッグを預けて、ポーチだけ持ってトイレに向かった。トイレで、鏡に映った自分の顔を見て絶句した。ぽろぽろと落ちたマスカラの残骸が、まぶたの下でアリの行列のようになっている。フィルムタイプだから、にじんでないだけマシだけど――なんて小さなため息を吐きつつ、ポケットティッシュで拭いとる。だけどあることに気付いて、その手がぴたと止まる。
 待って、あの金曜日も――遥樹とすれ違って、名前を呼ばれて手を引かれたあの金曜日も――私はこんなひどい顔をしていたの? というか私は、遥樹の前で何回泣いたっけ。
 最悪、と思った。でもすぐに、なにを今さら、と思い直した。
 あの金曜日や、そこから始まった不健全な関係は、最悪だなんて言葉じゃ足りない。遥樹の初恋を都合よく利用して、私の失恋をなぐさめたんだもの。
 どくん、と心臓が低い音を立てる。
 メイク直しを終えて遥樹のもとに戻ったら、遥樹はきっと、いつもの笑顔で私の罪悪感をうやむやにしてくれるはずだ。私は今のこの瞬間だって、遥樹の初恋を利用しているね。
「遥樹、ごめんね」
 映画館のロビーでスマホを扱っている遥樹に駆け寄って、思わずそう謝った。「わぁっ、びっくりした」と肩を跳ねさせて顔を上げた遥樹は、私の目を見つめて首を傾げる。
「大丈夫。全然待ってないよ?」
 そうじゃない、って言えない私は遥樹の初恋に甘えている。
「はい」と差し出されたバッグを受け取って、ポーチを入れた。「すごかったね、劇場版は迫力が違う」いつもの笑顔で映画の話を振る遥樹につられるようにして、私も笑う。
 遥樹のバイトまでまだ時間があったので、カフェでお茶をすることにした。一階のレストラン街に向かっていたら、「みのり? ……と、遥樹くん?」と後ろから声をかけられて、驚いて振り返る。
 お母さんがいた。裾がアシンメトリーになっているネイビーのチュニックに白いパンツを合わせ、パールのネックレスとイヤリングで華やかにおしゃれをしている。隣の男の人――ブラウンのジャケットとジーンズを品よく組み合わせている――は、きっとお母さんの彼氏だ。不躾に眺めてしまってからはっとして、「こんにちは」と慌てて頭を下げた。
「こんにちは。佐倉と申します」
 佐倉さんの穏やかな声に、お母さんの少し戸惑った声が続く。
「みのりが今度帰ってきたときに紹介しようと思ってたんだけど」
 結婚を前提に半年前からお付き合いしていただいてるの、とお母さんが照れくさそうにぎこちなく笑った。
「年末には帰省しますので」「では、またそのときにゆっくりお話しできたら」――佐倉さんと、当たり障りのない言葉をにこやかに交わした。会話の切れ間に、「みのりは、お付き合いしてるって人は」って、お母さんが期待を込めた目で訊いてきたのは何も悪くない。私が、お母さんに言うのを後まわしにしていたのが悪いんだから。
「別れたの! だから遥樹を連れまわしてる」
 なんにも気にしていないという風にあっけらかんとした口調で言った。だけどお母さんは「あっ……、そうなの、ごめんね」と眉を下げる。お母さんに私の空元気は通用しなかった。それは当然だし仕方のないことだけど。私を心配そうに見つめるお母さんの眼差しに、胸の奥の方を抉られたような感じがした。お母さんの眼差しじゃなくて、優越の立場から、私に哀れみの指先を差し出す女の人の眼差しに見えた。向き合っているのは、間違いなくお母さんなのに。
 思わず鼻白んだ瞬間に、遥樹がまとうバニラの匂いがふわりと揺らめいた。
「あはは、俺がみぃちゃんに遊んでもらってるんです。昔から変わらず」
 お母さんの眼差しを引き受けて、遥樹が笑みをひろげる。
「一緒にエンローの映画を観たんです。それで、今からパフェ食べに行こうって」
「あぁ、そうなの。私たちも映画を観ようと思って」と返したお母さんが、腕時計を見て「あっ、そろそろ行かなきゃ」と声を上げる。
「じゃあまたね」と手を振るお母さんにあわせて佐倉さんが会釈をする。私たちも会釈をして、くるりと踵を返した。そうして、カフェに向かった。

「彼氏ができたのかなーとは思ってたんだけどね。夜に電話が掛かってくる回数が少なくなったし」
 メニュー表をスタンドに片付けて、私はひとりごとのように話し始めた。頬杖を突いたテーブルの木目を眺めながら。
「いいんだけどな。お父さんが死んじゃったのはずっと前だし、お母さんはずっとひとりで頑張って私を育ててくれたし。……それにもしかしたら、私を気にして駄目になった恋愛もあったのかもしれないし」
 私が中学二年生の頃、多分、お母さんにはデートをしている相手がいた。私が部活に行っている土曜のお昼間に会ったり、私がお風呂に入っている間に電話をしたりしていたみたいだった。だけど私が三年生に上がってしばらくすると、金曜夜にクローゼットをのぞき込む華やいだ横顔や、浴室のすりガラスの向こう側から感じる弾んだ空気に遭遇することがなくなった。
「だから、お母さんが佐倉さんと幸せならいいって思うの。それは、ほんとに。なのに、……なんでかな」
 胸の奥に流れ込んだ血液がどろりと沈殿したみたいな、そんな嫌な感覚がする。
「喜べてない、のかな」
 だとしたら私はひどい――なんて聞かされても遥樹は困るか。声にするのを取りやめて、言葉を呑み込んだ。その瞬間、とん、と眉間を軽く押された。「わっ」と目を見ひらいて肩を跳ねさせれば、「シワ、寄ってるよ」と、穏やかな瞳が私を見つめる。
「もしも喜べてなかったとしても、みぃちゃんがひどいとは思わないよ」
 まるで私の心を読んだかのような言葉だった。遥樹は私の眉間に触れさせた手を引っ込めると、穏やかな瞳のまま言葉を続ける。
「おばさんと彼氏が幸せならいいって、みぃちゃんが本当に思ってるのも分かるもん。みぃちゃんが優しいひとだっていうのは昔から知ってる。でも、いくら優しいひとでも、感情って、いろんなのがぐちゃぐちゃに混ざってて当たり前だから。悪く見えるとこだけに注目して、自分はひどいなんて思わなくていいよ」
 そこまで言ったところで、遥樹がはっとしたように、決まりが悪そうな顔をする。
「……って、ごめんね。年下なのに偉そうに」
「ううん」
 私は首を振って、視線を落とした。つい先ほど私の眉間に触れた遥樹の指先は、テーブルのふちに引っかけるようにして置かれている。触れられたのはほんの一瞬だったけど、あったかかった、と思う。
「さっきもありがとう」
 心の底からそう思った。だから素直にお礼を言っただけだった。それなのに遥樹は面食らった表情で、照れたように頬を赤くして「俺は、何もっ」と言葉を詰まらせた。
「何も、してないよ」
 まるで、失くしたと思っていた宝物を見つけたときみたいに、安堵に口元を緩め、感慨に眉をぎゅっと寄せ、遥樹は言葉を言い直した。泣きそうにも聞こえたその声に私が驚いたとき、店員さんがドリンクを持ってきてくれた。
 ホットのコーヒーを手元に引き寄せた遥樹は、「みぃちゃん、映画! すごかったね」と八重歯を見せて笑う。私はカフェオレを呑み込んで、「うん」と頷いた。

 翌日は新しいトートバッグで出社した。タイムカードを押して自分のデスクに向かう途中、「須藤さんおはよう」と桧山さんはわざわざ声を掛けてくる。俺は公私混同はしないから、というアピールがあからさまで、ひどく腹立たしかった挨拶だけど、もういい加減に慣れたのかな。「おはようございます」と返す心が初めて無感情になった。
 腫れ物に触るように優しくしてくれる同僚にも慣れた。隣の課のあの子――戸田さんが私と目が合う一瞬前に逸らして「……お疲れ様です」って肩身が狭そうに言ってくるのにも。気の毒だな、ってそんな気持ちもわき上がってきた。せっかく恋が叶って幸せいっぱいの時期なのに、いろんなところに気兼ねしないといけないなんて。ただ、誰々が破局したとか乗り換えたとか、そんなのは初めてってわけじゃない。伝統的に、社内恋愛がオープンな会社だから。だから多分、もうすぐしたらみんな興味がなくなって、ちゃんと幸せに浸れるようになるよ。
 昼休み、コンビニへ向かいながらそんなことを思っている自分に気付いて驚いた。カツン、とパンプスのヒールが軽やかにアスファルトを踏む。

 ありがとう、は俺に向けられていた。あの言葉に込められた心はすべて、俺に向けられていた。
 俺の思い込みなのかもしれないけど。俺の希望的観測なのかもしれないけど。
 通学途中の信号待ちに、教授の声の途切れ間に、スマホをいじる授業開始一分前に、微笑みをふくんだあたたかな声を思い出す。花ひらくみたいにやわらいだ表情を思い出す。そのたびに、舞い上がるな、と自分に忠告する。だって初恋なんて、叶わないものなんだよ。それはもう十分(じゅうぶん)分かってるでしょ?
 四コマ目の終わり。今日は月曜の定休日だからバイトはない。翔がフリーならボウリングに連れて行かれるところだけど、所属している軽音サークルのライブが近いとかで忙しいみたいだ。荷物をまとめて教室を出た。建物の外に出れば、冬の風が肌をひっかくように撫でてゆく。学食の横まで来て、足を止めて、コートのポケットからスマホを取り出した。メッセージアプリのアイコンにいったんは触れた。でも、昨日会ったばっかりなのにうざいかな、とアプリを閉じる。それに、月末は仕事が忙しくなるってみぃちゃん言ってたし、疲れてるときに誘ったら悪いかも。
 それでも後ろ髪を引かれるような気持ちを捨てきれなくて、学食には入らず通り過ぎた。みぃちゃんはまだ仕事中だし、校門に着くまでに考えよう。うん。
 アスファルトには、靴先から影が長く伸びている。俺の動きに合わせて揺れる影を追うようにして進んだ。不意に、木陰が俺の影をすべて呑み込む。今までの景色が途切れる。その瞬間に、また思い出した。微笑みをふくんだあたたかな声を、花ひらくみたいにやわらいだ表情を。
 ――だから、舞い上がるなって。
 自分を諭す俺の声に、鋭くとがった声が重なった。
「いい加減にしてもらえます? うちの大学にまで来られて迷惑です」
 よく知っている声だった。駐車場の方からだ。はっと顔を上げて声の方を振り向けば、ミルクティブラウンの髪をたらした後ろ姿。彼女は、見知らぬ男に腕を掴まれている。
「……遊佐さん?」
 びく、と肩をすくめてこちらを振り返った遊佐さんの顔には恐怖が浮かんでいるように見えた。――違うかもしれないけど、俺にはそう思えた。
 俺は彼女のもとへ駆け寄って、彼女の腕を掴んでいる男の手を引き剥がす。ふわふわのアッシュブラウンの髪をした彼は、他大学の学生か。
「嫌がってます。なんなら、守衛さんを呼びますけど」
 目線で校門にある守衛室を示せば、「別に、話してただけじゃん。大げさじゃね」って言い訳と苦笑いのようなものを残して、彼は踵を返した。彼の髪が冷たい風になびく。そのときに気付いた。ウッディを基調とした甘いラストノート――彼の香水は、俺と同じだ。
 だったらこの前の、停留所で会った日は――。推測は、遊佐さんの声で打ち切られる。
「ありがとう、しつこかったから助かった。じゃあね、国崎くん」
 すたすたと歩き去ろうとする背中に、「待って」と追い縋る。
「大丈夫なの。さっきの人に、なにかされたんじゃないの」
「別になにも」
 俺に視線を向けずに歩く彼女の隣に追いついて、「送っていくよ。待ち伏せでもされて、またなにかされたら……」と言い募る。だけど彼女は「別になにもされてない」と低い声で繰り返すだけだ。
 でも、だとしたら、彼女が先ほど見せた表情は何だったのか。それに、この前のことも。
「……泣いてた、よね。この前停留所で会ったとき。さっきの人、俺と同じ香水だった。この前も、俺と同じ香水の匂いがして……あの人に、なにかひどいことされたんじゃ」
「されてないって!」
 鋭くとがった声だった。俺を振り向いた彼女は、泣く寸前みたいな顔をしていた。それに怯んだ次の瞬間に、彼女は泣きそうな表情をかき消した。くちびるを皮肉げに持ち上げて、自嘲するような笑みを浮かべる。
「避妊せずにされたってだけ。アフターピルも飲んだし、もう全然大丈夫だから。この前は、いいように流されてとんでもなく馬鹿だなって、自分に呆れてただけ。連絡無視してたからうちの大学まで来たみたいだけど、もうあたしに興味はないんじゃない? 相手は他にもいるみたいだし」
「……だけ、って。そんな」
「それだけだよ。もういいでしょ? この前も言ったけど、国崎くんには関係ない」
 有無を言わせない強い眼差しを残して、彼女は校門へと歩き去った。

『別れよっか。浅田先輩に告白されたの。先輩と付き合おうと思うの』
 遊佐さんにそう告げられたのは、約半年前の五月十一日。目を見ひらくあいだに、『あたしの誕生日、いつだと思う?』重ねられた問いには答えられなかった。
『五月十日だよ』
 切なげに、苦しげに、彼女は微笑んだ。
 遥樹は、あたしが自分から話したり、誰かから聞いたりして知った、既に知ってるあたしのことをそれなりに好きでいてくれてるんだと思う。
 でも、まだ知らないあたしのことを知ろうとしてくれない。
 遥樹、あたしに興味ないでしょ?
 ほら、言い訳すらしてくれない。

 国崎くんには関係ない、と遊佐さんは言う。でも、本当に関係ない? 関係ないで済ませてもいい?だってきっと、俺が傷付けたから彼女はこうなっているのに。
 行け、とたきつけるように、冷たい風が後ろから吹く。だけど俺は、校門を踏み越える彼女の背を追えない。
 だって、また傷付けるだけになるかもしれない。なんの覚悟も意思も伴わない、中途半端な優しさで追いかけたって。
 でも、だって、を何度も繰り返した。結局、俺が校門を踏み越えたのは、ミルクティブラウンの髪をたらした背中をとっくに見失ってからだった。

 定時間際に、営業さんがどさっと持ってきた領収書の処理をしていたら、一時間半の残業になった。もーなんでまとめて出すかなぁ、と心の中で愚痴を吐きつつ会社を出た。
 空の底に少しだけ残った夕やけを見上げて歩いていたら、正面から冬の風が吹きつけてきた。風の中でばらばらになった髪を指でなでつけながら、市電の停留所へと、横断歩道を渡ろうとした。
 だけど、停留所で戸田さんが電車を待っていることに気付いた。きっと、向こうが私に気付いたら気まずい思いをすることになるだろう。
 青信号の点滅を見送って、トートバッグのポケットからスマホを取り出す。メッセージアプリをひらいて、国崎遥樹のトーク画面までひらいた。
 そこで数秒考えて、やっぱりやめとこう、と画面を閉じる。昨日も会ったばかりだし。遥樹だって、大学の友達とかいるんだから。
 スマホを片付けて、踵を方向転換する。デパ地下でお惣菜買って帰ろう。今日は残業したしね。
 代わりに約束を取り付けたのは水曜日のノー残業デー(といっても、月末だから三十分の残業になった)。期間限定のチーズフェアが目的だった、のだけど。
「……遥樹、なんかあった?」
 入店して、向き合ったソファ席で私はテーブルに身を乗り出した。遥樹の目をじっと見つめるけど、遥樹は、「なんにもないよ」と首を振る。そうして、私を安心させるように無邪気に笑う。その笑顔は、だけどどこか苦しそうだ。
 それ以上はなにも訊けなかった。なにか悩みがあるのだとしても、遥樹はなにも言うつもりがないのだと分かったから。――このカルボナーラ美味しい。みぃちゃんは昔から、チーズとかクリームが好きだよね。遥樹こそ、いっつもミートソース。そういえばエンローのルイがトレンドに入ってたけど、本誌で何かあったのかな――気軽で気安い話を弾ませて、パスタを食べ終えた。デザートは、セットメニューのコーヒーゼリー。つるんとなめらかなゼリーへ、小さなポットからミルクをたらす遥樹を見ながら、懐かしい気持ちになった。そういえば昔は、遥樹にミルクを半分あげてたっけ。ちっちゃい遥樹は、コーヒーゼリーの苦みが苦手だったから。
 遥樹の手元を見つめていたら、「ん?」と首を傾げられた。なんでもない、と私は首を振って、「コーヒーゼリーはブラックじゃないんだね」と言ってみた。
「ゼリーはそもそも甘いし……、ミルクも、今はなくても食べれるけど、かけたいなって思っちゃう」
 そう言いながら、遥樹が照れたような微妙な表情で視線を揺らめかせたように見えた。もしかしたら、遥樹も昔のことを思い出しているのかもしれない。
 コーヒーゼリーを食べ終えたらすぐにお店を出た。人でそれなりににぎわう銀天街を歩いて、松山市駅へ。駅手前の横断歩道を渡っているときに、前から歩いてきたサラリーマンとお見合いになった。「みぃちゃん、こっち」と小さく笑った遥樹に肩を抱かれるように引っ張られて、無事にすれ違えたのだけど。
「あ、……ごめんね」
 バニラの匂いが間近で香るなか、私から一歩遠ざかった遥樹が苦しそうな顔をした。私に触れたことを後悔するように、恐れおののくように、指先をぎゅっと握り込んで手を下ろした。
「遥樹?」
 遥樹の目を見上げた。眼差しが重なった瞬間に、見上げた先の瞳は笑顔のかたちになる。
「みぃちゃん、JR行きの電車来てる。急げば乗れるよ」
 JR行きは私が乗る電車だ。足を速める遥樹を追って、私も駆け足になる。「間に合った」と笑う遥樹に、「よかった」と笑い返して、いったんは電車に乗り込んだ。
 だけど扉が閉まろうとする寸前、笑顔で手を振る遥樹の目を見下ろした途端に、身体が勝手に動いた。パンプスのつま先が駅のタイルを踏むのと同時に、私の後ろで扉が閉まる。
「……みぃちゃん?」
「今日は、遥樹を見送りたい気分」
「え」
 戸惑う声に、「いいでしょ?」と重ねて遥樹の隣に並ぶ。かつん、とヒールが鳴る。冬の始まりの風に髪が揺れる。遥樹の髪もふわりと揺れて、バニラの香りがやわく揺らめく。
「私、遥樹に甘えてばっかりで頼りないかもしれないけど。でも、いちおう年上だから。それに、遥樹のことも昔から知ってるし。だから、もしも何か悩みとかあるなら、相談に乗れるかも。人生の先輩として?」
 おどけて笑った。遥樹も笑うと思った。だけど遥樹のほうからはなにも返事がない。
 線路の向こうから、電車がやってくる音が聞こえた。それにかき消されるくらい弱く、「ごまかせてなかったね」と遥樹がつぶやいた。そこでようやく、遥樹が苦く笑った。「みぃちゃん」と遥樹が私を呼ぶ。視線が合わさる。小さく息を吸う音がして、遥樹は何かを決めた強い目をした。
「今は、駄目なんだけど。でも、やらなきゃいけないことをちゃんとやるから。そしたら、みぃちゃんに聞いてほしいことがある」
 切羽詰まった必死な声で、遥樹は言った。「うん」と私は頷いた。遥樹の眉間にはぎゅっとシワが寄っていた。だから私は手をのばして、とん、と苦しそうなシワに触れる。
「シワ、寄ってるよ」
 この前遥樹に言われた台詞をなぞれば、気が抜けた顔で遥樹は笑う。
 大街道方面行きの電車が到着した。それに乗り込んだ遥樹は、ドアが閉まる寸前に、「今日は誘ってくれてありがとう」と緩んだ表情で私を振り向いた。
 手を振って、遥樹の乗った電車を見送りながら、どうして私は心を高鳴らせていたのだろう。自分の過ちを、薄情を、傲慢を、すっかり忘れて――どうして。
 私は遥樹の初恋を利用した。健気で一途でひたむきな心を、自分をなぐさめるために利用した。遥樹がくれる言葉だけを聞いて、遥樹の心の軋みには耳をふさいで。
 ――涼大、……私。私の好きな人は、
 ――へぇ、好きなやつがいるんだ? みのりは、妹みたいなものだから。お兄ちゃんとして応援しなきゃな。
 砕け散った思いはガラスの破片のよう。無理矢理呑み込めば、胸のやわいところに突き刺さるそれに身をかがめてうずくまるしかない。痛みに耐えかねて吐き出せば、周りに散らばった血まみれの残骸が私の動きを奪う。
 だから喜びも、嬉しさも、触れ合った指先の温みも、言葉のふるえも、胸の高鳴りも――大事に愛しんできた思い出ごと初恋をぐちゃぐちゃにつぶして、心のもっとも奥底に押し込んで、忘れたふりをした。
 初恋が無残に散ってゆく痛さを、知っていたくせにどうして。

 初恋は叶わないって、もう十分分かっていたはずなのにな。みぃちゃんが、俺を通して見る夢で少しでも痛みを忘れられるのなら、それだけでよかったはずなのにどうして。
 初恋は叶わないのに。俺の初恋はみぃちゃんの恋にならないのに。聞いて欲しいことがある、なんてどうして。
 車窓を流れてゆく夜景を眺めながら、自分が発した言葉を思い返す。でも、どきどきと逸る鼓動が、どうして、を呑み込んでゆく。そうしたらたちまちのうちに、戸惑いは幸福感にかき消されていった。
 電車が減速した。大学の最寄りの停留所に着いたのだ。ICカードで運賃を払って電車を降りる。明日の朝ごはん用のパンがなくなっていることを思い出して、コンビニに寄ることにした。
 コンビニは横断歩道の向こう側。家飲みでもするのか、パンパンにふくらんだレジ袋をいくつも持った学生グループが前から歩いてくる。彼らのにぎわいに逆らって横断歩道を渡った。頭上で、青信号が点滅し始める。
 あ、と声をあげたのは、コンビニから出てきた二人組に気付いたから。背の高い男に手を引かれるようにして、レモンイエローのパンプスをかつんと鳴らした彼女は、ミルクティブラウンの髪を風に揺らす。
 彼女も俺に気付いた。だけどふいっと視線をそらして、隣の彼の指先に自分のそれを絡めた。俺は彼女を呼ぼうとした声を呑み込む。このまますれ違えばいい。彼女の仕草が、ちゃんと恋人に縋るものなら――。
 彼らが、俺とすれ違う。風が運んできたのは、ウッディを基調とした甘いラストノート。違う、と思った。彼女は俺から目をそらして、恋人に縋ったわけじゃない。俺が傷付けた彼女は、また。
「――遊佐さん!」
 背の高い彼だけが、俺を振り向いた。「知り合い?」と彼が遊佐さんに訊いて、「別に」と遊佐さんが返す。「行こ」と彼の手を引いてまた歩き出す遊佐さんに、「待って、遊佐さんっ」と追い縋る。でも、彼女はやっぱり俺を振り返らない。
 俺のことなんてもうどうでもよくなっていて、彼のことがちゃんと好きで、彼にちゃんと大事にしてもらえるのならいい。だけどこの前、泣いていたよ。俺と同じ香水をつけた男にひどいことをされて、泣いていた。だから、駄目だよ。「遊佐さんっ」駄目だ。「待ってよ」駄目だ。
「――みいっ」
 レモンイエローのパンプスがかつんと止まる。彼女の腕を掴んで引き寄せた。彼女の指先が、背の高い彼の指先を手離す。フローラルムスクが甘く揺らめく。呆然と、愕然と、俺を見上げる瞳は涙で潤んでいた。「あの、じゃあまた今度ね」などと白けた表情で笑って、背の高い彼が去ってゆく。
「……遊佐さん」
「ひどいなぁ」
 鼻で笑うような泣き笑いで彼女がつぶやいた。
「あたしと別れてから、あたしに必死になるなんて」

 彼女は、したたかだけど繊細で、潔癖な優しさを持つひとだった。
 まだ、俺も彼女も十九歳だった一回生の後期。二回生になったら振り分けられるコースの説明会があった日に、観光政策コースの希望者に先輩から声がかかって、飲み会がひらかれた。その席で彼女が俺の隣に座ったのは、いろいろな根回しがあってのことだったのだろうと今は思う。会の終わりかけに、彼女は俺の反対隣の先輩が飲んでいるジンジャーハイを、自分のジンジャエールと間違って飲んだ。「めまいがする」と眉間を押さえる彼女を、俺が送っていくことになった。
「遊佐さん、」
「みい、でいいって言ってるのに」
 その呼び名の響きは、心の奥深いところに押し込めている感情を揺さぶった。お盆の連休に、実家で会った初恋のひと。そのひとは初恋を振り切って、兄ちゃんじゃないひとに恋をしている。俺はいつになったら、失恋をしなくてすむようになるのだろう。
「みい、」
 何かに惑わされるようにそう呼べば、伏せられていた彼女の目元が艶を帯びた。そこで俺ははっとして、「歩くのしんどくない? 大丈夫?」と慌てて言葉を重ねた。そうしたら。
「もう平気」
 囁くような声とともに、彼女の指先が俺の指先に触れた。フローラルムスクが、花の蜜みたいに甘く強く香る。息を呑んで身体を緊張させた。おののくように眼差しを揺らしたら、彼女がぱっと手を引いた。
「全部嘘。先輩のお酒飲んだのもわざと。めまいなんて全然してない」
「え」
「国崎くんを、誘惑しようと思って。入学した頃から、好きだったから。……こんなに簡単に引っかかっちゃだめだよ」
 最後の言葉をいたずらっぽい声で付け加えるとき、彼女は不安そうな目をしていた。彼女に対して、嫌悪感のようなものは感じなかった。その気になればきっと、彼女は『誘惑』を全うできたのに。寸前で、俺の意思を慮った。彼女は、したたかだけど繊細で、潔癖に優しいひとだった。
 好きになれるかもしれない、と思った。何度だって失恋した初恋を、今度こそ振り切れるかもしれないと思った。

「俺と同じ香水、って前に言ってたね。だからあたしを止めたの? 遥樹に未練たらたらのあたしが、また馬鹿をやってるなって思って?」
 自分を嘲笑する声音を出しながら、彼女は口元をゆがめる。笑みになりきれていないくちびる、俺はそれを見下ろして、ふるふると首を振って、「そんなことっ」と弁解した。
「違う、思ってない、遊佐さんに、もう泣いてほしくなくて」
「じゃああたしを好きになってくれるの?」
 畳みかけるように彼女は問いを重ねる。俺は弾かれたように身体を緊張させて、視線を惑わせる。くちびるをひらいて、だけどなにも言えずに閉じて、なにか言わなきゃともういちどひらいた。――ひらいたけど、言葉が出てこない。
 ふっ、と遊佐さんが笑った。涙のにじんだ瞳は笑みのかたち。だけど、眉根にはぎゅっとシワが寄っている。
「好きになんてなれないでしょ? 呼び方だけだったんだもん。あたしを呼んで、あたしを抱きしめて、あたしにキスをしても……セックスをしても、本当に好きな人の、代わりだったんでしょ?」
 違うよ、と言おうとした。言えなかった。代わりの言葉もなにも言えない。また、彼女の言葉に追い越される。
「一緒だよ」
 言い聞かせるような口調で、彼女が言う。「ウッディの甘い匂いがね、目を瞑ったら、遥樹みたいだから。遥樹とあたしは一緒だよ。だから、もう止めないで。もう、あたしに関わらないで」
 俺を見上げる瞳の潤みが、大きくふくらんで、ほろりと涙がすべり落ちる。フローラルムスクがふわりと揺らぐ。彼女は顔をふいっと背けて、苦しさを無理矢理振り切ろうとするように、踵を返す。
 俺は奥歯を噛みしめた。このまま行かせちゃいけない。今ここで話ができなかったら、これから先も、俺はずっと謝れない。
「待って、――みい」
 精一杯の思いを込めた声で彼女を呼んで、彼女の肩を捕まえる。びく、と彼女の身体が強張る。それに怯みながらも、彼女の肩に手を置いたまま、「みいにちゃんと謝りたい。だから、話をさせて」と縋るような声で続けた。

 きぃ、とみいが腰掛けているブランコが微かに軋んだ。俯いている彼女の表情は、ミルクティブラウンの髪に隠されていて見えない。
「みぃちゃんは、幼馴染のお姉ちゃんみたいなひと。俺は弟なんだって、分かってた。みぃちゃんの好きなひとは、俺の兄ちゃんだったから」
 きぃ、と俺が座っているブランコも軋んだ。俺は言葉を続けてゆく。つめたい鎖に、俺の体温がだんだんとしみてゆく。
「一回生のときの飲み会の日。俺を誘惑しようとしたって、みいはばらしてくれたでしょ。なんていうか……あっ、優しいひとなんだなって思ったから。みいのこと、好きになれるかもしれないって思ったんだ」
 風に言葉が溶けてゆく。あたたかな好感。冷ややかな後悔。感情が揺らぐのにつられて、声が揺らぐ。
「代わりにしよう、ってつもりじゃなかったよ。みぃちゃんへの初恋は、もう終わりにするつもりだったよ。言い訳にしかならないけど、それは本当だったよ」
 みいは何も言わない。彼女に言葉が届いていることを願いながら、鎖を握りしめる手にぎゅうと力を込めた。
「でも、終わりにできてなかったね。みいのことを呼ぶとき、みぃちゃんのことを思い出していたかもしれない。ううん、かもじゃないや。思い出してた。だから、……ごめんね。俺は、みいのことをいっぱい傷付けた」
 ブランコの鎖から片手を離して、みいの方へ上体をひねった。きぃ、と鎖が軋む。みいは俯いたままだ。「ごめんね」ともう一度繰り返した。果てのない闇のような沈黙がしばらく続いたあと、みいが息を吸う気配がした。
「訊いてもいい?」
 みいの言葉に頷いた。決意を込めた眼差しで、ミルクティブラウンの髪に隠された横顔を見つめる。
「今、『みぃちゃん』のことをどう思ってるの?」
 みぃちゃんのことを、と口の中でみいの言葉をなぞりながら、答えを考える。みぃちゃんのことを、今、俺はどう思っているのか。
「……好きだって、思ってる」
 全身を巡る血のぬくもり。切なさや戸惑いを、たちまちに呑み込む幸福感。それらを思い出しながら答えた。
「そっか」とみいは、湿りけを含んだ声を出した。何かを悟ったような、諦めたような、吹っ切ったような、そんな声に聞こえた。
「もう付き合ってるの?」
「ううん。付き合ってはない」
「そっか」とみいが相槌を打つ。ミルクティブラウンの髪が揺れて、きぃ、とブランコの鎖が軋んで、みいがふっと顔を上げた。潤んだ瞳が俺を見つめる。泣く寸前みたいな瞳で、それでも、みいは表情をやわらげた。
「ふたつ、お願いがあるの」
 みいが、微笑みながら俺に願う。
「あたしを抱きしめて、あたしを呼んでほしい」
 ふるえ声が風に溶けた。俺はみいの目を見返して、ためらいがちに言葉を返す。
「それは、また……みいを傷付けない?」
 感情が伴わないのにそんなことをしたら、という思いが言葉をよどませた。だけどみいは、「傷付けてよ」と湿っぽさを振り切った声で笑う。「できたらね、遥樹のことを嫌いになるくらいに」――からからとしていて明るくて、嫌みのない、少しだけ冗談めかした声。
 息が詰まったように、胸が苦しくなった。きぃ、とブランコの鎖が軋む。俺は立ち上がって、地面を踏みしめて、みいのもとへと進む。
「みい」
 ブランコに腰掛けるみいへ手を伸ばした。俺を見上げて、くちびるをふわりと緩めて、みいは俺の手のひらに指先をのせる。
 金属の軋み、風の流れ、遠くのエンジンノイズ、衣服の擦れ、互いの鼓動。それらすべてに上書きするように、「みい」と呼んだ。フローラルムスクの甘やかさを、身体の温みを、髪のやわさを、確かに受け止めながら。
 みいの息が襟元をくすぐる。
「洗剤の匂いと、シャンプーの匂いがちょっと混じってる。香水が同じでも、全然違うのにね。匂いも、あったかさも、身長も、力加減も。……馬鹿だったなぁ」
 俺の背中に腕を回して、息をこぼすようにして、みいは笑った。心臓がぎゅっと締め付けられる。俺はみいを抱きしめる力を強めて、「ごめんね。みい、傷付けてごめんね」と掠れた声で繰り返した。胸の痛みが呼吸を浅くする。抱きしめた身体は、簡単に壊してしまえそうなくらいに細くてやわらかい。あの頃何度も抱きしめたはずなのに、どうして今になるまで気付かなかったのだろう。どうして、大切にできなかったのだろう。ぎゅうと眉をしかめて顔をゆがめる。
「もういいよ」
 穏やかな微笑みが俺を許そうとする。
「遥樹が、あたしや、あたしとの関係を大切にしようとしてくれてたのは分かったよ。でも、好きな人への恋が、意志よりも強かっただけだね。だって、恋ってそういうものだもんね」
 二人分の鼓動が俺たちを包むなか、みいは緩やかな声で言葉を続けた。
「傷付いても苦しくても、あたしは遥樹のことが好きで仕方がなかった。遥樹はあたしに興味がないって泣くくらいならもう別れなよって、いろんな人に呆れられた。でもね、それでも好きだったから。馬鹿だなぁって思いながら、半年も別れられなかったの。やっと別れてからも、未練ばっかり。あたしも偉そうに被害者ぶれないの。浅田先輩に、同じことしたもん。……恋に、意志なんて簡単に負けちゃう」
 みいの手が、俺の胸をそっと押した。俺は腕を解いて、みいの瞳を見下ろした。「みい、」と呼んで、何かを言おうとする。彼女がくれた許しになにかを返そうとして、懸命に言葉を探す。だけど次から次へと込み上げてくるぐちゃぐちゃの感情を、適切に表せる言葉が見つからない。途方に暮れた顔で、泣く寸前みたいな表情で、みいを見下ろすしかできない。それなのに、それすら許そうとするように、みいは笑みを深めた。
「ひとつめのお願い、聞いてくれてありがとう。ふたつめのお願いも、言ってみていい?」
 返せない言葉の代わりのように、俺は精一杯頷いた。

 まるで鏡でそっくりそのまま写しとったみたいに、私たちの、実らない初恋の切なさは同じに見えた。初恋のひとの、好きなひとは自分じゃない――切なさをなぐさめ合うように、手を触れさせた。指先を絡ませた。体温を縺れ合わせて、夢にまどろんだ。
 だけどよくよく目を凝らしてみたら、鏡写しは『同じ』じゃない。私が右の瞳から涙をこぼせば、鏡写しのきみは左の瞳から涙をこぼす。私が右手を伸ばせば、鏡写しのきみは左手を伸ばす。鏡越しに触れ合わせた心も、きっと同じように反転していた。
 私の初恋は実らなかった。遥樹も、初恋は叶わないものだと言っていた。同じに、見えたけど。
 私の初恋は遥樹じゃない。だけど、私は遥樹の初恋だ。
 遥樹の初恋は叶わない。――なら、私たちは恋にはならない。抱きしめられても、キスをしても、セックスをしても。
 たとえ、私がきみとの恋を願っても。

 お昼休みの終わりかけにトイレに行ったら、手洗い台の鏡に映った戸田さんとばっちり目が合った。鏡の中の戸田さんは、びくっと肩を跳ねさせて、慌てた手つきでメイクアイテムをポーチにしまう。「お疲れさまです」と口走るように言い置いて、彼女は私の横をすれ違う。「お疲れさまです」とトイレを出ていく戸田さんの背中に辛うじて挨拶を返した。そのすぐ後に、手洗い台にあぶらとり紙が置かれていることに気付いた。
 トイレを出て、部署まで戻りながら、手に持ったあぶらとり紙をどうするか考える。戸田さんは、なるべくなら私と顔を合わせたくないはずだ。先ほどの彼女の様子からも、それが読み取れた。桧山さんや、戸田さんと同じ部署の誰かに渡してもらうよう頼めばそれをせずに済むけど。
 でも、桧山さんに頼んだって、トイレで鉢合わせしたんだから、拾ったのが私だってきっと勘付く。そうしたら、彼氏が元カノと喋ったんだなってもやもやするだろうし。
 戸田さんの部署の誰かに頼んだとしても、私たちの恋愛沙汰は部署の全員が知っているから。どんな理由をつけたとしても、あっ、と事情を勘ぐられてしまう。受け取る戸田さんは、きっと居心地が悪くなるよね。
 結局は、普通に渡すのがいちばんマシ、なのかな。
 よし、と心の中で気合を入れて、戸田さんの部署へと歩く。
 名前を呼んだだけで、戸田さんには怯えた顔をされてしまった。でも、あぶらとり紙を渡したら、戸田さんは私の目を見てお礼を言ってくれた。心細そうに揺らめかせた瞳で、それでも一生懸命に私の目を見つめて、「わざわざすみません。ありがとうございます」って。感謝を精一杯伝えようとする、ぎこちない微笑みを添えて。
「いいえ」と私のほうもぎこちない微笑みを返して、気付く。戸田さんは、桧山さんが選んだひとなのだ。社内恋愛で、私との関係が最悪になっても、社内での居心地が悪くなっても、それでも好きで、一緒にいたいと思ったひと。素敵なひとに決まっている。
 そっかそっか、そうだよね。うんうん――なんて頷きながら自分の部署に戻る。軽やかに鳴る靴音を聞いていたら、なぜだか急に遥樹に会いたくなった。
 どうして急に? 昨日も会ったばかりなのに。
そう自分に問うてみて、考えてみて、誰かに言いたいのかもしれないなと結論を出した。たとえば、砂場遊びの最中に、きらきらした石を見つけた子供みたいに。
 今日、気付いたこと。それを遥樹に聞いてほしい。もしかしたなら私は、ちゃんと前に進めているのかもしれないから。遥樹が私に聞いてほしいって言っていたことも、そのときになったらちゃんと聞くよ。だから、どうか、聞いてくれたなら嬉しい。
 今日と明日は、夕方からバイトだって言っていたけど、土曜日なら会えるかな。仕事が終わったら連絡してみよう。 

〈ごめんね、土曜は用事があります〉
〈日曜なら、バイトが夕方までだから、日曜はだめかな?〉
〈もし、みぃちゃんの都合がつくなら〉
 おそらくは遥樹のバイト終わりの、二十三時過ぎに返ってきた連続メッセージ。猫背撃退ストレッチを中断して、アプリをひらいた瞬間に、えっ、と驚いた。遥樹を誘って断られたことはなかったから、つい面食らってしまったのだ。だけど、次の瞬間には、いやいや、なんて自己中なの、と思い直す。自分に呆れた。遥樹にだって当然、遥樹の都合がある。そうだよ、当たり前じゃない。
〈ううん、急に誘ったしね。じゃあ、日曜に一緒にご飯食べたい〉
 スタンプを添えて返信した。遥樹からもスタンプ付きのメッセージが帰ってきて、日曜の夜に松山市駅で待ち合わせる約束をした。猫が踊っている「たのしみ」のスタンプで会話を終わらせて、猫背撃退ストレッチの続きを。雑誌の写真の通りに、ぐいっ、と肩甲骨をくっつけた。
「よし、終わり!」
 姿勢をくずしながら、ぱらぱらと雑誌をめくる。クリスマスコフレの特集に目が留まる。妖精のドレスのような幻想的なカラーに、星の瞬きみたいなラメ。かと思えば、艶やかで情熱的な大人のかけひきを思わせるパッケージも。
 見ているだけで気分が弾んでくる。久しぶりに、デパコスを買ってみようかな。雑誌は先月号だからコフレの予約はもう終わっているけど、ポーチ付きじゃなければ限定品も買えるよね。来月にはボーナスも出るし、うん、そうしよう。土曜日に、デパートで散財しちゃおう。
 そして土曜日。デパートに向かう電車の中で、エンローの最新刊が出ていることをSNSで知った。ちょうどいいから髙島屋で買おう、と思ったところで松山市駅に着いた。
 横断歩道を渡ってすぐがデパートだ。まずは七階の書店に向かった。普段あまり利用しない書店なので、周囲を見回してコミックのコーナーを探す。するとすぐ目の前にあった小説のコーナーで、たけくらべ、の文字が目に入った。思わず立ち止まって、平積みにされているその本を手に取った。着物をまとい、切なげな表情をした人気アイドルが表紙で、まるで雑誌や写真集のような仕上がりだ。アイドルグループと出版社のコラボ、と本の帯に書かれている。そういえば、どうしてパンプスのストラップが切れたことがたけくらべなのか、分からないままだったっけ。たけくらべ――作者は樋口一葉。高校の国語でうっすらと習った覚えがある。大学で日本文学を勉強していて、だとか桧山さんと戸田さんが話していたから、『たけくらべ』はこの、樋口一葉のたけくらべで間違いないはずだ。買ってみよう、かな。それにほら、だって、表紙のこの子も結構好きだし。
 変にどきどきしながらたけくらべを持って、当初の目的のエンローを探す。コミックコーナーは少し奥に入ったところで見つかった。たけくらべとエンローの最新刊、その二冊を買って書店を出た。コミックスと文庫本ならトートバッグに入るので、袋はもらわなかった。購入の目印に帯が巻かれた本をバッグにしまいながら、エスカレーターまで歩く。四階や三階で服やバッグを見て回りながら、一階のコスメフロアへ下りた。雑誌で目星を付けていた、ゴールドラメ入りのピンクアイシャドウと、瑞々しい色彩のコーラルオレンジのチークを買った。上品で、それでいてラグジュアリーなクリスマス限定のショッパーを提げて、弾んだ気持ちでデパートを出る。もう一件、銀天街のコスメショップに行こう。そこに入っているブランドの、トゥルーレッドのルージュが欲しい。
 コテで軽く巻いた髪を冬風になびかせながら、交差点へと靴先を向けた。視線もそちらへ。横断歩道へ――ぐちゃぐちゃに泣いた顔を手でこすって、カツカツとヒールを鳴らして道路を踏んだあの日、遥樹に手を引かれて渡った横断歩道へ。
 遥樹、とつぶやいた声が愕然と呑んだ息の音に溶ける。遥樹が、女の子と一緒に信号待ちをしている。見間違い、じゃない。淡くやわらかくつめたい冬の光に馴染むアッシュよりの黒髪。斜めがけのボディバッグは、この前一緒に映画を観にいったときに遥樹が持っていたもの。チャコールグレーのダッフルコートだってそう。
 用事、とこぼした声が引きつれた息の音に呑み込まれる。遥樹は私に気付いていない。ミルクティみたいな色の髪を風になびかせた女の子と眼差しを合わせて、なにかを話して、親しげに笑っている。誰なのかな。同じ大学の子? 分からないけど、全然知らない子だけど、でも。
 遥樹が手に持っているショッパーは、銀天街に入っているレディスアパレルのショップのものと、今から私が行こうとしていたコスメショップのもの。
 どくん、と心臓が低い音を立てるのと同時に顔を伏せた。後退って、踵を返して、駆けようとしたら、ヒールがアスファルトの溝に引っかかった。危うく転びそうになったところで踏みとどまる。足首をちょっと捻ったかもしれない。だけど痛みになんて構っていられなくて、ひたすらに走った。松山市駅を過ぎて、南堀端の停留所まで逃げて、ちょうど発進しようとしていた電車に行き先も見ずにすべり込んだ。浅い呼吸の音を聞きながら、崩れ落ちるように座席に座り込む。ガタガタと揺れながら走る電車は、松山城の堀を正面にして右折した。大街道方面だ。家とは反対方行の環状線か、道後行きの電車に乗ってしまったみたいだ。
 心臓が、低く速く鼓動している。恐れおののくような手つきで、スマホを取り出した。普段の何倍もの力がこもった指先でアプリのアイコンをタップし、国崎遥樹のトーク画面をひらく。見ひらいた目でメッセージ入力欄を見つめ続け、〈明日、やっぱり行けなくなった。ごめんね〉とのメッセージをようやくの思いで送信した。スマホをバッグに投げ入れた。
 なんで。なんで。なんで。なんで。
 口の中で、頭の中で、壊れたぜんまい仕掛けのように繰り返した。
 なんで私は傷付いているの。なんで私は泣きそうなの。

 翌日は一日中家に引きこもった。遥樹からのメッセージも着信もすべて無視した。なにかを返信しようとトーク画面をひらいても、なにかを言わなきゃと不在着信のマークを見つめても、込み上げてくる感情がぐちゃぐちゃに絡まるだけで、全然言葉が出てこなかったから。
 なにしているんだろう私と思いながら呆然と一日を過ごして、月曜日。コンディション最悪の肌に無理矢理化粧をのせ、ブラシでとかして後ろで一つにまとめた髪で出社した。タイムカードを押して、桧山さんに挨拶を返して、自分のデスクに座ってから、くちびるをかむ。だめじゃないこんなの、仕事なんだから切り替えないと。
 午前の業務を必死でこなして、昼休み。昼食を買いに出たコンビニで、財布を出すときに気付いた。土曜日に買った本が入りっぱなしだ。書店名が印字された帯が巻かれた、たけくらべとエンロー。
 ――わあっ、みぃちゃん大丈夫っ?
 ――みぃちゃん、映画! すごかったね。
 頭の中でよみがえった遥樹の声にびくっと身をすくめて、本から指先を離して乱雑に財布をつかむ。
 私はどうやって会計をしたんだっけ。どうやって、会社まで戻ったんだっけ。はっと気付けば、そこは休憩室。はっと気付けば、目の前には菓子パンとおにぎりを食べたあとの袋やフィルム。立ち上がって、ゴミを捨てにいこうとする。肘がバッグにぶつかって、また、はっとした。
 床に散乱した財布、キーケース、ポーチ、手帳、ハンカチ。そして、帯が破れた本。緩慢な動きで拾い上げる。財布、キーケース、ポーチ、手帳、ハンカチ。
 そして、逆さにぐしゃりとひらいた本――たけくらべを拾い上げた。折り目のついてしまったページを力のない眼差しで見やって、ぴたりと動きを止める。
「……なにこれ、」
  お歯ぐろ溝の角より曲りて、いつも行くなる細道をたどれば、運わるう大黒屋の前まで来しとき、さっと吹く風、大黒傘の上を抓みて、宙へ引き上げるかと疑うばかり烈しく吹けば、これはならぬと力足を踏みこたゆる途端、さのみに思わざりし――
 文字をなぞっても、意味が分からない。内容がまったく頭に入ってこない。これは古文? 古文なら、中学や高校の国語で習ったけど、――習ったけど、もうひとつも覚えていないみたいだ。
 大学生はこれを読むの? これを読んで、普段の会話でごく自然に話題にするの?
 問うた途端に、いつか遥樹に連れていってもらった定食屋での景色を思い出した。マンガ盛りのご飯。お皿からはみ出すくらいのキャベツの山。虹色の髪をした男の子。
 なじみのない世界だった。私が生きたことのない世界だった。
『みのりと話していると妹と話しているみたいっていうか』――そうなのかもしれない、と初めて腑に落ちた。力の抜けた指先から本が落ちた。メッセージアプリをひらいて、遥樹のアカウントを長押しする。
 どれだけお姉さんぶっても、みっつ年上という事実があっても、そういうことじゃなくて。
 私は、やっぱり、妹にしかなれないのかもしれない。
 だって遥樹も、大学生だもの。

 ノー残業デー――のはずの水曜日、データ入力が立て込んでいて、二時間ほど残業をすることになった。残業したことを言い訳に今日も自炊をすることを放棄し、コンビニで夕飯を買って帰宅した。ずっと地面を見つめながら歩いていたから、寸前まで気付かなかった。トートバッグからキーケースを取り出して顔を上げたときに、部屋の前の人影に気付いて目を見ひらいた。身を緊張させて肩を跳ねさせた。あ、と愕然とした息の音がこぼれると同時に後退るけど、逃げるより早く手首を掴まれた。
「みぃちゃん」
 十二月初旬、冬の容赦ないつめたさが、遥樹の手に染みている。遥樹の視線から逃れるように俯けば、「待ち伏せなんてしてごめんね」と苦しそうな声が降った。
「俺、なんかした?」
 やっぱり苦しそうな声で遥樹が問う。私は力なく首を振って、「なにもしてない」と力ない声で答えた。「でも、」と同じ声で続ける。
「もう会わない」
 放った言葉が、向き合うつま先の間に落ちてゆく。しん、と音が消えたようなつめたい一瞬の後、「うん、分かった。ごめんね」とひどく苦しそうな声が言った。手首が離された。遥樹のスニーカーのつま先が、そっぽを向いて歩き出そうとする。
 ドクン、と心臓が立てた低い音が、身体全体にひびく。
 ごめんね、と遥樹に謝らせた。今日だけじゃなくて、初めてキスをした日から何度も。遥樹はなにも悪くないのに。私が情けないだけなのに。
 遠ざかろうとする靴音を聞きながら、私はまるで被害者のように傷付いている。二十歳になったばかりの年下の幼馴染に都合よく縋って、初恋を利用するだけ利用したくせに。きみを傷付けたくせに。
 謝らなきゃいけないのは、私なのに。
「なんで、」
 遥樹の声がつぶやく。靴音が止まって、スニーカーのつま先がためらいながら私を振り返る。
「なんで、みぃちゃんが泣くの」
 引き攣れた息の音をもらしてしまったくちびるをかみしめれば、遥樹の手が私の頬に伸びる。涙を掬おうとする指の温度を、私は期待している。ぐ、と奥歯を噛んで、遥樹の指を振り払った。
「ごめん。もう大丈夫だから。もう、優しくしなくてもいいよ。今までごめんね」
 頬をすべる涙を手の甲でぐちゃぐちゃに擦る。「私は、ただの幼馴染か……妹でしょ?」と遥樹に問いただす。遥樹は、幼馴染で妹みたいな私じゃなくて、あの子に優しくしてあげなきゃいけないんだから。そう自分にも言い聞かせたのに。
「妹?」
 目を大きくした遥樹が戸惑う声を出して、
「……違うよ、どっちも違う。だって、みぃちゃんは年上でしょ? ただの幼馴染っていうのも違うよ。好きだって、あの日に言ったはずだよ」
 そんな風に続けるから、訳が分からない。私はなにかに怯えるように、「違わない」とふるふると首を振る。
「昔は、私のことが好きだったかもしれないけど……でも、今は違うでしょ?」
「違わないよ。俺は、みぃちゃんが好きだよ」
「違うよ、だって土曜日に、」
 そこまで口をすべらせてしまってから、はっと表情をこわばらせる。遥樹は私の言葉をしっかり拾った。「土曜日?」ときょとんとした声で訊き返してくる。
 重なり合った視線を逸らした。だけど、私の言葉の続きを待つ遥樹の眼差しをひしひしと感じる。
「……女の子と一緒にいた」
 観念して、ぽつりとつぶやく。
「え、」
「銀天街の横断歩道のとこ。ミルクティみたいな茶髪の子と。デート、だったんでしょ?」
 目を見ひらいた遥樹が、「えっと……泣いているのはそれが理由?」と拍子抜けしたような声を出した。そのすぐあとに、「あ、ごめんそうじゃなくて」と慌てて話を続ける。
「遊佐さんとは、確かにデートだったけど、でも違うよ。みぃちゃんを忘れられないまま付き合って、傷付けたひとで、それを謝って」
 デートだったんでしょう。なにが違うの。私は遥樹の言葉を振り払うように激しく頭を振った。
「ごめん……ごめん、いいから、ほんとにもういいから。優しくしなくていいから。ちゃんと、その子に優しくしてあげて、私のことはもう」
「みぃちゃん」
 遥樹が私の言葉を止める。ひどく真剣な表情で詰められた距離におののいた。後退る暇もなく腕を掴まれた。必死に私を引き止める力加減は、私の動きを容易くねじ伏せる男の人の力。
「俺はみぃちゃんが好きだよ。……遊佐さんのことで泣いているのなら、みぃちゃんも、」
 私が息を呑む音と、覚悟を決めるように遥樹が息を吸う音が重なった。
「俺のことが好きなんじゃないの?」
 ぐ、と奥歯を噛む。――その通りだよ。女の子と一緒にいる遥樹を見て、傷付いて、泣きそうになったのは、遥樹を好きになってしまったからだ。だけどここで恋を始めたって、たとえばほら、土曜日にデートしていた子だとか。私の知らない世界で出会った子と私を比べて、きっと私を妹だと思う。初恋の頃からそうだったもの。私は、いつだって、好きなひとの妹にしかなれない。なのに。
「みぃちゃん。好きだよ。子供の頃からずっと、何度失恋したって諦められなかった」
 私の心を揺さぶるように、遥樹が囁く。熱っぽい声で、熱っぽい眼差しで。
「遊佐さんのことはちゃんと説明する。みぃちゃんの失恋につけこんだことも、ちゃんと謝らせて。好きだよ、みぃちゃん。みぃちゃん、俺は……っ」
 祈るような声で、苦しそうに目を眇めて、遥樹がうったえる。「……だめだよ。だめだ、だめだ、だめ」熱を帯びた言葉に引きずられてしまわないように、私は懸命に頭を振った。
「遥樹は……大学生だもん」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。それを聞き拾った遥樹が、「え?」と目を見ひらいた。その表情が、少しだけ涼大に似ている気がした。遥樹の目は二重で、涼大の目は一重。涙袋の幅も全然違って、涼大と遥樹はあまり似ていないけど。
 でも、兄弟だもんね。
 ――みのりは、妹みたいなものだから。
 初恋の終わりを告げた言葉。あっけなく鼓膜を通り抜けて、いやおうなく脳に刻み込まれた言葉。それが頭の中で響いたのなら、もうひとつの声が。
 ――みのりと話していると妹と話しているみたいっていうか。
 涼大の声をようやく忘れられたと思って、新しい恋に浮かれていた。そうしたらまた、まったく同じ理由で恋は終わった。
 私を妹だと言った涼大は大学生だった。そして、涼大が好きになったのは大学生の優奈さん。
 私を妹だと言った桧山さんは、かつて大学生だった。そして、桧山さんが選んだのは、私と同い年の大卒新入社員の戸田さん。
 大学に行ったほうが偉いだとか、高卒じゃだめだとか、そんなことは思わないけど。だけど、見てきた世界の違いを思い知らされた。あなたたちは、私の知らない世界を知っている。あなたたちからしたら、私は幼い。妹と話していると思われたって仕方がない。たけくらべが、その象徴だ。
「……私は全然読めなかった。でも、遥樹は大学生で、たけくらべだって読めるんでしょ? パンプスのストラップが切れたことがたけくらべだって、普通に話ができるんでしょ? 私に合わせてエンローの話をしてくれても、本当は、私の知らない話をいっぱい知っているんでしょ? 私の方が年上とか、そういうことじゃないの。たけくらべが読めない私は、大学生の遥樹よりずっと幼い。だったらまた、私は妹になる。もう、妹にはなりたくない……っ」
 声がふるえて、目からはぼろぼろと涙がこぼれる。簡単にこぼれてくる涙も、幼い妹の象徴みたいだ。くちびるを噛みしめて、ぐちゃぐちゃに目元を擦った。アイシャドウもアイラインもマスカラもぼろぼろだろうけど、そんなものはもう、どうなっていたって構わない。
「みぃちゃん」
 遥樹が私を案じる声を出す。「妹なんて思ってないよ。これから先だって、きっと思わないよ。俺にとってみぃちゃんはずっと、初恋のひとだよ」って、目を擦る私の手を掴まえた。そうして、眉根にぎゅっとシワをよせて、困惑した声で問う。
「えっと、ごめんね、話がよく分かってないんだけど……たけくらべって、なんだっけ、樋口一葉の?」
「……そう、だけど」
 弱い声で呆然と答えた。そのとき、お隣さんが帰宅して、部屋の前で言い争う私たちを怪訝そうな面持ちでちらりと見る。そこでハッとして固まる私に、「中に、入れてもらってもいい?」と遥樹が小声で尋ねる。
「みぃちゃんが嫌がることは絶対にしない。玄関先で、靴を脱がないままでもいい。ただ、もう少し話をさせて」
 必死に懇願する声だった。私は視線を不安定に揺らして、頷くような仕草をして、鍵穴に鍵を差しこむ。カチャリ、と軽い金属音を響かせて、鍵が回る。

  廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車の行来に、はかり知られぬ全盛をうらないて――
 遥樹がネットで調べてくれた。パンプスのストラップが切れたのがたけくらべなのは、物語の中で、登場人物が履いていた下駄の鼻緒が切れる場面があるからじゃないかな、って。それから遥樹は、ゴミ袋に押し込んでいた文庫本の中身をじぃっと見て、「頑張れば読めないことはない……けど」と苦笑した。
「『廻ったら、大門の見返り柳がとても長いけど、お歯ぐろ溝に燈火が映る三階の騒ぎも手に取るように?』……手に取るように分かるってことかな。うわ、内容が全然入ってこない」
「……遥樹も? 大学生なのに?」
 信じられない気持ちで、遥樹は私に気を遣っているだけなのではないかという気持ちで、思わずそんな訊き方をしてしまった。まずい、馬鹿にするような言い方だ、と慌てるけど、遥樹は気にしていない様子で、「あはは、情けないけど。あと一応言い訳してみるなら、俺は経済学部だし」と八重歯を見せて笑った。
「そう、なんだ」
 相槌を打つ私の視線の先で、遥樹の指先が、本のページをぱらぱらとめくっていく。
「文学部だったとしてもどうかな。パンプスがこわれたときに『たけくらべだね』とか言われたって、意味が分かる人はそんなにいないんじゃないかな。だって、文学部でも英米文学が専攻だったりしたら、日本文学にはそんなに詳しくないかも。教養としてあらすじくらいは知ってたとしても、鼻緒が切れたシーンを咄嗟に引き出してこれないと思う」
 ぱたん、と本を閉じた手が、ローテーブルの上に本を置く。少しだけ迷うような間があってから、遥樹がためらいがちに言葉を続ける。
「みぃちゃんが幼稚なんじゃなくて、元彼と新しい彼女の趣味が一緒だったってだけだと思うよ。妹とか幼いとか言われたのは、気持ちの変化にどうにか理由をつけて説明しようとしたからじゃないかな」
 納得しきれない私が黙ったままでいると、遥樹はなにやらスマホを操作し始める。そして、ローテーブルの向かい側から、角を挟んだ場所にまでこちらに近付いた。
「みぃちゃん、これ読める?」
 目の前に掲げられたスマホに表示されていたのは計算アプリで、《10,000,000》と入力されている。読めるってどういうこと? と少し戸惑いながらも、「一千万」と答える。そうしたら、「わぁ、やっぱりすごいね」と遥樹が大げさに感動する。それにまた戸惑っていると、遥樹がスマホを自分の方に向けて、画面を指で軽くつつき始めた。
「いちじゅうひゃくせんまん、……って、数えないと俺は読めないよ」
 え、と私は小さく声をもらした。コンマふたつは百万(ミリオン)、だから百万が十で一千万――という理屈を思い浮かべるまでもなく、億程度の数字までなら感覚的に読み取れる。
「みぃちゃんは高校で商業科に通ってたから、簿記の資格を持ってる。ITパスポートや、ワープロ検定や、電卓の検定も持ってるんだったっけ。高校生の頃、資格の試験で大変そうにしてたよね」
 そんな昔話をされて、いちじゅうひゃくせん、と数字を指で押さえながら数えていた頃のことを思い出す。そっか、と遥樹が言いたいことをようやく理解した。
「俺は普通科だったから、そういうのはいっこも持ってないよ。でも大学では、一応経済を勉強してる。たとえば、マクロ経済とミクロ経済の違いなら説明できる。おんなじように、日本文学を勉強してるひとなら古文が読める。元彼がなにをもって幼いって言ったのか、本当のところは分からないけど。でも、このことに関しては多分、それだけだよ」
「……うん。そうかも」
 頷くのと同時に、心がふわりとやわらいでいく。心の奥底に押し込めた初恋の残骸、それが突き刺さった傷口も、遥樹の言葉で絆創膏みたいにおおわれて、少しだけ塞がったような感覚がした。私は、涼大や桧山さんにとって妹のように思えたかもしれないけど。
 私がすべてにおいて、絶対的に幼いと決まっているわけじゃない。
 好きなひとの、妹にしかなれないわけじゃない。
 そういうこと、だよね、と探るような面持ちで遥樹を見る。
「私はちゃんと、遥樹の、」
 ――好きなひと? それを訊こうとして言葉がよどんだ。それがどう伝わってしまったのか、遥樹が表情をひきしめる。
「土曜日のことも、説明するね」
 土曜日のこと――ミルクティの髪の子とのデート。ぴく、と動きを止めて、ひるんでしまう理由はもう分かった。遥樹のことが好きだからだ。
「遊佐さんとは、五月まで付き合ってた」
 遥樹の言葉に、私の心が小さく動揺する。自分のことは棚に上げて、傷を負ったような心地になるけど、これも遥樹が好きだからだ。遥樹から目を逸らさずに、次の言葉を待つ。
「俺は、みぃちゃんのことを忘れられないまま遊佐さんと付き合って、遊佐さんのことを全然見てなくて、遊佐さんを傷付けた。それをちゃんと謝らないと、初恋を叶えたいって――みぃちゃんの彼氏になりたいって、言っちゃだめだと思った」
 眉を寄せて、遥樹は切なげに瞳を揺らす。「だからね、」と続ける遥樹の手が、ローテーブルにスマホを置いた。その指先が、緊張した動きでぎゅっと握られる。
「あの日は、遊佐さんのことをちゃんと見て、遊佐さんとデートをした。遊佐さんのお願いでもあったんだけど……俺と付き合っていたとき、遊佐さんはつらいばっかりだったから。最後に上書きして、俺たちを穏やかに終わらせたいって、俺もそう思ったから」
「そう……なんだね」
 頷きながら、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。だけどそれは、泣き叫びたくなるような絶望的な切なさじゃない。遥樹が語った恋の、セピア調のエンドロールが流れる恋愛映画みたいな大人びた切なさに、心が引き込まれていったような感覚だった。ミルクティの髪のあの子も、遥樹が心を尽くしたひとだ。きっと、素敵なひとだったのだろうと思った。そう思わせられる、遥樹の声音だった。
 切なさと混ざり合うようにして、心に恋しさがひろがっていく。心を触れ合わせたひとに正面から向き合おうとする遥樹のことが好きだと、改めて思う。切羽詰まった思いと、昂る感情を言葉にしようとして、言葉未満の息づかいが喉でこんがらがった。「遥樹、」と、ふるえる声でようやく名前を呼んだ。
「私、」
 息を押し出して、言葉を続けようとした。だけど、「待って。まだだめ、みぃちゃんに謝らなきゃ」遥樹に押しとどめられて、言葉がつんのめる。
 少しだけ瞳をふるわせて、泣く寸前みたいな表情で、遥樹がくちびるをひらく。
「俺、みぃちゃんが苦しくてつらいときに、つけこんだ。あの日、つまずいたみぃちゃんを抱きとめたとき、一気に舞い上がったんだ。やわらかくて、清潔な匂いがして、眩暈みたいな感覚がして……多分、正気じゃなくなった。泣いてるみぃちゃんを放っておけないから、ひとりにできないからって、いろんな理由をつけてみたけど、ただ……傷付いたところにつけこんだだけだ。本当に、」
 ごめん、という言葉が聞こえる前に、私は遥樹の手に触れる。ローテーブルの上で、私よりも少しだけ温度の高い指先に、自分の指先を絡める。はっ、と息を呑んで、遥樹が言葉を止める。
「謝らないといけないのは遥樹じゃないよ。私が、遥樹の初恋を利用した。都合のいい男でいいって遥樹は言ったけど、つらかったはずだもん。私と、かたちだけ恋人みたいなことして、でも初恋は実らないままなんて。身体と心がばらばらになるみたい」
「……そんなことはなかったよ」
 そんな風に言ってくれるのも、きっと初恋のおかげだ。私は緩く首を振って、この二ヶ月を思い返しながら続けた。
「遥樹はつらいはずだって分かってたのに、優しくしてもらうのが心地よかったから、ずっと利用し続けた。本当に、ごめんね」
「俺だって、そばにいたかった。みぃちゃんの恋にはなれないって思ってたけど、初恋が叶った夢を見せるしかできないって思ってたけど、それでもそばにいたいって、俺が思ったから。だから、」
「遥樹」
 右手は遥樹と手を繋いだまま、苦しげに表情をゆがめる遥樹の眉間に左手を伸ばした。「シワ、寄ってるよ」と軽く触れて、そのまま腕を遥樹の首元に回す。今なら、こうしたって、間違ったことにはならないと思った。
「ずっと、都合良くなぐさめてもらっててごめんね。ずっとひどくて、ごめんね。自分のことなのになんにも分かってなくてごめんね」
 頬をくすぐったやわらかな髪の先から香る、バニラに似た甘い匂い。それに飛び込むみたいに遥樹を抱きしめて、願うように囁いた。
「私は、遥樹が好き」
 びく、と私の腕の中で遥樹の肩が跳ねる。大きく息を呑む音がして、ささやかな衣擦れの音がした。そうして訪れた沈黙に、ふたりぶんの心音だけがはっきりと響く。
「……夢、じゃないかな」
 呆然とふるえる声に、「夢じゃないよ」と返す。
「まさか、叶うなんて」と呟く声の方を見上げれば、眼差しが間近で絡み合う。
「好き、だよ。ずっと好きだった。初恋のまま、ずっとみぃちゃんのことが好きだった」
 ぎゅうっと強く抱きしめられた。必死に縋りつくような、余裕のない力加減だ。私も、精一杯の力で抱きしめ返す。体温が同じになるような感覚と、交じり合った心音を感じながら、「私も、遥樹が好き」と恋をうったえる。

 ――そっと、ふわりと、ためらうようにやわらかく、くちびるが触れ合った。掠めるようなキスの終わり、重なり合った眼差し。少しだけ茶色がかった遥樹の瞳に私が映っている。潤んで、揺らぐ、魚眼レンズみたいなまるい景色の中で、私が小さく身じろいだ。遥樹の目が大きく見ひらかれて、ふっ、と視線が外されて、はにかみのかたちに弧を描く。その頬がほんのりと赤い。きっと、私の頬も同じだね。
 ごく自然にまぶたを伏せて、もういちどキス、しようとした。だけど、ぐぅ、とささやかに鳴いたお腹の虫に、ぴたりと動きが止まる。
「わ、わ……、うそ、ごめん!」
 私はお腹を押さえて、ずざざざっと後退る。あははっ、と笑った遥樹は、「お腹減ったよね」と気楽な声で言う。
「……うん」
「一緒にご飯食べよ」
「うん」
 私が頷くと、「じゃあ、俺もご飯買ってくる」と遥樹は立ち上がった。チャコールグレーのダッフルコートをふわっと羽織って、玄関の方へ、行くのだと思ったのに。
「――っ」
 私の顎を軽くつかんで、上を向かせて、羽が着地したみたいなキスをして。
「……ちょっとだけ待ってて」
 私がよく知っている可愛い幼馴染の笑顔を残して、遥樹は玄関へ向かっていった。
 玄関のドアが閉まる音が聞こえる。私は頬の熱を自覚しながら、今のはずるい、と口の中でつぶやいた。ドキドキとうるさい心臓をなんとか宥めながら立ち上がり、キッチンへと向かう。ここ数日、まったく自炊をしていなかったからまともな食材はないけど、サラダくらいならつくれるはずだ。まず冷蔵庫をのぞきこんで、賞味期限ギリギリのロースハムと卵を取り出す。次に冷凍庫から、ブロッコリーとほうれん草。ミモザサラダ、みたいなのを作ろう。ゆで卵にすると時間がかかるから、かためのポーチドエッグにして――頭の中で段取りを組み立てながら、鍋やボウルを用意した。
 ふつふつ、とお湯がわく音。トントントン、とロースハムを刻む音。カチャカチャ、とドレッシングを混ぜる音。その全部が、軽やかな音楽みたいに聞こえる。
 サラダがちょうどできあがったタイミングで、コンビニのレジ袋を提げた遥樹が戻ってきた。
「わあ、作ってくれたの?」
 きらきらと瞳を輝かせて感動する遥樹に照れくさくなって、「余り物で適当にだけど。野菜もあったほうがいいかと思って」と素っ気ないような物言いをしてしまったのはいつかと同じだ。
「野菜、ひとりじゃ食べようってならないから嬉しい! それに色合いが綺麗ですごくおいしそう!」
 遥樹の瞳だけじゃなくて、私たちをとりまく空間全体がきらきらしているみたい。遥樹の無邪気な笑顔を見つめていたら、そんな感覚で心が満たされてくる。あぁ、恋が叶うってこういうことだったっけ、と思った。
「……パスタ、あっためるね」
 私のカルボナーラと、遥樹のミートソース。ふたつのパスタを、電子レンジで順番にあたためる。
 いつかと同じように、なごやかに夕飯を終えた。空になったパスタのプラスチック皿をゴミとしてまとめて、サラダのボウルはシンクに持っていく。調理に使った器具と一緒に洗い物をしていたら、遥樹がキッチンまでやってきた。
「なにか手伝う?」
「大丈夫、すぐ終わるから。漫画でも読んでて」
「分かった」
 リビングに戻る遥樹の後ろ姿は、なんだかそわそわしているように見えた。
 洗い物を終え、コーヒーを淹れて、私もリビングに戻った。遥樹はのぞきこんでいたスマホをローテーブルに置くと、「わ、ありがとう」とマグカップを受け取る。遥樹はブラックで、私は砂糖たっぷりのカフェオレだ。キャラメルみたいな色をしたカフェオレをごくんと飲み下す自分を、幼い妹みたいとはもう思わない。ブラックを平気な顔で飲む遥樹とは、味の好みが違うだけ。
 ちらり、と遥樹の方を見たら、視線に気付かれてしまった。ほのかな湯気の向こうがわから、「ん?」と遥樹の瞳が問いかける。
「あ……ちょっと、見ただけ」
 舌が絡まったみたいに、口の中で不器用に言葉を転ばせたら、遥樹が表情を惚けさせてマグカップを置いた。コトン、という音が聞こえた次の瞬間、真剣な眼差しで距離を詰められて、すぐ間近でバニラの甘い匂いが香る。あたたかな指先が頬をそっとつかむ。やわらかな髪先がまぶたをくすぐる。
「……どうしよう、がっつきすぎかな」
 息を乱した遥樹の困惑の声が、私のくちびるの上に落ちる。「今日付き合った、ばっかりなのに」そう続ける遥樹の眉が、八の字みたいに下がっている。
 くすっと吹き出して、私はゆるく首を振った。
「私も、一緒だから」
 声は、キスの名残で舌足らずに甘えて聞こえた。それにおののく私の瞳を見つめる、遥樹の瞳が熱を帯びる。

 今までは、泣いた勢いで遥樹に縋って、そうなっていた。涙で崩れたメイクや、悲しみや切なさや情けなさがまとわりついた私で、衝動的に体温を求めた。だから遥樹の髪先からは、バニラみたいな甘い匂いがした。遥樹が使っているシャンプーや、コンディショナーや、ボディソープや、洗濯の洗剤や、もしかしたら汗と、香水のラストノートが溶け合った匂い。
 だけど、今夜は。
 浅い呼吸に、うわごとみたいに遥樹を呼ぶ声をひそませて、遥樹の背中に腕を回した。肩に指先を引っかけた。くしゃ、と髪をなでられて、頬に薄い影が落ちる。同じタイミングで目を瞑って、唾液の絡まったキスを。触れて、合わせて、溶けさせて。
 息継ぎの隙間に遥樹を呼んだ。そうしたら、ぎゅうと抱きしめられる。羽が掠めるように、やわらかな髪が頬に触れた。あ、と私は不意に気付く。遥樹の髪先から香るのはバニラじゃない。さっき、お風呂を貸したから。
 遥樹を抱きしめ返したら、その匂いが強くたゆたう。私と同じ匂いだ。シャンプーと、コンディショナーと、ボディソープが溶け合った匂い。

 脳を揺さぶるアラーム音にぎゅっと眉を寄せて、枕元のスマホに手を伸ばした。そうしたら、指がアラームを止めるのと同時に、手がぬくもりに捕まった。ぱち、と目をひらいて、ぼやけた視界がクリアになってすぐに、私の手に重なっているのが遥樹の手だと知る。丈の足りないグレーのパジャマを着た遥樹はまだ目を瞑っていて、ん、とやわくうめいて、こちらへ寝返りを打った。
「……みぃ……ちゃん?」
 たどたどしい声が私を呼んだ。ゆるく持ち上がった二重のまぶた、その下からのぞいた瞳が、まどろみの速度で私を見上げる。
「私のアラームが鳴ったの。まだ寝てていいよ」
 上体を起こして、遥樹の手の下から自分の手とスマホを抜き取ろうとしながらそう言えば、中指の爪の部分が遥樹の手に捕まえられる。
「……起きる……」
 ふにゃふにゃと起き上がった遥樹の髪には寝ぐせがついている。耳横の髪だ。遥樹に捕まっていない方の手を伸ばして、ぴょこん、と跳ねた髪を指先で梳く。すると遥樹が、おもむろに目を瞑ったから、え、と思う。目を瞑って、くちびるを軽くむすんだ、無防備な表情。数秒固まって、考える。――これは、ええと、そういうこと?
 ドキドキしながら顔を近付けたら、ぱちっと遥樹の目がひらいた。きょとんとした瞳とばっちりと視線が重なって、私は「わっ」と肩を跳ねさせてしまう。同じように肩を跳ねさせた遥樹は、途端に照れくさそうな表情になる。
「その……キスかと思ったけどもしかして違った……?」
 眼差しを逸らしながらそう言われて、耳横に触れさせた私の指が原因だと気付いた。
「えっと、寝ぐせがついてたから」
「わ、うわ、恥ずかし……」
「で、でも! 遥樹がそういうつもりかなって思ったから、しようと、した」
 私の方も照れくさくなって、もごもごと言葉を詰まらせたら、「じゃあする!」と、ともすれば子供っぽく聞こえるような声が返ってくる。それなのに、次の瞬間に顎に添えられたた手の大きさと、私を見下ろしてくる瞳が、間違いなく男の人のものだからずるい。
 顔を洗ったり、歯をみがいたり、身だしなみを軽く整えてから、パンとコーヒー(私はカフェオレ)だけの簡単な朝食をふたりで済ませた。私はメイクをしなきゃいけないから遥樹を先に帰そうとしたけど、遥樹は私の身支度を待ちつつ食器を洗ってくれた。
 メイクを終えて、髪も毛先だけワンカールにした。うん、と洗面台の鏡を見てつぶやいて、リビングでテレビを眺めている遥樹に声をかける。
「ごめんね、お待たせ。食器もありがとう」
「ううん全然! もう出る?」
「ちょっと早いかなぁ。いつも占いを見てから家を出てる」
 遥樹も、今日の授業は十時過ぎかららしいから、急ぐ必要はない。ということで、いつも通りに占いを見てから家を出ることにした。
「最下位って普通に落ち込むよねぇ……」
 みずがめ座の私はぼやきながら、パンプスにつま先を差しこんだ。てんびん座で三位だった遥樹は、あははと苦笑して、ドアを開けて私を待っている。かつ、とパンプスのヒールを鳴らして遥樹の横に並ぼうとしたら、遥樹が一歩こちらに近付いて、後ろ手にドアを閉めた。
 それほど広くない玄関で、向き合う私たちの距離はほとんどゼロだ。
「遥、」
 とん、と額と額がぶつかった。焦点が合わないほど近くで、眼差しもぶつかる。そっか、私がパンプスをはいているから、さっきまでよりも目線が近い。
「……てんびん座の運勢、あげるね」
 キスの終わりに、遥樹が小首を傾げて笑った。そうして照れた表情のままふたたびドアを開けて、私の手を引いて部屋を出た。
 頬の熱が冬風にさらされる。鍵をかちゃりとかけるあいだに、最下位で落ち込んだ気持ちが簡単に上向いていく。

 以前までなら、みぃちゃんがまとう甘く清潔な匂いを引きずった朝は、罪悪感でいっぱいだった。だけど今は、昨日と同じ服を着て、つめたく白んだ光の下を歩く朝に、妙な照れくささを感じている。
 何度失恋したって、ずっとずっと好きだった。兄ちゃんを見上げる切なげな眼差しを見上げていた頃から。みぃちゃんの眼差しを見下ろすようになっても、ただ背が伸びただけで、俺はずっとずっと、『可愛い幼馴染の遥樹』のまま。
 叶うはずのない初恋をどうして捨てられないの? 失恋するたびに何度も自分に問うた。どうしてみぃちゃんじゃなきゃいけない? ただの執着じゃないの? 初めて、ってなんか特別な響きがするよね。そう自分を嘲笑って、諦めさせようとした。そうかもしれないね、執着かもしれないね、初めての特別感に囚われているのかもしれないね。心はいつも素直に認めた。そうして、大人しく初恋を手離そうとした。
 できなかった。手離そうとするのに、捨て去ろうとするのに、爪のほんの先の先で、縋りつくように引き留めた。ずっとずっと好きなままだった。
 だから、幸せな照れくささが胸をいっぱいに満たす今のこの瞬間が、まるで夢みたいに思える。それか、触れた途端に消えてしまうシャボン玉のような幻覚みたいに。
「……夢じゃない。幻覚じゃない」
 自分に言い聞かせる囁きは、行き交う車のエンジン音に溶けて消えた。む、と眉を寄せて、もっと大きな声で言い聞かせたくなったけど、不審者になるのはまずい。ほら、一コマ目に急ぐ学生の自転車が前からやってきているし。
 素知らぬ顔をして自転車とすれ違いながら、ふと、思い立つ。そうださっき、「リップが移ってる」ってみぃちゃんに教えてもらって、口元を拭った。
 手の甲を見てみたら、ラメがかすかにきらめいている。それを確認して、ようやくほっと力が抜けた。
 さっき、キスをしたよね。てんびん座の運勢をあげるって、多分誰かに聞かれたらバカップルだとか言われそうなことを囁いて。ちゃんと、幸せなキスをしたよね。夢じゃないし、幻覚でもない。初恋は叶った。そうだよね?
 ほら。だって、ちゃんとキラキラ輝いて、ここにある。
 アパートに戻ったのは、ちょうど九時だった。動画を眺めたりしてだらだらして、九時半。そろそろ準備をしなきゃいけない。クローゼットからチェスナットブラウンのニットとグレージュのチェスターコートを、部屋干し用のラックからベージュのテーパードパンツを取った。それらに着替えて、手首へ香水をふりかける。バニラみたい、とみぃちゃんが言う甘さはまだ抑えめの、ジンジャーのトップノートが周囲に揺らぐ。クローゼットの扉についた鏡を見ながら、手首で耳の後ろをなでて、ワックスで髪を軽く整える。うん、と鏡の自分に小さく頷きかけた。いつもの俺だ。あっほら、気を付けてよ。ふわふわな雲を歩いているみたいな気分で、だらしなくにやけないようにね?
 ――なんて言い聞かせるけど、脱いだ服を洗濯機に持っていくまでのあいだで、多分ふわふわに口元が緩んでいた。洗濯機のふたを開けて、指先を離れる布地の感触に、名残惜しさなんかも感じたりして。
 そうこうしていたら、大学に行かなきゃいけない時間になった。いつものリュックと、今日は経済統計論で演習があるからパソコンも。それらを持って、慌ただしくアパートを出た。
 大学までの大通りを、冷たい冬風と一緒に歩いていく。途中でベーカリーの前を通ったとき、焼きたてのパンの匂いがただよってきた。香ばしい匂いに誘われてそちらを見たら、サンタクロースの人形が可愛らしく飾られていた。隣には、深い緑色のリースと金と銀のモール。
 そっか、もうすぐクリスマスだ。
 そう思った途端に、ぶわっと体温が舞い上がる感覚がした。
 今年のクリスマスは、みぃちゃんと過ごせるの?

 クリスマスを遥樹と過ごすのは初めてじゃない。私はお母さんがフルタイムで働いていて、残業があることも少なくなかったから、放課後や、お母さんが出勤の土曜日は、国崎家で過ごすことが多かった。遥樹や涼大と一緒にクリスマスツリーの飾り付けをしたり、デコレーションケーキを食べたり、そんなクリスマスを国崎家で過ごしたことだって何度かある。
 だけど今年のクリスマスは、思い出の中のクリスマスとは全然違う。仕事終わりのクリスマスナイト、おあつらえ向きの金曜日――待ち合わせの松山市駅で、最初の言葉を交わした瞬間にそう予感した。
「学生だから、っていうの、今日はナシね」
 ほんの少しだけ拗ねたような声音で、先回りして牽制された。レストランは任せて、と遥樹に言われたからそうしたけど、支払いは社会人の私が――そう考えていたのを見透かされていたみたいだ。「ちゃんと、彼氏をさせて」と、今度は照れた声で言いながら、ごく当たり前に手を取られて、指先を絡められた。とん、と肩が遥樹の二の腕にぶつかった。バニラみたいな香水の匂いが甘やかに揺らめく。
 連れていかれたのは、銀天街から少し外れたところにあるビストロだった。クリスマス限定のコースメニューを、遥樹があらかじめ予約してくれていたみたいで、席に着いたら、ドリンクメニューだけを渡された。
「みぃちゃん、せっかくだからお酒飲まない?」
 右側だけに八重歯をのぞかせた笑みは、昔から知っている可愛い幼馴染のもの。だけど、ビストロの大人びた雰囲気の中で、私を見つめる遥樹の瞳は、ひどく艶っぽい。気負うことなく着こなされたグレンチェックのジャケットも、インナーのオフホワイトのニットも、今夜の雰囲気によく似合っている。
 クリスマスデートなんだ、とあらためて思った。そうしたら、身体の中でドキドキが連なってゆく。「じゃあ、ファジーネーブル」って、いつも通りを心掛けた声は、もしかしたら揺らいでいたかもしれない。
 オードブルのマリネからデザートのフォンダンショコラまで、幸せな気分で料理を食べ終えた。そのあと、私がお手洗いに行ったときに会計を済ませられていたり、お店を出たところの段差で当たり前みたいに手を差し伸べられたり。まるで舞踏会のお姫様になったみたいな、ふわふわな絨毯の上を歩いているような気分だって思うのは、お酒を飲んだから、ってだけじゃない。
 銀天街を抜けて、大街道まで歩いた。市電の停留所を通り過ぎて、近くのミュージアムのイルミネーションをのぞきにいった。
「遥樹、そっちに立って」
 海の底みたいなブルーで幻想的にライトアップされた木の前へ遥樹を促して、スマホのカメラを構える。そうしたら、「みぃちゃんも」と手首を掴まれて引き寄せられた。
「え、え、自撮り?」
「うん、一緒に写ろう」
 たどたどしくインカメラにして、腕を斜め上に持ち上げる。

 パシャ、とオート設定のフラッシュが瞬いた。撮れた写真をのぞきこんで、「うわ、やっぱり私、写真写り悪い……」とみぃちゃんが絶望した顔をしている。
「あはは、ちょっと緊張した顔してる? でも、かわいいよ。こういう顔も」
 そう言ってから、今の台詞はちょっと気障だったかも、と顔に熱がのぼってゆく。だけどみぃちゃんの方も、照れくさそうな表情になっていた。暗がりだから分からないけど、もしかしたら、頬が赤くなっているのかも。
 ――俺の言葉で、みぃちゃんがこんな顔をするなんて。
 夜の中で明滅するイルミネーションのブルー。まるで淡い光が揺らめく海底みたいな、つめたいけど美しい光景のなかで、胸が熱くなっていくのを感じた。
 こんな日が来るなんて思わなかった。初恋は、叶わないものだって諦めていたのに。
「みぃちゃん、寒いし、そろそろ帰る?」
 すっかり冷えた指先を、同じだけ冷えたみぃちゃんの指先に絡める。何気ない声で言ったつもりだけど、俺の顔をじいっと見上げたみぃちゃんは、照れた声で「うん」と頷いた。キスしたい、抱きしめたいって思ったの、隠せていなかったんだな、と決まりが悪くなる。
 手をつないだまま、口数少なく市電の停留所まで歩いた。今夜、みぃちゃんは俺のアパートに泊まって、明日は互いのクリスマスプレゼントを買いにいくことになっている。
 どうしよう。こんなに幸せでいいのかな。夢なんじゃないかな。
 みぃちゃんの温度を、匂いを、柔らかさを感じながらそう思った。
 ――こんなに幸せなのは間違いだったのかもしれない。夢だったのかもしれない。
 叶わないと諦めていた初恋は、叶ったと思った。だけどもしかしたなら、『叶う』と『実る』は違ったのかもしれない。たとえば、美しく咲いた花が実を結ばずにただ散ってゆくように。結局俺は、実らない初恋が、いっときだけ花を咲かせたことに、なにも知らず浮かれていただけだったのかな。
 スマホの着信音が夢を引き裂いた。ん、とうめいて、目をつむったまま、枕元にあるはずのスマホを探す。指先がかたい感触を見つけた。引き寄せて、薄く目をひらいて画面を見る。ディスプレイの表示は国崎涼大――兄ちゃん?
「はい、もしもし」
 兄ちゃんから電話なんて珍しい、なんてはっきりしない意識で思いながら、寝起きの掠れ声で電話に出た。そうしたら、「え」と驚いた声がしたのちに、「……もしかして遥樹?」ともっと驚いた声が続いた。
「えぇ、俺だけど、どうしたの?」
 まだ起ききらない意識でそう問えば、「みのりと一緒?」と緊張したような低い声で問い返された。横で布が擦れる音がして、「遥樹?」と俺のパジャマを着たみぃちゃんが上体を起こした。そこで、あ、と気付く。
 握っているスマホは、押し花があしらわれたクリアケースがはまったもの。
「ごめんっ、間違って電話に出ちゃった」
 俺は慌てて、スマホをみぃちゃんに差し出す。
「えっと、……兄ちゃんから」
「涼大?」
 調子の外れた声を上げたみぃちゃんは、ひどく驚いているみたいだった。怪訝そうに、困惑している感じもした。
「……もしもし?」
 みぃちゃんを見つめる俺の身体の中で、心臓が低い音を立てる。
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