初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
 初恋は実らないって、本当だった。

「みのりは、妹みたいなものだから」

 初恋の終わりを告げた言葉。あっけなく鼓膜を通り抜けて、いやおうなく脳に刻み込まれた言葉。それを私の心がどう受け止めたのか、ようやく忘れかけていたのに。

「みのりと話していると、妹と話しているみたいっていうか」

 どうしてまた、あの言葉を思い出させるの。

          *

「もー、たけくらべじゃあるまいし」
 半年前の歓迎会の日、私と同い年の、大卒新入社員のあの子がそう言って、今日の数十分前まで私の彼氏だったそのひとは、あの子の言葉をごく自然に受け入れたっけ。パンプスのストラップが切れたことがたけくらべ? せいくらべ? どうして? ――なんて、全然理解できなかった私だから、隼斗(はやと)に愛想を尽かされてしまったのかな。私を傷付けないようにいろんな優しさでつつみこまれた言葉の、その奥に込められた本心は、「きみは幼稚で話が合わない」ってことだったから。多分。
 あの子と私は同い年だよ。でも、あなたが幼稚だと思うのは私だけ。
 ――カツン、と響くヒールの音。高校を卒業して働き始めて、もう五年目。ちゃんと、ヒールの似合う大人の女性らしくなれたと思っていたけど。
 私は、やっぱり、妹みたい?
 は、と吸いこんだ息がひきつったように掠れて、嗚咽の中に溶けていく。一度こぼれたら次から次へと嗚咽が連なる。それに耐えかねていったん立ち止まり、目元を雑にこすった。アイシャドウの茶色とラメが手の甲でぐちゃぐちゃに溶けている。
 金曜日の午後七時半、別れ話をしたカフェから三番町を通って松山市駅を目指す道は、週末を楽しもうとする賑わいに満ちている。私だけぽつんと切り離されたみたい。十月下旬の秋風が、髪をさらって乱してゆく。夕方までキープできるように念入りにセットしたカールも、そろそろ崩れ始めるね。でも、もういいの。意味ないから。自嘲するような笑みの音をもらしたそのとき、男女入り交じった大学生集団とすれ違った。
「みぃちゃん?」
 え、と顔を上げて振り向けば、幼馴染の遥樹(はるき)だった。遥樹は愕然と目を見ひらいて、「どうしたの」と問うてくる。
「……ちょっとね」
 発した声は、湿っているくせにかさかさだった。くちびるを結んで遥樹から顔を背けると、「国崎くん?」と集団の中の女の子が遥樹を呼んだ。
「ごめん、やっぱ今日行かない」
 え、と戸惑う私が何かを言う前に、もともとそんなに行きたくなかったから。耳元にひそひそ声が落ちる。遥樹は私の手を引いて、「ほんとごめん」と彼女たちに言い置くと、まるで逃げるように人波に紛れた。
 手を離されたのは横断歩道を渡り切ってから。「ごめんね、足大丈夫?」とパンプスの私を気遣う遥樹は、私に付いて回っていた幼い遥樹のイメージと重ならない。お正月に帰省したときにも会ったけど。そのときも、こんな感じだったっけ。まるで――と思ったところで小さく息を呑む。
「みぃちゃん、飲みに行こ」
「え、」
「正月に会ったとき、俺が二十歳になったら飲みに連れてってくれるって言ってたでしょ。先月、誕生日来たよ」
 に、と笑うと涙袋がぷっくりとふくらんで、八重歯が右側だけにひょこっとのぞく。私の知っている遥樹だ。涼大(りょうた)じゃないね。

 終わりが近いということには、なんとなく気付いていた。隼斗が私に向ける眼差しの、温度が失われていることに気付いていた。だけど私はそれがゼロになる日を先延ばしにしたくて、朝はダッカールでちゃんとブロッキングしてから髪を巻いて、お昼用に栄養に気を配ったお弁当を作って、夜はファッション誌を見ながら静脈マッサージを続けた。そのどれも、全然意味なんてなかったんだけど。
 酔いのまわった舌が言葉をぽんぽん投げ捨てた。落とした言葉のぶんの喪失感を埋めるようにアルコールを摂取した。堂々巡りを「そろそろ終電になるよ」と遥樹が終わらせたときまで一応正気を保てていたつもりだけど、その認識は間違っていたのかもしれない。
 大街道(おおかいどう)の停留所まで歩く足取りは、決してふらついていたりしなかった、と思う。だけどパンプスのヒールがアスファルトの小さなへこみに引っかかったとき、私は簡単に足をもつれさせた。
「わ、大丈夫っ」
 遥樹が腕で私を受け止める。シャツと上着を挟んでいても、遥樹の腕は十分にあたたかかった。じわ、ととっくに収まっていたはずの涙が瞳ににじむ。ぷくりと潤んだ視線の先、自分の腕に引っかかっているトートバッグの中には空のお弁当箱が入っている。市電に乗って、1LDKのアパートに帰ったら、洗面所の洗濯機の上にダッカールが、ローテーブルの上にファッション誌が。
「みぃちゃん?」
 揺れてゆがんだ視界、まばたきで涙を落とせば、私を覗き込む遥樹と視線がかち合う。私と別れ、晴れてあの子と付き合った隼斗は今頃、熱のこもった眼差しをあの子に向けているのかな。
「やだな。……帰りたくない」
 心でうめいたはずの言葉が耳に届いたからはっと息を呑む。「じゃあ、帰らない?」って遥樹の言葉にも。ごめん、ちがう、そうじゃなくて。口の中で言葉を転ばせていると、「つけこんでごめんね」と遥樹が苦しそうに顔をゆがめた。
「何回も諦めたけど、やっぱり、俺はみぃちゃんが好き」
 私を支えていただけの遥樹の腕が、明確な意志を持って私を抱きしめる。私は身体を強張らせ、「だ、めだよ」と声を絞り出した。
「だって、私は遥樹のことが好きじゃない。寂しいだけだもん」
 アルコールで鈍った思考でだって分かる。今日どうにかなったって、私は遥樹で都合よく自分をなぐさめたいだけだ。身じろいで、遥樹の腕を振りほどこうとする。でも遥樹はぎゅうっと腕の力を強めて、「いいよ」と囁いた。そして、ふっ、と小さく笑う。
「俺、みぃちゃんに何回失恋したと思ってるの。一回や二回増えたって変わんない。初恋は叶わないものだって、もう分かってるよ」
 その言葉に連なる切なげな息の余韻が消えないうちに、「兄ちゃんの代わりでもいいよ」と続けられた。私がそれに目を見ひらくと同時、頬に手が添えられて上を向かされる。遥樹の目は二重、涼大の目は一重。遥樹は左顎にほくろがある、涼大は右眉の下。涙袋の幅も違うし、涼大には八重歯がない。それに遥樹はみっつ年下だけど、涼大は私の五歳上。兄弟でも、全然似ていないのに、
「――みのり」
 私の名前を切なげに呼ぶ声。そのふるえが、叶わなかった初恋の残骸を揺さぶった。心のもっとも奥底に、ぐちゃぐちゃにつぶしてぎゅうぎゅうに押し込んで、泣くのをやめた日からずっと忘れたふりをしていた感情がよみがえってくる。無邪気に無防備に、あるいは無知に、ひたむきに信じていたものが崩れた絶望。縋ろうとした指先を振り払うことすらしてくれなかった。残酷なほど優しい微笑みを浮かべたまま、あなたは私じゃない人と恋をした。――結婚してくれるって、言ってたのに。
 ひっ、とこぼれた引きつれた息が、くちびるごと奪われる。私はキスを受け入れた。
 だって、目を瞑れば、まるで叶ったみたいだった。
 幼い小指でむすんだ約束が、ちゃんと叶ったみたいだった。

 結婚の約束をしていた。
 ランドセルを背負った涼大はプロ野球選手になるのが夢で、だから私はプロ野球選手のお嫁さんになるのだと信じていた。――もちろん、ままごとだったのだけど。
 涼大は小学校で野球を辞めて、中学では部活に入らなかった。丸刈りから随分髪の伸びた涼大に「プロ野球選手にはならないの?」と訊いたら「なれないな」と涼大は笑っていた。じゃあ私もプロ野球選手のお嫁さんになれないの、って戸惑ったけど、涼大の髪型が結婚の約束をした頃と同じになっていることに気付いて、まぁいっか、とも思った。プロ野球選手のお嫁さんじゃなくたって、涼大のお嫁さんになれればいいんだ、って。
 ――全部全部、ままごとだったんだよ。
 涼大がお嫁さんにするのは優奈(ゆうな)さんだ。涼大の、大学時代の後輩だった優奈さん。就職一年目で鬱っぽくなってしまったらしくて、今は仕事を辞めて涼大と同棲している。そろそろ結婚も考えているらしいって、涼大のお母さんと幼馴染の、私のお母さんを通して聞いた。
 枕元の時計を見下ろすと、AM九時三十八分。つい今しがた脱いだ、こういうホテルにありがちなワンピースタイプのパジャマ。自分の体温が残るそれを軽く畳んで、ベッドの上に置いた。トートバッグを手に取る。財布を出して、遥樹に声を掛けて、精算機へ。すると遥樹は、「みぃちゃん、俺が払うから」と私を押しとどめた。
「……そんなわけにはいかないよ。そっち学生だし」
「じゃあせめて割り勘。お願い払わせて」
 必死な声で、遥樹は言う。
「勝手なのは分かってる。ひどいのは分かってる。そんなのじゃないって分かってる。でも、幻覚でも勘違いでも間違いでもいいから、今日のことを思い出だって思いたいから」
 昔と変わらない表情だ。みぃちゃん、と無邪気に――あるいは必死に、私の背中を追っていた遥樹の表情だ。私は眉根をぎゅっと寄せ、逃げるように眼差しを足元へ落とす。その途中で視線に入った、不自然なシワが寄ったスカート。ブラウスにも、同じようなシワが入っているはず。
 結局、私が半額の四千円を遥樹に渡して、遥樹が精算機で支払った。私が全額払いたかったのに。払った金額のぶんだけ罪悪感が消えるんじゃないかって、勝手な予感がしていたから。

 ホテルを出て、大街道から私はJR松山駅行きの市電に乗る。遥樹は反対方向の環状線だ。遥樹の電車のほうが先にやってきた。「ごめんね」と私に言い置いて、遥樹は電車に乗り込んだ。私はそれになにも言葉を返せず、ただ呆然と遥樹を見送った。どうして、遥樹にばかり謝らせているの。そう自分に問うくせに、私はくちびるをむすんだまま。
 五分ほど遅れてやってきた電車に私も乗り込む。大手町駅前で降りて、十分ほど歩けばアパートに着く。帰りたくない、と悲痛な声で嘆いてみせたって、いつか帰ることになるのに。本当になにしてるんだろうね、私は。
 パンプスを脱ぎ捨て、すぐさまキッチンに向かった。ゴミ用のビニール袋を引っ張り出して、トートバッグの中のお弁当箱をミニバッグごと投げ入れる。次にローテーブルの上のファッション誌。その次に洗面所、洗濯機の上のダッカール。隼斗のぶんの歯ブラシも。お風呂に置いてある色違いのボディタオルも。分別する気力なんてなくて、見た瞬間に隼斗との記憶が掠めるものを全部全部放り込んだ。
 二年分の恋の残骸は三十五リットルのビニール袋二つ分。右手と左手に一つずつ持ったそれらは、見た目に比べてやけに軽い。
 ――みのりと結婚したら、毎朝起きてすぐ、おはようって言い合えるんだよなぁ。
 歯ブラシに歯磨き粉をつけるのと同じくらいの、ごく当たり前な気軽さで、隼斗はそんなことを言ってくれていたけど。
 気軽な言葉は、同じくらい気軽にうやむやにできるよね。
 ばかだな。また、私ひとりだけが勝手に未来に描き込んで。
 トスン、と袋が床に落ちる。その動きを追うように膝を折って床にへたり込んだ。くちびるを噛んで、鼻を啜ろうとしたそのとき、空気をふるわせたスマホの受信音。緩慢に首を動かして、腕を伸ばして、トートバッグからスマホを取り出す。遥樹からだった。十数分前に来ていた〈みぃちゃん、家に着いた?〉のメッセージと、今来たばかりの〈みぃちゃん大丈夫?〉のメッセージの横にそれぞれ既読の文字がつく。それをぼんやりと眺めていたら、手の中でスマホがふるえはじめた。メッセージじゃなくて電話だ。国崎遥樹の文字をしばらく見やったあとに、通話ボタンを力なくタップした。
「……はい」
「みぃちゃん、大丈夫っ?」
 切羽詰まった声が訊いたあとに、「……ごめんね、急に電話して」と続けられた。ううん、と首を振ったけど、声は遥樹にちゃんと届いたか分からない。
「……大丈夫じゃなさそうだね」
 遥樹が声を揺らめかす。「俺、今からバイトだけど、夜にまた会う? 明日も、夜なら空いてるし」
 なにを言っているの。そんなことをしたら、私はまた遥樹に都合よく縋ってしまう。力なく笑って、私は忠告する。
「それ、都合のいい男だよ。昨日も言ったけど」
 どうか拒絶してよ――そう思ったのに、遥樹は電話越しにふっと笑った。「それでもいいよ、って昨日も言ったよ」って。

 開けっぱなしのカーテン、窓から入り込む薄い光が空間全体に柔く佇む。ぼうっと天井を見上げていたら、時間の流れが分からなくなった。ひとりきりの室内は、私が興味をむけて介入しなければ、すべてがただ沈黙している。空気の流れも音の流れもなにも見えない。感じられない。時折まばたきで途切れる視界と、不意に自覚する心音が、時は止まっていないのだと辛うじて伝えてくる。
 着信音がして、びくりと肩を竦めた。緩慢な動きで、床に投げ出していたスマホを拾い上げる。遥樹だった。遥樹の名前とともにディスプレイに表示された時間は十五時二十分。時間の流れに唖然としながら通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「みぃちゃん、今バイト終わったんだけど。あのさ、」
 居酒屋のランチで接客していた名残か、遥樹の声が半トーンくらい高い。
「からあげいる? あとフライドポテトも」
 銀天街(ぎんてんがい)か大街道のアーケード街から電話しているのだろう。ざわざわとした人のにぎわいが感じられる雑音を背景にしながら、遥樹は続けた。
「余ったからもらったんだ。すごいいっぱい。だから、いるなら持ってくよ。もちろん、玄関先で追い返してくれていいから」
「……そんな」
 遥樹は、どこまでも都合のいい男に徹そうとする。私の方がやりきれない気持ちになって、「追い返したりしないよ」とぽつりと返した。
「からあげ、いる。そういえば、」
 ご飯食べてないや。そう続けてしまいそうになったけど、遥樹に無用な心配をかけてしまうと思い至って、寸前で言葉をとどめた。「そういえば?」続きを促す遥樹に、「ううん何でもない。からあげ食べたい」とだけ返して会話を終わらせる。
「……うん、住所ね。メッセージで送る。……うん、じゃああとで」
 電話を切って、アパートの住所と部屋番号をメッセージで送った。ローテーブルの上にスマホを置いて、深く長く息を吐いた。シワのついたスカート。シワのついたブラウス。帰ってきてからそのままだ。シャワーも浴びていない。いったん片膝を床に突いてから、ふらりと立ち上がった。今アーケード街にいるなら、遥樹が来るまで三十分くらいはある。シャワーを浴びて、髪を乾かして、簡単なメイクくらいまでできるはずだ。ふらふらとたどり着いた脱衣所で、シワの寄ったスカートとブラウスを脱ぐ。本当は洗濯ネットに入れたほうがいいのだけど、そんな気力はなくてそのまま洗濯機に放り込んだ。

 残業終わりに、隼斗と――桧山(ひやま)さんと、初めて一緒にご飯に行ったときだった。レストランに向かう道すがら、私は段差に靴先を引っかけて派手につまずいた。だって、ほんのわずかな煙草の残り香が届くくらいの距離にあなたがいて、胸のドキドキがうるさくて、また恋ができているのかもしれないって、よくわからない浮遊感でふわふわしていたんだもの。ことあるごとに、あなたはそれでからかってきたっけ。さあさあと熱を含んだ雨がまっすぐ降りそそいでいた、あの夜も。
 ――ほら、段差。危ないよ。
 ――見えてますぅ。いい加減しつこいですよ。桧山さん私のこと、子供とか妹みたいに思ってません?
 ――思ってない。須藤さんが子供や妹だったら困るよ。だって、
 さあさあと降ってくるシャワーが髪に絡みつく。髪先から滴った無色透明の熱は、肌をひたむきに滑り落ちて、足元で跳ねて流れてゆく。崩れかけの泡を吸いこみながら、一途に、排水口へ。
 ――だって俺、須藤さんのこと気になってるから。
 ひとつの傘の下、肩が触れる距離で囁き合った言葉たち。あなたの言葉が耳に触れるたびに私の心はどくんと跳ねた。頬に上ってゆく血の音を同時に聞きながら、ゆっくりと顔を上げて。そうして見つめた世界はかがやいていた。かがやいていると、そのときは思った。雨のしずくがきらきらと光っていたのは、繁華街のネオンや、点滅していた青信号や、車のスポットライトを反射していたからだったのに。
 蛇口を閉めた。しずくがひとつぶ落ちる音と、きゅ、とかたい手ごたえを残してシャワーが止まる。髪に縋りつく水滴を絞って、顔を上げた。鏡に映った自分は、表情という概念を忘れてしまったような顔をしていた。
 浴室を出て服を着て、髪を乾かしてメイクをした。パウダーをはたいて、眉を描いて、アプリコットオレンジのリップチークで血色を整えた。ぎゅ、とくちびるを横に引っ張ってみる。スーパーの服飾コーナーにある古びたマネキン人形くらいには表情を取り戻せた。そのタイミングで遥樹がやってきた。
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