初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
第二章
 雨の音が静かに響く夕方だった。大学の春休みで帰省した涼大を訪ねた私は、高校一年生の終わりかけ。学校から一・五キロ、雨を蹴飛ばしてきたローファーを脱いで、靴下も脱いだ。自分のハンカチで素足を拭おうとしたら、「これ使え」と涼大がフェイスタオルを放ってきた。「ありがとう」と足を拭いて框に上がって、涼大を見上げた私の視界。ふわっ、と白に奪われた。柔軟剤の清潔な匂い。バスタオルを頭から被せられて身体を拭かれているんだと遅れて理解した。やわらかなタオル越しに、涼大の指が私の首筋を撫でた。
「いい、自分でやる」
 涼大はきっと、小さな妹の面倒を見ているようなつもりでしかないんだろうけど。胸を過った切なさ、それを振り切るようにタオルを奪い取った。そうしたら、視界から白が消えて、涼大とちょうど目が合った。
 ――妹を見ている目じゃなかった、と思ったのは私の勘違いだったけどね。
「風邪ひくから着替えろよ」
 昔からそうしていたように、涼大は私を二階の自室へ招き入れた。クローゼットから引っ張り出したスウェットの上下をぽいぽいっと私に放って、「なんか食うの持ってくる」と部屋を出ていった。その間、涼大は私のほうをまったく見ないままだった。
 濡れて身体に張りついた制服のブラウスのボタンを外しながら、私はかつての約束を思い出していた。
 ぜったい、わたしをおよめさんにしてね、なんて約束は本当の約束じゃないと諦めていた。だけどもしかしたら。
 一階の玄関が開く音がした。おばさんが買い物から帰って来たんだ。「あら、みのりちゃん来てるの?」っておばさんが涼大と話している声が聞こえたから、「おじゃましてまぁす」と声を張った。急いでブラウスを脱いで、袖の余る涼大のスウェットに着替えながら、私は自分の鼓動が早まるのを感じていた。
 もしかしたら、約束は叶ったりする? 初恋は実ったりする?
 そんな予感に、胸が痛いくらい激しい音を立てたけど、――全部全部勘違いだった。
 翌日、涼大は早々に松山のアパートに戻った。大洲に帰省して三日目だったのに。その少し後に優奈さんと付き合ったみたいだから、もしかしたら優奈さんとの予定があったのかもしれない。
 ――涼大、……私。私の好きな人は、
 ――へぇ、好きなやつがいるんだ? みのりは、妹みたいなものだから。お兄ちゃんとして応援しなきゃな。
 私は妹でしかなかった。私の初恋は終わったはずだ。

 遥樹からスマホを受け取った手はひどく緊張していた。涼大から電話なんて何年ぶりだろう。なにかよっぽどの用があるの? 探るような声で「……もしもし?」と電話に出た。
「みのり。あー……ごめんな、朝から」
 久しぶりに聞く涼大の声は、記憶の中の声とまったく同じ。乾いた地面にしずくの一粒が吸いこまれたのち、やがてざあざあと降り注ぐ夕立みたいに、心に記憶が流れ込んでくる。私はそれを振り払うように首を振った。「ううん、朝って時間でも……」スマホを耳からちょっと離して、時間を確認する。十一時七分。「ないし。うわ、お昼前まで寝ちゃった」さっきの言葉に続けて、普段通りの声で苦笑した。
「どうしたの?」
 問うたら、「あーいや、大したことじゃないけどさ」と前置きがあった。「うん」と相槌を打てば、「来月、松山に転勤になる。一応言っとこうと思って」と続けられる。
「松山に?」
 大学卒業後、全国チェーンのドラッグストアに就職した涼大は、今治(いまばり)の店舗に勤務していた。何年も涼大には会っていなかったのに、今また急に生活圏が同じになるなんて。わずかに目を見ひらいて、身体をかたくすれば、隣で布が擦れる音がした。そちらを見ると、遥樹が不安げな瞳で私を見つめていた。目が合うと、決まりが悪そうに、遥樹は視線を静かに掛布団に落とす。私ははっと気付いて、ぶかぶかのパジャマからのぞく指先を、遥樹の指先に重ねる。びく、と怯えたように跳ねた指をぎゅっと握った。私が今、好きなのは遥樹だよ、と伝えたくて。
 手を繋いだまま、涼大の言葉を聞いた。
「ん。松山駅近くの店舗に異動で、店長に昇格。みのり、今住んでるとこ、駅の近くって言ってたよな」
「わあ、店長になるんだ。すごい、おめでとう。そうそう、駅裏のスミレ薬局にもたまに買い物に行ってるよ」
「サンキュ。買い物来てな」
「うん」と頷きながら、繋いだ手に力を込めた。そうしたら、遥樹は決まりが悪そうな顔をしたまま、私の腰に腕を回してきた。ぎゅ、と縋りつくように寄りかかられる。寝ぐせのついたやわらかな髪が首元をくすぐる。パジャマ越しに触れ合った体温に、私は少し心を落ち着けて、電話越しに続く言葉に耳を傾けた。
「正月、今年も仕事で大洲には帰れないからさ、言っとこうと思ったんだ。急に電話してごめんな」
「ううん」
「それから」
 そこで一旦言葉を切った涼大は、何気ない調子で続けた。
「店長になるし、そろそろ優奈と結婚しようと思ってる」
「そうなんだ。おめでとう」
 祝福の言葉を落とすのと同時、雨で水かさの増した川に、なにか大切な宝物を落としたときみたいな冷たい音が、胸の奥で響いた気がした。私はまだ涼大への感情を残しているのかと愕然とした。でも、そうじゃないとすぐに気付く。
 涼大は私の初恋だった。実らなかったけど、一途にひたむきに、十七歳までずっと抱きしめてきた思いだった。それが終わりを告げた途端に、無価値なガラクタになるなんてことはないはずだ。今、私は初恋という宝物を流れゆく川へ手離した。切ないような、苦しいような、痛いような、泣きたいような、そんな心地がせり上がってくるけど仕方がないよ。だって、涼大は私の初恋だったんだもの。
 パジャマ越しに伝わる遥樹の心音が、私の心をとんとんとんと叩く。私はふっ、と水面から顔を上げて、空を見上げて、雨が上がっていることを知る。澄んだ空から、きらきらと降り注ぐ日差しはあったかい。
 あったかい、と私に寄りかかる遥樹の体温を感じて思った。私が今、好きなのは遥樹だよ。そう心がうったえるままに正直に、「みのりは、遥樹と今一緒にいるのはさ、……そういうやつ?」と問うてきた涼大に答えた。「うん。遥樹と付き合ってる」って。胸に寄りかかっている遥樹の肩がぴくっと跳ねる。
「そか。……そっか。ああいや、……妹と弟が付き合ってんのか。うわ、今すごい衝撃を受けてる」
「わ、昼ドラみたいなドロドロにしないでよ。遥樹は私の弟じゃないもん」
 そう焦った声を出してから、「あ、でも」と思いついたことがある。それを冗談めかして言ってみた。「遥樹と結婚したら、私は本当に涼大の妹になるね?」
 え、と声をもらした遥樹が私を見上げる。それに一拍遅れて、「ははっ、そうだな」と涼大が笑った。
「結婚とか言って、重かったね」
 涼大との電話を終えてから、遥樹に向かって苦笑いをした。「冗談みたいなものだから流して」って続けたら、その途中で言葉を重ねられた。「重くないよ」って、いつもみたいに少し幼げな口調だったけど真剣な瞳と声だった。
「重くない。俺だって、ずっと思ってたもん。十年……もっとだ。子供の頃からずっと、みぃちゃんと結婚したいって思ってたもん」
 頬を赤くすることもなく、真っ直ぐに目を見つめて言われた。私の方がたじろいで、目を逸らしてしまった。そうしたら、「あっ、ごめんね。俺、まだ学生なのに」と遥樹もたじろいで目を逸らすから、待って違うよという意味でぶんぶんと首を振る。
「そうじゃなくて、……声が真剣だからドキドキした」
 正直に言った。言い終えた瞬間に抱きしめられた。ぎゅうっと縋りつくような、それでいて私を丸ごと包み込むような男の人っぽさを感じる力加減だった。
「兄ちゃん、こっちに転勤になるって話?」
 唐突に話題が変わったので一瞬戸惑うも、電話の内容を尋ねられているのだと理解する。
「うん。店長に昇格で異動だって」
「……今。みぃちゃんが好きなのは俺だよね?」
「遥樹だよ」
 遥樹の首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。うん、という安堵の頷きが私のうなじをくすぐる。
「俺も、みぃちゃんが好きだよ」

 クリスマスプレゼントを買いに出かけたのは、予定よりも随分遅れて十三時過ぎだ。まず、大街道のカフェで遅めのランチ。昨日のディナーは遥樹がごちそうしてくれたので、今日は私持ちに。カフェを出ると、アーケード街のお店を見て回った。
「みぃちゃん。着てみたけど、あのこれ、値段が……」
 三軒目に入ったセレクトショップで、遥樹は思いっきり引いた顔をして試着室から出てきたけど、この服をプレゼントにしよう、と私はもう決めていた。だって遥樹は、一目見てこのニットを気に入ったみたいだから。それに、グレージュを基調としたパッチワーク配色のニットは、淡い色合いもポップな雰囲気も遥樹によく似合っている。
「えぇ、いくら?」
 少し離れたところにいる店員さんを気にしつつ、声のトーンを落として訊いた。遥樹は裾をめくって、ウエストあたりの裏地についているタグを見せてくる。税込みで二万ちょっと。
「冬物だからそのくらいするよ。いいよ、ボーナス入ったし」
「で、でも」
「だって遥樹、この服すごく気に入ってるでしょ。私も、すごく似合ってると思う」
 それでもまだ気の引けた顔をしている遥樹へ顔を寄せて囁く。
「付き合って初めてのクリスマスだもん。年上彼女が、浮かれて奮発しちゃってもいいでしょ?」
「えぇ……なにそれずるい」
 困ったように眉を下げた遥樹の頬がほんのり赤く染まっている。「はい、プレゼントはコレね! ほら、着替えてきてー」えいえいっと遥樹を試着室の中へ押しやった。
 会計を済ませてお店を出ると、ショッパーを胸に抱えた遥樹が「ありがとう」とはにかむ。口元からひょこっとのぞいた右側だけの八重歯、幼げな笑顔が、驚くほどに可愛い。自分の心臓が立てた音の激しさに面食らう。
「みぃちゃん」
 遥樹がエスコートをするように私に手を差し伸べてくる。手を預けたら、ぎゅっと指を絡めて繋がれた。触れ合った指先のあったかさや、かたさや、湿度にだってドキドキする。進む歩幅は私の歩幅。「疲れてない?」と私を見下ろす眼差しは大人びた余裕をにじませていて、私の心臓は休むひまなく高鳴り続けた。

 バイト用の、作務衣みたいな制服を脱いだ。ランチタイムだから、煙草の匂いはあまり染みていないはずだけど、一応、髪に消臭用のミストを。ぼさぼさの髪を指でとかして、みぃちゃんに買ってもらったニットに着替えた。香水を付けて、コートを羽織って、スマホを確認して、更衣室を出る。店長とおかみさんに挨拶をしたら、ポテトやからあげを持たされそうになったけど、丁重に遠慮をして店を出た。
 近くのコンビニにいる、とみぃちゃんから連絡が入っていたので、そちらへ向かった。みぃちゃんのベージュの軽自動車はすぐに見つかった。近付いていくと、運転席でスマホを扱っていたみぃちゃんがふっと顔を上げて、フロントガラス越しに眼差しがかちあった。ひらひらと手が振られる。俺も手を振り返して、小走りで助手席へ向かった。
「バイトお疲れさま。寒いねぇ」
 車内は、暖房がよくきいていた。「はい」とホットのブラックコーヒーが渡される。「うん、ありがとう」と俺は素直に受け取ったのだけど、みぃちゃんは、あっ、と声をあげる。
「遥樹、バイトで動いてたからそんなに寒くない? 冷たい方がよかったかな?」
 細やかなところまで、気にかけてくれるのは昔からだ。買いなおしてこようか、と訊かれる前に、ぶんぶんと首を振る。
「あったかくて嬉しい。身体、すぐ冷えちゃうから」
「そう?」
 みぃちゃんが首を傾げたときに、あ、と気付く。
「香水付けてる」
 クリスマスの翌日に、みぃちゃんに買ったプレゼント。俺と同じブランドの、レディスの香水だ。フルーティで爽やかなフローラルが、俺の心を高鳴らせる。
「よーし、じゃあ大州に出発!」
 みぃちゃんの合図で車が発進した。

「お母さん、あのね」
 夕飯を済ませて、お父さんがお風呂に入っているときに切り出した。昔から、みぃちゃんや兄ちゃんと遊んだ内容や、学校であったことはまずお母さんに報告していたし、お母さんの方がなんとなくハードルが低い気がしたから。
「うん?」と、食洗器に食器を並べる手を止めて、お母さんが相槌を打つ。「あっ、いいよ、やりながらで」続きを促して、そわそわとした気分で言葉を続ける。かちゃ、と音がしてグラスがサラダ用のお皿の隣に並ぶ。
「今日、俺、みぃちゃんと一緒に帰ってきたでしょ」
「うん、乗せてもらえてよかったじゃない。今度また、ご飯食べに来てもらおうね。今日は用事があるって言ってたから残念だけど」
 かちゃかちゃと食器が鳴らす音を聞きながら、何でもないような声を作って言った。
「付き合ってるんだ、みぃちゃんと」
「え?」
 かちゃん、と食器がひときわ大きな音を立てた。肩を跳ねさせた一瞬の無音ののち、「だ、大丈夫?」と手をすべらせたお母さんを気遣う。お母さんははっとしたように、「洗剤が多かったかな、大丈夫よ。割れてない」とシンクに落ちたパスタプレートを取った。薄っぺらい泡がのったそれを食洗器のいちばん後ろに並べて、「そうなの、みのりちゃんと」とお母さんが確認をするようにつぶやく。
「そう、よかったじゃない。みのりちゃんは、いい子だし。ね?」
 お母さんは笑ってそう言ってくれたけど、まるでなにかにおびえているかのような、強張った笑顔に見えた。もしかして、俺とみぃちゃんが付き合ってること、本当はよく思ってない?
 なにを言うかを決めないまま、くちびるをひらく。だけど結局何なにも言えなくて、その代わりのように、かちゃかちゃと食器が鳴る。
「お兄ちゃんは、知ってるの?」
 訊かれて、はっと我に返って、「知ってるよ」と慌てて返した。そうしたら、「そう」と相槌を打ったお母さんが、手を止めて俺を見た。
「そっか。その……、みのりちゃんだから、お母さんびっくりしちゃった。よかったね」
 普段のお母さんの声とそんなに変わらないように聞こえたから、「うん、ありがとう」と返して、俺も笑った。びっくりしただけ。そうだよね、って。
 感じた不安は、簡単に忘れてしまった。ううん、忘れたんじゃなくて、わざと忘れようとしたのかも。二階の自分の部屋に上がって、なにをするでもなくベッドの上でぼうっとしていたら、スマホがふるえた。みぃちゃんからの電話だった。
「みぃちゃん? どうしたの?」
 問うたら、少しだけ照れた声で「別に、用事はないんだけど」とみぃちゃんがはにかんだ。それを聞いた瞬間に、心が舞い上がった。「遥樹と付き合ってるって言ったらね、私のお母さん、びっくりしてたよ」って、みぃちゃんがくすくす笑ったら、さっきのお母さんの反応も、大丈夫だって気がした。
「佐倉さん……この前会ったお母さんの彼氏ね、とってもいい人だったよ。スーパーでお母さんとね、最後のひとつの長芋を同時に取ろうとして知り合ったんだって。ちょっと少女漫画みたいじゃない?」
「少女漫画みたいだけど……長芋?」
「あはは、長芋だよ。そこは生活感」
 気の抜けたみぃちゃんの笑い声に心をくすぐられたみたいに、あははっと俺も気楽に笑う。
 気付けば、三十分以上話していた。俺はごろんと寝返りを打って、枕に肘を突いた。
「みぃちゃん、初詣、一緒に行こうね」
 大みそかの夜を一緒に過ごして、一緒に新年を迎える約束をして、電話を終えた。

「――ああ、知ってる。遥樹はずっと、みのりのことが好きだったからさ。よかったなって、思うよ。それから、ごめん。今年もまた帰れなくてさ」
 店長に昇格したことへのお祝いの言葉と、優奈の体調を気遣う言葉をもらって、電話を終えた。アイコスの本体から、使用済みのカートリッジを抜き取って、ベランダから室内に戻る。
 壁に面した折り畳みデスクに添削する答案をひろげている優奈は、こちらを振り向いて、「電話?」と首を傾げた。優奈が仕事のときだけにかける丸眼鏡、その奥の大きな目が俺を見上げる。
「そ、母さんから」
 そう短く返しただけで、優奈は眉を下げて、俺を気遣う表情をする。俺は努めて気楽な表情で笑って、「俺は、もうなんとも思ってないよ」と優奈のそばに寄る。無造作に後ろにまとめられた髪をかき混ぜるみたいに、頭を撫でる。「もう、ぐちゃぐちゃにするな!」と優奈はおどけた声で拗ねてみせた。ははっ、と俺は肩を揺らして笑う。
「ねぇ涼大さん」
 赤ペンを置いて、掛けていた丸眼鏡を外して、髪を結び直しながら優奈が俺を見上げる。「ん?」と眼差しを重ね合わせれば、優奈は少し考える顔をしたあとに、「あれ、なんて言うつもりだったか忘れちゃった」と困った顔で笑った。それが嘘か本当か測りかねた。俺は数秒迷ったのちに、椅子に腰掛ける優奈に体重をかけるようにして、その肩を抱きしめた。
「ねぇ、重いんですけど」
「重くしてるからな」
「もう、邪魔!」
 じゃれあうみたいなやりとりをして、それで気楽に笑ったことに安心して、テレビの前の座椅子に戻る。
 ――涼大、……私。私の好きな人は、
 座椅子に背中をもたれさせながら、思考に入り込もうとする声を振り払う。背中の向こう側からは、優奈が赤ペンを走らせる音が聞こえる。
 ――へぇ、好きなやつがいるんだ? みのりは、妹みたいなものだから。お兄ちゃんとして応援しなきゃな。
 かつて自分がみのりに言った言葉を、ちゃんと覚えている。だから、大丈夫だ。みのりの好きなやつが遥樹になったって、あの頃と同じだ。俺の立場は、なにも変わらない。
 年始の特番のCMがテレビで流れる。優奈は毎年、この時期は呉の実家に帰省していたけど、今年は引っ越しがあるからと理由を付けて帰省しない。俺は二十六日に今年最後の休みがあったあと、大みそかまで連勤だ。優奈も答案添削の業務で忙しくしていたこともあって、二十六日にクリスマスディナーをしただけで、クリスマスらしいことも、年末年始らしいこともほとんどやっていない。
「優奈」
 身体をひねって、座椅子の背もたれに肘をかけて、優奈のほうを向く。「なに?」くるんと椅子を回して、優奈も俺のほうを見た。
「一日、初詣行く? 今治も今年で最後だし」
「うーん、そうだね。行こう、かな」
「気が進まないならいいけど」
「ううん、そうじゃなくてね」
 優奈がふるふると首を振る。
「私、初詣って行ったことないなって。実家では行く習慣なかったし……甘酒とか、飲むんだよね。美味しい?」
「や……俺はあんまり好きじゃないな」
 正直に言ったら、「えーそうなの?」と、優奈は残念そうに声をしぼませる。だから、「けど、あったかいから外で飲むと美味いかもな」と付け加えた。途端に、優奈は表情を綻ばす。
「じゃあ、一日は初初詣で、初甘酒だ」
 丸眼鏡の奥の目を垂れさせて、幸せそうに笑う優奈を見つめたら、可愛い、とか、愛しい、と思う気持ちが胸にひろがる。この感情が、好き、だろ?
 七年も前に落としてきた感情なんて、もう俺に所有権はなくなっている。
 ただ、驚いているだけだ。心臓がやけに早鐘を打つのも、耳が声の記憶をよみがえらせようとするのも、まぶたの裏が過去の映像を引きずり出そうとするのも。みのりと遥樹が――妹と弟が、まさか恋人になるとは思わなかったから、驚いて、動揺して、身体の至るところが少し操作を間違っているだけだ。

 遥樹と一緒に行った初詣で、引いたおみくじは大吉だった。大吉なんて引いたのは随分久しぶりで、もしかしたら小学生以来だったかもしれない。はしゃぐ私の隣で、遥樹は残念ながら凶を引いたのだけど。
「いいもん。みぃちゃんが俺を好きだってだけで、俺は幸せだもん」
 拗ねた声と、表情が、びっくりするくらいに可愛かった。冷えた指先を絡めて、手を繋いで、「私の運勢、分けてあげる」と、いつか遥樹に言われたことを思い返しながら言った。八重歯をひょこっとのぞかせて笑った遥樹は、「今。幸せ、分けてもらった」って、幸せそうに私を見下ろした。
 ――私、今年大吉だったのに?
 年が明けて数週間、一月も下旬になった。私は遥樹との待ち合わせまでにぶらついていた銀天街で、しつこい客引きの男の人に掴まっている。「すいません、ちょっといいですか。占いとか興味ないですか?」って訊かれた最初の時点で、「ああ、いえ」なんて曖昧な返事をせずに無視しなきゃいけなかったんだ、と後悔するけど遅い。
「B型なんですよね? ヤバい相が出てますよ! 話だけでもぜひ聞いてってください!」
 強行突破で逃げようとするけど、右、左、左、右と私の動きを読んでいるかのように立ちふさがってくる。
「ほんとに、運勢なら大丈夫です! 今年のおみくじ、大吉だったし!」
「おみくじって、期限あるの知ってます?」
「いや知らないですけど……」
「B型で星座はなんですか? 血液型と星座の組み合わせによっては……」
 わああ、もう本当にどうしよう! ついに腕まで掴まれて、恐怖を覚えたそのときだった。
「俺もB型ですけど、なんですか?」
 控えめに肩に手を置かれた。え、と振り返る前に声で分かった。
 背の高い涼大が、客引きの彼を見下ろす。穏やかだけど、圧のある問いかけ方だった。
「B型が……その。ヤバい相が出てるんで、ハイ。話を聞いてもらえたらなって」
 しどろもどろに答える彼に、涼大はさらりと笑いかける。
「俺もこの子も、そういうの気にしない(たち)なんで。お構いなく。……おいで、みのり」
 こくこくと頷いて、力の抜けた客引きの彼の手を振りほどく。それと入れ違うように、涼大が私の肩を抱いた。思わず肩を跳ねさせるけど、彼から私を庇うためだと分かったから、平気な顔をする。
 涼大は背が高いぶん、一歩が大きい。だから歩幅に見合わないゆったりとした足運びで、歩くスピードを私と同じにしてくれる。昔からそうだった。
「たまたま通りかかってよかった。みのりが、壺とか水晶とか買わされる前に」
 からかうような声音に、むっと口をとがらせて、「さすがに、そこまでには逃げるよ」と反論した。ははっ、と涼大は笑ったあと、私の肩を抱いていた手をそっとのけた。そうして、真面目な声になって言う。
「みのりみたいなタイプはさ、向こうの話なんて無視してとにかく逃げろよ。話せば調子づかせて絡まれる。腕、掴まれてただろ。そこまでされたら、警察に通報するって言ってやってもいい。んで、思いっきり振り払ってどっか店の中に逃げろ」
「……うん」
 涼大の眼差しを見上げて頷きながら、昔と同じだ、と思った。私の歩くスピードに合わせながら、話の合間に、見守るように私をちらりと見下ろすところ。
「助けてくれてありがとう」
 涼大は「ん」と応じると、正面に視線を戻した。そうしながら、頭をぽんと撫でられるかと思った。だけど大きな手のひらは、私の髪に触れる寸前に、はっと気付いたように動きを止めた。ぎゅっと風を掴むように握られた手は、歩く動作になじませて太腿の横に下ろされた。その動きを密かに追った視線が気付いた。指輪がはめられている。左手の薬指に。
「引っ越し、終わってたんだね」
「ん。先週にな」
「今日、優奈さんは?」
「家で仕事してる」
「家で?」
「そ。通信教育の答案の添削」
「へぇ、すごい」と相槌を打ったら、いったん会話が途切れた。一歩。二歩。三歩。四歩目で、涼大がちらりと私を見下ろした。
「今から、遥樹と会う?」
 どうして分かったのかと目を見ひらくと、涼大は左の口の端を持ち上げるようにして微かに笑う。
「そういう格好だから」
 種明かしされて、私の頬にはぽっと熱が上る。確かに、仕事が終わってメイクを直したとき、アイシャドウにラメを重ねたし、リップはベージュピンクからアプリコットピンクに変えた。うなじにアトマイザ―から香水も、耳には揺れるデザインのイヤリングも。
「えぇと、遥樹、授業のあとにゼミ決めのオリエンテーションがあるんだって。だから七時に待ち合わせしてて、だからそれまで、時間つぶしてて」
 照れくささをごまかすように、訊かれてもいないことをぺらぺらと喋った。涼大は微かに笑ったまま、「好きなんだな、遥樹のこと」とつぶやくみたいに言った。茶化したりする声ではなくて、自分に言い聞かせるためのひとりごと。そんな言い方だった。会話の流れにそぐわない言い方に思えて、私は探るように、涼大の目を見上げた。靴先が踏むブロックタイルへ、俯きがちに眼差しを向けている涼大の目と、私の目はかち合わない。違うかもしれないけど。気のせいかもしれないけど。
 涼大の表情が、暗く見えるような。
 眉を寄せて、涼大の横顔を見上げていたら、ちらりと視線が向けられた。急に目が合って、私はびくりと肩を跳ねさせる。
「遥樹との待ち合わせは? どこ?」
「大街道の、三越の前」
「じゃあ、みのりは向こうだな。俺はここ寄るな」
 そう言って、涼大は肩越しに親指で、百円ショップをさした。
「うん。じゃあまた……あ、家はどのあたりなの?」
「髙島屋の横の駐車場の裏のほう」
「この辺なんだ。ここまでは歩いて?」
「そ」と頷く涼大に、「いいなぁ、便利だね」と笑った。そのままの表情で、内心にひろがるよく分からない動揺を気取られないよう、注意しながら続けた。
「また会うかもね。私、会社が三番町だし」
「そうだな」
 涼大は短く返事をして、百円ショップへと靴先を向けた。「じゃあね」と手を振って、私も大街道のほうへパンプスのつま先を向けた。
 カツ、ン、とヒールが戸惑った。
 涼大に二の腕を掴まれたからだった。え、と小さな驚きをもらして振り返ると、涼大も驚いた顔をしていた。ひどく困惑したように見ひらいた目が、呆然と私を見下ろしている。
「涼大……?」
 呼びかけると、はっと気付いたように涼大は手を離した。「あ、……あぁ、気を付けろよ。また、変な奴に捕まんないように」気安い雰囲気で笑いながら、途方に暮れたように目を眇める。――その表情が、あのとき、の。
 立ちすくむ私を置いて、「じゃあな」と、涼大は百円ショップへ消えていった。女子高生の二人組に追い抜かされながら、私は自分の中によみがえった光景にひどくうろたえる。
 私は高校一年生で、涼大は大学三年生だった。雨の音が静かに響く夕方で、傘を持っていなかった私は全身がぐっしょりと濡れていた。涼大はそんな私に頭からバスタオルを被せて、兄が小さな妹にするように濡れた身体を拭こうとした。それがなんだか切なくて、反抗するみたいにバスタオルを奪い取ったら、涼大と目が合った。眼差しを重ね合わせて、数秒――もしかしたら十数秒、見つめ合った。雨の音が遠くに聞こえて、自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。
 あのとき、みたいな目だった。
「みぃちゃん」
 はっと声のほうを見た。遥樹がスマホをコートのポケットに仕舞いながら、私を呼んでいる。ここまで、どうやって歩いたっけ。小さく動揺しながらも、私は、くちびるをぎゅっと持ち上げて笑う。小走りでやってきた遥樹に「待たせてごめんね」と言った。
「ううん、まだ七時じゃないよ。オリテ、予定より早く終わったから」
 隣に並んだ遥樹の無邪気な笑顔を見上げたら、胸の奥がぎゅっと締め付けられたような心地がした。俯いて、よみがえった過去の光景を振り払って、遥樹の手を捕まえた。絡めた指先には、私と同じで、冬のつめたさがしみている。「わ」と驚いた声をあげた遥樹が身体を揺らすと、甘いバニラの匂いがした。
 一瞬遅れて、手が握り返される。「……みぃちゃん?」と目をのぞき込まれた。
「どうかした?」
 問うてくる遥樹に、「なんでもない」と首を振る。遥樹は大人びた表情で私を見つめて、優しい声で、言い聞かせるような口調で言う。
「なんでもない顔じゃないよ」
 私はくちびるをむすんで押し黙った。眼差しを揺らして、息を吸って、遥樹と繋いだ指先に力を込めて、ようやく言葉を落とす。
「さっき、客引きの男の人に捕まったんだけど、ちょっとしつこかったの。それで、たまたま涼大が通りかかって、助けてくれた」
「そ……っか。怖かったね」
 遥樹が眉を寄せて、私を案じる顔をする。「大丈夫? 嫌なこと言われたり、なにかされたりとか」心配してくれる遥樹に首を振って、「大丈夫。ただ、しつこかったってだけ」と声のトーンを上げる。
「そっか。……よかった、兄ちゃんが助けてくれて」
 ほっと気の抜けた遥樹の声が、遥樹が私へ向ける心のあたたかさを思い知らせる。
「兄ちゃん、先週引っ越してきたんだっけ?」
「そう言ってたよ」
 ――私が好きなのは遥樹だ。
 言葉を返しながら、強くそう思った。さっきの涼大の目があのときと同じに思えたって、なんでもない。あの頃だって、なんでもなかったのだから。客引きに気を付けろって言い忘れたから、涼大は私の腕を掴んだ。それだけだ。
 前もって決めていたカフェで夕食にした。そのあとに、大街道から銀天街へ、ショップを見て回っていたら、すれ違おうとした男子学生グループに遥樹が捕まった。同じ大学の知り合いみたいだった。
「あーどうも! 遥樹の友達でっす!」
 テンションの高い茶髪の彼に、愛想笑いを返す。遥樹は、げっ、という顔をして、「行こう、みぃちゃん」と私の袖を引いてすたすた歩きだした。
「この人がミルクのお姉さんかぁ」
 背中越しにかかった声に、遥樹が頭のてっぺんをぴくんと跳ねさせる。途端に、遥樹が彼に向かって声を張った。「もー翔、うるさい! また学校でね!」
 ――ミルク?
 なんのことかと不思議に思いながら遥樹を見上げたら、頬が赤くなっているのが見てとれた。遥樹がいっぱいいっぱいに袖を引くのにつられて足を速めながら、『翔くん』や他の子たちを振り返り、かろうじて頭を下げる。
 遥樹が袖を手離したのは、彼らの姿が人波へ完全に紛れてからだった。
「ミルクのお姉さんってなに? 私のことだよね?」
 問うても、しばらく遥樹は押し黙ったままだった。しばらくじぃっと見つめていると、観念したように遥樹が細い声で言う。
「前に……、俺が結構酔ったとき。お酒を飲むの初めてだったんだけど……カルーアミルクを飲みながら泣きだしたんだって。俺は全っ然覚えてないんだけど」
 なんでカルーアミルク? それがどうして私? 謎が全然解けなくて、頭にはてなを浮かべながら続きを待った。
「みぃちゃんが、――幼馴染のお姉ちゃんが、いつもコーヒーゼリーのミルクを半分くれた、あの頃からずっと好きなのに、とか言いながら突然めそめそ泣きはじめたって。ほんっとに、全っ然、覚えてないけどっ」
 やけくそのように、遥樹は言い切った。カルーアのコーヒー風味を思い出しながら、えぇ、と私は目を丸くする。子供の頃、コーヒーゼリーに付属していたミルクを遥樹にあげていたことは私も覚えている。
「もー……最悪。お願い、忘れて」と、遥樹は真っ赤な顔を袖口で押さえた。私の頬もつられて赤くなる。遥樹を可愛いと思う気持ちと、照れくささと、ひどく切ないような恋しさ。胸の中を、それらがぐるぐるに行ったり来たりして、心の鼓動が忙しない。
「……あのね。遥樹は私のことが好きなんだろうなっていうのは、正直、子供の頃から分かってたんだけど」
「う、うん」
「でも、なんていうか、全然分かってなかったなって。仲の良い年上への憧れとか、そんなのじゃなくて。あの頃からずっと、本当に私を好きでいてくれたんだね」
 酔いにせき立てられたとはいえ、十年以上前の味の記憶で思いをあふれさせるくらいに。
「そう、……だよ。ずっと好きだよ」
 遥樹が、ひどく切なく恋しげに目を眇める。私の胸にうずまいたそれよりも、ずっと切実な表情に見えた。
 ――でも、それなら、みぃちゃんも。
 遥樹がそう呟いた気がした。だけどよく聞き取れなくて、「ん?」と訊き返したけど、「あはは、なんでもないよ」と遥樹は笑った。
「好き、なんて。こんな道の真ん中で言っちゃったなって思って」
「あ、ほんとだ……!」
 またもや頬に血が上る。遥樹は肩を揺らして笑って、私の手をそっと握った。
「そうだ、みぃちゃん。誕生日、なに食べたいか決まった?」
 熱をもった頬を、つめたい冬風が静かになでてゆく。再来週の二月四日は、私の二十三歳の誕生日だ。

 あの日のデートは、遥樹が大学の試験期間に入る前の最後のデートだった。二月四日は、本当はまだ試験期間中なのだけど、遥樹が試験勉強やレポートを別の日で調整して、私のために時間を作ってくれた。
 私の好きなレアチーズケーキをパティスリーで買って、デリバリーでピザを頼んで、プレゼントにオーガニックのハンドクリームとネイルオイルをもらって、翌日の朝まで一緒に過ごした。心のゆるやかなくつろぎと、胸の高鳴りと、ろうそくの炎のキラキラと。それから二人分が交じり合った清潔な匂い。掛布団の重みの下で、絡めた指先は少し湿っていて、あたたかかった。
 あの時間は間違いなく幸せのかたちをしていて、幸せな恋がずっと続いてゆくのだと思っていた。

 三月になった。遥樹の大学は春休み中だ。遥樹は今日から、翔くんと泊まりがけで広島の音楽フェスを観にいっている。一方私は、年度末なので、決算業務に付随する仕事に忙殺されていた。残業続きの一週間をようやく終えて、むくんだ足を引きずりながら電車に乗った。背中から倒れ込むように座席に腰掛けて、下腹部をさりげなくなでつける。そうしながら、マスクの中でこほこほと小さな咳をした。久しぶりに重めの生理痛と――昨夜から気になっていた喉の痛みは、やっぱり風邪になってしまったみたいだ。
 夕飯は――ご飯と卵があるから卵かけご飯でいい。あ、でも、風邪薬がない。それに、朝に生理痛の薬を飲んだけど、風邪薬って飲んでいいのかな。
 家の最寄りの停留所をやり過ごして、一つ先のJR松山駅前で降りた。涼大が勤めているドラッグストアが、歩いていける距離にある。
 入店した途端に、入口近くのカゴを整理している涼大を見つけた。人の気配を察したのかこちらを振り返った涼大は、いらっしゃいませ、と言いかけた口のかたちで言葉を止めた。「みのり」と微かに驚いた表情をした涼大は、肩でボタンを留めるタイプの白衣姿で、なんだか私が知っている涼大じゃないみたいだった。そこまで思って、仕事中の涼大を見るのは初めてなのだと気付く。私の目線よりも少し下、白衣の胸ポケットには、『店長 登録販売者 国崎涼大』の名札がつけられていた。
「疲れてるみたいだけど大丈夫か? 風邪?」
 涼大が、マスクをしている私を見下ろして尋ねる。喉の痛みに眉をひそめて、掠れた声で頷けば、「薬?」とまた尋ねられた。それにも頷いたら、「おいで」と手招きをされた。その話し方は、私が知っている涼大のものだった。
 通路をまっすぐに進んでいって、医薬品のコーナーに案内された。
「ひき始め?」
 短い問いに頷くと、「ひき始めなら、これでいいと思うけど」漢方薬を渡された。実家でも飲んだことがある薬だ。
「朝に他の薬を飲んだんだけど、これ、飲んでも大丈夫?」
「他の薬って?」
 商品棚を見渡して、見つけた生理痛の薬を指さす。箱をちらりと一瞥した涼大は、「問題ない。なんなら、鎮痛と解熱の作用があるから、漢方じゃなくてそれ飲んどくのでもいいし、朝に飲んだっていうのは腹痛?」と重ねて尋ねる。
「そう、」少し迷ったけど、薬のパッケージでどうせばれているだろうと判断して、「……生理痛」と続けた。
「そか。腹はまだ痛い?」
 涼大は顔色を一切変えずに話を進めていく。私が頷くと、「じゃあ、朝飲んだ薬でいいよ」と、私に手渡した漢方薬を回収した。
 商品棚を慣れた手つきで整理する涼大は、「(めし)は?」と私を見ずに尋ねる。
「卵があるから、卵かけご飯にしようかなって」
 答えたら、「こら」とこちらを振り向いた涼大が呆れた顔をした。「具合悪いんだったらちゃんと食べろ。食欲ないのかもしんないけど、栄養とらないと風邪は治んないからな」涼大はすたすたと通路を奥へ進んで、ゼリー飲料やスポーツドリンク、クッキータイプの栄養機能食品を手に持って戻ってきた。医薬品レジの横にあるカゴにそれらを入れて、カゴの取っ手を私に握らせる。
「レトルトのスープとか、プリンとか、食えそうなものあったら買って帰りな」
 私が頷くと、「帰りも気を付けろよ」とだけ言って、涼大は向こうへ行ってしまおうとする。「涼大」と慌てて背中を呼び止めた。
「ありがとう」
「ん」
 涼大は肩越しに、顔だけで私を振り向いた。眼差しもすぐに外されたけど、――どうして、また。
 どうして、あのときみたいな目を。

〈おはよう。体調はどう?〉
 余計なことをした、と昨夜も思ったのに。
 トーク画面に表示された自分のメッセージを見つめて、小さなため息を吐いた。浴室のほうからは、優奈がシャワーを浴びている音が聞こえてくる。
 みのりは妹だと言ったところで、俺が必要以上にみのりに関わることは、優奈からしたら気分がいいものではないはずだ。それでなくとも優奈は、事情をすべて知っているのだから。
 メッセージって、取り消しできるんだっけ。
 ブラウザで検索しようとしたところで、受信音とともに、画面にポップアップが表示される。みのりからの返信だった。あぁ間に合わなかった、と沈痛な面持ちでトーク画面をひらく。
〈熱が出ちゃた〉
 誤字のある短い文面を見た瞬間に、電話帳をひらいた。迷うより先に須藤みのりの名前をタップして、スマホを耳に当てた。
 コールは二回でつながった。「みのり? 大丈夫か?」自分の声が動揺していることに驚いた。
「うん、……ちょっと、しんどい……かも」
 みのりの声は力なくぐったりとしている。「熱は何度?」と問うたら、「さっき、三十八度六分だった」と返ってくる。
「三十八? 病院は?」
「行ったほうが、いいとは思うけど」
 言葉の最後は、苦しげな咳の音に紛れて消えた。車を運転するにしても、電車で行くにしても、三十八度も熱があれば苦しいだろうし、危ない。
「……分かった、俺から遥樹に連絡するから。タクシー呼んで、遥樹と一緒に病院に行ってこい。な?」
 みのりの返事を聞いて、電話を切るつもりだった。親指は、終話ボタンにかかっていた。
「遥樹、昨日から、広島に行ってる」
「マジか」
 絶句して、数秒悩んだ。「……ん、分かった、俺が病院に連れてく」迷いつつも、そう言った。住所を聞いて、電話を切った。
 脱衣所に行って、浴室のすりガラスを軽く叩く。シャワーの音が止んで、半分だけ開いた扉の隙間から優奈が顔を出した。髪を洗い終わったようで、頭にタオルを巻いている。
「優奈。みのりが熱を出したからさ、ちょっと病院に連れて行ってくる」
 優奈の返事を聞く前に、「遥樹が、今こっちにいないみたいだから」とまるで弁解するように付け加えた。
「みのりちゃんが? 大変だ。分かった、いってらっしゃい」
 俺を快く送り出す優奈の目を見下ろしたら、胸が小さく痛んだ気がした。優奈の頬を伝うシャワーのしずくが、涙のように見えたからかもしれない。
「せっかく俺が休みなのにごめんな。帰ったら、どっか行く?」
「いいよ。どうせ今から寝るもん」
 ふふ、と笑った優奈は「おやつに、クレープ食べに行きたい」と続けた。明け方まで徹夜で答案添削の仕事をすることが多い優奈は、昼夜逆転気味だ。
「分かった」
「うん、いってらっしゃい。わー寒い寒い寒い!」
 最後に悲鳴のような声をあげた優奈は、ぴしゃっと音をさせて扉を閉めた。すりガラスの向こうからは、またシャワーの音が聞こえてくる。「いってきます」と声をかけてアパートを出た。
 カーナビに住所を入れて、たどりついたみのりのアパート。インターホンを押すと、スウェット生地のワンピースのような服を着たみのりが、ドアに寄りかかるようにして姿をのぞかせた。やつれきった顔にマスクをつけている。
「ごめんね、涼大、迷惑かけて」
「んなこと思ってないって。上着は?」
「あ、……持ってくる」
 中に戻ろうとするみのりを、「いい」と引きとめた。自分のダウンジャケットを脱いで、みのりに羽織らせる。自分のよりも随分低い位置にある肩は小さくて細くて、グレーの立ち襟に埋まってしまいそうだ。重たい動きで玄関の鍵を閉めたみのりの肩をそっと支えながら車に向かう。
「横になってもいいからな」
 後部座席にみのりを乗せて、病院へと連れていく。かかりつけの病院はないということだったので、スマホで検索して出てきた近くのクリニックへと向かった。
 待ち時間も含めて、小一時間で診察は終わった。隣接している薬局で解熱剤と抗生物質をもらって、スーパーで食材とスポーツドリンクを買い足してからアパートに戻った。かなり迷ったものの、レジ袋が重かったから部屋の中まで運んだ。きちんと片付いた部屋だった。ベッドルームとリビングの間の引き戸が開けられていてワンルームのようになっているけど、1LDKだろうか。みのりをすぐにベッドに向かわせて、俺はキッチンの冷蔵庫に買ったものを片付ける。スポーツドリンクはそのうち一本を、みのりの枕元まで持っていった。「ありがとう」と小さく笑うみのりに「ん」と応じて、掛布団のシーツに目線を逸らした。淡いブラウンの落ち着いた色合いだ。ベッドのすぐそばのカーテンも、似た色合いのブラウン。淡い色彩と白が基調となっている部屋は、かつて出入りしていたみのりの部屋よりも随分大人びた印象だと思った。
「熱が出たって、遥樹に連絡しときな。夕方には帰ってくるんだろ? 熱が上がったり、苦しくなったらすぐに遥樹を呼べよ。……あと俺も、今日は休みだから、遥樹が連絡つかなかったら俺でもいい」
 頷こうとして、みのりはこほこほと咳き込んだ。
「……俺から遥樹に連絡しとく。みのりは早く寝な」
 兄が妹に向ける笑みを注意深く作った。「お大事に」と言い置いて、踵を返す。
「涼大、ありがとう」
 背中に声がかかった。俺は振り返らず、クッションの上に軽く畳んで置かれているダウンジャケットと、リビングのローテーブルに置いてある鍵を取る。
「鍵、ポストに入れとくな?」
「……うん」
 部屋を出て、鍵を閉めた。ドアに備え付けのポストに鍵を押し込めば、冷たく冴えた音が響いた。
 車の中で、遥樹に電話をかけた。コール音が続くだけで繋がらない。代わりにメッセージを送って、自分のアパートに戻った。
 ベッドルームをのぞくと、優奈が掛布団にくるまって、すうすうと寝息を立てている。顔だけを出した状態で、掛布団がダークブラウンなことも相まって、まるでミノムシみたいだ。無防備な寝顔を見下ろしていると、心がやわらかくほぐれていく感覚がある。
 ドアを静かに閉めて、リビングへ向かった。テレビをつけて、座椅子に腰掛けた。すぐ横のカーペット上には、レンタルショップで借りてきたコミックスが数冊置きっぱなしになっている。ローテーブルの上は、飲み終わったペットボトルやティッシュ箱、昨夜の夕飯で使ったラー油の瓶などで雑然とした状態だ。優奈の仕事用の折り畳みデスクの周囲にはプリントや郵便物が散乱しているし、窓際の洗濯カゴからは、まだ畳んでいない洗濯物の山が雪崩になっている。そろそろ片付けなきゃな、と不意に思った。俺も優奈もあまり細かい質ではないので、気を抜くと部屋が荒れがちだ。とりあえず、空のペットボトルとラー油の瓶を持ってキッチンに向かった。瓶を電子レンジ横の棚に置いて、ペットボトルの中をすすぐ。ほんのりと香った炭酸飲料の甘酸っぱい匂いが、水に溶けて流されてゆく。シンクは、優奈がほぼ毎日掃除をしてくれているのできれいだ。昨夜はシンクの掃除中の優奈に、「涼大さん助けてー」と呼ばれた。腕まくりしていた袖が落ちてきたので直してほしい、とのことだったのだけど、直してやったら、「わーい、袖クルだぁ。ほら、キュン!」なんて、泡だらけの指先でハートを作って、おどけたふうのウィンクまでして、無邪気にはしゃいでいた。
 優奈と暮らすこの空間には、日々の幸せがつまっている。だから、七年も前の記憶に惑わされるな。目の前の景色を見て、音を聞いて、温度を感じて、今をただ受け止めればいい。

 福山の実家に帰省する翔と、昼過ぎに広島駅で別れた。ここからは柳井港駅まで在来線を乗り継いで、柳井港からフェリーに乗る。電車に乗り込んで、幸いにも空いていた席に座ってスマホを確認した。兄ちゃんからの着信が残っていた。少し前の着信だから、切符を買っていたときかもしれない。メッセージも残っていたので、アプリをひらく。ひらいて、「え」と思わず声をもらした。
 みぃちゃんが熱を出して、兄ちゃんが病院に連れていった?
 メッセージを読んで、真っ先に思ったのが、なんで、だった。声になる前にくちびるをむすんで呑み込んだけど、喉の奥に落ちたそれが合図になったかのように、胸にどろどろとした感情がひろがってゆく。
 なんで、兄ちゃんが知ってるの。
 なんで、俺より先に兄ちゃんに連絡したの。
 なんで、俺がみぃちゃんのことを、兄ちゃんに知らされるほうなの。
 そんなことが、真っ先に頭の中を駆け巡った自分は最低だと思った。違う、違う、そんなことはどうでもよくて。胸の内を支配しようとする、よくない感情に向かってわめく。
 みぃちゃんは、大丈夫なのかな。
 電話をしたいけど、電車内ではだめだ。それに、みぃちゃんは薬を飲んで寝ているかもしれない。ひどくもどかしい思いで、みぃちゃんにメッセージを送った。
 アプリを閉じて、スマホをコートのポケットに入れた。正面の車窓を、様々な高さの建物が流れてゆく。遠くには深い緑色の山と、青い空も見える。風はまだつめたいはずだけど、太陽の光はきらきらとしていて、春の雰囲気をまとっていた。
 背もたれに深く身体を預けて、みぃちゃんは言ってくれたもん、と心の中で呟いた。言ってくれたもん。今、好きなのは俺だって。
 一時間半ほど電車に揺られて、柳井港駅に着いた。港までは歩いてすぐだ。フェリーのチケットを買って、待合所でスマホを確認した。みぃちゃんに送ったメッセージは、やっぱりまだ既読がついていない。
 外に出て、兄ちゃんに電話をかけた。海の匂いをふくんだ風が前髪をさらってゆく。つめたさに目を眇めると、コール一回も鳴り終わらないうちに電話が繋がった。
「兄ちゃん? あの、メッセージ読んだよ。ありがとう。みぃちゃんを病院に連れていってくれて」
 穏やかに、いつも通りの声で言ったつもりだったけど、内心に抱えたどろどろした感情を見透かされてしまったのかもしれない。兄ちゃんは「あぁ、たまたま休みだったからな」と前置いてから説明を続けた。
「昨日、みのりが店に来たんだよ。薬の飲み合わせを聞きたかったみたいで。結構具合が悪そうだったし、朝に連絡してみたら、熱が出たって言うからさ」
 みのりから俺に連絡したわけじゃない、と言外になだめられているような気がした。ほっとした気持ちも確かにあるけど、それと同時にみじめな敗北感を感じた。兄ちゃんにはいつだって敵わない。八つ年上で俺よりずっと大人で、背だって高くて、喋り方にも余裕がある。
 ぐ、と。本当はスマホを握る手に力がこもっているけど、ここで拗ねるなんてそれこそ幼稚な弟だから嫌だ。「よかった、兄ちゃんが今日休みで。ほんとに、ありがとね」そんなふうに、平気な声を作るしかない。
「もうすぐフェリーに乗って、六時くらいに松山に戻るから。みぃちゃんのアパートに寄ってみるよ」
「ん。よろしくな」
 そこで電話を切ろうとした。でも、「あ、そうだ遥樹」と兄ちゃんに呼び止められた。
「直接は言ってなかったな。みのりとのこと、おめでとう」
 俺は悔しさにくちびるを噛んだ。みのりの彼氏は遥樹だよ、って。祝福に含まれた意味はそういうことだ。ほらね、やっぱり。やっぱり、兄ちゃんには敵わない。
「うん、ありがとう」
 せめて明るくお礼を言って、今度こそ電話を切った。

 涼大に病院へ連れていってもらった翌日に熱は下がった。あの日は、遥樹が松山に戻るやいなや、うちに来てくれた。ゼリーやスポーツドリンクを買い込んで、随分慌てて来てくれたみたいで、せっかくの旅行に水を差すことになって申し訳なかったけど、漫画やドラマでありがちなやりとりをやってみたりした。「風邪、うつるよ」「やっぱり、駄目……かな」なんて、くすぐったい気持ちで、くちびるをそっと触れ合わせるキスを。解熱剤がようやく効いてきた頭はまだとても重たかったけど、照れて視線をそらしてくすくす笑った瞬間は、どうしようもなく幸せだった。
 月曜日から出勤した。仕事が終わって帰宅したら、簡単に作れる麺類や丼もの、それにコンビニのサラダを足した夕食を取って、すぐにお風呂に入るようにした。普段よりも早めに寝るように心がけて、体調管理に気を付けた。遥樹とのデートも残念だけどお休みだ。
 金曜日に、経理課に提出する書類の一切を作り終わった。決算に関連した業務はまだ少し残っているけど、来週から残業時間は減るはずだ。
 そうして、ようやく訪れた土曜日。今日は、遥樹と一週間ぶりに会う約束をしていた。遥樹のランチタイムのバイトが終わってから、私のアパートでおうちデートだ。看病に来てくれたお礼も兼ねて、ご飯を作ることになっている。リクエストは、トマトソースの煮込みハンバーグ。
 ひき肉は、特売日にまとめて買って冷凍していたものがある。玉ねぎやつけあわせ用の野菜もあるけど、煮込むのに使うトマト缶がない。買い物の支度をしながら、涼大にもお礼をしなきゃな、と思う。
 涼大のことを思い出すと、身体に小さな電流が流れたように背筋が跳ねる。私を見下ろした瞳に、切なげだとか、苦しげだとか、戸惑っているようなだとか、意味を与えようとするのは間違いだ。ただ、妹のように育った私を心配しているだけ。それだけだよ。あの雨の日の瞳だって、意味を勝手に推測してひとりで舞い上がった挙句、結局なんにもなかったんじゃない。そうだよ、とうんうん頷いて、メイクの仕上げにアプリコットピンクのリップを塗った。
 涼大には、誕生日にケーキを買った駅近くのパティスリーで焼菓子を買うことにした。買い出しには車を出すつもりだったけど、パティスリーには駐車場がないので徒歩に切り替える。買うのはトマト缶と飲み物くらいだし、パティスリーに寄ってそのまま涼大のお店に買い物に行けばいい。仕事中でも、お菓子を渡すくらいなら大丈夫だろう。おうちデート用の、オフホワイトのギャザーブラウスとペールイエローのロングスカート、グレージュの厚手のニットカーディガンに合わせたぺたんこ靴を選んで、意気揚々とアパートを出た。
 ――のはよかったのだけど。
 パティスリーを出たところでぽつぽつと雨が降り出した。嘘でしょ、さっきまでぴかぴかに晴れてたのに、と唖然としながら駆け足になる。ここからならアパートに戻るより、涼大のお店に行くほうが近い。ちょっともったいないけど、ビニール傘を買って帰ろう。
 ドラッグストアの軒下に着いたときには、髪がほんのりと湿っていて、ブラウスには点々と雨が染みていた。スカートも同じく、雨が染みたところが点々と濃くなっている。ギリギリ、びしょ濡れにならなくてよかったけど、と本格的に雨を降らせはじめた灰色の空を見上げて思う。濡れて乱れた髪を指先で整えてから、店内に入った。
 涼大を探しつつ、店内を見て回る。トマト缶とペットボトルのジュース、特売になっていたヨーグルトをカゴに取った。それからぐるっと店内を一周してみたけど涼大は見つからなかった。休みなのかな、と今日は諦めようとしたところで、副店長の名札をつけた従業員さんがバックヤードから出てきた。忙しくしている様子ではなかったので、「すみません」と声をかけてみる。「はい」と応じてくれた彼は接客モードで、「お仕事中にすみません」と恐縮しつつ尋ねる。
「国崎……店長の知り合いなんですけど、今日はお休みですか?」
「はい、そうですね。今日はお休みとなっています」
 そうですか、すみません。ありがとうございます。そう頭を下げるつもりだったのに、「俺?」と上から声が降ったので肩を跳ねさせた。ついでに、「わあっ」と調子の外れた声も出た。
 振り返ると、涼大がいた。ランダムボーダーのニットにダウンベスト、ジーンズというラフな格好だ。
「なんでいるのっ?」
「普通に買い物に来ただけだけど」
 可笑しそうに小さく笑った涼大は、十二個入りのトイレットペーパーが窮屈そうに入ったカゴを持っていた。
木内(きうち)さん、これ、ジュウハンでお願いできる?」
 涼大がカゴから取り出して、副店長さんに渡したのは化粧水と乳液だった。そこで、ジュウハンが従業員販売のことだと理解する。きっと、優奈さんのぶんの買い物だ。
 副店長さんに、医薬品コーナー近くのレジで会計をしてもらった。涼大は私の横で会計を待ちながら、「そうだ、木内さん。優奈の後輩なんだって?」などと副店長さんと話をしていた。私の次に涼大も会計を済ませて、一緒に出入口へ向かった。
「俺に用事? ……ていうかみのり、ちょっと濡れてないか?」
 怪訝な顔で見下ろされて思い出す。そうだ、傘を買わなきゃいけないんだった。
「雨が急に降ってきたんだもん。傘買わなきゃ……あぁでもその前にこれ」
 私はトートバッグから、ラッピングされた焼菓子の詰め合わせを取り出した。
「この前、病院に連れていってくれてありがとう。そのお礼」
「ああ……ありがとう」
 涼大にお菓子を渡した。涼大と視線が重なった。どき、と心臓が跳ねた。
「私、傘買ってくる。じゃあ、またね」
 変な音を立てた心臓を無視して、出入口付近に陳列してあった透明のビニール傘に手を伸ばす。
「いい、送ってく。わざわざ買うの、もったいないだろ」
 また、心臓が変な音を立てた。ガラスの自動扉を隔てた向こう側では、雨がさあさあと降り注いでいる。
 駐車場の涼大の車まで走った。どこに座るべきか少し迷って、助手席にした。前回のように横になるわけではないし、後部座席まで回るほうが不自然だと思った。
 車内には、ハイトーンな女性の歌声が響いていた。曲名は知らないけど聞いたことがあるようなメロディで、歌詞は英語だ。途中で、男性の声も重なった。
「オペラ?」
「ミュージカル、って言ってたかな。オペラ座の……いや、レミゼラブル? 俺はよく分かんないけど、優奈の趣味」
「へぇ……。優奈さん、そういうのが好きなんだ」
 囁くように優しい、それでいて伸びやかな歌声に、窓の外の雨音が静かに重なる。手持ちぶさたに視線を動かした。フロントガラスの上で雨粒がくずれる。隣の雨粒とうやむやになって、つう、とガラスを滑り落ちてゆく。
「今から、遥樹と会う?」
 いつかと同じように、涼大が問うた。「そういう格好をしてる?」とおどけた声で訊き返した。涼大は左の口の端を持ち上げるようにして微かに笑う。昔から、涼大は笑うときに左側を引き上げる笑い方をする。
 あ、と突然、思い出した。
 私に好きだと言わせなかったとき、涼大は今と同じ顔で笑っていなかったっけ。涼大は大学四年生の間、卒論で忙しいとかでまったく帰省しなかった。大学の卒業式が終わって就職する直前、ほとんど一年ぶりに涼大が大洲に戻ってきたとき、私は涼大に好きだと伝えようとした。これが、好きだと言える最後のチャンスだと直感したから。
 ――涼大、……私。私の好きな人は、
 ――へぇ、好きなやつがいるんだ? みのりは、妹みたいなものだから。お兄ちゃんとして応援しなきゃな。
 涼大に、彼女がいるんだっていうことは分かっていた。なにかを言われたわけじゃなかったし、なにが、っていう明確な根拠は全然なかったけど、スマホをジーンズのポケットにしまうときの手つきや、私と向き合ったときの距離の取り方から、私はそれを確信していた。だから、ただ受け止めてくれるだけでよかったのに。受け入れられることなんて望まないから、「彼女がいるから」って笑ってくれるだけでよかったのに。
 涼大はあくまで優しく、私を傷付けないように、私から慎重に言葉を取り上げた。私は言葉という手段を失って行き場を失くした初恋を呑み込んだ。ばらばらに砕けてガラスの破片のようになったそれを、ぐちゃぐちゃにつぶして心の奥底に押し込んだ。
 自分の心がひどく動揺しているのを感じた。
 どうして、今、突然思い出すの。もう、終わったことじゃない。
 私は逃げるように、ハンドルを握る涼大から視線を外した。フロントガラスの雨粒をワイパーが追い立てる様子を凝視してみるけど、動揺した心に連動するように視線が定まらない。前の車のブレーキランプが赤く点灯した。「おっと」という涼大の声が聞こえた。
 とん、と車が軽く揺れて、涼大の左腕が私の胸の前に伸びる。前の車は、ウインカーも点けずに右折をする。
「あっぶね、……大丈夫か?」
 涼大がこちらに視線を向けたのが分かったけど、私は涼大のほうを見返すことができない。

 みのりが小さく息を呑んだ。「……大丈夫」と無理矢理に笑いながら眼差しをふるわせた。あのときも、みのりはこんな顔をしていなかったか。みのりの好きなやつが誰なのか本当は分かっていたのに、みのりが俺になにを伝えるつもりなのか本当は分かっていたのに、わざと流れをはぐらかしたあのときも。
 違う、気のせいだ。
 俺は睨むように、進行方向を見つめる。みのりのアパートはもうすぐだ。「遥樹との待ち合わせは? どこ? あれだったら連れてくけど」前を見たまま言った。「大丈夫。今日は私のアパート。ご飯を作る約束してるの」と返事があった。
 どくん、と変なふうに心臓が跳ねた。「そか」と平然を装って頷きながら、どくどくと低く響く心音をやりすごそうとする。自分の身体の音を聞くまいと意識を外へ向けたなら、今度は雨の音に聴覚が奪われる。耳から入り込んできた雨音が思考に染みてゆく。思考を塗りつぶしてゆく。そうして、雨音に支配された思考が過去の光景を引きずり出した。みのりのアパートの前に着いた。
「涼大、ありがとう」とみのりが笑った。俺を見上げる瞳は、みのりを見下ろす俺のそれと微妙に重ならない。みのりが助手席のドアを開けた。雨の音が、ひときわ鮮明に思考へと流れ込む。
 その瞬間に過去に囚われた。雨の音が静かに響く夕方だった。俺は大学三年生。みのりは高校一年生。つめたい空気が春の雰囲気をまとった、ちょうど今日みたいな日だった。
 濡れた髪を片側に流して、不安定な片足立ちになって、細くて白い指先で学校指定のソックスを脱ぐみのりは、繊細な艶っぽさをまとった女の子だった。
 動揺するままに、みのりの頭からバスタオルを被せた。みのりの髪を雑に吹きながら、いつかにむすんだ約束を突然思い出した。小さな女の子が父親とするような、約束のかたちをした思い出だと軽くみなしていたものを。
 ――ぜったい、わたしをおよめさんにしてね。
 それまでに二人の彼女がいた。みのりが俺に好意を向けていることには気付いていたけど、俺にとって五歳年下のみのりは、恋愛対象として見ることができない『妹』だった。だけどあの瞬間に、俺の初恋は結局のところみのりだったんじゃないかと唐突に気付いた。
「――涼大?」
 呼ばれて、はっと意識を引き戻された。雨の音が一瞬遠ざかって、聞き馴染んだミュージカルのメロディが聞こえた。俺は、自分がみのりの腕を掴んでいることに気づいて唖然とする。
「どうしたの?」
 問うてくるみのりと眼差しが重なった。見ひらかれた目はラメがきらめくアイシャドウで彩られていて、頬やくちびるも幸せそうな色合いで装われている。やわらかな白のブラウスも、スカートも、カーディガンも、そのすべてが、遥樹のためのものだ。
 そう思った途端に、強い衝動が心を突きあげた。身体の奥底から、マグマのように熱を持ってわきあがってくる感情に、頭の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
 ゴールデン帯のクイズ番組を見ながら、優奈が番組の解説よりも詳しく説明していた。――欲望の三角形だよ。それが誰かのものになりそうになったら、急に欲しくて仕方がなくなるの。それまで、全然見向きもしてなかったのに。――優奈が例として引き合いに出していたのは、夏目漱石の小説だったか、森鴎外の小説だったか。
 違う。気のせいだ。もう、七年も前に終わったことだ。だって、みのりに他に彼氏がいたことだって知ってただろ。そのときは、こんなふうにならなかった。だから、違う。気のせいだ。これまで通り、みのりは妹だ。妹だ。妹だ。妹――
「――行くな」
「え、」
 みのりの瞳は俺を見ていた。虹彩に映った影は、他の誰でもなく俺のものだった。見ひらかれた目が、驚愕でもっと大きくなる。
 キスをした、と自覚したのはくちびるが離れてからだった。みのりを閉じ込めるように抱きしめて、遥樹のとこに行くな、と呟いた声は、声になっていたか分からない。
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