初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
第三章

 松山に引っ越してきて約二ヶ月、大学時代のゼミの後輩と再会した。アパートの最寄りのスーパーの、精肉コーナーだった。
 二割引きの惣菜のパックを手に取った彼を見て、「え」と私は声をあげた。私の声を聞いて、彼――木内くんが顔を上げた。彼は呆気にとられた顔をしたあとに、「坂本(さかもと)先輩」と緊張した笑みを浮かべた。木内くん、優奈のことが好きなんじゃない? とかつて耳打ちしてきたゼミ仲間の声が一瞬記憶を過ったけど、私も笑顔を返して、「久しぶりだね」と言った。
「先輩、松山にいらっしゃったんですね。今治で就職されたって聞いてましたけど」
「ちょっと前に引っ越してきたの。その……付き合ってるひとの転勤で」
 言いながら、木内くんが持っているクリアバッグに目を止めた。涼大さんが持っているものとまったく同じデザインだった。従業員の窃盗を防止するための、中身が見えるようになっているバッグだ。
「木内くん、もしかして、スミレ薬局で働いてたりする?」
「はい。どうして、……え、ちょっと前に転勤って、もしかして彼氏さん、国崎店長ですか?」
 言い当てられて、今度は私のほうが驚いた。木内くんと涼大さんが同じ店舗で働いていることに、重ねて驚いた。世間って狭いね、と笑い合って、少し立ち話をして別れた。木内くんは会社が単身者用の社宅として借り上げた近くのアパートに住んでいるということで、もしかしたらまたこのスーパーで会うかもしれない。
 ――彼氏さん、国崎店長ですか?
 木内くんのその言葉に頷いた、たった一日後だった。
 ――ごめん。みのりに……みのりに、キスした。さすがに、平気な顔して優奈のとこには帰れない。
 電話越しの、絞り出すような声がそう言って、涼大さんは二人暮らしのアパートに帰ってこなくなった。

「……でもねぇ、決めたならなるべく早いほうがいいんじゃない? だってほら、いつまでも結婚せずに同居っていうのもねぇ」
 お母さんは、『同棲』という言葉を使いたがらない。軽薄で不潔なイメージがまとわりついている言葉だから。涼大さんと暮らし始める前の私も同様な認識でいたから、その感覚は理解できるけど。
 お母さんの品を整えた言葉遣いを聞くたびに、私の心はぎゅっと縮まる。「まあ……そうだけど」と相槌で間を持たせながら、私は今をやり過ごせる言葉を考えた。
「涼大さん、店長になったばっかりだもん。まだバタバタしてるから、お休みも取りにくいの。だから、うちへの挨拶ももう少し先になるから」
 お母さんをなんとか言い含めた。「涼大さんはまだ仕事?」という問いには、「そう、遅番」と嘘をついた。「そういえば優奈、あんた、まだ病院に通ってるの?」その問いには、「通ってるよ」とだけ短く答えた。
 電話を切って、散らかったローテーブルの上にスマホを置いた。左手の薬指のペアリングが、照明の光をきらりと反射する。その光を隠すように、リングに右手で触れた。本当は、もう外さなきゃいけないのかもしれないのにね。

 ただ当たり前に歩ける、ということはどれほど幸せなことなんだろう。前を歩いている大学生らしき女の子は、ブルートゥースのイヤフォンで音楽を楽しみながら。ついさっきすれ違った男子高校生は、スマホの画面を退屈そうにスワイプしながら。三月の末日、春めいた日差しのきらめきをいっぱいに含んだ風が、私の髪を舞い上げた。そのまばゆさとは裏腹に、私の胸はつめたく冷える。
 私だって、数年前までは当たり前に歩けていた。だけど今は、ふとした瞬間に過る不安が、私の足をぴたりと止める。
 もしも、私が(いま)肩に掛けているトートバッグが、すれ違った小学生の頭を殴りつけていたら? ――え、小学生とすれ違ってなんかいない? 本当に? 本当にそう断言できる? 分からないよ、考え事でぼーっとしていて、気付かなかっただけかもしれないよ? 私がトートバッグで殴りつけたその子は、アスファルトにしたたか身体を打ちつけた。膝から血を流しながら悲鳴をあげて、私に助けを求めたのかもしれないのに、考え事に夢中の私は気付かずに無視して通り過ぎていったのかも。小学生とすれ違ってなんかいない? 本当に? 本当にそう断言できる? だってもしかしたら、都合よく自分の記憶を捏造しているのかもしれないよ? そんなことしてない? そう? そうでないと断言できる? 私は小学生を傷付けたショックで、現実逃避で記憶を書き換えてしまったのかも。だって小学生をトートバッグで殴りつけて、怪我をさせたってなったら、傷害罪で警察に捕まったりするんじゃない? その恐怖が、一瞬で記憶を書き換えたの。私は助けを求める小学生を無視して逃げたんだから、どんな弁解をしても警察のひとに聞いてもらえない。トートバッグはすれ違ったときにぶつかっただけだ、わざとじゃなかった、悲鳴にも、助けを求める声にも気付かなかったなんて、そんな弁解は。ねぇ、本当に? 本当に、記憶を書き換えていたりしない?
 私は強張った表情で後ろを振り返る。人通りの少ない路地には、少し前にすれ違った男子高校生の後ろ姿があるだけだ。怪我をした小学生なんていない。――それを確認して、私は歩くのを再開した。もっとも症状が重かった頃なら、来た道を引き返すまでしていたし、県警のホームページやネットニュースで、小学生が怪我をする事故や事件が起きていないか検索をしたりしていた。そういった事故や事件の情報なんて当然なくても、スマホを握り締めたまま前にも後ろにも進めなくなって、道で立ち尽くして泣き崩れたりしていた。
 今は、一度振り返るだけで大丈夫だけど。
 ただ当たり前に歩ける、ということがどれだけ幸せなことだったのか、当たり前に歩けていたかつてを思い出すたびに胸が沈む。この症状――強迫性(きょうはくせい)障害(しょうがい)の症状は、つい先ほど通院先の病院でもらった薬で大方(おおかた)抑えられている。日常生活にもほとんど支障はない。
 日常生活には。
 新卒で就職した会社で、症状は大きな支障を出した。自分の若さと、社会に対する無知も相まって、私は上司と喧嘩をして、一年未満で会社を退職した。それ以降、正社員としてはどこにも就職せず、涼大さんに寄りかかるかたちで同棲をしている。
 二十六歳が外に出て働かず、月に二万円程度の答案添削業務の報酬で生きていけているのは、涼大さんがいるからだ。涼大さんが家賃を払って、光熱費を払って、通信費を払って、食費を払ってくれているから。
 ごめんね。彼女が、私じゃなかったら。付き合い始めた頃は、こんなんじゃなかったのに。詐欺、みたいだね。
 感情が不安定になってそんなことをこぼすたびに、涼大さんは不機嫌になった。
 ――なに、彼女が優奈じゃなかったら俺が幸せだろうって?
 いびつにねじれた感情のとがった部分を甘い言葉で宥めるのではなくて、怒った声で、私の感情をまっすぐに伸ばそうとする。私を甘やかさないところが、出会った頃から好きだった。
 ごめんね、涼大さんはいつだって、私の感情を正そうとしてくれたけど。
 でも、やっぱりそう思っちゃうんだ。
 彼女が、私じゃないほうが幸せじゃない? ちゃんと普通に働けていて、ごく普通になんでもできる女の子だったほうが――みのりちゃんだったほうが、涼大さんは幸せじゃない?
 アパートに帰ってこなくなったその日に、涼大さんは短いメッセージを送ってきた。通帳の在処(ありか)と暗証番号だ。通帳は、ATMで出金が可能なタイプのものだった。その通帳で、食費やその他で必要なお金を引き出せということだとすぐに分かった。だけどあの日から一度もそうしていない。今日の通院で支払ったお金も、薬局の薬代も、たいして貯金のできていない自分の口座から引き出したものだ。私がひとりで暮らす日々に、涼大さんのお金を絶対に使いたくなかった。そんな意地を張ったって、家賃や光熱費や通信費が涼大さんの口座からの引き落としなんだから、なんにも格好なんてつかないのだとしても。
 行きつけのスーパーに寄ってから帰宅した。明かりもつけないリビングで、久しぶりにエコバッグの中身をひろげることになった。どうしても、確認しなきゃいけなくなったから。
 カット野菜、ツナ缶、冷凍うどん、卵の六個パック、ビターの板チョコ、六枚切りの食パン。
 それとレシートを照らし合わせながら、ひとつひとつ指を差して確認していく。ツナ缶、卵の六個パック、冷凍うどん、カット野菜、ビターの板チョコ、六枚切りの食パン。それが一度では済まなくなって、もう一度、レシートを上から指差してゆく。ツナ缶、卵の六個パック、冷凍うどん、カット野菜、ビターの板チョコ、六枚切りの食パン。――もう一度。もう一度。
 だってちゃんと確認しなきゃ。私が、万引きをしていないかどうか確認しなきゃ。もしかしたら、考え事をしているうちに、間違って商品をエコバッグに入れてしまったかもしれない。お店の買い物かごに入れるつもりだったのに、間違ってトートバッグのほうに入れた可能性もある。それか肘が商品棚にぶつかったときに、その弾みで落ちた商品がトートバッグの中に入ってしまっているかも。私に万引きをする意志がなかったとしても、お金を払わずに商品を持ち出しただけで、きっと万引きとみなされてしまうから。今から返しにいったって、万引きするつもりはなかったって信じてもらえないかもしれないけど、でも、お店で万引きが発覚する前に、間違ったんですと自分から言いにいったほうが、信じてもらいやすいはずだから。
 私は万引きをしていない、はず、だ。
 そう結論を出したときには、息遣いが浅く小刻みになっていた。目の前にひろがった商品と、トートバッグの中身。もう一度確認をしたい衝動を必死に抑え込んで、エコバッグに買ったものを片付ける。強迫性障害は、頭から離れない強い不安感と、それを打ち消すための無意味な行為が日常生活に支障をもたらす病気だ。不安感――強迫観念に急き立てられ、確認――強迫行為を繰り返したくなっても、確認は一回で、と最初に通った病院の先生は言っていた。今日は一回じゃ済まなかったけど、でも、もうこれ以上は本当に駄目だ。
 私はエコバッグの口を閉じてぎゅっと握り締めて、そのままキッチンへと持っていった。冷凍うどんを冷凍庫に、カット野菜を冷蔵庫に放るように入れて、逃げるようにリビングに戻った。
 万引きをしていたらどうしよう。警察に捕まったらどうしよう。リピート再生みたいに、不安が脳をぐるぐると回る。泣く寸前の息遣いで、キッチンに戻りたいのを堪えて、強迫観念が収まるのを待った。
 収まったら、安堵の息を吐くのと同時に虚無感に襲われた。座椅子の背もたれを倒して横になる。明後日に、添削する答案が本社から発送されるけど、休みを取ろうかなと考えた。カーペットの上には、アイコスのカートリッジの空き箱が落ちていた。私が踏んだのか涼大さんが踏んだのか、ふたの部分がつぶれている。
 投げやりな視線でそれを見つめていたら、急に涙がこぼれてきた。涼大さんは、今どこにいるのだろう。ホテルか旅館に泊まっているの? それとも友達のところ? まさか、車中泊なんてしてないよね?
 スミレ薬局の店舗に行けば会えることは分かっている。涼大さんは、プライベートでどんなことがあっても、仕事に支障をきたしたりはしないひとだから。だって、あのときもそうだったもの。
 だけど、店舗へ会いにいくなんてできそうもない。その理由は裏切られたという悔しさや悲しさなのか、それとも保留状態になっている涼大さんを失う可能性、それに直面する恐怖なのか。
 ――たぶん、悔しさや悲しさよりも、恐怖のほうが圧倒的に大きい。
 自分の中の感情を認識して、私はぎゅっとくちびるを噛む。悔しさや悲しさで涼大さんを問い詰めることができない自分が、悔しくて悲しくて仕方がない。
 涙を拭うこともせず、それがこぼれるままに泣き続けた。自分の浅く不規則な呼吸音を聞きながら、こうなることが当然だったのかも、と思った。
 そもそも涼大さんの彼女になるのは、私じゃないはずだったんだから。
 なにも事情がなかったのなら、涼大さんとみのりちゃんは思いを伝え合って、恋人同士になっていたはずなんだから。
 頬を伝った涙が左の耳の中に入って、私はようやく目元を拭った。つめたくかたい感触が頬をひっかく。左手の薬指にはめたペアリングは、まだ外せていない。

 あの日、視界の端で、なにかが鈍い光を反射した。それが涼大の左手薬指にはめられた指輪だと気付いた瞬間には、くちびるが重なっていた。
 遥樹のとこに行くな。切なげな囁きが、さあさと降りしきる雨の音に溶けていった。どこにも行かせないと閉じ込めるように、涼大の腕が私を抱きしめた。耳元にかかる苦しげな息は熱かった。それなのに、私の身体は凍り付いたように動かなくなった。
「……兄ちゃん」
 呆然とした声が背中側で落ちて、私ははっと息を呑んだ。首をひねって振り返ったら、傘をさした遥樹が立ちすくんでいた。透明のビニール傘、それをすべり落ちたしずくが、私たちを見つめる遥樹の眼差しに重なった。
「殴っていい」と、涼大は遥樹に言った。だけど遥樹はそうしなかった。「そんなことしないよ」と涼大を見上げて、苦しそうに瞳をゆがめて、それでも口元に笑みを浮かべた。なにかを悟ったような、すべてを諦めたような、そんな笑い方だった。
「俺のことは、もういいよ」
 私を見下ろしてそう言って、遥樹は私に背中を向けた。もういいってどういうこと。私は愕然として遥樹の腕を捕まえた。違うよ、ごめん、違うから。私は、遥樹のことが好きだから。手離したエコバッグが、ばしゃっという音を立ててアスファルトの上に落ちた。それにも構わず、自分が雨に濡れるのにも構わずうったえた。
 こちらを振り返らない遥樹に焦りが募る。前髪を伝った雨が、まぶたをすべる。まばたきでしずくを弾いて、「遥樹」と縋るように呼べば、ようやく、遥樹が息を吸う音が聞こえた。
「本当に?」
 振り返らないまま遥樹が問うた。本当だよ、と強い声で言おうとした。だけどそれよりも早く、「兄ちゃんが、みぃちゃんと結婚するって言っても?」と遥樹が畳みかける。
「兄ちゃんがみぃちゃんと結婚するって言ったとしても、俺のことが好きだって言える? 兄ちゃんは初恋でしょ? 兄ちゃんのこと、十年以上ずっと好きだったんでしょ? 十年単位の思いがそんなに簡単に消える? 兄ちゃんに好きだって迫られても、俺のことを好きなままでいられる? だって、……俺は無理だったよ。ずっとずっと初恋のまま、みぃちゃんのことが好きだった」
 遥樹が私を振り返った。言葉を失って立ち尽くす私に一歩近付いて、傘をさしかけた。そして、
「――みのり」
 びく、と肩を跳ねさせて私は息を呑んだ。そこで初めて、遥樹と涼大の声は似ているのだということを認識した。喋り方や声のトーンがまったく違うから、普段は意識されないだけで。そうだ私はあの最初の夜に、この声に涼大を重ねて遥樹に縋りついた。
 なにかを言おうとした口のまま、なにも言えずに固まった。自分がひどく動揺しているのが分かった。
「俺といるだけで、兄ちゃんのことがずっとちらつくよ。俺は、兄ちゃんの弟だから」
 ――だから、俺のことはもういいよ。
 私に傘を押しつけて、遥樹は雨の中を走り去っていった。
 追いかけなきゃいけなかったのに、私が好きなのは遥樹だよって伝えなきゃいけなかったのに、私はそうできなかった。
 どうして、できなかったの。どうして、立ち尽くしたまま動けなかったの。 
〈本当にごめんなさい。話がしたいです。〉
 メッセージに既読がつかないまま、三月が終わって四月になった。

 先週、遥樹のアパートを一度訪ねたけど留守だった。春先の夜風に指先が冷えるまで、ドアの前で待ったけど、遥樹が帰ってくることはなかった。その次の休日に、遥樹のシフトが終わる頃を見計らってバイト先を訪ねてみたときは、従業員用の裏口の方から、「遥樹先輩」という女の子の声が聞こえた瞬間に逃げ出した。ヒールをばたつかせて走りながら我に返った。なにやってるんだろう。メッセージも無視されているのに、バイト先まで来て、ストーカーみたいだよ。
 俺のことはもういいよ、って遥樹が言ったのは、このまま別れるっていうことなのかな。
 駆け足を緩めながら、違う、と思った。言われた時点ではそうなると限らなかった。あのとき、私が遥樹を追いかけなかったから。
 どうして追いかけなかったの、と何度も後悔した。今もしている。私たちはこのまま終わってしまうのだろうか――そんなことをエンドレスに考えていたら、いつの間にかアパートの前だった。会社を出たところまでしかよく覚えていない。
「みのり」
 部屋のドアの前に涼大がいた。「え」と上擦った声をあげて後退った。だけど逃げ出すより先に手首を掴まれた。いつか遥樹にもこうされた記憶が過ぎって、感情がぐちゃぐちゃになる。遥樹は涼大の弟だ。涼大は遥樹のお兄ちゃんだ。そして私は、
「……妹だって、言ったのに」
 涼大を見上げ、私を見下ろす瞳を睨みつけた。感情ごと投げつけるように言葉をぶつけた。
「みのりは妹みたいなものだからなって、言ったくせに! なんで今になって、キスなんてしたの!? なんで……遥樹のとこに行くななんて言ったの!? 訳が分かんないよ、優奈さんだっているのにっ、結婚するんだって言ってたじゃないっ! なんで……なんで、今……。やっと、妹だって言われたことを吹っ切れたのに……」
「ごめん」
 涼大は私の言葉を受け止めて謝った。掴まれた手首が痛くて、わずかに眉を顰めてそちらを見たら、涼大の手がふるえていた。目を見ひらいて、愕然とした私の息は一瞬止まった。まるで時が止まったみたいに、その一瞬が無音になった。
「みのりは、妹かもしれなかった。でも、妹じゃなかった。……全部話す」
 涼大が、こんなふうに声をふるわせるのを初めて聞いた。その声のふるえとは裏腹に、私はまるで凍りついたように、目を見ひらいたまま動くことができない。
(れん)おじさんが――みのりのお父さんが、俺の母さんの初恋のひとだったって」
 涼大が発したその言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

『涼大、ごめんね……ごめんなさい。分からないの、涼大はB型だから、分からないの。涼大は、みのりちゃんと兄妹(きょうだい)かもしれない。違うかもしれないけど、分からないの』

『みのりちゃんの両親が、お母さんの幼馴染だって知っているでしょう? みのりちゃんのお父さんはね、お母さんの……初恋のひと、だったけど……本当は好きだったけど、あの頃の私は、考えられないって思っていたの。身体が弱くて、高卒で、就職もしていない蓮と結婚するなんて。恋愛は結婚につながっているんだから、蓮との恋愛なんてありえないって思っていたの。蓮との人生なんて考えられないって思っていたの。だから、俊也(としや)さんとお見合いして、結婚することになったのに、』

『結婚式が近付いてきて、どうしても堪らなくなったの。蓮への感情をどこに片付ければいいか分からなくて、蓮に押し付けてしまったの。それで……本当に、本当に……ごめんなさい……っ、……一度、だけ』

 大学四年生に上がる前の春休み、怯えた声で告げた母さんは泣いていた。
 
『好きだって思った幼馴染が本当は妹かもしれないって、……まさか、そんな昼ドラみたいな』

 酔いでかすんだ視界のなかで、俺を見つめる優奈は泣きそうな顔をしていた。

「――もとから、みのりは妹だっただろ。それに、みのりはまだ十六だ。未成年にそういう気を持つなんて、どうかしてる。妹でいい。みのりは、妹だ」
 かつて何度も、自分に言い聞かせた言葉を繰り返した。カーオーディオは、気難しく重厚なミュージカルの音楽を流し続けている。七年前、優奈の前でも同じことを呟いた。「そうやって、みのりのことは忘れようとしたけど、」痛みを堪えるように目を眇めたら、俺を見上げるみのりが大きく瞳を揺らした。
「じゃあ、……涼大は、私のことを」
 そこでみのりがはっとしたように、怯えた顔で口を噤んだから、俺も続きを補うことはしなかった。言葉にしてはいけない気がした。俺はすでに間違ったのに、言葉で感情をなぞれば、それが輪郭をもっていよいよ踏みとどまれなくなる。そんなふうに、思ったから。
「かもしれない、で曖昧にしたまま無理矢理忘れようとしたから駄目だったと思った。結局感情が抑えられなくなって、あんなことをしたんだと思った。だから、確定させて諦める。そう思って、検査機関でDNA鑑定をしたけど」
「鑑定?」とみのりが戸惑った顔をしたから、「一般人でも鑑定できる機関があるんだよ。送られてきたキットでサンプルを採取して、送り返すってやつ。ネットで出てくる」と付け加える。そうして、浅く短く息を吸ってから続けた。ひゅっ、と不穏に上擦った音がした。
「先週、結果が返ってきた」
 父さんには言わず回収した父さんの歯ブラシ、それから採取したDNAと、俺の口腔細胞のサンプルを照合した結果は、
「俺と、俺の父さんの親子確率は九十九・三五パーセント。みのりは俺の、妹じゃない」
「なんで……なんで、今、」
 声をふるわせて、瞳をふるわせて、みのりは動揺していた。聞きたくないと言うように両手で耳を押さえて、首を振って、「だって、そんなの、私は……なんで、なんで」――呆然とした声で繰り返していた。そうして、怯えたような声は最後に呟いた。苦しげな息を絞り出しながら、「遥樹」と。
「遥樹には昨日伝えた。今さら謝ったって遅いけど、……ごめんな。俺は、みのりと遥樹の邪魔をするつもりはないよ」
 みのりは頭を抱えて、肘を膝に突いて俯いている。俺はどうすることもできず、しばらくみのりを見下ろしていた。
「……そこの自販機で飲み物買ってくるな?」
 みのりに聞こえているか分からなかったけど、そう言い置いて車を出ようとした。だけど、ドアハンドルに右手をかけたところで、俺ははっと息を呑んだ。
 肩越しに振り返れば、みのりが呆然とした顔で俺のジャケットを掴んでいた。視線を合わせて、しばし見つめ合えば、みのりは我に返ったように袖を離す。
「な……、なんでもない……」
 怯えた顔でそう言って、視線を激しく惑わせて、慌ただしく車を出ていった。バンッ、と大きな音を立ててドアが閉まった。
 俺はハンドルに肘を突いて頭を抱えた。さあさあと降る雨の音、身体にまとわりついた湿度、清潔な柔軟剤の匂い、俺を見上げる瞳の繊細な艶っぽさ。すべてを振り切りたくて、強く目を瞑った。
 
 九十九・九九パーセントの確率でみのりは妹だ、と確信していた。母さんの話を聞いたときに、パズルのピースがはまるように、かちりと腑に落ちたから。一重まぶたと二重まぶた、太さのあるかたい髪とふわふわとした細い髪、塩顔だとか言われるとがったフェイスライン、対しておそらくは砂糖顔と言われるのだろうやわらかな頬、血液型もB型とA型――俺と遥樹は全然似ていない。
 そういうことだったんだ、と決め込んだ確信は絶望となった。当時もDNA鑑定が頭を過ったことはあったけど、覆せない結果に直面することに怯え、曖昧なまま終わらせた。優奈が俺に向ける好意に救いを求めた。――あのときからすでに、間違っていたのか。
 カーオーディオの曲が切り替わった。伸びやかな女性の歌声、やがてそれに応えるように男性の声が重なる。みのりにキスをしたあの日に、かかっていた曲だ。
「オペラ座の怪人か、レミゼラブル」とあの日みのりには言ったけど、どちらとも違う。思い出した。ウエストサイド物語(ストーリー)。アメリカ版のロミジュリみたいな? ――そう言って小首を傾げた優奈の声を、記憶が引っ張り出してくる。
 裏切ったくせに、つい今だってみのりのことを考えていたくせに、まるで夜の暗闇の灯火に縋るように、ミュージカルの曲に聴覚を集中させてしまう。
 優奈に通帳の在処と暗証番号を教えたけど、家賃と水道光熱費と通信費のぶんしか口座の残高は減っていなかった。優奈は今、なにをしているのだろう。どんな思いで、あのアパートで日々を過ごしているのだろう。
 憔悴しきった眼差しで夜を見やって、国道を大洲へ――実家へと進んでゆく。優奈と暮らしていたアパートへ戻らなくなって、もうすぐ三週間になる。

 あの指輪の石は、おもちゃの指輪によくあるプラスチックだったけど、花火のキラキラが映りこんでいて、どんな宝石よりも綺麗に見えた。もう十五年以上も昔になる花火大会の夜、中学生の涼大が、お小遣いで買ってくれた指輪。
 跪いて、私の指先にそれをはめてくれたのは、たんに身長差があったから。地面に膝を突かなきゃ、私の指先が目線の高さにならなかったから。
 ――ん、似合ってる。
 だけどあのとき、涼大がまるで、童話の中の王子様か、幸せな結婚式の花婿さんみたいに見えた。
 あの指輪は、実家の勉強机の二段目の引き出しの中の、お父さんが買ってくれたオルゴールの中板の下にある。指輪の在処を、突然思い出した。
 なんで、とローテーブルに突っ伏したまま私は呟いた。なんで今さら、と音のはっきりしない声でうめく。
 雨の音は幻聴だ。さあさあと降りしきる雨の音は幻聴だ。肌に絡みつく湿度だって幻だ。それらを振り切りたいのに、音は強さを増して、湿度はその肌触りを増して、私を呑み込もうとする。まるで、雨で水かさの増した川のように。
 宝物は、川の流れへ手離したはずだよ。あたたかいベッドの中、遥樹の隣で、つめたく冴えた音を聞いた。宝物を落とした音を聞いた。
 それなのに、私は。
 水の中でもがいて、指先を必死で伸ばして、濁流の中の初恋を取り戻そうとしているの?

「あんなことしといて今さらだけど、俺は遥樹とみのりの邪魔をするつもりはない」って、兄ちゃんは言った。だけど昼下がりの大人のドラマや、ちょっと背伸びした少女漫画みたいな展開で、兄ちゃんとみぃちゃんの恋がいったん引き裂かれたのなら、邪魔なのは兄ちゃんじゃなくて俺だよ。
 浮かれるんじゃなかった。舞い上がるんじゃなかった。初恋なんて叶わないものだって分かっていたはずなのに、兄ちゃんの代わりでもいいって弁えていたはずなのに、都合のいい男で満足していたはずなのに、一度、初恋が叶ったと思ってしまったから。
 ――苦しくて、痛くてたまんないよ。
 気付けば、メッセージアプリをひらいている。あの雨の日に届いたメッセージに既読すらつけていないくせに、みぃちゃんからなにか連絡が来ないかって、馬鹿みたいな期待をしている。
 来るはずないよ、と俺はスマホの電源を落として机に顔をうつぶせた。講義室の机のつめたさとかたさに鼻先がぶつかる。枕にした腕がまとうニットからは、洗濯の洗剤の匂いがした。
「国崎くん」
 ふわり、と。フローラルムスクがやわく香った。おもむろに顔を上げれば、「死にそうな顔だよ」と言葉とは裏腹な明るい声で彼女は言った。遊佐さんだった。太陽の光を透かしたようなハニーベージュのボブを揺らして、俺の顔を覗き込んでくる。
「さぼっちゃえば?」
 ツヤのあるピンクで彩られた口元が、いたずらっぽく囁く。
「でも、必修」
「一回くらい平気だって」
 戸惑う俺に、「その状態で授業に出たって、内容なんて入ってこないよ。さぼったのと変わんないんじゃない?」と遊佐さんは小首を傾げた。
「ね? さぼっちゃおう。共犯になってあげるから」
 ふふっ、と不敵に笑った彼女が俺の袖を引いた。
 授業中で人がまばらな構内を抜けて、大学から少し離れたカフェに行った。俺も遊佐さんも季節限定のさくらパフェを頼んだ。明るい色合いの髪を揺らしながら、遊佐さんは軽やかに笑う。ねぇ、おいしいね。けど、桜味って結局何味なんだろう? さくらんぼ? ――遊佐さんがスプーンですくったピンクのゼリーが、ぷるぷるとふるえて、きらきらと光った。
「もー、授業は大丈夫だよ。利夏がレジュメもらっててくれるから」
「あ、……うん」
 俺は曖昧に笑った。そうして、自分のパフェがまったく減っていないことに気づいた。のろくスプーンを動かして、一番上の生クリームをすくう。
「あ、そうだ。国崎くんのバイト先、ルカちゃんが入ったでしょ?」
「ルカちゃん?」とおうむ返しにしてから、小林(こばやし)さんのことか、と理解する。先月から、バイト先に新しい子が入った。それまで直接の面識はなかったけど、学科の後輩だ。
「今から陰口を言う嫌な女になるね。ルカちゃん、サークルの後輩なんだけど、女から見たら結構強かな子だから気をつけなよ。ま、あたしが言うなって話だけど」
 ふふっと笑った遊佐さんは、綺麗な所作でパフェを口に運ぶ。それをぼんやりと眺めながら、「あぁ、」と小林さんの言動を思い浮かべた。バイト終わりの帰り道、無邪気になんの気もないふうに『遥樹先輩、待ってください』って、腕を絡められたっけ。ローズ系の甘い香りを漂わせた彼女は、『あっ、お兄ちゃんと出かけるときのクセで……。私、ブラコンなんですよ』と照れていた。
「……距離が近いなとは思ったけど、やっぱりわざとだった?」
 確認するように問えば、「さあ。あたしはそうだと思うんだけどどうかな」と遊佐さんは首を傾げた。パフェのいちごを嬉しそうに頬張って、遊佐さんは続けた。
「好きならいいよ。強かなことが悪いとは全然思わないもん。でも、今の国崎くんがもし、強い子の押しに負けちゃったら、苦しいことになるんじゃないかなって思って」
 俺が虚をつかれて言葉を失っていると、遊佐さんはふふっと不敵に笑った。「今の国崎くん、その気になればまた簡単に落とせそうだもん」小首を傾げる彼女の、ハニーベージュの髪が揺れる。
「……しないよ。今、そうなったって、絶対、みぃちゃんの代わりだもん。もう、遊佐さんにひどいことはしたくないよ」
 迷いながらそう答えたら、遊佐さんは穏やかに目を細めた。
「簡単に、っていうのは違ったかなぁ」
 遊佐さんは呟くみたいにそう言って、パフェの底の方のシリアルをさくさくと崩した。俺はピンクのゼリーをすくう。ぷるぷるできらきらで、口に入れるとひんやりとつめたい。甘くて、ほのかに酸っぱい。急に泣きたいような気持になった。
 ちょうどそのタイミングで、「なにがあったの?」と遊佐さんが問うた。俺はパフェの器に視線を落として、言葉を迷わせながら問いに答えた。
「兄ちゃんが、本当はみぃちゃんのことが好きだったって。でも、そのとき……六年前は理由があって、みぃちゃんを振って……ううん、振ったわけじゃないんだっけ。でも、とにかく、みぃちゃんは兄ちゃんに失恋した。みぃちゃんの初恋は兄ちゃんだもん。兄ちゃんが、みぃちゃんを好きなんだったら、俺が引くしかないよ」
 六年前、みぃちゃんが兄ちゃんに失恋したときのことを覚えている。兄ちゃんに彼女ができたのは、優奈さんで三人目だった。大学卒業直前の兄ちゃんが実家に帰省した日、俺が塾の春季講習終わりで帰宅すると、うちに遊びに来ていたみぃちゃんと玄関で鉢合わせた。『あぁ、遥樹。お帰り』無理矢理な笑顔を作って俺とすれ違おうとするみぃちゃんを引き留めて、送っていくことにした。だけど俺は結局、隣を歩く以外なにもできなかった。夕日のオレンジがみぃちゃんの瞳のふちで光っているのに気付いていたのに、必死で弾ませようとしていた声がふるえていることに気付いていたのに、エンローの最新巻の話しかできなかった。
「……『みぃちゃん』は今、お兄さんのことが好きなの?」
 俺はぴたと動きを止めた。遊佐さんの言葉に意識を引き戻されて、視界にパフェが戻ってくる。俺は視線を彷徨わせて、押し黙った。そうしたら、「『みぃちゃん』が、お兄さんのことが好きだって言ったの?」遊佐さんが言葉を変えた。その言葉に怯んで、しばらく考えて、やがて力なく首を振った。
「俺のことが好きだって、みぃちゃんは言ったけど」
 あの雨の日にみぃちゃんはそう言った。でも、俺が兄ちゃんと同じ呼び方で『みのり』と呼んだなら、みぃちゃんは動揺した顔をして、俺を追いかけてはこなかった。俺と兄ちゃんの声質は似ている。だって、兄弟だから。最初にみぃちゃんとキスをした日も、俺はわざと『みのり』と呼んだ。俺と兄ちゃんを重ねてくれて構わないと思ったから。ううん、重ねるように俺が導いた。そもそもが、そういう始まりだったのだ。
「……よく考えてみたら、気付くはずだよ。本当は、どっちのことが好きなのか。俺は、みぃちゃんと兄ちゃんが行き違いをしている隙間に入り込んだだけだ。だって、あんな事情、もしも俺たちがドラマや少女漫画なら絶対、結ばれるのは兄ちゃん……」
 そこまで言ってからはっとした。案の定、「事情?」と遊佐さんが首を傾げている。
「その、詳しくは言えなくて……その、俺もまだ、混乱してて」
 俺たちのことだけじゃなくて、お母さんのことも。お母さんは、浮気か――不倫をしたってことだ。お父さんとも仲がよくて、全然、そんなふうには見えなかったのに。
「そっか」と遊佐さんはあっさりと引き下がった。クリームとシリアルをさくさくと混ぜたものを、スプーンで口に運んだ彼女は、小首を傾げた。
 ――だけどね、国崎くんたちは、ドラマでも少女漫画でもないよ。
 遊佐さんがそう言ってくれたのは聞こえていたけど、俺はスプーンを握る手に力を込めたまま、言葉を返すことができなかった。

 涼大さんがしたことは、一般的に言えば浮気、なんだと思う。だけどたとえば、ジェームズ・キャメロン監督の『タイタニック』で、資産家の婚約者がいるローズと、画家志望の青年ジャックの恋を、観客は浮気だなんて言ったりしない。それならもし、私たちが映画になったなら、観客は涼大さんとみのりちゃんの恋を、たんなる浮気とは言ったりしないんじゃないかな。
 だってふたりは、心を通わせていたのに引き裂かれた。なにも事情がなければ、幸せに結ばれていたはずだったのに。そのうえ、傷付いて絶望した涼大さんに取り入ったのは、社会人失格で心の病気までもっていて、結婚もしていないのに涼大さんに寄生(パラサイト)する私だ。きちんと給料分の仕事をこなすハウスキーパーさんみたいに、せめて完璧に家事をこなせるならまだいいのに、私は掃除が苦手で、作る料理はおおざっぱで、勉強はできるけど生活力がなくて、変なところにはこだわるのに肝心なところが雑で、要領が悪くて、不器用で、そして、見た目とは裏腹に言動や仕草が女らしくない。その証拠に、涼大さんとふたりで暮らしていたこの部屋は、泥棒に入られたと十人に言ったら六人くらいは納得するんじゃないかって程度に荒れている。もしも私がちゃんとした彼女なら、涼大さんが仕事で疲れて帰ってくるこの部屋を綺麗に整えて、料理だって味も見た目も栄養も完璧なものを作っていた。でも実際の私はこんなだから。こんな彼女で、涼大さんがかわいそう。観客はきっとそう思うよ。こんな彼女を義務もなく養っているときに、かつて好きで、どうにもならない事情で気持ちを捨て去った相手と再会したら、心なんて揺らいで当然だよ。
 ――なんて言ったら、涼大さんはきっと怒る。
 部屋を片付けないのは俺も同じだろ。俺が多めに生活費出してる分だけ、優奈が料理と洗濯をしてくれるだろ。俺、ひとり暮らしのときは毎日コンビニか外食だったしさ、助かってるよ。病気だったら、なにか悪いの? 優奈は悪いことしてる? 見た目詐欺とかさ、俺がそんなふうに思うって思ってんの?
 怒ってくれるのに、今はここに涼大さんがいないから、怒ってくれない。
 シンクの排水口へ、泡の溶けた水が流れてゆく。今日の夕飯は卵かけご飯だったから、洗わなければならないのは、お茶碗と箸と炊飯器の内釜だけだ。それらを洗い終えたら、次はシンクの掃除。食器を洗うのとは色の違うスポンジで、排水口の蓋やゴミ受けまで洗っていく。部屋が散らかっているのはまったく気にならないくせに、食中毒を起こすことがひどく怖いから、シンクだけはほとんど毎日掃除している。
 ぎゅ、とスポンジを握りしめて泣きたい気持ちになった。さらさらと排水口へ流れてゆくこの水の代金も、涼大さんの口座からの引き落としだ。
 よく眠れないまま翌日になった。昼過ぎにのろのろとベッドから起き上がって、夕方になってようやく行動を始めた。昨日、卵かけご飯で使った卵が最後のひとつだった。私はのろい動きで、部屋着にしているフリース素材のワンピースとレギンスの上に、ニットのロングカーディガンを羽織った。トートバッグに財布とスマホ、小さく丸めたエコバッグだけ入れてアパートを出る。五時を過ぎても空はまだ明るい。夕方の風はひやりとつめたいけど、空気は十分、春にふさわしいだけの光量を内包している。
 誰にもぶつからないように、誰にも危害を加えないように、前方を睨むように見つめて歩く。誰かとすれ違って、はっ、としたなら後ろを振り向く。大丈夫、今すれ違ったおばあちゃんは、ちゃんとしっかり歩いている。ぶつかっていないし、怪我もさせていない。長いため息を吐いて、胸の前で両手を握る。左手薬指のペアリングを、いつもお守りのように思っていた。本当は外さなきゃいけないのかもしれないけど、どうか、もう少しだけ。もう少しだけ、よりどころにすることを許して。
 五分と少し歩いたらスーパーに着く。間違って万引きをしないように、肩にかけたトートバッグの口を腋の下でぎゅっと挟んで店内を回る。考え事をしちゃだめ。ちゃんと意識をしっかりさせて。考え事をしている間にうっかり、間違って、商品をバッグに入れたりしたらだめだ。――最近は、ここまで警戒しなくても大丈夫になっていたのに、また症状が強くなっている。
 ぎゅっと眉根を寄せたそのとき、「先輩」と後ろから声がかかった。驚いて振り返ると、私を見下ろして控えめに微笑んでいたのは木内くんだった。
「あ、……こんにちは」
 上擦った声を落ち着けてそう言ったら、「こんにちは」と木内くんが少しだけ笑みを深める。ぎこちない笑顔を返しながら、気付いた。
「あ、……私、お化粧してない」
 服装だって適当だ。無駄だと思いつつも、ニットカーディガンの袖で頬のあたりを隠す。木内くんは迷うように小さく首を傾げたあと、「先輩、肌がきれいだから全然気になりませんよ」とフォローをしてくれた。『きれい』を『肌』に限定してフォローするところが木内くんの細やかさだ、と思った。彼と同じゼミで過ごした一年間が、途端に巻き戻ったような感覚がした。お化粧をしていない顔を恥じらうなんて――それも学生時代、『顔で人生イージーモード』だなんて、褒め言葉か嫌味か微妙なラインの軽口をよく叩かれていた私が――もしかしたら、あざとい女の子だと思われるような言動だったかもしれないのに。私の戸惑いや気まずさ、重荷を丁寧に回避しながら、控えめなフォローをくれる子。特別に親しかったわけじゃないし、私たちはただのゼミの先輩後輩だったけど、そうだった。あなたは、そういう後輩だったね。
「ふふっ、木内くんが気にならないなら、すっぴんで失礼するね」
 私は頬を隠していた袖を外し、声をぐんと跳ね上げて、おどけたふうに笑った。そうして、木内くんが手に持っている買い物カゴをのぞき込む。
「すごい、冷凍食品がいっぱい」
「そうなんですよ。今日、冷食全品半額みたいなので」
「えーそうなの? 私も買って帰ろうかな」
 話しながら、なんとなく、店内を一緒に回るような流れになった。当たり障りのない言葉をただ交換するだけで、間違って万引きをしてしまったらどうしよう、という強迫観念が薄れてゆく。そういえば、誰かと他愛のない話をするのは久しぶりだ。
 冷蔵庫の前で、木内くんは飲み物を選んでいる。彼の、ゆったりとしたグレーのニットカーディガン、ダークグレーのスウェットパンツというラフな格好をそっと観察した。退勤後、という感じじゃない。副店長の木内くんがお休みなら、涼大さんは朝から閉店まで通しで出勤のはずだ。涼大さんは、今、どうやって過ごしているのだろう。
 そんなことを考えていたら、不意に、木内くんがこちらを向いた。目が合ったら、「そうだ、猫の鳴き声は大丈夫ですか?」と彼が問うから、私はなんのことだか分からなくて、首を傾げた。
「店長が、野良猫の鳴き声が気になって夜眠れないって」
「あ、ああ! そうなの、猫! 私はあんまり気にならないんだけど、涼大さんは、ちょっと、気にしてるかな」
 咄嗟に話を合わせながら、ばくばくと心拍数が上がっていった。ちゃんと話を合わせられているかな、と不安が背中に汗をにじませる。「そうですか」と木内くんがすんなりと相槌を打ってくれたので、ほっとした。
 涼大さんは、よく眠れていないんだね。木内くんが気付くくらいに、疲れているんだね。
 ぎゅうっと心が縮こまった。だけど身勝手な嬉しさが、それを簡単に打ち消してゆく。
 私たちはまだ、一緒に暮らしていることになっているんだ。
 カゴの取っ手を握り締める手、左手薬指のペアリング。つけっぱなしのままでも、まだ、ぎりぎりおかしくないみたいでよかった。
 冷凍食品をエコバッグいっぱいに買い込んだ。木内くんなら、自炊をしない先輩なんだな、などとは思わないでくれると思ったから。パンパンにふくらんだエコバッグを肩からかける私をそっと窺った木内くんが、「よかったら、乗っていきますか」と控えめに申し出てくれた。迷ったけど、乗せてもらうことにした。
 自分が車を運転するのは怖くてできないけど、ひとが運転する車に乗るのはまったく平気だ。運転手さんが誰であれ、そのひとは事故を起こせば必ず気付くし、適切な対処を取れるはずだと、ごく当たり前に信用できるから。間違っても、考えごとをしていて事故に気付かなかったり、現実逃避から事故を起こした記憶を消したりなんてしない、と思う。だったら私のこの症状は、自分自身に対する不信感や自己肯定感の低さから生まれた病気なのかと考えたこともあるけど、私はお医者さんじゃないから分からない。病気の原因について正しく分かっているのは、セロトニンという脳内物質に機能異常が起きているということ。
「俺も歩ける距離なんですけど、つい車出しちゃうんですよね」
 木内くんの声に意識を引き戻された。ガチャッという音がして、木内くんの車のドアが解錠した。実家でお父さんが乗っているのと同じ、白の普通車だ。「どうぞ」と促されて助手席に乗り込んだ。「車持ってるなら使っちゃっていいんじゃない? 私みたいに、ペーパー期間が長くて運転できなくなっちゃうより。もう、ペーパーを極めてゴールド免許だよ」シートベルトを締めながら、おどけて笑った。ひとを轢いたかもしれないという不安が頭から離れなくなるから運転できない、なんて明らかにおかしな本当の理由は、涼大さんにしか言えない。
「あ、それ、後ろに置きましょうか?」
 私が膝に抱えているエコバッグに、木内くんが手を伸ばす。「大丈夫」と私は首を振った。そうしたら、「あ、すみません」と木内くんが謝ったから、素直に預けてしまったほうがよかったのかもしれないと後悔した。
 車がゆっくりと発進する。「アパート、髙島屋の近くなんですよね」と確認されて、私が頷くと、車はスーパーの駐車場を出て左折した。
「そうだ、大学の学会には行きますか?」
 木内くんがそう尋ねたのは、十数秒の微妙な沈黙が続いたのちのことだった。
「学会」と木内くんの言葉をなぞった。私や木内くんが卒業した欧州言語・文学コースが主催する学会のことだと理解する。毎年、卒業生にも学会参加の案内が届いている。今年のぶんもおそらくは、仕事用デスクの周囲に積み重なった郵便物のなかにある、はず。
「えぇと……不参加のつもりだったけど、木内くんは行く?」
「俺、なんだかんだ毎年参加してるんですよ。川崎先生に、来年も来いよって言われ続けて」
 げんなりとした感じをほんのりと表情ににじませた木内くんは、そういえば、ゼミ教官の川崎教授のお気に入りだったな、と思った。
「来年も来いよって言われてちゃんと行ってあげるところが、川崎先生のお気に入りなんだよ」
「さあ……、ゼミ生の同期で、松山に残ってるのが俺だけだからじゃないかなって思ってるんですけど」
 苦笑いした木内くんは、少しだけ迷うような口ぶりで続けた。
「それで、先輩も、一緒にどうかなって」
「私?」
 訊き返したら、「ああっ、すみません。別に断ってもらって全然大丈夫なんですけど」と木内くんが慌てる。
「『レ・ミゼラブル』の論文発表もあるみたいだし、そういえば先輩が好きだったなって思っただけなんです」
「えっ、そうなんだ」
『レ・ミゼラブル』の論文発表は聞きたいかもしれない。それに、これまで案内状が来ても不参加だったのは、ゼミで仲良くしていた子たちはみんな県外で就職していて、ひとりで参加する度胸がなかったから。木内くんが一緒なら、行ってみてもいいかもしれない。それに、せっかく松山に引っ越してきたんだし。
 ――というかたちで、木内くんと一緒に学会に参加する約束をした。

 お母さんが、佐倉さんと入籍する。よく晴れた四月の下旬、私は土日と有休を合わせた四連休を取って、引っ越しを手伝いに実家に帰った。五歳まではお父さんとお母さんと三人で、それ以降はお母さんと二人暮らしをしてきた賃貸アパート。それほど広くない2DKのいたるところに、段ボールがいくつも積み重なっている。「お帰りなさい」と私を出迎えてくれたお母さんは、昼食を用意してくれていた。炊きたてご飯の、甘くほのかに香ばしい匂いが、キッチンに満ちていた。
 手早くきゅうりを薄切りにするお母さんの左手薬指には、ふたつの指輪が重ねづけされていた。少しくすんだシルバーの、ストレートラインのシンプルなほうは、私も見慣れたお父さんとの結婚指輪。繊細につやめくプラチナのウェーブラインに小粒のダイヤモンドが控えめに光っているほうは、初めて見る指輪だった。たぶん、佐倉さんとの結婚指輪なんだろうけど。
 ――お父さんのほうも、つけたまま?
 おそらくは怪訝な顔でお母さんの手元を見つめていたのだと思う。包丁を止めたお母さんは、少しだけ照れくさそうに笑った。そうして、「外さなくていいよって、聡一(そういち)さんが」と優しい眼差しで指輪を見つめた。
「僕と結婚しても、それまでの人生も大事であって当然だ、って。重ねてつけられるデザインのものを買ってもらったの。ほら、お母さん介護職だし、指輪をつけるのはお休みの日だけだから。ちょっとくらい派手になっても大丈夫だしね」
 お母さんがきゅうりに視線を戻したのは、きっと照れ隠しだ。包丁の音がほんの少しもたついた。
「……いいひとだね。佐倉さん」
「えっと……うん。そうね、とっても素敵なひと」
 幸せな恋をしている声だった。私は戸棚からお皿を取り出しながら、「お母さんが幸せになってよかった」と微笑んだ。
「みのり、フライパンのオムレツをお願いできる?」
 お母さんが、細切りにしたきゅうりをお皿に盛る。その横に、私がエリンギとジャガイモ入りのオープンオムレツを盛りつけた。
「今までもね、幸せだったよ」
 手をタオルで拭いて、お母さんが私を振り返る。
「お父さんとはね、結構な大恋愛をして結婚したの。おじいちゃんとおばあちゃんに反対されていたけど押し切ったの」
 ふふっ、とお母さんはいたずらっ子みたいに笑ったけど、私は大きく目を見ひらいた。お母さんが、おじいちゃんとおばあちゃん――お母さんの両親とあまりうまくいっていないことは、なんとなく分かっていた。たとえば、同じ市内に住んでいるのに私の預け先が祖父母宅でなく国崎家だったことだとか。おばあちゃんから電話がかかってくるたびに、お母さんがいつも怒った顔をしていたことだとか。
「大恋愛をしたぶん大変だったけど、私は蓮に出会えて幸せだった。みのりに出会えて幸せだった」
 お母さんに穏やかに笑いかけられて、私は喉の奥がぎゅっと締まったような心地になる。だけど同時にやわらかくてふわふわしたあたたかいものが胸にひろがって、泣きたいような気持ちになった。
 お父さんとおばさん――遥樹と涼大のお母さんとのことを、お母さんが知っているのかは分からない。だけど、お父さんと出会えて大恋愛をして、幸せだったとお母さんが言うのだから、そうなのだと思う。
「お母さんが、幸せでよかった」
 鼻の奥がつんとした。「今まで、育ててくれてありがとう」泣きたいのを堪えながらそう言った。そうしたら、お母さんが目を丸くした。
「どうしたの、改まって」
 子供の頃にそうしてくれていたように、お母さんが私の頬を包むみたいにしてなでた。ほんのりと、きゅうりの爽やかな匂いがした。
「お父さんが病気で死んじゃってから、ひとりで働きながら、私を育ててくれた。ほんとに、ありがとう。これから、もっともっと幸せになって」
 お母さんがもっと目を丸くした。そうして今度は目を細めて、「ありがとう」と幸せそうに笑った。

 ――みのりも、幸せになって。なにがあっても、聡一さんと結婚しても、お母さんはみのりのお母さんだもん。お母さんは、みのりの味方だよ。
 お母さんは私にそう言った。遥樹くんとはどう? とは訊かれなかった。涼大は実家に戻ってきているみたいだし、私たちのあいだになにかがあったことに気付いているのかもしれない。
 奥の和室は、寝室と私の部屋を兼ねていた。日に焼けて色褪せた畳の上に、ピンクとホワイトのパズルマットを敷いて、その上に勉強机。高校の教科書や参考書は、まとめて紐で縛られている。その他、引き出しに残った私の私物を、不要なものと残しておきたいものに分けなければいけない。私はパズルマットに膝を突いて、二段目の引き出しに指先を触れさせた。浅く息を吸って、引き出しをあけた。お菓子の空き箱で作った仕切りを利用して、昔使っていたファンシーなデザインのメモ帳、香りつきのペン、手紙をデコるためのテープが片付けられている。その奥に、お父さんからもらったオルゴールがあった。つやのあるダークブラウンの木の箱をひらけば、くすんだ金属の音盤と、その横に小花柄の布が貼られた中板がある。親指に力を込めて、中板を押した。カコン、と中板が斜めに外れて、中からピンク色の石が付いたおもちゃの指輪がでてきた。手のひらにのせたそれを見つめながら、ピンク色だったんだな、と思った。記憶に残っていた石の色は、花火の色が映り込んで、まばゆくきらめく極彩色だったから。
 ――捨てるつもり、だったけど。
 私は指輪を手のひらに握りこんだ。
 涼大とちゃんと話をしなきゃ、と思った。手のひらに感じる指輪はつめたくてかたい。
 なにを話せばいいのかまだちゃんと分かってないけど、でも、ちゃんと話をしなきゃ。

 四月の下旬、ゴールデンウィークの前週の土曜日が、欧州言語・文学コース主催の学会だ。添削の業務で昼夜逆転気味の生活を無理矢理正して、八時に起きた。カーテンを開けたら、まばゆい朝日が降りそそいだ。あたたかくふわふわとした光が満ちた部屋で、歯磨きをして顔を洗って、朝ごはんに板チョコをかじった。化粧水を肌にしみこませているあいだに着替えをした。少し透ける素材のオフホワイトのブラウスに、ペールヴァイオレットのジャンパースカートを合わせた。その上から、グレージュの鍵編みのニット。服に合わせて、青みピンクのリップとヴァイオレットのアイシャドウでお化粧。キラキラとしたアイシャドウをチップでまぶたにのせながら、お化粧をするのって久しぶりだ、と思った。卓上ミラーに写った自分の目元がきらめくのを見て、心が上向いていくのが分かった。
 玄関の靴箱に備え付けの全身ミラーで、おかしいところがないか確認した。髪はちゃんと寝ぐせを直したし、ピアスも揺れるデザインだけど控えめなものにした。最後に、左手のペアリングを見つめてしばらく迷った。でも、つけたままにした。
 学会は十時からだから、九時二十分に木内くんが迎えにきてくれた。部屋を出たら、アパートの前に白い車がもう停まっていたので、私は駆け足で車へ向かった。ぱたぱたぱた、とパンプスのヒールが忙しげで――だけど軽やかな音を立てた。
 助手席の窓から中をのぞき込んだら、私に気付いた木内くんが目元を和らげる。どうぞ、と手で示されたので、私はドアをあけて助手席に乗り込んだ。
「おはようございます」
「おはよう。ごめんね、待たせちゃったね」
 私は恐縮したけど、「いえ、来たばっかりですよ」と木内くんは穏やかな声で返してくれた。
「木内くん、フランス語覚えてる? 私、自己紹介くらいしか覚えてないかも」
 車窓を流れてゆく景色から、木内くんの横顔に視線を移動させて尋ねた。せっかく学会に行くのに、文学はともかく、言語学の論文はもう理解できないかもしれない。
「〈Quelle heure est-il?〉」
 木内くんの問いかけに、私はカーナビの画面で時間を確認した。
「〈Il est 9 heures 24〉……?」
 九時二十四分です、と答えた発音はかなり怪しかったけど、すんなりと言葉が出てきたことに驚いた。
「学生時代、結構頑張って勉強してたじゃないですか。意外と残ってるものですよ」
 ちょうど信号待ちになったから、木内くんが私に眼差しを向けて笑う。昔と同じ笑い方だった。控えめで、真っ直ぐに誠実で――もしかしたら、違うかもしれないけど、うぬぼれかもしれないけど、ゼミ仲間の言葉に影響されて勘違いをしているのかもしれないけど、――私への好意を内包させた笑い方。突然、泣きたいような気持になったのはどうしてだろう。
 大学には、九時半少し過ぎに着いた。車を降りた瞬間に、懐かしい、と思った。思えば、大学生だった頃がいちばん気楽に人生を楽しんでいたかもしれない。実家を離れて、ひとり気ままに好きなときに好きなことができて、好きなことを勉強できて、好きなひとの恋人になれた。四年生になって強迫性障害が発症したけど、それまでの約三年半が、あまりにもまばゆい。ちょうど今、きらきらと降りそそいでいる木漏れ日みたいに。樹木の連なるレンガ道を、木内くんと学部棟まで歩いた。
 学部棟一階の大講義室に入った途端、「優奈?」と呼ばれた。かつてのゼミ仲間だった。彼女は私と木内くんの顔を交互に見て、「え、優奈、今はきうっちーと付き合ってんの?」と目を大きくした。
 私は肩を跳ねさせて、ふるふると首を振る。咄嗟に言葉が出てこなかった私の代わりに、木内くんが「違いますよ」と穏やかな声で答えた。
「この前、スーパーで偶然会ったから、俺が誘ったんです」
「ええー? でも、指輪。左手薬指だし」
 彼女の言葉にどきっとして、私は左手をぎゅっと握りこむ。「あ、もしかして、あの彼? 大学のときから付き合ってた、バイト先の先輩っていう」と続けた彼女に、「そう」と短く頷いた。
「続いてるんだね。結婚するの?」
「そんなんじゃないよ。ただのペアリング」
 声は、上擦ってないかな。どきどきと低い音を立てる心臓に慄きながら、握った左手を隠すように右手を重ねた。そうしたら、「ただの、ねぇ」と彼女は少し含みのある声を出した。
「ペアリングなんて、私、もらったことないよ。そこまで行く前に終わっちゃう」
「あ、ええと……」
「さすが人生イージーモード。順風満帆なんだね」
 彼女はからりと笑ったけど、『人生イージーモード』が褒め言葉だったのか嫌味だったのかは分からない。

 顔立ちが特別に整っている、というわけではないと思う。ただ、白い肌に丸くて大きな目、薄いくちびるという組み合わせが、私を儚くか弱い女の子に思わせるみたいだ。『いいよいいよ』『頑張ってるのは分かってるから』『坂本さんは天然だもんね』――なにか失敗をしたり、物事をうまく進められなかったとき、そんな言葉で甘やかされることは確かに多かった。そういう扱いをしてほしいわけじゃないって、その度に内心不満がっていたけど、実際に甘やかされず厳しくされたら、私は上司と喧嘩して退職する羽目になった。新卒で入社した会社でのこと。『顔で人生イージーモード』――そのつけが、今回ってきているのだろうか。
 ――ううん、今だってイージーモードなのかな。
 大学の第一食堂で、変わらず三百円で提供されている親子丼。そこからかすかに立ち上る湯気を眺めながら、先程言われたことを思い返した。人生イージーモード。順風満帆。私はなんの苦労もなく、幸せな人生を送っている。そうかも。だって、私は涼大さんが家賃水道光熱費を払ってくれているアパートに住んで、月二万円程度の収入で暮らしている。通帳と暗証番号だって渡された。普通の二十六歳なら、ちゃんと働いて、自分の力で生きているのに。
 とん、と目の前にトレイが置かれた。「お待たせしました」という声に導かれるように顔を上げたら、木内くんが私を見下ろして微笑んでいた。
 向かい合わせに座った木内くんと一緒に、いただきますと手を合わせた。学食懐かしいですね、だとか当たり障りのない会話をしたあとに、木内くんがなんでもないような調子で切り出した。
「さっき、野中先輩に言われてたことがちょっと気になったから。先輩が気にしてないなら、余計なことなんですけど」
 私は親子丼を口に運ぶスプーンを止めた。木内くんを見つめると、私を見返した彼が穏やかに笑った。
「俺は学生の頃、優しくて、芯が強くて、絶対にひとの悪口を言わない先輩のことが好きでした」
 まるで、天気の話をするかのようにさらりと言われた。私が目を見ひらいて動揺していると、木内くんは穏やかに笑ったまま続けた。
「告白じゃなくて、白状です。いじましく抱え込んでいるより、白状してしまった方がいいかなって」
「あの、……ええと」
 私は言葉を詰まらせた。反対に、木内くんは流れるように言葉を重ねる。
「先輩は、店長の彼女さんなので。昔のことでどうこうしようなんてつもりはないです。ただ、先輩の人生がイージーモードっていうのはちょっと違うかなって思いました。絶対に人の悪口を言わないのって難しいじゃないですか。でも、先輩はそれができるひとで……きっと、店長が先輩を好きで、大事にしてるのも、人生がイージーモードだからってわけじゃないです。先輩だから、店長は先輩のことが好きで、大事なんです」
 え、と呆然とするのと同時に浅く息を吐いた。喉の奥がぎゅっとなって、息が苦しくなった。
「涼大さん、私のことでなにか言ってた?」
 希望的観測と絶望的予感との間で眼差しがふるえた。声もふるえた。祈るような気持ちで木内くんを見る。
「先輩と一緒に学会に行きますって店長に話したとき、優奈は俺と違って頑張り屋で勉強好きだから、そういうの楽しいだろうなって。そんなことを、仰ってました」
 どくん、と私の心臓が音を立てるのと同時に、木内くんがなにかを思い出した顔で小さく吹き出した。
「店長は先輩のことが好きで大事なんだなって、それがすごく分かる話し方でした」
「……本当に?」
 涼大さんは、まだ私のことをそんなふうに思ってる? でも、だって、涼大さんはずっと帰ってこないままなんだよ?
 必死に問い詰める訊き方をしていた。「はい」と頷いた木内くんの、驚いた表情を見て我に返って、私は努めて声を落ち着かせる。
「そっか、涼大さん。そんなことを……そっかそっか」
「はい、仰ってましたよ」
 木内くんはスプーンで麻婆豆腐を口に運んだ。よかった、なんとかごまかせたかな、と私も親子丼を食べる。二口分、親子丼を呑み込んだタイミングで木内くんがスプーンを止めた。ふと思い出したような調子で私に問いかける。
「午後からですね、『レ・ミゼラブル』。鏡像がテーマですけど、どんなふうに論じられているのかな」
「私がレミゼで卒論を書いたとき、鏡に着目された先行論文を読んだことがあるけど……」
 応じながら、文学について誰かと話すのは久しぶりだと気付いた。大学時代は同じような趣味趣向を持ったひとたちが周囲にたくさんいたから、ごく自然に会話が生まれていた。たとえば、真夏に講義室へ駆け込んできた子が汗の染みたシャツをうっとうしげに見やって、「もう、まじで太陽のせい!」と嘆いたなら、隣に座っていた私はカミュの『異邦人』を思い出して吹き出した。「死刑なの?」「死刑でしょ、こんなん。汗くさいもん、最悪」――その日は、タオルで必死に汗を拭う彼女の好きなひとが、同じ講義室に。
 午後の論文発表が終わって、木内くんが運転する車の中で感想を言い合っているときも、懐かしいと思った。心がずっと軽やかに弾んでいて、帰宅してからは、久しぶりに料理といえる料理をした。
 冷凍のうどんを電子レンジで解凍して、冷凍していた刻みネギと一緒に炒めて、ソースで味付けをした。鶏がらスープの素と卵で中華風のスープも作った。
 ティッシュ箱や空のペットボトルや水道料金の領収証などで雑然としたローテーブル。物を端に寄せてひとりぶんのスペースを確保して、焼うどんとスープを並べる。座椅子に座って、いただきます、と手を合わせた。このアパートでひとりになってから、いただきますをするのは初めてだった。
 私は麺をすするのが下手だ。涼大さんに、「すすれてないぞ」とよく笑われていた。手繰りよせるようにして口に入れた焼うどんは、ネギの味がソースに溶けていてほんのりと甘い。卵を溶き入れたスープも優しい味だ。
「美味しい」と噛みしめるようにつぶやいた。私は料理が上手じゃないけど、でも、やっぱり、手作りの味は美味しい。
 重たい心が下を向いていたなら、つられて身体は前かがみになって、眼差しだって下を向く。そうしたら、自分の足元しか眼差しは捉えない。辿ってきたこれまでしか眼差しは捉えない。足元にまとわりついているのが悲しさや苦しさだったなら、それらに慄いて絶望した私は立ちすくんだまま。
 だけど心が弾んで、その拍子に上を向いたなら。
 とん、と跳ねた心が胸を反らして、眼差しだって上を向いた。そうしたら、空から降りそそぐまばゆい光が瞳を満たす。前にひらけたこれからが瞳に映る。これまでが絶望だったとしても、これからもそうだとは限らない。これからがどんな世界なのか私は知らない。絶望かもしれないし、天にも昇る心地の幸せなのかもしれない。まだ私は知らない。だって、これから知るんだから。
 涼大さんと話そう、と思った。今、なにをしているのか。今、どこにいるのか。今、なにを思っているのか。今、私のことをどう思っているのか。私は、今の涼大さんを知らないから。みのりちゃんへの恋を諦めたあと私と付き合って、私と三年間同棲して、結婚の話もして、みのりちゃんに心を揺らがせた、これまでの涼大さんしか知らない。
 夕飯を終えたあと、涼大さんにメッセージを送った。会って話をしたい、って。返事が来たのは、涼大さんの仕事が終わった頃だった。
〈分かった。水曜が休みだから、優奈の都合が合えば〉
 ――水曜日だ。水曜日に、私たちのこれからをちゃんと知ろう。

 涼大とちゃんと話さなきゃ。そのために、なにを話さなきゃいけないのかちゃんと考えなきゃ。自分の頭の中を整理しているあいだに、それは起こった。
 ざあざあと雨がはげしく降りしきる月曜日だった。定時を少し過ぎて仕事を上がった。雨が降っているから億劫だったけど、仕事中に使っている付箋が切れたから、デパートに入っている雑貨屋に寄るつもりだった。デパートが見えてきたところで、強い風が吹いた。ぐいっと傘があおられて、背中側へよろめいた私の、パンプスのヒールが変なふうに地面を踏んだ。ぐにっと足首が曲がって、痛みに顔をしかめると同時に傘を手離した。肩に掛けていたトートバッグも、ばしゃっと音を立てて地面に落ちる。バッグの中身までもが散乱した。最悪、と目を眇めて、雨に打たれているスマホを拾い上げようとしたそのときだった。
 ――いつだって、この交差点だ。
 遥樹と女の子が、ひとつの傘の下で信号を待っていた。前に見かけた、ミルクティの髪の子とは違う子だ。黒髪で幼げな雰囲気の、可愛らしい子だった。愕然と目を見開いた瞬間に、つま先が何かを蹴飛ばした。スマホだった。水たまりに着地したそれを黙って拾い上げて、他の荷物もすべて拾い上げて、最後に傘を拾って、遥樹たちに背を向けた。
 だって、私がなにかを言う資格なんてないよ。涼大とキスをしたんだもん。遥樹を追いかけられなかったんだもん。心が、揺らいでいなかったとは言えないもん。
 涼大と話して、自分の心を整理したら、遥樹ともちゃんと話したかった。だって、遥樹のことを好きだと思った気持ちは本当だったから。私を包み込んだあたたかさ。バニラみたいな甘い匂い。無邪気な笑顔。冬風になびく黒髪。少し掠れた男の子の声。キスをした息の交わりのまま、溶け合わせた照れ笑い。
 もうタイムリミットだったんだ、とぎゅっと目をつむった。身勝手な涙がこぼれないように目をつむった。
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