初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
第四章
水たまりに着地したスマホは見事に壊れた。無理矢理定時に上がった火曜日、携帯ショップから帰宅する道すがら、私は眼差しを伏せた。前回の機種変更のときにクラウドにバックアップしていたデータが残っていたから、データが全部消えるということはなかったけど、バックアップ後に登録した連絡先や撮影した写真は消えてしまった。クリスマスの日に、遥樹と一緒に撮った写真も。
――あはは、ちょっと緊張した顔してる? でも、かわいいよ。こういう顔も。
海の底みたいなブルーでライトアップされた、つめたいけど美しい景色のなかで、遥樹は少しうつむいてはにかんだ。胸にひろがった恋しさと、身体全体を満たした心音を覚えている。
ベッドのふちを背もたれにして、三角座りで新しいスマホを扱う。夕飯は、冷やご飯と残り物で作ったリゾットもどきで済ませた。ひとりの時間を持て余し、私は無意味にスマホをタップする。
ややあって、「あ」と声をこぼしたのは、桧山さんの連絡先が入っていることに気付いたから。彼の連絡先は、別れた次の日に消したはずだった。ふたたび消去しようと画面をタップして、ううん、別に消さなくてもいいのかと指を止める。よっぽどの事情がない限り連絡を取ることはないだろうけど、一応今も会社の同僚だ。もう彼の名前を見たって、気が狂いそうになることはない。別れたばかりの頃は、ぼろぼろに泣いて遥樹に縋っていたけど。でも、遥樹を好きになったから。だから、桧山さんの名前を見たってもう平気だから。
画面を戻そうとしたところで親指の横側が通話ボタンに触れた。「あっ、待って」などと慌てている間に、画面は発信中になる。うろたえながら終話ボタンをタップした。桧山さんに履歴残ったよね、と冷や汗をかいていたら、手の中でスマホがふるえだすから肩を跳ねさせた。桧山さんからの折り返しだった。
沈痛な思いで通話ボタンをタップした。「はい、もしもし」と応じると、探るような間が一秒未満あって、「みのり?」と桧山さんの声が言った。名前で呼ばれたことに驚いた。
「はい、すみません。間違って通話押しちゃって、用事とかじゃないんです」
「ああ……。そっか、びっくりした」
桧山さんが安堵したような声を出す。私は「すみませんでした」ともう一度繰り返して、電話を切ろうとした。でも、桧山さんが「あっ、」と私を引き留めた。
「せっかく、電話してるんだしちょっといい?」
引き留められたことを意外に思い、戸惑いながらも、「はい」と応じる。
「なんか、このところ落ち込んでるみたいだけど、大丈夫?」
桧山さんの、業務的じゃない声を数か月ぶりに聞いた。優しく私を気遣う声だ。でも、付き合っていたときみたいな甘さはない。情の名残が息の使い方をやわらげたような、そんな声だ。
「……ご心配をおかけしてます」
あくまで敬語で応じるけど、私の声にも情がにじむ。「いや、勝手に気にしてるだけだけど……」と歯切れ悪く言った桧山さんが、少し間を置いて問う。
「幼馴染のお兄さんのこと?」
私は目を見ひらいた。「なんで」と驚きと戸惑いで声が掠れる。「うん、……いや、あのさ」とひとり納得したようにつぶやいた桧山さんは続けた。「俺が心変わりをした言い訳に聞こえたら申し訳ないけど」という前置きがあった。
「俺と付き合ってるときも、お兄さんのことを忘れられてないみたいだったから」
「……え、」
私はぽかんと口をひらく。私が呆然としているあいだに、「お兄さんと付き合ったの?」と桧山さんが優しく尋ねる。それにはようやく、「ううん、違うよ、付き合ってないよ」とふるふると首を振った。その勢いで、「なんで、私が、涼大を忘れられてないって」と訊いた。うーん、と唸った桧山さんは、考え考えといったふうに説明する。
「根拠とかはなくて、なんとなくなんだけど……みのりは俺にお兄さんを重ねてるような気もしたし、反対に、お兄さんと違う俺であることを求められてるような気もした。前に、話してくれたことあったよね。子供の頃、お兄さんと結婚の約束をしたって。私は本気だったのに、妹だって言われたんだよ、少女漫画みたいでしょって。……笑い話みたいに」
「……うん」
確かに、桧山さんに涼大のことを話したことがある。昔のことだよ、そんな時期もあったんだよ、私は涼大のことなんてもう全然気にしてないって顔で笑いながら。でも、もしかしたら、その笑顔で言外に牽制したのかもしれない。隼斗は涼大と同じことをしないで。ちゃんと、私と結婚してねって。
今になってようやく気付いた。「本当は、きっと、笑い話じゃなかった」つぶやいたら、「うん」と桧山さんが穏やかに相槌を打った。
「だから、私を妹だって言ったんですね」
たとえば記憶。あるいは思い出。もしかしたなら執着――私は桧山さんを見つめるとき、涼大というフィルターを通していた。桧山さんのなかに、私を妹だと言った涼大を求めた。桧山さんに兄であることを求めたのは私だ。それでいて同時に、私を『お嫁さん』にしてほしいと願ったのだ。
涼大みたいに笑って。涼大みたいに頭をなでて。涼大みたいに隣を歩いて。だけど、涼大と同じことをしないで。ちゃんと、私と結婚してね。
桧山さんに別れを告げられた理由を理解した。あ、となにかを言おうとする息が動揺する。ひとつ息を吸って、呼吸を整えてから言葉を発した。
「桧山さん……私。一方的に心変わりされたんだと思ってた。ひどいことをされたって思ってた。幼稚な子だって扱いをされて……ひどいことを言われたって思ってた。でも、違ったんですね。私に原因があったのに、全然分かってなかった」
「いや、みのりが悪いっていうのは違うよ。俺が一方的に心変わりしたっていうのは本当だし。だからまぁ……恋愛って、どっちが悪いとかじゃなくて、そういうものだよきっと」
「そういうもの、ですかね」
「たぶん、……うん、おそらくは」
とても曖昧な言葉だった。だけど、そういうもの、っていう言葉がすとんと腑に落ちた。恋愛は――それを生み出す心は、簡単には説明できない。自分の心なのにちゃんと説明できないから、迷うし、戸惑うし、すれ違う。
桧山さんとの電話を終えてから考えた。自分の心について。涼大への初恋、遥樹への感情。記憶と思い出と執着、そしてこれからを。私の初恋は涼大だ。でも、冬の風のつめたさが染みた指先で手首を掴まれたあの日、私は遥樹のことを好きだと認めた。涼大とキスをした。涼大に事情を打ち明けられて、私の心は大きく揺れた。
――私の心は、今、何を思っている?
電話が鳴った。クローゼットをのぞいて、明日涼大さんと会うための服を決めているときだった。ベッドの上に置いていたスマホを見ると、お母さんからの着信だった。一瞬で気が重くなったけど、無視をすれば後で小言を言われる。私は眉を寄せながら、通話ボタンをタップした。
「あぁ、優奈? 夕飯はもう用意したの?」
その第一声から、特に用事があるわけではないと分かった。お父さんは五時で定時上がりの職場に勤めているので、実家の夕飯は六時半だ。今は八時過ぎ。夕飯を終えて、後片付けも終えて、見たいテレビもないから暇つぶしに電話をかけてきたのだろう。「うん」と私が頷くと、「ちゃんと料理してるの? 涼大さんは美味しいって言ってくれる?」と訊かれた。話の流れから嫌な予感を覚えた。
「……言ってくれるよ」
そう答えると、案の定、「ふうん、部屋はちゃんと片付けてるの?」と話が飛んだ。
「普通」
「どうせ散らかってるんでしょ、あんたのことだから。写真撮って送ってみなさい」
「嫌だ、なんでそんなことしなきゃいけないの」
お母さんとしては、きっと心配しているつもりなのだ。片付けを含めた家事全般が下手な娘が、婚約者に愛想を尽かされないかどうか。「片付いているなら送れるはずでしょ」なんて、当然の声で食い下がってくる。私は顔を思いっきりゆがめて、「……散らかってるから」と認めるしかない。
「やっぱりね」
ほらみたこと、って声だった。お母さんは諭す口調で続ける。
「あんたは家にいるんだから。仕事を頑張ってきた涼大さんが嫌な思いをしないように、ちゃんと片付けといてあげなきゃ」
涼大さん、帰ってこないもん、と思ったけど、それを言えるはずはなかった。涼大さんが帰ってこなくなった理由を根掘り葉掘り訊かれるに決まっている。そして絶対、私の落ち度を責められる。「分かってる、ちゃんと片付ける」と素直に答えるしかなかった。それでお母さんは満足したようで、「そうそう、ちゃんとしなさいよ」と部屋の片付けの話は終わった。
「今、涼大さんは?」
「まだ仕事」
「そう……」
お母さんがなにかを考えるような声を出したので、また嫌な予感がした。
「あんた、美佳ちゃんって、昔遊んでたでしょ?」
結城美佳ちゃんは同じ町内の子で、中学まで一緒だった。もう連絡はとっていないけど、お母さんが言う通り、互いの家を行き来して遊んでいた頃もある。
「遊んでたよ」
美佳ちゃんがどうしたの、とはわざと訊かなかった。いい話ではないと予感したから。でも、「そうよね」と相槌を打ったお母さんは構わず話を続けた。
「結婚するんだってよ。おめでた婚だって」
「へえ」
お母さんがなにを言いたいのか分かった。「あんたみたいに、彼氏さんと同居してたんだって。それで、子供を授かったから結婚するんだって。まぁ、おめでたいことではあるけどねぇ」品を整えた声で、お母さんは話し続ける。「でも、おめでたって言い方はいいけど、……ねぇ? 結城さんも、順番を間違ったみたいでって言ってたから」そこまで聞いたところで、すっと身体の中心が冷える感覚がした。
「あんたたちも、同居してるってことはそういったこともあるんだろうし、きちんとしておきなさいよ。みっともないことにはならないように」
「うん」とか「そうだね」とか、かろうじて相槌を打ってお母さんとの電話を終わらせたけど、そのあいだじゅう、瞳のふるえが止まらなかった。
――いつだっけ。生理、前にきたのいつだっけ。
今月はきていない。先月もきていない。先々月――二月は、きたと思うけど記録しているわけじゃないから確かじゃない。
右手に持ったバッグが太腿にぶつかった。左手に提げたレジ袋がカサカサと耳障りな音を立てる。ぽつぽつと街灯が連なる夜道を早足で進む私の靴は、パタパタと忙しない音を立てる。アパートから歩いて十五分もかからない、スミレ薬局じゃないドラッグストアに行っただけなのに、息が上がっている。からからに乾いた喉に空気を取り込んで、私は記憶を必死に辿る。
確実に二ヶ月はきていない。避妊はしていた、けど。失敗していた? いつ?
「うそ……」
小さく呟いた声を、ぬるい風がさらってゆく。視界がふるえる。私の瞳がふるえているから。
今のこのタイミングでどうして、と思った瞬間に目の前が真っ暗になった。一瞬のまばたき、それに叩き落とされた涙が目のふちににじむ。慌てて両手で顔を擦ったら、カサッと手元で音が鳴る。ぎゅ、とくちびるを噛んで前を見た。
とにかく、帰らなきゃ。こんな道端で泣いたってどうにもならない。帰って、検査をしてみなきゃ。
一歩足を踏み出したとき、前から車がやってきた。ヘッドライトのまばゆさで、視界が数秒真っ白になる。
――待って、今までずっと考え事をしながら歩いてきたけど、小さな子を蹴飛ばしたりしていない?
白に眩んだ視界が薄闇色に戻るにつれて、私の呼吸は激しく上擦ってゆく。
前に生理がきたのがいつだったのか、記憶を辿るのに必死で、私は横道から出てきた小さな子を蹴飛ばしたんじゃない? 泣き叫んだその子に気付かず、私は早足でここまで歩いてきた。その子は血を流して道路へ倒れたかもしれない。そうして運悪く、やってきた車に轢かれてしまったかもしれない。泣き声にも車のクラクションにも私は気付かずに、ここまで。
戻らなきゃ、とつんのめるようにして踵を返した。レジ袋が音を立てて、私の太腿にぶつかる。首の後ろに冷や汗をかきながら、通ってきた道を戻った。小さな子を蹴飛ばしたのに気付かなかったなんて、まず誰も信じてくれない。その子の泣き声に気付かなかっただなんて、きっと誰も信じてくれない。けたたましいクラクションに気付かなかっただなんて、絶対誰も信じてくれない。私は小さな子を蹴飛ばして、そのせいでその子が車に轢かれたのに、救護もせずに逃げた犯罪者だ。気付かなかった――んじゃなくて、もしかしたらショックで記憶を飛ばしたのかも。どうしようどうしようどうしよう、わざとじゃないのに、本当に、わざとじゃなかったのに。
はあはあと呼吸を乱して看板の明かりを見上げた。ドラッグストアまで戻ってきた、血だまりの中にぐったりと倒れている子なんていなかった、パトカーが何台も停まった物々しい事故現場なんてなかった、大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ。
は、と息を吐いて、また踵を返した。どくどくと低く響く心音にレジ袋のカサカサが重なる。どくどくもカサカサもうるさいよ。睨むように前を見つめて足を進める。一歩、二歩、三歩――本当に? 本当に大丈夫だった? 血だまりの中にぐったりと倒れている子なんていなかった? パトカーが何台も停まった物々しい事故現場なんてなかった? 心臓の奥から込み上げてきた不安が、脳に上ってぐるぐると回る。思考に絡みつく。いなかった、なかった、大丈夫だよ。私は不安を振り切って足を進めた。パタパタパタパタ、靴が音を立てる――本当に? ちゃんと確認した? 右も左も確認した? それか、確認したけど事故を起こしたという事実から現実逃避して、記憶を飛ばしちゃったんじゃない? 不安が思考を支配する。私は小刻みな呼吸をふるわせながら立ち止まった。記憶を飛ばしたりなんてしていないよ、ちゃんと戻って確認したよ。事故なんて起きていなかった。
必死に、懸命に、不安に抗おうとした。だけど迷うように足踏みをした靴が、来たばかりの道をパタパタと戻り始めた。もう一度、ドラッグストアへ。だって、ちゃんと確認しなきゃ。私が小さな子を蹴飛ばしていないか確認しなきゃ。事故を起こしていないか確認しなきゃ。今度こそ、ちゃんと。記憶だって飛ばしていないって自信を持てるように。ちゃんと、今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。
――薄明かりの降る街灯の下で、握り締めたスマホの画面に涙が散った。県警ホームページの事件事故速報には、松山市内での事故情報はなかった。ニュースサイトの速報にも。でも、まだニュースになっていないだけかもしれない。ドラッグストアまで何度も戻って確認だってした。事故なんて起きていなかった。でも、私は私の記憶を書き換えてしまっているのかもしれない。
ここで立ちすくんで、事故情報を必死で調べて、いったいどれくらいの時間が経っただろう。前からやってきた自転車が、すれ違いざまに私を一瞥した。不審な人物を警戒するような仕草だった。そっか、さっき私を後ろから追い抜かしていった自転車だ。そうだよね、不審者だよね。何十分も、ここに立ちすくんでスマホを扱っているんだもの。
ついには街灯の明かりの中にしゃがみ込むことになった。何度確認したって怖くて仕方がない。私は、小さな子を蹴飛ばしていない? 大怪我をさせていない? 命を奪ってしまっていない? 怖い。怖い。怖い。怖い。もしも私が小さな子の命を奪ってしまっていたら、どうやって償えばいいというのだろう。蹴飛ばして、すぐに救護していたら助かっていたかもしれないのに。尊い命を、私が奪った。尊い未来を、私が奪った。考え事をしていたせいで気付かなかった、なんて言い訳にすらなりはしない。逮捕される。懲役刑かもしれない。とても払えない額の慰謝料だって請求される。そうしたら、私はどうやって生きていけばいい?
ひっ、と引き攣れた息を呑み込んで、お腹に手をやった。
子供だってできたかもしれないのに。もしも妊娠していたとしたら、この子をどうやって育てていけばいい? 私は今ですら、社会でまともに働けていない。それなのに人の命を奪って、逮捕されて、前科まで持ってしまったとしたら。両親に土下座する? でも、両親だって私や私の子供より長く生きていけるわけじゃない。
――違う。
違う違う違う違う違う違う。頭の中で繰り返した。今考えたことは、全部私が勝手に想像したことだ。私は小さな子を蹴飛ばしてなんかいない。事故なんて起きていない。肩で荒い息をしながら、立ち上がろうとする。立ち上がった。一歩足を進めようとする。つま先を持ち上げた。でも、一歩たりとも動けなかった。恐怖が私の思考を支配する。身体を支配する。髪の毛の先から足の爪の先まで恐怖が絡みついて、私をここに留めようとする。
「――違う! 違う違う違う違う違うッ!」
恐怖に言い聞かせようとして叫んだ。そのときだった。
ぴろん、と昼間の春風のように軽やかな音がした。はっとして音の方を見ると、スマホにポップアップが表示されていた。
「……木内くん」
ポップアップをタップして、指紋を認証してひらいたメッセージアプリ。
〈こんばんは。十時から、ミュージカル特集でレ・ミゼラブルも取り上げられるみたいですよ〉
音楽番組のURLも添付されていた。私への厚意か、好意がふくまれた画面だ。木内くんが私にくれる感情が、真っ暗闇の中に差し込む光に見えた。ぽろ、と頬を涙がすべった。
メッセージアプリの、音声通話のマークをタップする指先はふるえていた。コール音が流れているあいだ、スマホを握る手はずっとふるえていた。コール二回でつながった。
「はい、木内です!」
緊張した声だった。「木内くん」と応じた瞬間に、私の目からはぼろぼろと涙がこぼれてきた。「え、先輩っ?」と木内くんの声が焦りをふくんだものに変わる。「ごめんね、急に電話してごめんね」と私は嗚咽の合間に言葉を挟みこむ。
「大丈夫です。どうしたんですか? なんで泣いて……」
「帰れなくなっちゃたの。説明が、できないけど、家に帰れなくなっちゃったの」
そんなふうに言うことしかできない。小さな子を蹴飛ばして怪我をさせてしまったんじゃないかって怖くて歩けなくなった、なんて頭のおかしな説明は涼大さんにしか通じない。「ごめん、意味が、全ッ然分からないと思うけど」嗚咽にまみれた声で木内くんに謝罪する。
「家に……、道に迷ったってことですか?」
私が答えられないでいると、「分かりました」と木内くんが落ち着いた声を出す。
「今、どこですか? 周りに、なにが見えますか?」
スマホを握り締めたまま、涙でにじんだ視界で夜空を見上げる。月を見つめる。視線を下げれば、チェーン店のお弁当屋さんの看板が見えた。
「お弁当屋さんがある。あったか弁当」
「あったか弁当ですね。入口に何店って書いてありますか?」
「ごめんなさい、分からない、見えない。眼鏡を、かけてなくて」
「分かりました、大丈夫です。他には、なにか見えませんか?」
「信号の向かい側に、ホームセンターとコンビニ」
ややあって、「場所が分かりました。今からすぐに行きます。そこから動かないで、待っててください」と木内くんが言った。その向こう側で、がたがたと物音がした。
「電話はスピーカーでつなげておきます。五分くらいで着きますから」
「うん。……ごめんなさい、迷惑かけてごめんなさい」
しゃくりあげながら繰り返せば、「大丈夫です。謝らないで」と木内くんが言う。穏やかな、優しい声だった。思考を支配する恐怖が、かすかにやわらいでゆく。「……うん、ありがとう」濡れた声を押し出せば、「大丈夫です。待っててください」と、また優しい声が言った。
時間の流れを知る感覚は私の中にもう残っていなかったけど、たぶん、木内くんは五分くらいで来てくれたのだと思う。白の車を路肩に停めて、「先輩っ」と慌てた表情で、木内くんは私のもとへ駆け寄った。
「大丈夫……じゃないですね」
アスファルトに膝を突いて、私と目線を合わせて、木内くんは目を眇めた。彼はぐちゃぐちゃに濡れた私の頬へ、遠慮がちに手を伸ばして、涙をそっと拭いとる。彼と私の眼差しがかち合う。数秒見つめ合うみたいになったのち、木内くんは私の頬から手を離した。
「店長、もう仕事終わったと思うので、連絡してみます」
木内くんがジャケットのポケットからスマホを取り出そうとする。私は咄嗟にその手を押しとどめた。
「先輩……?」
「涼大さんは駄目」
カサッ、と手元でレジ袋が鳴る。ふるふると首を振って、木内くんにうったえた。
「涼大さんには言わないで。涼大さん、もうずっとアパートに帰ってきてないの。私たちのこれからは、分からないの。涼大さんが、みのりちゃんと付き合うって言うのならそうさせてあげなきゃ。私なんかより、絶対、みのりちゃんとのほうが幸せになれるから。だから、だからお願い……っ」
「先輩。先輩。……先輩っ、落ち着いて」
木内くんに両肩を掴まれて、私ははっと息を呑む。木内くんはぎゅっとくちびるをむすんで、怒ったような表情をしていた。ごめんなさい、と引き攣れた息をこぼすけど、そうしたら今度は、私を見下ろす瞳が悲しげに揺れる。
「違います、大きい声出してすみません。怒ってないです。だから、謝らないで」
言い諭すような声音で、木内くんは続けた。
「……車に乗りましょう。とりあえずは、店長に連絡しませんから」
木内くんの車に乗ってから、理由を説明できないけどドラッグストアまで連れて行ってほしい、とお願いした。木内くんはその通りにしてくれた。買い物もせず、ドラッグストアの駐車場でUターンをしてもらって、来た道を引き返した。そうして、運転をしている木内くんに訊いた。
「ここまで、事故なんて、起きていなかったよね?」
「事故、ですか?」
虚を突かれたように訊き返した木内くんは、だけど私の顔を見てすぐに頷いた。
「起きてませんでしたよ」
答えを聞いて、ようやく私の思考を支配していた恐怖が解ける。安堵が身体にひろがってゆく。「変なこと、聞いてごめんね」と謝って、私は手の甲で涙を拭った。腕に引っかけたままのレジ袋が、カサカサと音を立てた。
「……中身、すみません。見えてしまったんですけど。本当に、店長に連絡しなくていいんですか」
尋ねる口調じゃなくて、諭すような口調だった。私はぎゅっとくちびるを噛んでから、「いいの」と答える。
「結果がもし陽性で、それを涼大さんが知ったら、みのりちゃんへの気持ちを押し殺してでも私のところに戻ってくれる。そんなのは駄目」
「その、……みのりちゃんっていうのは」
「涼大さんの幼馴染。涼大さんが、本当に好きだったひと。強迫性障害なんて持ってなくて、ちゃんと働いていて、私なんかよりもずっと涼大さんに相応しいひと」
自分で話しながら涙がこぼれた。木内くんは言葉を返さなかった。対向車のヘッドライトが二度、三度、夜を切り裂いた。エンジン音が私たちの沈黙に追い打ちをかける。それきりどちらとも一言も発さないまま、私のアパートの駐車場に着いた。
「迷惑かけて、変なことも言ってごめんね。……ありがとう」
木内くんに頭を下げて、車を降りようとした。でも、腕を掴まれて、引き留められた。
「店長、帰ってこないんですよね」
私は目を伏せて、力なく頷いた。木内くんはなにかを決意したように、ぎゅっと強くくちびるを噛んだ。
「三十分、待ってます」
彼が、私と目線を合わせてそう言った。意味を測りかねて、私は瞳を惑わせる。
「なにかあったら……俺で助けになれることがあるなら、俺を頼ってください。ここで、三十分待ってます」
「そ……っ、そんなことしなくていいよ」
面喰った私は、ぶんぶんと首を振る。だけど木内くんは、決意した眼差しで私をひたむきに見つめる。駄目だよ、と思った。そんな目をしちゃ駄目だよ、と思った。だってあなたがくれる優しさが後輩から先輩への厚意じゃなくて、あなたから私への好意だって嫌でも気付く。そうしたら、私はあなたの好意を利用するかもしれない。
私はからからに乾いた喉から、声を絞り出した。
「これ以上、迷惑かけられない。だから、そんなことしなくていいよ」
後退った衣擦れの音を、レジ袋が立てる乾いた音がかき消す。木内くんはひとつまばたきをすると、そのまま睫毛を伏せた。
「分かりました」
彼は私の腕を手離した。でも、その手で車のエンジンを切る。私がなにかを言う前に、「俺が、勝手にやることです」と彼は微笑んだ。穏やかだけど、有無を言わせない微笑だった。
「三十分で、帰りますから」
「……分かった。今日は、本当にごめんね。ありがとう」
頭を下げて車を降りた。数歩歩いて振り返れば、眼差しの先には木内くんの車がある。視線を前に戻して、腕に残った木内くんの温度が風にさらされるのを感じながら、頼っちゃ駄目だよ、と自分に言い聞かせた。部屋の前に着いた。カチャリと音がしてドアが解錠する。レジ袋が鳴らす音を伴いながら、部屋に入った。
慌ててアパートを出たから電気もつけっぱなしで、部屋はお母さんから電話がかかってきたときの状態のままだ。玄関のドアを閉めると、途端に心細さが襲ってきた。私は手首に提げているレジ袋を一瞥して、つま先を框にのせた。勢いをつけるように大きく呼吸をして、まっすぐトイレへ向かう。カサカサとレジ袋が音を立てる。
トイレのドアの前にバッグを置き、レジ袋から検査薬の箱を取り出した。平たいピンクのパッケージを裏返して、使用方法を確認する。それからパッケージを開け、ふたつ入っている検査スティックのうち、ひとつを取り出した。アルミの包装も破り、ぎゅっとくちびるを引いて、トイレに入った。
説明の通りに使用した検査スティックの窓には、確認部分に赤紫色のラインが一本。判定部分にはラインが出なかった。もう一本のスティックで検査してみても同じだった。陰性だ。妊娠は、していない。
私は肩で息をしながら、緩慢な動きで使用済みの検査スティック二本をレジ袋にまとめた。それを生理用のゴミ箱に捨てて、手を洗ってリビングに戻るまで、ずっと息は上がったままだった。
あとは、私の病気だけだ。キッチンに移動して、コップに水道から水をくんで、飲み干した。病気に同情して一緒にいてくれなくていいよ、って。ちゃんと明日言わなきゃ。みのりちゃんのところに行っていいよって。言わなきゃ。
――言ったら、きっと怒られるね。
俺が同情で優奈と付き合ってるって思ってたの? そう言って、涼大さんはきっと怒る。だってそうでしょって食い下がったら、涼大さんは大きなため息を吐いて、静かに怒りを満たした声で、優奈がそう思うんだったら俺はもうなにも言えない、って言うのかな。
涼大さんは、優しい言葉で私を甘やかしたりしない。だって本当は、私は分かっているんだもの。涼大さんは私を大事にしてくれていた。それはたとえば、弱いものを庇護しようとする慈愛や無償の愛じゃなくて、時には私に欲望の眼差しを向けるような恋だった。ふたりで交わし合って、互いを互いに求め合う恋だった。恋の延長が愛に踏み込んだ、互いを労わる心だった。
飲み干したばかりの水を吐き出すかのように、涙がぼろぼろこぼれてくる。先輩後輩として出会ったバイト先でも、涼大さんだけは私を怒ってくれた。ミスをしてもみんなが私を「いいよいいよ」って甘やかしてくれるなか、涼大さんだけは違った。ちゃんと怒ってくれて、「迷惑をかけてすみませんでした」って私が頭を下げたら、「ほんとだよ。次やったらこうだからな」って、おどけたふうに頭を小突く仕草も。
あの頃から、ずっと好きだ。優しい言葉で私を甘やかしてはくれない。厳しい声で私を怒ってくれる。だけど、誰よりも優しい。
そんな涼大さんに私は相応しくないと、今夜、嫌というほど思い知ったのに。
――まだ、全然好きだ。
涙で濡れた眼差しで、散らかったローテーブルを見下ろした。久しぶりに買ったファッション誌が、座椅子の前に置いてある。ファッション誌を見ながら、明日着ていく服のコーディネートを考えた。明日つけていくピアスを選んだ。寝室には、選びかけのカットソーやボトムスやワンピースが、いくつもベッドの上に置いたまま。
私はまだ、涼大さんのことが全然好きだ。私じゃ駄目なのに。強迫性障害を持っていて、まともに社会人をできないうえに、家のことだって満足にできない。私と一緒にいたって、涼大さんは幸せになれない。だから、涼大さんと別れなきゃいけないのに。どうして、まだこんなに好きなの。
両手で顔を覆ってカーペットの上にへたり込んだら、左手薬指とペアリングの隙間に涙がしみた。このリングだって、未練がましく外せていない。
外さなきゃ、とリングを指先で掴んだ。だけど指先が激しくふるえて、うまくリングを外せない。上擦った呼吸音が耳障りだ。呼吸を落ち着けようと思うのに、息遣いがどんどん激しくなってゆく。
――駄目だ、苦しい。
膝を突いて、なんとか立ち上がろうとする。だけど身体全体が激しくふるえていて、すぐにまたカーペットに頽れた。廊下まで這って動いて、トイレのドアの横に置きっぱなしのバッグに手を伸ばす。音を立てて倒れたバッグからスマホを引っ張り出し、通話履歴から木内くんに電話をかける。
「先輩っ?」
木内くんの焦った声が耳に届く。私は歯をがたがたふるわせながら、「ごめっ……ごめん、か、過呼吸、に、なったみたい、なの」息の合間に言葉を辛うじて押し出した。
「分かりました。部屋番号は?」
あくまで冷静に尋ねる木内くんに、二度訊き返されながら部屋番号を伝える。
「一〇二ですね。分かりました、行きます」
苦しさでかすむ意識のなか、その言葉を聞いた数十秒後には、玄関のドアがノックされた。廊下を肘と膝で進んで、なんとか玄関まで辿り着いた。力を振り絞って片膝で立ち、壁とドアに身体をぶつけるようにして立ち上がった。「先輩っ」とドアの向こうから声が聞こえる。解錠して、つんのめるようにしてドアを開けて転がるように外に出ると、木内くんの腕に受け止められた。彼の体温を感じた身体は、だけど極寒に投げ出されたかのようにふるえている。
「ごめ……、ごめんね、木内く……」
「謝らないで」
優しい声で言った彼が、「ゆっくり息を吐いて」と指示を出す。息を吐いた。その間にも、小刻みにふるえる呼吸は空気を取り込む。
「もう一度吐いて、ゆっくり」
私を安心させる声で、木内くんは囁く。木内くんの袖を涙で濡らしながら、私は呼吸を整えていった。
まともに話せるところまで正常な呼吸が戻ったところで、私は自分の足で自分の体重を支えた。木内くんも心得たように、私を抱きしめるみたいになっていた腕を解く。
「結局、頼っちゃった。……ごめんね」
ゆっくりと首を横に振った木内くんは、少しためらう様子を見せてから問うた。
「過呼吸は、検査の結果で……?」
私は首を横に振る。「陰性だったよ。ただの生理不順で大騒ぎしちゃった」自嘲するように薄く笑って、続ける。
「あとは病気のことをどうにかすれば、涼大さんはみのりちゃんのところに行ける。そう、思ったんだけど、駄目だったの。私はまだ、涼大さんが好きなの。リングも、やっぱり外せなかった」
木内くんが、私の指先を見つめる。「店長との、ペアリングなんですよね」と彼はつぶやいた。私は無言で頷いた。そうしたら、彼は傷付いた目をして私を見下ろした。――やっぱり、あなたは今も私のことが好きだ。
なら、今から私が言うことはとても残酷なことだ。だけど、木内くんの他に、私が縋れるひとはいない。この松山という土地に、私の知り合いは涼大さんと木内くんしかいない。これも、私の社会性が欠如している結果なのだと思った。私が、涼大さんに寄生していた結果。
「ごめんね木内くん」
まばたきをしたら、涙が頬を伝った。それを手の甲で擦ってうやむやにして、私は彼を見上げる。
「私と、浮気をしてほしい」
「え……っ?」
見上げた先の瞳が、激しく揺れる。
どうせならいっそ、涼大さんが家賃を払ってくれている部屋に木内くんを引き入れればよかったのかもしれない。だけど私は、「分かりました」と静かに頷いた木内くんが私の手を引くのに任せて、彼の車に乗った。彼の車でネオンに彩られたホテルに入った。どこまでも、私は寄生生物だ。
ホテルの室内に入っても木内くんはジャケットを脱がず、私と距離を取ったままだった。しばらく黙って向き合ったあと、私が一歩近付くと、木内くんは私の手を取った。迷子の手を引くように優しく握ると、ベッドに隣り合って座るよう導いた。
「浮気の前に、話を聞きます。店長が帰ってこないって、なにがあったんですか」
彼が私の申し出にやけに簡単に頷いたのは、こういうことだったんだな、と思う。最初から私と浮気をするつもりなんてない。私は「言いたくない」と駄々を捏ねる声を出して、彼の肩に手を添えて体重をかけた。だけど彼をベッドに沈めることはできなかった。私の指先に自分の指先を絡めて、あくまで優しく、木内くんは私の手を自分から引きはがす。
「店長が、みのりさんと浮気をした?」
みのりにキスした、と絞り出すように言った涼大さんの声を思い出して、びく、と肩が跳ねた。木内くんの表情が、途端に私を慮るものに変わる。私はふるふると首を振った。「違うよ」とうったえた。
「……浮気じゃない。きっと、思いがあふれただけなの。本当に好きだったみのりちゃんと再会して、ふたりっきりになったら、映画でも小説でも当然キスするよ。ふたりの障害は私。私が脇役なの」
私たちはそもそもが、傷心の涼大さんに私が取り入って始まった恋なのだ。無理矢理奪った心を返すときがやってきただけ。
「私なんかより、みのりちゃんと結婚したほうが涼大さんは幸せになれる。だから、私が身を引けば、全部ハッピーエンドなの」
「分かりました。先輩は、身を引きたいんですね。だから、俺と浮気を、って。俺と浮気をして、それを理由に店長に振られるつもりですね」
優しく穏やかな声で言い当てられて、私は身を竦めた。「ごめんなさい。利用して、本当にごめんなさい」深く頭を下げたら、「大丈夫です」とまた、優しく穏やかな声が言う。だけど、次の瞬間、
「――そういうことなら、浮気をしましょう」
声から、優しさと穏やかさが消えた。手首を掴まれて、強く引かれた。呆気なくベッドに倒れた私を見下ろす木内くんの表情が、影色に染まる。私の太腿を挟み込むようにして、ベッドに膝立ちになった木内くんは、ジャケットを脱いで足元へ放った。見ひらいた私の瞳に、彼の影が落ちる。やがて影は私の全てを覆うようにひろがって、彼の鼻先が私の鼻先に触れた。顎に指をかけられて、ぐいと引き上げられた。彼の親指がくちびるの下をなぞる。ほのかに、シトラスの匂いがした。普段会話する距離で匂ったことはないから、香水ではないと思う。「先輩」と彼が低い声で囁く。「目を瞑って」って。
――涼大先輩、目を瞑って。
お酒の味がするキスをしたあと、ごめん、と後悔したように瞳をふるわせた涼大さんに私は言った。きっと踏みとどまるほうが優しさだったのに、恋はどうしようもなく自分勝手で、傷付いている涼大さんの心に手を伸ばした。
――私を、代わりにしてもいいです。涼大先輩が苦しくなくなるなら。
崩れゆく理知、濡れた熱の絡み、潤む薄闇。密約のような快楽に酔わせて痛みをうやむやにした。
間違いだったね。あの夜から今日まで全部、私たちは間違いだったね。
涙が込み上げる感覚をごまかすように目を瞑った。だけどいつまで待ってもそうならなくて、私はおそるおそる薄目を開ける。木内くんが私を見下ろしていた。切なげで苦しげな――だけど優しさと穏やかさを満たした瞳で。
「ふるえています」
あたたかな手のひらが、私の頬を包むように撫でる。「俺とこうなるのが、本当は嫌だから」木内くんが諭す声で言う。
「嫌じゃ、ないよ」
声に涙がにじんでいた。くちびるを噛むと、木内くんはもっと優しい目をして、「じゃあ、店長のことが好きだから」と私の目元を指でなぞった。
「……好きでも、別れなきゃいけないの」
だって、と続ける声が涙で詰まる。私は水に溺れたときのような呼吸をして、無理矢理言葉を声にした。
「今日で思い知った。働くどころか、家のことをちゃんとするどころか、歩くことすらまともにできないの。木内くんにだって、迷惑をかけた」
「迷惑だなんて思っていません」
その言葉は本心だ。ちゃんと伝わってくるけど、違うよ、そうじゃないの。木内くんは今日初めて、私の症状を目の当たりにしただけだから。
「一回や二回や三回や……十回でも、そのくらいなら迷惑じゃないかもしれない。でもね、ずっとなの。誰かに怪我をさせたんじゃないかって分からなくなって泣く、万引きをするつもりじゃなかったのに万引きをしてしまったんじゃないかって怖くて泣く、家具を移動させたときの摩擦熱でアパートが燃えちゃうんじゃないかって喚いて泣く、道端で鳥が死んでるのに私が気付かなかったせいで市内に伝染病が蔓延するんじゃないかって怯えながら泣く――何度も何度も、一緒に暮らしてきた涼大さんはそんなのばっかりだよ。頭がおかしいことを言ってるのは自分でも分かってる。でも、恐怖が消えないの。こんな私とじゃ、涼大さんは幸せになれない」
涙の潤みの向こう側で、木内くんが目を眇める。
「強迫性障害って、心の病気なんですよね」
私はこぼれた涙を追うように目を伏せた。
「それは、先輩が悪いんじゃない。先輩に、悪いところなんてひとつもないです」
「……涼大さんと、同じことを言うんだね」
頬をすべった涙が耳を伝って、落ちてゆく。「でもね、涼大さんは怒るんだよ」涼大さんが私に向ける剣呑な声を思い出して、ふっ、と息をこぼした。
「病気だったらなにか悪いの? 優奈は悪いことしてる? って。泣いてる私のことも甘やかさないで怒るの。涼大さんは……、っ……」
声がふるえる。くちびるがふるえる。肩がふるえる。指先がふるえる。息が苦しくなって、嗚咽と交じり合った呼吸で必死に空気を求めたら、「先輩、息をゆっくり」と木内くんが私の手を両手で包むようにして握った。かたかたとふるえる指先を温もりが宥めようとする。木内くんはぎゅっと眉根を寄せて、「すみません」と私の腕を引いた。ベッドから引き起こされた私は、木内くんに抱きしめられた。身体を支えるためとかそんなのではなくて、きつく強く抱きしめられた。私の首元に顔をうずめて、木内くんがうったえる。
「別れなきゃいけない、なんて決めちゃ駄目です。だって、先輩は店長のことが好きなんだから」
「でも、……でもっ、私なんかより」
「好きです」
強い意思のこもった声に、私は動きを止める。
「正直、病気のことはなにも分かってないけど……でも、俺は俺の見てきた先輩が好きです。優しいところ。芯が強いところ。絶対にひとの悪口を言わないところ。言いたいことがあるなら、陰口じゃなくて本人に言うところ。笑い方がちょっと子供っぽいところ。先輩は店長の彼女さんなんだから、先輩は店長のことが好きなんだから、初恋ってやっぱり実らないものなんだって分かっていても、それでもやっぱり、俺は先輩が好きです」
はつこい、と木内くんの言葉をなぞって私が目を見ひらくと、彼がゆるく身じろいだ。柔らかな髪先が耳元をくすぐる。
「ちょっとした事情で、女のひとに苦手意識みたいなものを持ってたんです。でも、先輩に出会って先輩のことを好きになった。映画や小説みたいな台詞回しをするなら、先輩に出会って俺の世界は変わった。だから、」
ぎゅう、と彼が私を抱きしめる力を強めた。そうして、切羽詰まった切実な声が願う。
「『私なんか』なんて言わないで」
私が息を呑むと、私を抱きしめていた腕がそっと解かれた。涙でぐちゃぐちゃに濡れた頬があたたかな手のひらに包まれて、優しくて穏やかな瞳が、私の瞳を見下ろす。
「先輩は素敵なひとだから」
――そんなの、私にはあまりにももったいない言葉だ。そんなふうに思ってから、はっとした。優しくて、ひとの悪口を絶対に言わない。木内くんが見てきた私はそうなのだという。なのに私は、私に全然優しくない。私の悪口をたくさん言う。
優しく穏やかな眼差し。私を好きだと言ってくれた彼の眼差し。それを受けとめる私は、ぎゅ、とくちびるを引っ張った。きっと笑えていないけど、笑うみたいに口角を持ち上げて、「ありがとう」と言った。「私のことを、好きって言ってくれてありがとう」言葉と一緒に涙が落ちた。
木内くんの眼差しが、一瞬だけ切なさを帯びた。だけどすぐに微笑んで、私の頬からそっと手を離す。
「帰りましょう」
「うん」
胸にほのかなあたたかさを感じながら頷いた。木内くんはベッドから半分ずり落ちていたジャケットを拾い上げた。
車でアパートまで送ってもらった。車を降りるとき、「今日はありがとう」と言って頭を下げた。ごめんね、とは言わなかった。木内くんがくれた優しさに、ごめんね、は相応しくないと思ったから。
「はい」と木内くんは穏やかに頷いた。そうして、「先輩」と優しく穏やかな声で私を呼んだ。
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
木内くんの車が見えなくなるまで見送って、不意に空を見上げたら、星が綺麗に輝いていた。一時間と少し前、私は半径数メートルを必死に凝視して、真っ暗ななかに立ち尽くして泣いていた。でも見上げた空には、幾数もの星が瞬いていた。上を向かなきゃ駄目だね、といつかも思ったことを思い返していた。
辿ってきた足元だけを凝視していたら駄目だ。これまでが絶望だったとしても、これからもそうだとは限らないんだから。絶望かもしれないし、天にも昇る心地の幸せかもしれない。これからがどんな世界なのか、私はまだ知らないんだから。
九時半の退勤後にファストフードやラーメンで夕飯を済ませて、三日に一回、口座の残高を確認するのが習慣みたいになっている。今日も、前に確認したときから残高は変わっていなかった。優奈はこの口座からは一円も引き出さず、自分の預金を崩して日々を過ごしているようだ。
利用明細を雑に折りたたんで財布にしまいながら、そうだよな、と思う。結局は、通帳の在処と暗証番号を教えたことなんて俺の傲慢だったのだ。
コンビニを出て、大州まで車を走らせる。松山の夜景が、車窓を力なく流れてゆく。明日は優奈と会う約束をしているのに、俺はちゃんと話せるのだろうか。自分の心すら、よく理解できていないというのに。カーオーディオからは、ウエストサイド物語の楽曲が流れている。みのりにキスしたときに流れていた曲。優奈が好きだと言っていた曲。
ほとんど惰性で運転して、実家に着いたのはいつも通り十一時前だ。「ただいま」と疲れ切った足取りでリビングに入って、俺は目を見ひらいた。
「――遥樹?」
遥樹がダイニングテーブルでスマホを扱っている。ソファから父さんと母さんのおかえりが飛んでくるのを聞きながら遥樹を見下ろせば、「お帰り」と遥樹が上目遣いで俺を一瞥した。
「遥樹、帰ってたのか」
答えたのは、遥樹じゃなくて母さんだった。
「ただの胃潰瘍だったのに大事になっちゃって」
居心地悪そうな声で言った母さんはパジャマ姿だ。
「え、なにが。胃潰瘍って、母さん?」
「ただのじゃないよ。倒れたんだから」
父さんが、立ち上がる母さんに腕を回して身体を支える。「え、大丈夫なの」俺が愕然とすると、「大丈夫よ。入院もいらないくらいだったんだから」と母さんは笑った。横で、父さんがため息を吐く。「まったく、僕に連絡も寄越さないで」と父さんが顔を顰めたから、仕事だった父さんと俺に遠慮して、母さんは連絡をしてこなかったのだろう。「遥樹にも、連絡をしてくれたのは遥樹の友達なんでしょう」父さんがもっと顔を顰めた。
「そう。お母さんがスーパーで血を吐いて倒れてるって、こっちの友達が連絡くれたから、慌てて帰ってきた」
俺はぎょっとするけど、母さんは「血を吐いたって、口の横から少し垂れただけなのに。本当に、大したことじゃなかったの」なんて眉を下げた。
「それよりも涼大。話があるの」
俺に一歩近付いた母さんが、思いつめた顔をする。隣の父さんが、母さんを見守るように表情を優しくした。「僕が話そうか」と労わる声で父さんは母さんに言ったけど、母さんは首を横に振った。「私がちゃんと話さなきゃ」母さんは気丈に笑って、俺をまっすぐに見つめた。父さんは母さんをソファに座らせて、二階の自室に上がっていった。遥樹も黙って二階へ上がっていった。俺はソファに腰掛けて、真摯な眼差しをした母さんと対峙した。
「話って、なに」
しばらくどちらとも黙ったままだったから、俺から切り出した。母さんはゆっくりとまばたきをして、くちびるをひらいた。
「お父さんと遥樹にも全部話したの」
「話したって、……蓮おじさんとのこと?」
動揺して、思わず声のボリュームが上がった。それとはまるで反対に、母さんは静かに頷いた。そうして、項垂れたまま、「ごめんなさい」と俺に深く頭を下げる。
「今、涼大が優奈ちゃんと暮らせなくなっているのは、七年前のことが原因でしょう? 私が涼大に、みのりちゃんは駄目だって言ったから。あの頃のわだかまりを抱えたままだったから、今、涼大も遥樹も優奈ちゃんもみのりちゃんも、みんなが苦しいことになっている」
母さんの膝の上で、握られた手ががたがたとふるえている。俺がなにを言おうかと考えているあいだに、頭を下げたまま母さんは続けた。
「ごめんなさい。お母さんなんだから、あなたたちを一番に考えなきゃいけなかったのに、俊也さんと離婚することになるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、あのときに、家族にすべてを話さなかった。涼大だけに背負わせた。私の間違いの後始末を涼大に押し付けた。本当にごめんなさい。母親失格です」
声はふるえていたけど、母さんは泣いてはいなかった。俺は先程父さんが見せた、母さんを思いやる表情を思い出す。――そうか、父さんと母さんは。理解したから、俺は穏やかに息を吐いて、目を閉じた。
「今も、七年前も、母さんは父さんのことが好きなんだね」
母さんがはっとした表情で俺を見る。「私は……、」母さんは言葉を詰まらせて、眉間に深いしわを寄せた。
「そんな顔しないで」
俺は母さんの代わりに目元を和らげて、微笑みかける。
「失格なんかじゃない。合格とか失格とか、そんなのない。俺たちを産んだからって、父さんを好きでいたら駄目だなんて、そんなことはあるわけない。父さんに嫌われたくないなんて、当たり前だ。だって、父さんのことが好きなんでしょ」
「涼大……」
母さんが驚いたように目を見ひらく。眼差しをふるわせて、奥歯をかみしめた表情をして、そうして観念したように涙をこぼした。「お父さんもね、」言葉に嗚咽を絡ませて、母さんは続けた。
「きみが母親になったからって、きみをすべて失くす必要はないよって。きみの心が、母親だからという理由ですべて蔑ろにされる謂れはないって。――そんなふうに許さなくていいって、思ったけど、涼大も」
言葉を詰まらせ、顔を手で覆う母さんに告げる。「同じことを言うよ。だって俺は、父さんの息子だから」と。
「蓮おじさんとのこともさ、分かったから。父さんを裏切って、って昔は思ってたよ。母さんとどう顔を合わせたらいいのか分からなくなって、だから実家にも帰らなくなった。でも、俺も同じことをした。それが許されるかどうかっていうのは別の話だけど、俺も、優奈を裏切った。感情があふれるっていうのがどういうことなのか、分かったよ」
雨の音が響く車の中で、頭の冷静な部分はちゃんと警鐘を鳴らしていたのに、過去の記憶が心を揺さぶった。遥樹への嫉妬にも突き上げられて、大きくあふれた感情はコントロールを失った。
「俺はもう、母さんになにも言えない。だから、父さんが母さんを許しているのなら、それでいいんじゃないかって思うよ。……遥樹は、違うかもしれないけど」
ラメがきらめくアイシャドウ、頬やくちびるの幸せそうな色合い、やわらかな白のブラウス、ニットのカーディガン――みのりはあの日、遥樹のための格好をしていた。あの日のみのりは間違いなく、遥樹の恋人だった。
遥樹が俺を――俺のことと一緒に母さんのことも責めるなら、それはきっと、俺たちが甘んじて受けるべきことだ。
「そうね」と瞳をうつむけた母さんが、胸の下あたりをそっと手で押さえた。
「胃、痛むんでしょ。もう寝なよ。父さんも、心配してるよ」
「ありがとう」と母さんが力なく笑う。ソファから立ち上がった母さんは、「涼大」と俺に身体を向けた。
「お母さんは、あなたたちのお母さんだから。涼大や遥樹が決めたことの、今度はちゃんと味方になるから」
強い眼差しだった。母さんは、過去をきちんと清算して俺たちに向き合っている。なら、俺は。
俺もちゃんと向き合わなければいけない。二階の自室に上がりながらそう思った。優奈と。みのりと。――そしてまずは、遥樹と。
遥樹の部屋のドアをノックしても返事がなかった。「入るぞ?」ドアを開けたら、電気をつけたまま、遥樹が着替えもせずにベッドにうつ伏せになって眠っていた。枕に押し付けられた頬は輪郭がゆるやかで、眉にかかった髪は細くやわらかい。幼げにも見える寝顔は、たぶん俺のものとは全然違う。
遥樹は身体の下に掛布団を敷いて眠っている。このままでは風邪を引くと思ったから、なるべく静かに掛布団を抜き取って、遥樹の身体に被せた。それで部屋を出るつもりだったのに、小さくうめいて身じろいだ遥樹が、「みぃちゃん」と呼んだ。息を呑んで遥樹を見下ろせば、細くやわらかな髪の下で眉がぎゅっと寄って、はっと気付いたようにまぶたがひらいた。ぼんやりとしていた眼差しが、やがてはっきりと俺を捉える。「兄ちゃん」と掠れた声がつぶやいた。
「……俺、なんか言った?」
「いや、なにも」
嘘をついた。身体を起こした遥樹は慎重に警戒する目で俺を見上げる。しばらく沈黙が続いたあと、やわらかな髪をかきあげて、遥樹は俺から目を逸らした。
「どうかしたの。なんか用?」
素っ気ない声が問う。遥樹とは昔から割とドライな兄弟関係だったけど、今までにないほど温度のない声だった。遥樹の心の内の、みのりへの感情が占める割合がどれだけ大きかったのか、今さら思い知る。
「遥樹、話をしたい」
返事はなかった。拒否されたわけではないと都合よく解釈して、俺はカーペットに座ろうとした。するとこちらを一瞥した遥樹が「椅子、使っていいよ」と目線で勉強机を示す。
「ん、サンキュ」
椅子を引いて腰掛けて、遥樹のほうへ身体を向けた。でも、遥樹は俺を見ようとはしなかった。ベッドの上で三角座りになって、どこを見るでもなく眼差しを俯けている。
「ごめんな、遥樹」
俺は表情をゆがめる。息が詰まるような沈黙が数秒――十数秒続いた。三角座りの遥樹が身じろぐ音がして、ややあって、「兄ちゃんが、謝ることなんてなにもない」苦しげに吐き出すように、遥樹が言葉を落とした。眼差しを俯けて放たれた、すべてを諦めた声だった。なんでだよ、と俺は奥歯を噛む。
「あるだろ。みのりにキスした。みのりは、遥樹の恋人なのに」
苛立った声で言い立てれば、「みぃちゃんが、元々好きだったのは兄ちゃんだよ」と、平坦な声が返ってきた。
「じゃなくて今は……」
俺は立ち上がって、遥樹の目の前に回った。「今、みのりが好きなのは遥樹だろ。なのに俺がキスした。遥樹はそれを見てた」ほとんど煽るような口調で言い募ったけど、遥樹の返事はない。視線を俯けたまま、こちらをまったく見ようとしない。
「なんでだよ、怒れよ。殴ったっていい」
男にしては華奢な肩を掴んで、「遥樹は、正当に怒る資格があるだろ」と詰め寄ったら、ぱしっと手が払われた。
「自信たっぷりにそんなことできるわけないだろ」
普段の遥樹のものとはまったく違う、荒っぽい口調だった。堪えかねたような表情で、遥樹が俺を睨みつける。
「そんなの、兄ちゃんだから言える。兄ちゃんはみぃちゃんの初恋のひとだ。みぃちゃんは、ずっとずっと何年も――十何年も、兄ちゃんのことが好きだった。でも俺はたった三ヶ月だよ。みぃちゃんが、俺に心を向けたのは三ヶ月だよ。それだけ、重さが違うのに……まだ、みぃちゃんが俺のことを好きだなんて、全然思えない」
俺が呆気に取られているあいだに、遥樹はぎゅっとくちびるを噛みしめた。そうして、無理矢理絞り出したような掠れた声で続ける。
「兄ちゃんには分かるはずないよ。ずっとずっと、みぃちゃんに思われ続けてきたんだから。兄ちゃんを見つめるみぃちゃんを、俺がどんな思いで見ていたか、兄ちゃんには絶対分かるわけない。兄ちゃんがみぃちゃんを好きなら、俺が引くしかないよ。俺が兄ちゃんに勝てるはずがない。だって、」
息を継いだ遥樹は口元をゆがめた。
「だって二十年、ずっと負け続けてきたんだから」
ふっ、と自嘲する息の音をこぼして、遥樹は泣きそうな顔で笑った。見ひらいた目で遥樹を見下ろして、俺は言葉を失った。
「兄ちゃんは、みぃちゃんが好きなの? それとも優奈さん?」
「俺は、」
静かに響く雨の音と、伸びやかなウエストサイド物語。耳の奥に響く音に意識を逸らされて、言葉に詰まる。俺を見上げる遥樹と視線が重なる。その視線の先で、遥樹はぎゅっと眉を寄せて目を眇めた。
「はっきりしろよ! みぃちゃんが好きなら好きだって言って、さっさと奪っていけよ!」
言葉を叩きつけるように、遥樹は声を荒らげる。「……俺は、」となんとか言葉を返そうとしたところで、上着のポケットに入れていたスマホが鳴った。
「ごめん、仕事の電話」
「……うん」
ヒートアップした空気がかろうじて冷える。俺は遥樹の部屋を出ながら、通話ボタンを押した。
涼大さんとの待ち合わせには、私たちが学生の頃にバイトをしていた雑貨屋の近く、童話風の庭が美しいカフェを選んだ。学生街からは少し離れているけど、パフェの種類が多くて学生に人気で、私たちが付き合って初めてのデートで行った場所でもあった。
最初を振り返りたくなった。私たちは、パフェみたいに甘くて幸せな感情から始まった関係ではなかったから、始まりの頃、互いに互いへの引け目を抱いたぎこちない会話ばかりしていた。相手の反応を探るように、穏当な言葉を積み重ねるデートをしていた。だけど涼大さんにひとくちもらった夏ミカンのパフェはほのかに苦いけど甘酸っぱかったはずだし、今思い返せば、あの瞬間だって懐かしくて愛しい。
だったら今日だって、何年後かに思い返せばそうなるのかもしれない。私たちのこれからがどうなったとしても、いつか今日を懐かしく愛しく思い出せますように。どうか――
「涼大さん」
オープンテラスに面した窓からまばゆい日差しが差しこんで、室内をきらきらと満たしている。ティーカップを置いて、私は話を切り出した。アッサムの琥珀色の液面が、陶器の白の中でとぷりと揺らめく。
「私は強迫性障害を持ってる。今日、ここに来るまでにも十回以上後ろを振り返った。小さな子にぶつかって怪我をさせていないか怖くなって」
「また、症状がひどく」
涼大さんが愕然とした声で息を呑む。ティーカップから眼差しを上げると、涼大さんは痛いものに触れたように、眉をぎゅっと顰めていた。
「……そうか」
噛みしめるように、涼大さんはつぶやいた。きっと、涼大さんは私の症状が悪化した原因が自分だと断定している。そんなふうに思って欲しいわけではないけど、症状が悪化した時期は涼大さんが帰ってこなくなった時期と重なっている。まったく否定するのも嘘めいている気がして、上手な言葉が見つからないから、私は神妙な顔をして涼大さんを見つめた。
「病気を持ってる私は、一緒にいてくれるひとに負担をかける。社会でもまともに働けてない。かといって、家のことも満足にできるわけじゃない。こんな私より、涼大さんはみのりちゃんと一緒にいたほうが幸せになれるって思ったけど」
一呼吸置いて、涼大さんの瞳を見つめて続けた。
「私は涼大さんが好きなの。好きな気持ちを捨てられないって、思い知ったの」
言った瞬間に、眼差しが激しくふるえた。涙が込み上げてくる感覚があって、私はぎゅっとくちびるを噛んでそれを堪える。
「優奈」
涼大さんが私を呼んだ。一ヶ月半ぶりに名前を呼ばれた。「俺は」と涼大さんが表情を緊張させる。ゆっくりとくちびるがひらく。私は身体をかたくして、涼大さんが次に発する声を待った。
「俺は優奈を裏切った。そのくせ、優奈を取られたくないと思ってる」
取られたくない、の意味が咄嗟には分からなかった。涼大さんを見つめて次の言葉を待つと、「木内さんと、浮気しようとしたんだって?」――私は息を呑んで身体を竦めた。
「ああいや、違う。なにもしてないっていうのも聞いてる。優奈や木内さんを責めたいわけじゃない。……そんな資格は俺にない」
いつもの涼大さんと、なんだか話し方が違う。それに戸惑っているあいだに、「欲望の三角形」と独り言ちるように涼大さんがつぶやいた。
「前に、優奈が教えてくれた。それまで見向きもしていなかったのに、取られそうになったら、欲しくなるってやつ。森鴎外か誰かの小説が有名だって言ってたっけ」
「……夏目漱石の『こゝろ』。Kがお嬢さんを好きになったから、先生はKを出し抜いてまでお嬢さんにプロポーズをした」
高校の現代文や大学の概論で習った知識をそのまま口にすると、涼大さんは自嘲するような表情になった。
「俺はその、先生だ。みのりと優奈、どっちが好きなのかって、昨日遥樹に訊かれてすぐに答えられなかった。でも、木内さんから電話がかかってきて、優奈と浮気をしようとしたって聞いた瞬間に、優奈だって思った」
涼大さんの言葉の意味を測りかねて、涼大さんの表情を慎重に観察した。ぎゅっと寄せられた眉は苦しそう。眇められた目は痛みを感じているかのような。奥歯を噛みしめてゆがんだ口元は悔しそう。
「みのりのことだって、みのりが遥樹のものだと思い知った瞬間に取り返したくなった。最低だと思う。こんな俺が、今、なにを言ったって信用に値しない」
暗く沈んだ涼大さんの瞳を見て、いつもと反対だ、と思う。こんなとかなんかとか、自分を卑下する言葉は、いわば私の専売特許だった。だけど今はその言葉で、涼大さんが自分を疎んでいる。私を裏切ったから。みのりちゃんに、心を揺れさせたから。
だったら私は。
「信用に値しないってひとりで決め込んで、言わずに呑み込むの?」
涼大さんの目を見つめて問いかけた。涼大さんは瞳を揺らして、なにかを言おうとした。でも、なにも言わずにくちびるを閉じた。私は、ちゃんと怒った口調で言葉を続ける。
「涼大さんの言葉を私が信用するかしないかは私が決めるよ。私はちゃんと言った。私なんか、って勝手に諦めずに、涼大さんが好きってちゃんと言った。だから涼大さんもちゃんと言って。信用に値しないって勝手に決めないで、言いたいことをちゃんと言って」
涼大さんが虚を突かれたふうに目を見ひらいた。私は涼大さんの目を睨むように見返す。
しばらく互いを見つめ合う時間が続いた。視線を外したのは涼大さんが先だった。涼大さんが、泣く寸前みたいな顔で息を吐く。
「俺は、優奈が好きだ」
観念して絞り出したような声だった。涼大さんは顔を顰めると、私をまっすぐに見つめた。そうして、「優奈が好きだ」とはっきりした声でもう一度。
「病気も性格もなにもかも含めての優奈が優奈だ。やけになった俺を優奈が支えてくれた。三年間一緒に暮らしてきた。これからも、優奈との生活が続いて欲しいと思う。優奈を失うなんて嫌だ。……ごめん。俺は一度優奈を裏切った。それを、優奈が許してくれるなら、俺はこれからも優奈と一緒に暮らしていきたい」
前髪がテーブルに触れるくらいに、涼大さんは深く頭を下げた。
「……顔を上げて」
神妙な面持ちのまま、涼大さんは頭を上げた。私は視界がだんだんとにじんでゆくのを自覚しながら、小さく息を吸った。
「夏ミカンのパフェ、ごちそうしてくれる?」
「パフェ?」
「それで、許すよ」
涼大さんは一瞬、遠くを見るような顔をしてから頷いた。涼大さんも覚えていてくれている。七年前に、このお店で夏ミカンのパフェを私にひとくちくれたことを。
スタッフさんにオーダーを通してから、私は改めて涼大さんに向き直った。
「信用するよ。確かに、私は裏切られたのかもしれないけど……これまで、涼大さんが私にしてくれたことだってちゃんと覚えてるもん。病気も性格もなにもかも含めて、私をずっと大事にしてくれた。ずっと、ちゃんと怒ってくれた。私は病気を持っているし、正社員じゃないし、家事も得意じゃないけど」
涼大さんの眼差しを受け止めて――それから胸の内で木内くんの言葉を思い返して、私は誓う。
「もう、私なんか、なんて言わない」
店内に満ちたきらめきを一身に感じながら続けた。
「私も涼大さんが好き。だから、また、一緒に暮らしていこう」
七年前は、確か俺が夏ミカンのパフェを頼んで、優奈が抹茶と白玉のパフェを頼んだはずだった。今日は優奈が夏ミカンのパフェ、俺は無難にバナナチョコのパフェ。
「涼大さん、いる?」
優奈がこちらに向けたシルバーのスプーンに、夏ミカンの瑞々しい果肉がのっている。
「ああ、サンキュ」
少々照れくささを感じたけど、差し出されたスプーンを素直に口に含めば、舌につめたさとほろ苦さを感じた。それを噛めば、口内に爽やかな甘酸っぱさがひろがる。
「優奈もいる?」
同じように、チョコのかかったバナナをのせて、優奈の口元に運んだ。優奈もぱくりとそれを食んで、「甘くて美味しい」と幸せそうに笑った。優奈を見つめる俺の胸に、愛しさがひろがってゆく。
パフェを食べ終えて店を出た。優奈をアパートまで送っていった。俺はまだ、優奈と暮らすアパートに戻るわけにはいかないから、駐車場で優奈だけ車から降ろした。
「じゃあ、また夜にな」
「うん」
車を発進させようとウインドウガラスを閉めかけたら、「あっ」と優奈が声をあげた。ガラスを閉めるボタンを押す手を止めて、「ん?」と優奈を見上げる。
「どした?」
「……なんでもない」
きらきらと降る日差しを一身に受けながら優奈は微笑んだ。微笑みのなか、綺麗にかたちの整った眉を少しだけ寄せて、「待ってるね」と優奈はひたむきな声で言う。
「うん。夜に戻るからな」
俺は強く頷いて、今度こそ車を発進させる。
ウエストサイド物語を流すカーオーディオの下、デジタルで示された時刻に目をやった。十五時十三分。今日の朝一番で取り付けたみのりとの約束の時間まで、あと二時間だ。
みのりの会社の近くにある書店で待ち合わせた。水曜は定時上がりだと言っていたみのりはその通り、五時を十五分ほど過ぎた時間に現れた。
「涼大」
控えめに肩を叩かれて、俺は立ち読みをしていた映画雑誌を閉じる。
「急にごめんな」
雑誌を戻してみのりに向き合うと、みのりは首を横に振る。「ううん。私も連絡しようと思ってたの。涼大と話したかったの」静かに笑うみのりと肩を並べて店を出た。数分歩いた。
子供たちのにぎわいが去った公園で、ベンチに隣り合って座った。しんと静まり返った遊具が並ぶ夕方の公園は、まるでモノクロ写真のように色味を失っているように見えて、少しだけ寂しげだ。
俺はひとつ息を吸って、みのり、と呼ぼうとした。だけど、「涼大」と俺を呼ぶみのりの声に先を越された。
「……あ、なんか言おうとした?」
俺のくちびるの動きを見て、みのりが尋ねる。「先にどうぞ」と言われたけど、俺は首を横に振った。
「みのりが先に」
みのりの言葉をちゃんと聞こうと思った。かつて俺はみのりの決意に怯えて、先回りして、みのりの言葉を取り上げた。もう二度と、俺の言葉でみのりの言葉を取り上げない。
みのりは立ち上がって、俺の正面に立った。「涼大、私は」――俺を見下ろすみのりの瞳を見返して、みのりの言葉にちゃんと耳を傾ける。
「私は、涼大のことが好きだよ」
微笑んで、みのりはそう告げた。初夏のきらめきをふくんだ風が、俺たちのあいだを吹き抜けてゆく。風の向こうのみのりを見つめる自分の目が、大きく見ひらかれるのが分かった。
「……やっと言えた。ずっと言えてなかったこと」
泣きそうな声だった。ぎゅっと眉間にしわを寄せながら、それでもみのりは笑っていた。
「みのり、」
なにを言うのか決めないままみのりを呼んだ。みのりは小さく頷いて、表情をやわらげた。
「ずっと好きだったの。大きくなったら結婚するんだって約束を、ずっと大切にしてた。涼大は私の初恋なの。……でも、今。今、私が好きなのはね」
みのりの言葉の意味を理解した途端に、胸が鈍く痛んだ気がした。また欲望の三角形かと苦々しく思うけど、同時に寂しいほどに静かな切なさが胸にひろがったから、――ああ、今回はたぶん違う。
好きとか恋とか関係なくても、幼い頃から親しんだみのりはずっと大切な存在だった。俺が今好きなのは優奈だ。だけど今の感情がどうであれ、かつて抱いた感情を手離そうとするとき、喪失感を抱くのは当たり前だ。その感情が、大切なものであったほど強く。
つないでいた指先が解けてゆくような感覚を覚えながら、みのりの言葉を聞いた。
「涼大への初恋を、ずっと心に押し込めたままだった。だから始まりは、遥樹のなかに涼大を求めたの。前に付き合っていたひとにも。もうそんなのは終わりにする」
いったん目を伏せたみのりは、清々しい笑顔で続けた。
「私は今、遥樹が好き。それを、涼大に聞いてほしかった」
「ん……」
俺は頷いて、立ち上がって、「ちゃんと聞いた」と、みのりの頭をぽんとなでた。かつて、小さなみのりにそうしていたのと同じように。
安堵した表情を見せたみのりは、「涼大の話は?」と小首を傾げる。俺は息を吸って、みのりの眼差しを受け止めて、言葉を発す。
「七年前、みのりのことが好きだった。ちゃんと諦めきれないまま優奈と付き合って、感情を暴走させた。本当に悪かった。ごめんな」
「ちゃんと諦められてなかったのはお互い様だから、もういいよ」
「みのりはずっと大事な幼馴染だった。だから、幸せになってほしい。どうか、遥樹と幸せになってほしい」
眉根を寄せて願えば、みのりはまた小首を傾げた。
「涼大は? 優奈さんと」
その問いに、優奈の眼差しを思う。待ってるねとひたむきな声で俺を送り出した、優奈の微笑みを。
「……幸せにしたいと、思ってる」
俺の答えを聞いたみのりは笑った。「じゃあ、一緒に頑張ろうね」と。
アパートに着いたのは、夜闇が夕やけを呑み込みかけた午後六時半。静かな足音をともなって、一〇二号室――約一ヶ月半ぶりに帰ってきた二人暮らしの部屋の前に。だけどドアの前で立ちすくみ、俺は自分の手のひらに眼差しを向ける。車の鍵と一緒にキーリングでつながった、このドアの鍵。ギザギザの部分を親指で意味なくなぞってしばらく思案して、結局、ポケットに鍵をしまった。ためらいがちにインターフォンを鳴らせば、ややあって「はい」と優奈の声が応じる。
「優奈。……俺」
たどたどしくて、なんだか頼りない声だった。反対に、「涼大さん」と俺を呼ぶ優奈の声は、少し怒っているような。
「インターフォンなんて鳴らさなくていい。鍵、持ってるでしょ」
ぷつ、と通話が途切れた。俺はまた頼りない苦笑を浮かべて、一度しまった鍵を取り出した。鍵穴に差せば、鍵はなんの抵抗もなくかちゃりと回る。
ドアを開ければ、リビングから出てきた優奈と眼差しがかち合った。背中側でぱたんとドアが閉まる。短い廊下を駆けた優奈は、ぶつかるようにして俺の胸へ飛び込んだ。
慌てて抱きとめると、背中に回った腕がぎゅうと俺を強く抱きしめる。
「……お帰りなさい」
嗚咽でくぐもった声。それが耳に届いた瞬間に、鼻の奥が痛くなった。細く華奢な身体を強く抱きしめ返す。あたたかくて、やわい。優奈の首元に顔をうずめれば、清潔な石鹸みたいな匂いがした。
「ただいま」と囁いた。頷く優奈の頬から落ちた涙が、俺のシャツを小さく濡らす。ふたりぶんの心音が重なる。襟元をくすぐる髪の繊細さと、シャツ越しの微かな息遣いが、懐かしくて愛しい。
互いの匂いを、音を、体温を、確かめるように抱きしめ合った。リビングのほうからはほのかに、作り立てのカレーの匂いが漂っていた。
涼大と別れてから、市電に乗って遥樹のアパートに向かった。だけど遥樹は帰っていなくて、どうしようかと迷った挙句、遥樹が通う大学まで来てみた。正門はあいていた。守衛室には明かりがついていて、学生たちがまばらに出入りしている。
部外者って入っちゃだめだよね……? それとも、守衛さんに言えば大丈夫? 大学というものの仕組みがよく分からなくて、私は正門の前で行ったり来たりを繰り返す。
――バイト先に行ってみよう。それでも会えなかったら、もういっかい遥樹に連絡をしてみる。また、返事はないかもしれないけど。うつむいて、踵を返そうとしたときに声を掛けられた。
「『みぃちゃん』ですか……?」
声を振り返れば、はちみつみたいなベージュの髪をした女の子が立っていた。隣には、クルミ色のウェーブヘアの女の子。
「利夏、悪いんだけど先に行っててくれる?」
はちみつ色の髪の子がそう言って、「分かった」とウェーブヘアの子はひらひらと手を振って歩き去ってゆく。
――この子、もしかして。
はちみつ色の髪の彼女と見つめ合うみたいになって戸惑っていると、「初めまして」と彼女が笑った。
「遊佐美衣子っていいます。国崎くんとは同じ学科です」
やっぱり遊佐さん――遥樹が前に付き合っていたひとだ。「はい」と応じる私の返事はぎこちなくなる。だけど彼女は私に構わず、「国崎くんに用ですか?」と小首を傾げた。
「そう、です」
私に向かってにこっと笑った彼女は、トートバッグからスマホを取り出して操作し始めた。
「あ、翔くん? 国崎くんとまだ一緒? ……うんうん、正門まで来て欲しいんだけど。……一緒でいいよ」
翔くん、は遥樹の友達だ。遊佐さんは翔くんとの通話を終えると、私に向き直る。
「国崎くん、もうすぐ来ますから。ここで待っててください」
それじゃ、なんて軽い調子の挨拶を残して、はちみつ色の髪をなびかせて、彼女は歩き去ろうとする。私は慌てて、「ありがとうございます」と背中に声を追い縋らせた。
「いえいえ。その代わり、『みぃちゃん』さんが国崎くんをちゃんと捕まえてられないなら、国崎くんはあたしが落とします」
小さく会釈をして、去って行った。国崎くんはあたしが落とします――私はその言葉に動揺しながら、正門の端に寄って遥樹を待った。
五分ほどして、遥樹が翔くんと女の子と一緒に正門にやってきた。女の子は、この前遥樹と相合傘をしていた子だ。愕然と目を見ひらく遥樹と目が合った。
「遥樹。少しだけ時間をくれない?」
遥樹の前に進み出て、そうお願いした。遥樹は目を伏せて黙りこくった。黒髪の女の子が、「もしかして、遥樹先輩の彼女さんですか?」と高くはしゃいだ声で訊く。
「彼女、じゃ……」
途中で立ち消えた遥樹の答え。その続きが意味するところに、ずきっと心が痛んだけど、「お願い、少しでいいから」と食い下がった。
息が詰まるような間がしばらく続いたあと、やがて遥樹が力なく頷いた。
「……んじゃー俺たち、帰りますんで」
翔くんが、黒髪の女の子の腕を引く。二人が去ってから、私は遥樹の手を取った。触れ合った指先の温度、びく、と遥樹の指が怯えたように跳ねる。
「場所、移動してもいい?」
「……うん」
私は手を離して、先を歩く。遥樹はうつむいたまま、静かに私の後をついてきた。
学生街の地理には詳しくないけど、少し歩いたところで小さな公園を見つけた。砂場や遊具、あどけない景色がひんやりとした闇色に染まるなか、奥のベンチに、ひと一人分くらいの間隔を空けて座った。遥樹はずっとうつむいたままだ。暗い表情に怯みそうになるけど、私は小さく息を吸って、座ったばかりのベンチから立ち上がった。そうして、遥樹の正面に立つ。
「遥樹。私は、遥樹のことが好きだよ」
ふっ、と遥樹が顔を上げた。やわらかな髪を風に揺らして、私を見上げる瞳を動揺にふるえさせて、なにかに怯えるように小刻みに首を横に振った。
「な、なんで……? 兄ちゃんが、優奈さんのことが好きだって言ったから?」
その言葉にショックを受けるけど、私は遥樹の目を見て否定する。
「違うよ」
私を抱きしめた腕のあたたかさを思い出しながらうったえた。一緒にくるまった掛布団の軽さを思い出しながらうったえた。手首を捕まえたつめたさ、くちびるに触れた潤み、無邪気な笑い声。次から次へと浮かび上がってくる景色に自分の恋を確かにしながら、うったえた。――私が今、好きだと思うひとは遥樹だ。
「涼大はもう関係ない。私は今、遥樹のことが好きなの。さっき、涼大にも会ってきた。涼大に、私は遥樹が好きだって言ってきた。心を揺らがせてごめんね。傷付けてごめんね。私が情けないから遥樹を傷付けた。それでも、私は遥樹が好きなの」
私は必死に恋を伝えようとするけど、「そんなわけない。だって、兄ちゃんだよ。兄ちゃんに、俺が敵うはずなんてない」――怯えたように首を振り続ける遥樹には届かない。泣きそうに眉を寄せて、目元をゆがめて、遥樹は強く首を振った。「初恋は、もう諦めた。もう、初恋が叶ったなんて浮かれたりしたくないから。今度こそ、本当に諦めたから」
「俺はもう、みぃちゃんのことは――」
好きじゃない、って言いたいのに。言わなきゃいけないのに。俺のくちびるは浅い息を吐きだしてふるえるだけで、まともな音を発しない。たとえば、三人でテレビゲームをやった俺の家のリビング。たとえば、ブレザーを着た兄ちゃんがランドセルを背負った俺たちにアイスを奢ってくれたコンビニ。たとえば、「涼大の彼女、かな」と掠れた声が足元に落ちた夕やけの通学路。兄ちゃんを見上げる眼差し、それを見上げる俺は、背伸びをしたってみぃちゃんの背にすら届かなかった。そして二十歳になった今、身長だけみぃちゃんを追い越しても、結局。
頭の奥の方で響く雨の音がみぃちゃんの声をかき消す。身体にまとわりついた雨の温度と湿度が、俺を押しつぶそうとする。
ほら、苦しいならちゃんと言わなきゃ。だって、初恋なんてもう嫌だ。初恋なんて、実らないものなんだから。もう充分――充分、充分、充分、充分、思い知ったんだから。
「俺は、」
ふるえる息の合間にどうにか声を押し込もうとする。だけどやっぱり、くちびるがまともな音を発しない。うつむいて、ぐ、と奥歯を噛みしめたそのとき、みぃちゃんが腰を屈めて地面に片膝を突いて、うつむく俺と目線を合わせた。そうして、俺の手をそっと取る。そうされて初めて、自分の手がふるえていることに気付いた。
「もう、私のことは嫌いになった?」
俺の言葉を引き取るように、みぃちゃんが優しく問うた。頷けばみぃちゃんとの関係を終わらせられる。そう分かっていたのに、頷けなかった。眼差しを大切に重ね合わせて、言葉ひとつひとつを丁寧に手渡すように、みぃちゃんが続ける。
「初恋はもう終わったね。私の情けなさが終わらせた」
手からみぃちゃんの温度が離れた。見捨てられたような心細さが途端に込み上げる。
「私は涼大への初恋をずっとひきずって、心を迷わせて、遥樹を傷付けた。遥樹と涼大は違うひとなのに……。今、ようやく分かったって言っても遅いのだとしても」
みぃちゃんが声の調子を強めた。
「今度こそ私は自分の恋に向き合う。私は遥樹が好き。だから、ちゃんと遥樹に伝えたかったの」
確かな声でそう言ったみぃちゃんは、決意した目で俺を見つめて、やがてゆっくりと立ち上がる。
「話、聞いてくれてありがとう」
吹っ切れた顔で笑って、みぃちゃんは話を終わらせようとする。「帰ろっか」って、幼馴染に戻ろうとする。
俺は眉を寄せて表情をゆがめた。「嫌だよ」と首を振った。目を見ひらいたみぃちゃんの手首を掴む。こちらを向かせて、顎を掴んで、みぃちゃんと眼差しを重ね合わせた。
「遥樹、」
「逃げないで」
肩を強張らせたみぃちゃんに短く告げる。
「俺のことが好きなら、逃げないで」
みぃちゃんが息を呑むのが分かった。だけど構わず、乱雑にくちびるを重ねた。一度じゃ足りなくて、もう一度。みぃちゃんがぎゅっと目を瞑る。息すら奪うように、みぃちゃんを一切慮らないキスをした。
肩で息をするみぃちゃんを見下ろす。「みぃちゃんはなにも分かってない」そう責めたら、みぃちゃんは眉をぎゅっと寄せてくちびるを噛んだ。だけど、俺から目は逸らさない。
「嫌いになれるんだったら、とっくの昔に嫌いになってた。初恋なんてもう嫌だって、何度も思った。だから今度こそ本当に、本当に初恋は諦めるって思った。でも、……それでも、好きな気持ちがあふれてくるから、俺は苦しい」
「ごめんっ、遥樹っ、本当に……」
言葉の途中でみぃちゃんを抱きしめた。「俺が好きだって言って」駄々っ子の声音で願う。そうしたら、「遥樹が好きだよ」って、みぃちゃんは願いを叶えてくれた。それでも、まだ、全然足りない。
「もう一回言って」
「好きだよ。私は、遥樹が好き」
もう一回、を何度も何度も願った。「遥樹が好きだよ」を聞きながら、心がようやく、兄ちゃんへの劣等感を素直に認める。
あの雨の日に、思い知らされたようで悔しかった。兄ちゃんには絶対敵わないんだって思い知らされたようで悔しかった。心を埋め尽くす劣等感は、誰の言葉も受け入れることを拒否した。俺は兄ちゃんに敵わない。俺が兄ちゃんに敵うはずない。ひとりでずっとつぶやき続けて、それが事実であると決め込んだ。でも、
「私は、遥樹が好きだよ」
みぃちゃんの言葉が、ようやく聞こえた。心に、ちゃんと聞こえた。
みぃちゃんの首元に顔を埋めて、「俺も、みぃちゃんが好きだよ」と囁いた。湿りけを含んだ声だった。
「思い知ったよ。初恋じゃなくたって、俺は何度だってみぃちゃんに恋をするしかないんだって」
観念して吐き出した恋の言葉が、春の夜風に溶けてゆく。
トマトの甘酸っぱい匂いがキッチンに満ちた。あの雨の日に、エコバッグごと地面に落として、底の一部がへこんだトマト缶。それを使ってトマトソースのパスタを作った。本当はミートソースにしたかったけど、ひき肉がなかったのでベーコンと玉ねぎでナポリタン風。
いただきます、と遥樹と手を合わせた。パスタをひとくち食べただけで、「美味しい」と遥樹は幸せそうに笑ってくれた。私の胸にも幸せがじんわりとひろがってゆく。お皿も、テーブルも、クッションも、カーペットも、照明も。この部屋は昨日とまったく同じはずなのに、空間の肌触りが全然違う。弾むように軽やかで、心地良い。私はパスタを巻き取るフォークを止めて、遥樹に向かって小首を傾げる。
「口の横、ついてるよ?」
「え、うそ!」
かちゃ、と遥樹はフォークを置いて、ティッシュボックスに手を伸ばす。軽く丸めたティッシュで遥樹が口元を拭っている。その仕草を眺めているだけで、どうしようもなく幸せがあふれてくる。
「今度、煮込みハンバーグ作るね」
私はフォークで巻き取ったパスタにトマトソースを絡める。「やったぁ! 楽しみ」と遥樹が八重歯をのぞかせて笑う。
夕飯を終えて、私が洗い物をしているあいだに、遥樹はコンビニで飲み物とデザートを買ってきてくれた。期間限定の夏ミカン味のソーダと、レアチーズケーキとコーヒーゼリー。グラスを用意してソーダを注いで、ケーキのパッケージを開けながら、私はなんでもない調子で切り出した。さっき、洗い物をしながら不意に思い出したことだ。
「遥樹、一昨日、銀天街にいた?」
「うん、靴を新しくしたくて買い物に行ってたよ。午後から休講だったし。なんで?」
「仕事終わりに見かけたの。それで、……なんていうか、さっき大学で一緒にいた女の子と相合傘してたから」
なにげなく訊くつもりだったのに台無しだ。私はぎゅっと眉を寄せて口をゆがませる。きょとんとした顔をしていた遥樹は、くっと吹き出す。
「あはは、みぃちゃん、面白い顔になってるよ」
「え、うそ!」
最悪。輪をかけて最悪。沈痛に顔を伏せると、ローテーブルの角を挟んで隣り合っていた遥樹が私との距離をつめた。「みぃちゃん」といつもより少し低い声で私を呼んで、それにどきりとしている私の頬をそっと掴んでキスを。
「……い、今。そういうタイミングだった?」
遥樹の影が頬に落ちたままの距離で照れ隠しに目を逸らしたら、返事の代わりにぎゅうっと抱きしめられた。
「遥樹?」
「……みぃちゃんは、ほんとに、ちゃんと、俺のことが好きなんだなぁって思って」
抱きしめられたまま囁かれたから、耳元を遥樹の息がくすぐった。「私は遥樹が好きだって、さっきも言ったじゃない」ちょっとだけ拗ねた声でそう言ったら、「うん」と遥樹が噛みしめるように頷いた。
「あの子は、学科とバイトの後輩。たまたま会って、傘がないって言うから駅まで入れてあげただけ」
おそらくはそんな事情だと分かってはいたけど。答えを聞いたらやっぱりほっとして、「よかった」と安堵の声が出た。
遥樹の背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。吸い寄せられるように、どちらからともなくキスをした。触れて、離れて、触れて、息を継いで。甘く潤んだ音と、縋るような息遣いが触れ合ったとき、間近でかち合う遥樹の眼差しが熱を帯びた。とん、と背中がカーペットにぶつかって、私は慌てて遥樹の肩を押す。
「遥樹……っ、で、デザート!」
はっと我に返った顔をした遥樹が、「……そうだった」と頬を赤くして身体を起こす。耳まで真っ赤になっている。しゅっと素早く私から離れたと思ったら、コーヒーゼリーのフタをたどたどしい手つきで開けて、「俺、すぐがっついちゃうね」と赤い顔で意気消沈している。
「で、でも嬉しいよ」
精一杯照れながら、そう返した。「キスしたい、もっと、って思ったのは私もだし。だから、……その、後でね?」
「う、うん。……後で」
ふたりして照れて真っ赤な顔で、それぞれのデザートをつついた。ひとくちずつ、交換したりもして。遥樹からもらったコーヒーゼリーは、つめたくて少しだけ苦くて、だけどクリームがまろやかに甘かった。