初恋は砕けて、今、世界はガラスの破片みたいにきらめく。
エピローグ
九月になった。お月見、コスモス、ぶどう、紅葉、とカレンダーのイラストはしっかり秋だけど、風も日差しも、夏の暑さときらめきをまだ手元に置いているみたいだ。日差しの下を歩けば、肌から汗が染み出てくる。かろうじて吹いてくる風もたっぷりと熱されていて、全然涼しさを感じない。「暑いねぇ」と私はうんざりとした顔をする。「ほんとに」と遥樹もうんざりとした顔をする。大街道のアーケードの下まで、立体駐車場から二分程歩いただけだけど、うなじや額にはしっかりと汗がにじんでいる。
――でも、せっかく遥樹と出かけてるんだから。
私は気を取り直して、ぴんと背筋を伸ばした。
「お店、あっちだよね」
「うん」と遥樹が頷くのに笑って、指差した手を下ろしたら、太腿の横で私の小指と遥樹の小指が触れ合った。手を繋ぎたいな、と思った。でも、暑いしな。手汗もかいちゃうかも。そんなふうにぐるぐる考え込んでいたら、ぱっと手を取られた。
「え」
「嫌? 暑い?」
首を傾げる遥樹にぶんぶんと首を横に振れば、「よかった」と遥樹は笑う。涙袋がぷっくりとふくらんで、口元に八重歯がのぞいた。そしてほのかに、バニラの甘い匂いがたゆたう。
今日は、遥樹がインターンのときに使う名刺入れを買いにきた。インターンが再来週、遥樹の誕生日が今月末の二十八日。丁度いいから誕生日プレゼントに、と思ったのだけど――
「み、みぃちゃん、待って、あの……」
遥樹は去年のクリスマスと同じように、値札を見て思いっきり引いた顔をした。私も見てみると、だいたい一万五千円。
「する。名刺入れはこのくらいする。大丈夫だって」
「じゃ、じゃあ、俺も半分払うからっ」
「大丈夫だってば、ボーナスももらったばっかりだし。……すみません、これを」
焦る遥樹の横で、スタッフさんにカードを渡して会計してもらった。
「はい、インターン頑張ってね」
お店を出て、ショッパーに包んでもらった名刺入れを遥樹に渡すと、「ありがとう」と遥樹がぎこちなく頭を下げる。値段をまだ気にしている様子だったから、私はわざと悪戯っぽい顔をする。
「遥樹が就職したら、私にも奮発してね」
笑いかけたら、「わ、分かった!」声の動揺とは裏腹に、安堵した顔で遥樹が笑った。
カフェで昼食をとった。「あとは本屋さんだね、エンローの最新刊買わなきゃ……」遥樹が、ごく当たり前に私の手を取る。私は指先にきゅっと力を込める。
「あっ」
声をあげたのは、少し先にあるお店から涼大が出てきたから。一緒にいる華奢な女の人はおそらく――間違いなく、優奈さん。遥樹もふたりに気付いたようで、「兄ちゃんたちだ」とつぶやいた。
涼大と優奈さんが、こちらに歩いてくる。手、解いたほうがいいかな。照れくさいし、と遥樹を横目で窺ったけど、遥樹はきょとんとした顔で見返してくる。そのあいだに、涼大と優奈さんも私たちに気付いた。
「遥樹、みのり」
近付いてきた涼大が軽く手を上げる。優奈さんが小さく会釈をする。優奈さんと実際に会うのは初めてだけど、テレビに出ているアイドルみたいに可愛らしいひとで驚いた。
「買い物?」
結局、遥樹と手をつないだまま少し立ち話をすることになった。涼大たちは、結婚指輪の下見をしているみたいだ。
「入籍、いつなんだっけ」
「十二月。入籍日を忘れないように、クリスマスにしようって話になってさ。俺も優奈もあんまり細かい質じゃないから」
涼大の横で、優奈さんがはにかむ。幸せそうな光景だった。
涼大と優奈さんと別れて、書店へと向かおうとした。すると、難しい顔をした遥樹が、「あのね」と切り出した。
「俺が就職したらプレゼント奮発して、ってみぃちゃん言ったでしょ?」
「うん」
「……指輪、プレゼントしてもいい?」
私が驚いて遥樹を見ると、「重い? それに俺、まだ来年も学生だから全然先の話なんだけど……っ」遥樹が腰の引けた顔でまくしたてる。
私は身体ごと遥樹と向き合って、首を横に振った。
「楽しみにしてる」
笑って、遥樹の手を引いて書店に向かう私の、パンプスのヒールが軽やかに鳴った。