『夢列車』   ~過去行き、未来行き~
 先ず、8月17日に見たテレビからだ。
 あの時は間違いなく安倍さんが首相であり、あと1週間で首相在任期間が最長になると伝えていた。
 しかし、1か月後の未来に来ているわたしが見ているニュースでは菅内閣が発足している。
 ということは、この1か月の間に安倍さんが辞意を表明し、自民党の総裁選挙が行われ、そこで菅さんが勝って総裁になり、更に国会で過半数の票を得て首相になったことになる。
 
 えっ? 
 そんな大変なことが、たった1か月の間に起こったの? 
 本当? 
 本当に本当? 
 確かに安倍さんの支持率は急落していたけど、辞めるほどの理由とは思えないし……、
 例えば解散して選挙やって負けたのならわかるけど、そうじゃないみたいだし……、
 う~ん、どう考えてもおかしい。
 夢物語としか思えない。
 目が覚めたら全部嘘でした、みたいな感じなのだろう、
 
 そう思ったら馬鹿々々しくなって、テレビを見るのを止めた。
 すると、一気にシーンとした感じになった。
 
 ん? 
 雨の音がしない……、
 
 立ち上がって窓のところへ行き、ガラス窓を開けた。
 雨は止んでいた。
 すると、今すぐ帰らなければならないという強迫観念のようなものが湧き上がってきた。
 急いで窓を閉めてカーテンを引き、ちゃぶ台を壁に立てかけ、布団を元に戻して、ガラス戸を閉めて、換気扇を止めて、靴を履いて、ドアを開けて、外に出て、ドアを閉めた。
 
 鍵をかけようと思ってポケットを探ったが、そんなものはどこにもなかった。
 このままにしておくのは気がかりだったが、どうしようもないので、〈泥棒が入りませんように〉と心の中で念じてアパートをあとにした。
 
 来た時と同じ道を通って駅まで戻った。
 構内を抜けて改札口の前で立ち止まると、液晶ディスプレーがわたしを睨んでいた。
 来た時と同じように顔認証、指紋認証、遺伝子認証が行われて、本人確認終了の文字が表示された途端、改札口が開いた。
 
 プラットホームには列車が停車していた。
 過去行きの列車だった。
 乗り込んで一席しかない椅子に腰かけた。
 ドア上のディスプレーには『次の停車駅:8月17日駅』と表示されていた。
 元に戻れるらしい。
 一気に安堵が全身を包み込んだ。
 ホッ、と息を吐いて窓の外を見ると、無人のプラットホームが手を振っていた。
 別れを惜しんでくれているらしい。
 わたしも手を振り返した。
 その途端、列車が動き出した。
 8月17日駅に向けてスピードを上げた。
 
 
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