『夢列車の旅人』 ~4人の想いを乗せて過去へ、未来へ~
正面にすりガラスの引き戸が見えた。
その先が居間になっているようだ。
靴を脱いで「お邪魔します」と断って上がって、ガラス戸を引いた。
すると、壁に立てかけられた何枚ものカンヴァスが目に入った。
それ以外にあるのは、押入れの前に鎮座しているソファベッドらしきものとポータブルテレビとラジカセくらいだった。
続いて彼女が入ってきたが、わたしの方を見ることもなく、惹きつけられるように一番手前のカンヴァスの前に立った。
「モネ……」
呟きに誘われて視線をやると、青い水面に睡蓮が浮かんでいた。
余りにきれいなのでじっと見ていると、作品の背景について説明してくれた。
「これは国立西洋美術館が所蔵している作品で、松方コレクションを譲り受けたものなんです。正確に言うと、第二次世界大戦中にフランス政府に没収されていたものを寄贈返還されたものなんですけど、1916年に描かれた傑作中の傑作と言っても過言ではないと思います」
もちろん本物ではなく高松さんによる模写だったが、これが本物と言われても疑うことはないだろうというほどの完成度に思えた。
感心して見ていると、「あらっ?」という声が聞こえた。
顔を向けると、彼女が下を向いていた。
なんだろうと思ってその視線の先を追うと、カンヴァススタンドの足元に本が2冊並んでいた。
彼女がそれを両手に持った。
表紙に描かれた睡蓮が美しい『ジヴェルニーの食卓』と、屋外に立てかけられたカンヴァスの前を鳥が飛び去る不思議な表紙の『美しき愚か者たちのタブロー』だった。
どちらも原田マハの著書だった。
わたしが『はまだはま』と早とちりしたあの原田マハだった。
そして、高松さんから読むように勧められた本だった。
「ジヴェルニーというのはモネが移り住んだ土地の名前なんです。そこで自分が納得できる庭園づくりを始めました。そして、セーヌ川から水を引いて、池を造って、睡蓮を育てたんです。それから、こちらの本は松方コレクションについて書かれたものです。この二冊を読みながら絵を眺めると、更に味わい深く感じるかもしれませんね」
彼女が差し出したので2冊とも受け取って、表紙をしばらく見てから、絵に視線を戻した。
「高松さんの絵は凄いですね。モネと遜色ないように見えます」
彼女は嬉しそうに笑ったが、既に視線はその横のカンヴァスに移っていた。
不思議な絵だった。
密林の中に裸の女性が横たわっていて、その女をライオンのような獣が狙っているし、蛇使いが操るオレンジ色の蛇も女を狙っている。
それだけではなく、ゾウの目と鼻が見えるし、猿や鳥が描かれているのも見える。
「ルソーの代表作『夢』です。ニューヨーク近代美術館に所蔵されているもので、1910年頃に制作されました」
わたしは睡蓮の絵と見比べてから、感じたままを伝えた。
「モネとルソーではタッチがまったく違いますね。なのに高松さんは」
言いかけた時、彼女がかがんで足元の本を拾い上げた。
絵と同じものが表紙を飾っていた。
『楽園のカンヴァス』だった。
「兄は原田マハさんの小説が好きだったのでしょうね。だからルソーに挑戦したのかもしれません。兄は器用だから、どんな絵も模写できてしまうのです。でも……」
寂しそうな笑みを浮かべて、言葉を継いだ。
「器用貧乏だと嘆いていました。どんなタッチでも真似できるけど、それが個性を失くす原因になっていると言っていました。何を描いても誰かに似てしまうのが大きな悩みだったのだと思います」
器用すぎて個性を発揮できない悩みか……、
高松さんの顔が思い浮かんだが、その悩みは理解できなかった。
しかし、目の前の絵は本の表紙の絵と比べてもまったく遜色ない出来栄えで、器用すぎるということだけは理解できた。
「いっそ贋作作家になろうかと自嘲気味に言っていたこともあるんですよ」
「がんさく、ですか……」
まさか高松さんが買い手を騙すようなことをしようとしていたなんて、
「もちろん本気で言ったのではないと思いますけど、それくらい追い詰められていたのだと思います」
不器用なわたしに器用貧乏の悲哀はわからなかったが、この絵に高松さんの苦悩が隠されているのだろうかと思いながらカンヴァスに目を這わしていると、右下に、R.Takamatsuとサインされているのを見つけた。
しかし、それは高松さんのファーストネームのイニシャルではなかった。
もしかして……、
わたしの視線に気づいたのか、彼女が右手で指差した。
「ルソー・高松です。でもこれは贋作の誘惑に負けそうになったからではなく、ルソーへの敬意の表れだと思います」
彼女は揺るぎなく言い切った。
わたしもその通りだと思った。
まったく売るつもりがないから、このようなサインをしたのだ。
納得して隣の睡蓮の絵に視線を戻すと、やはり、M.Takamatsuとサインされていた。
モネ・高松。
わたしは思わずニヤリと笑ってしまった。
作者への敬意だけでなく、そこに高松さんの遊び心が感じられたからだ。
流石!
わたしは心の中で拍手を送った。
その先が居間になっているようだ。
靴を脱いで「お邪魔します」と断って上がって、ガラス戸を引いた。
すると、壁に立てかけられた何枚ものカンヴァスが目に入った。
それ以外にあるのは、押入れの前に鎮座しているソファベッドらしきものとポータブルテレビとラジカセくらいだった。
続いて彼女が入ってきたが、わたしの方を見ることもなく、惹きつけられるように一番手前のカンヴァスの前に立った。
「モネ……」
呟きに誘われて視線をやると、青い水面に睡蓮が浮かんでいた。
余りにきれいなのでじっと見ていると、作品の背景について説明してくれた。
「これは国立西洋美術館が所蔵している作品で、松方コレクションを譲り受けたものなんです。正確に言うと、第二次世界大戦中にフランス政府に没収されていたものを寄贈返還されたものなんですけど、1916年に描かれた傑作中の傑作と言っても過言ではないと思います」
もちろん本物ではなく高松さんによる模写だったが、これが本物と言われても疑うことはないだろうというほどの完成度に思えた。
感心して見ていると、「あらっ?」という声が聞こえた。
顔を向けると、彼女が下を向いていた。
なんだろうと思ってその視線の先を追うと、カンヴァススタンドの足元に本が2冊並んでいた。
彼女がそれを両手に持った。
表紙に描かれた睡蓮が美しい『ジヴェルニーの食卓』と、屋外に立てかけられたカンヴァスの前を鳥が飛び去る不思議な表紙の『美しき愚か者たちのタブロー』だった。
どちらも原田マハの著書だった。
わたしが『はまだはま』と早とちりしたあの原田マハだった。
そして、高松さんから読むように勧められた本だった。
「ジヴェルニーというのはモネが移り住んだ土地の名前なんです。そこで自分が納得できる庭園づくりを始めました。そして、セーヌ川から水を引いて、池を造って、睡蓮を育てたんです。それから、こちらの本は松方コレクションについて書かれたものです。この二冊を読みながら絵を眺めると、更に味わい深く感じるかもしれませんね」
彼女が差し出したので2冊とも受け取って、表紙をしばらく見てから、絵に視線を戻した。
「高松さんの絵は凄いですね。モネと遜色ないように見えます」
彼女は嬉しそうに笑ったが、既に視線はその横のカンヴァスに移っていた。
不思議な絵だった。
密林の中に裸の女性が横たわっていて、その女をライオンのような獣が狙っているし、蛇使いが操るオレンジ色の蛇も女を狙っている。
それだけではなく、ゾウの目と鼻が見えるし、猿や鳥が描かれているのも見える。
「ルソーの代表作『夢』です。ニューヨーク近代美術館に所蔵されているもので、1910年頃に制作されました」
わたしは睡蓮の絵と見比べてから、感じたままを伝えた。
「モネとルソーではタッチがまったく違いますね。なのに高松さんは」
言いかけた時、彼女がかがんで足元の本を拾い上げた。
絵と同じものが表紙を飾っていた。
『楽園のカンヴァス』だった。
「兄は原田マハさんの小説が好きだったのでしょうね。だからルソーに挑戦したのかもしれません。兄は器用だから、どんな絵も模写できてしまうのです。でも……」
寂しそうな笑みを浮かべて、言葉を継いだ。
「器用貧乏だと嘆いていました。どんなタッチでも真似できるけど、それが個性を失くす原因になっていると言っていました。何を描いても誰かに似てしまうのが大きな悩みだったのだと思います」
器用すぎて個性を発揮できない悩みか……、
高松さんの顔が思い浮かんだが、その悩みは理解できなかった。
しかし、目の前の絵は本の表紙の絵と比べてもまったく遜色ない出来栄えで、器用すぎるということだけは理解できた。
「いっそ贋作作家になろうかと自嘲気味に言っていたこともあるんですよ」
「がんさく、ですか……」
まさか高松さんが買い手を騙すようなことをしようとしていたなんて、
「もちろん本気で言ったのではないと思いますけど、それくらい追い詰められていたのだと思います」
不器用なわたしに器用貧乏の悲哀はわからなかったが、この絵に高松さんの苦悩が隠されているのだろうかと思いながらカンヴァスに目を這わしていると、右下に、R.Takamatsuとサインされているのを見つけた。
しかし、それは高松さんのファーストネームのイニシャルではなかった。
もしかして……、
わたしの視線に気づいたのか、彼女が右手で指差した。
「ルソー・高松です。でもこれは贋作の誘惑に負けそうになったからではなく、ルソーへの敬意の表れだと思います」
彼女は揺るぎなく言い切った。
わたしもその通りだと思った。
まったく売るつもりがないから、このようなサインをしたのだ。
納得して隣の睡蓮の絵に視線を戻すと、やはり、M.Takamatsuとサインされていた。
モネ・高松。
わたしは思わずニヤリと笑ってしまった。
作者への敬意だけでなく、そこに高松さんの遊び心が感じられたからだ。
流石!
わたしは心の中で拍手を送った。