千代子と司 ~スパダリヤクザは幼馴染みの甘い優しさに恋い焦がれる~
第1話 ホットケーキ
四月も終わりかけた東京。
都心部から少し離れ、再開発からも見事に外れた丁度境界にあたる昔からの住宅地。
今日は平日、火曜日の午前九時。小倉千代子は一人、ホットケーキを焼いていた。
くたびれた外観の小さなアパート、小さなワンルームにある使い勝手の悪い一口しかないガスコンロ。その隣にあるのは同じようにこぢんまりとしたシンク。あまりにも狭いので作業台として折り畳みのテーブルが一脚、用意されている。
そんな環境にふさわしい小ぶりのフライパンはもう、火に掛けられて予熱が済んでいた。作業台のテーブルにあるガラスのボウルには溶いた卵と少しだけ常温に戻した冷たすぎない牛乳が既にしっかりと混ぜられて置かれており、そこにそっと入れたのはどこにでも売っているホットケーキミックスの粉だった。
丁寧な暮らしってなんだろう、と言うここ最近の千代子が抱いている漠然としたもやもやも一緒に混ぜ込んだ生地をフライパンに落とせばそれはゆっくりと円を描く。適当な所でボウルを上げてフライパンに蓋をし、弱火のごく控えめな火に掛ける。
今の彼女の人生の楽しみはこうして一人で静かに、いろいろなメーカーのホットケーキを焼く事だった。
それくらいしかやる事はなかったし、やる気も起きなかった。
仕事ばかりの忙しい日々にさらされ、とっくに限界だった自分をないがしろにし続けた結果は退職と言う選択になり、今はほんの少しばかりの貯金を切り崩しながらささやかに心と体の手当てをする日々。
どうしちゃったんだろう、こんな筈じゃなかったのに、と考え過ぎては眠れなくなってしまう夜もまだ多い。
忙しさにかまけて労ってあげられなかったのは自分なのだから。そうやってチクチクと自分を責めてしまうのはよくない事なのだと千代子も分かっていた。
だからこそ、心を落着けさせる事の出来る趣味を見つけようと考えあぐねた結果がこのホットケーキを焼くと言う行為。キッチンはどうしても狭かったけれど、オーブンやミキサーと言った道具が要らない手軽で美味しい趣味だった。
蓋を少しずらして様子を見ればふつふつと気泡が表面に上がり、生地のふちに火が通っているのが分かる。そのままフライ返しで「よいしょ」とひっくり返せば希望通りのきつね色が現れた。
(そう言えば今日、初めてしゃべった……かも。しかもよいしょ、って……)
たったのひと言も貴重な発声とばかりに声を発していない日々。
それでもそれは今の千代子には必要な時間だった。少し寂しいけれど、ひどく心を揺さぶられない彼女の静かな一日が今日も始まる。
都心部から少し離れ、再開発からも見事に外れた丁度境界にあたる昔からの住宅地。
今日は平日、火曜日の午前九時。小倉千代子は一人、ホットケーキを焼いていた。
くたびれた外観の小さなアパート、小さなワンルームにある使い勝手の悪い一口しかないガスコンロ。その隣にあるのは同じようにこぢんまりとしたシンク。あまりにも狭いので作業台として折り畳みのテーブルが一脚、用意されている。
そんな環境にふさわしい小ぶりのフライパンはもう、火に掛けられて予熱が済んでいた。作業台のテーブルにあるガラスのボウルには溶いた卵と少しだけ常温に戻した冷たすぎない牛乳が既にしっかりと混ぜられて置かれており、そこにそっと入れたのはどこにでも売っているホットケーキミックスの粉だった。
丁寧な暮らしってなんだろう、と言うここ最近の千代子が抱いている漠然としたもやもやも一緒に混ぜ込んだ生地をフライパンに落とせばそれはゆっくりと円を描く。適当な所でボウルを上げてフライパンに蓋をし、弱火のごく控えめな火に掛ける。
今の彼女の人生の楽しみはこうして一人で静かに、いろいろなメーカーのホットケーキを焼く事だった。
それくらいしかやる事はなかったし、やる気も起きなかった。
仕事ばかりの忙しい日々にさらされ、とっくに限界だった自分をないがしろにし続けた結果は退職と言う選択になり、今はほんの少しばかりの貯金を切り崩しながらささやかに心と体の手当てをする日々。
どうしちゃったんだろう、こんな筈じゃなかったのに、と考え過ぎては眠れなくなってしまう夜もまだ多い。
忙しさにかまけて労ってあげられなかったのは自分なのだから。そうやってチクチクと自分を責めてしまうのはよくない事なのだと千代子も分かっていた。
だからこそ、心を落着けさせる事の出来る趣味を見つけようと考えあぐねた結果がこのホットケーキを焼くと言う行為。キッチンはどうしても狭かったけれど、オーブンやミキサーと言った道具が要らない手軽で美味しい趣味だった。
蓋を少しずらして様子を見ればふつふつと気泡が表面に上がり、生地のふちに火が通っているのが分かる。そのままフライ返しで「よいしょ」とひっくり返せば希望通りのきつね色が現れた。
(そう言えば今日、初めてしゃべった……かも。しかもよいしょ、って……)
たったのひと言も貴重な発声とばかりに声を発していない日々。
それでもそれは今の千代子には必要な時間だった。少し寂しいけれど、ひどく心を揺さぶられない彼女の静かな一日が今日も始まる。