千代子と司 ~スパダリヤクザは幼馴染みの甘い優しさに恋い焦がれる~
低くも明るい声音が千代子の耳に入り、足を止める。
あだ名ほどではないが自分の名前をそうやって呼べる人間は限られており、こんな場所で本名を知っている者などいない筈だった。
千代子は自分よりうんと背の高い男性を軽く見上げ、瞳を丸くさせる。
「そう、ちよちゃんは驚くと目を丸くさせて口が真一文字にぎゅ、って」
どうしてこの人は自分の癖を知っているのだろうか。
自分はこの目の前の完璧な姿の男性を知らないのに、どうしてそんなにも懐かしそうな口調で歩み寄って来るのだろうか。
都会に暮らしていれば危ない事に出くわす事もある。しっかりとそう言った事には警戒が出来る千代子は肩から提げていたトートバッグの持ち手を両手で握り締め、わずかに後ずさりをした。
その動作に気が付いた男性は「私の事、覚えてない?」と問う。
困ったように笑っている少し下がった眉尻、柔らかく丁寧な言葉づかい。
まだ千代子が中学生だった時。彼女の父親の転勤で静かな郊外から都心に近い場所へ引っ越した事によって胸の内を伝えられないまま、さよならをしてしまった――千代子にとっては淡い初恋の、近所のお兄さん。
「つかさ、さん?」
指摘された通りにきつく結ばれていた千代子の唇が薄く開いて、名前を呼ぶ。
途端に嬉しそうに笑い掛ける男性が「思い出してくれてよかった」と言いながらまだ黒塗りの車の傍らで待機していたドライバーにいくつか耳打ちをするように声を掛け、軽く見送る。
それでも未だ、肩に提げているトートバッグを両手で握り締めている千代子に「いつ振りだろう」と言う男性は革のビジネスバッグを手に提げ、いかにも仕事帰りの様子。まだ三時過ぎだし早く終わったのかな、と千代子は思いながらも「もしかして近くに住んでる?」と問う男性、今川司に問われるがままに頷いてしまった。
迂闊かな、とはすぐに思ったが互いに子供の頃を知っている者同士。
「ちょっと、そこまで買い物に……」
「ああ、最近オープンした所か」
買い物と言っても、ホットケーキミックスが一袋。
これから明日の一人ピクニックに持って行くお弁当の食材を買いにアパートの近所の、それなりの価格帯のスーパーに寄ろうとした所だった。
「どう?立ち話もなんだしこの辺はカフェとかもまだ無いから寄って……」
途中まで言いかけた司は「ごめん、すっかり昔の感覚で誘ってしまった」とやはり眉尻を下げる。数年ぶりにたった今、道端で再会を果たしたばかりの女性をいきなり自宅に誘うのはよくない、と言葉をとどめたようだった。