千代子と司 ~スパダリヤクザは幼馴染みの甘い優しさに恋い焦がれる~
第8話 悪いことへの落とし前


「いってらっしゃい」
「行ってきます」

 司を見送り、朝食の片付けをしてアイスコーヒーを用意した千代子も自分の部屋で仕事に取り掛かる。二人だけの暮らしはとても静かではあったが千代子と司にとっては今、かけがえのない時間となっていた。

 季節は夏の盛りを迎えていた。
 以前よりも時間を増やした在宅仕事を終えて部屋の掃除をし、少し遅い昼食を終えてから出掛ける支度をした千代子は午後四時過ぎ、日傘を差してマンションの外へと出る。
 今日は金曜日。土日は司とゆっくりする予定なので少し多めに作り置きをしておこうかな、と考えながらまだ眩しいなあ、と目を細めて夏の夕方に差し掛かっていく道を歩いていた。
 司からは遠慮をせずにタクシーを使って移動を、と口酸っぱく言われていたがこのまま涼しい場所に居続けたらちょっとの事でバテてしまう、と健康の為には少しの道のりくらい、と保冷剤をしっかり入れた保冷バッグを肩に提げてスーパーまでの道のりを歩く。
 くるぶし丈の軽やかなベージュのスカートにトップスはサマーコットンの白い半袖、同じく白い日傘を差した千代子は見かけた人の誰しもがその高層マンションから出て来た“若奥さん”だと認識するような装いだった。

 今日、司は遅くなると言っていた。
 何か大きな集まりがあるらしく、帰宅時間も分からない為に千代子一人だけで夕飯は済ませておいて構わない、と言われていた。会社経営者と言う立場、そう言った社交の場にも出向く事が多い。そんな事態にももうすっかり慣れていた千代子ではあったが今朝、司が……普段は着ないブラックフォーマルを持ち出していた事には気づいていなかった。

 ホテルなどの会場で集まりがある際、別途着替えのスーツを持って行っていた。今日もビジネスバッグの他に手に提げていたスーツ用のガーメントバッグにはビジネスアタイア程度のスーツが入っていると思って千代子は送り出していた。
 クリーニングから戻って来た物を掛けない限り、司のスーツ用クローゼットを千代子も頻繁に触らないので何が持ち出されているかなど分からない。

 流石に暑いな、といつもの慣れた道を歩く。
 お酒も軽く飲んで来るだろうから司の夜食は何かさっぱりした物……食べても食べなくても良いように蒸し鶏のマリネと、と考え事をしながら日傘を深く差して歩いていた千代子は車道を走る一台のワゴン車が減速し、スライドドアが開いた事に気が付けなかった。

 それはほんの数秒の出来事だった。
中から出て来た複数人の作業服を着た者達がまるで壁のように、周囲から隠すように千代子をとり囲み、車内にいた者からも強い力で腕が掴まれ、引き摺り込まれてしまう。

「っ……!!」

 言葉を発する事が出来ないままの白昼の出来事。
 手から離れてしまった日傘も回収され、痕跡一つ残さずに千代子の姿は再開発地域ゆえの車通りの無さのせいで誰にも目撃されることなく――忽然とその場から消えてしまった。


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