はなのゆめ
 ひとりでは、折り目が付けられない。途方に暮れていると、そばで見ていた男君が手を伸ばす。けれども縫物など、高貴なお方にはふさわしくない仕事。姫君は困惑するけれども、男君は構わず、布に折り目を付けて押さえた。
 継母に苛められていた縫物が得意な姫君は、貴い男君に見初められた。姫君を深く愛おしむ男君は、姫君だけを妻と定め、たとえ内親王を妻にいただけるとしても、決して承知はしないのだと言う。
 おちくぼのものがたり。
 それは、その生が尽きるまで、ただ一途に、貴公子に愛された姫君のものがたり。

      *       *        *

 月影に白く浮かび上がる簀子に、花びらがひとつ、ふたつ。見上げれば、細く伸びた枝の先に、鈴のようにその身を固く閉ざしたつぼみがあった。つぼみを辿って、端から端まで眼差しを流せば、柔らかに綻んだ花びらが、枝陰に隠れるように佇んでいた。ようやく咲いたばかりだろうに、もう散ってしまったのか。よのなかにたえてさくらのなかりせば、と彼の歌人は美しい花が散ることを嘆いたけれども、初めから何もなかったのなら、この胸をきりきりと締めつけるものに、眩暈がするほど強く、目を瞑ることはなかったのか。
 三月(みつき)ぶりに京に戻った父に呼び出され、あるいはと思っていたことをまさに告げられた。ひとひらの花びらのような願いは儚く散った。これでようやく、観念することができるのだろうと思った。
 闇の中、白く浮かび上がるしなやかな身体を思い、幾度目を閉じただろう。幾度袖を濡らしただろう。耳に寄せられる紅いくちびるを、扇のように広がる豊かな黒髪を、まぶたの裏に描き出して。
 絡み合った息の合間に、うわごとのような恋の言葉を押し込むのですか。それとも、言葉を交わすのすらもどかしいというように、肌に指先を縋らせて、互いの熱を交わし合うのですか。
 ――どうして。
 問う声は、悲痛に零れ落ちる涙に溶ける。白い身体を、紅いくちびるを、豊かな黒髪を、それを思い描く自らの浅ましさに慄き、頭から衣を引き被って、朝を告げる鶏の声を待った。
 ――太郎君(たろうぎみ)
 藤原北家嫡流、左大臣が嫡男、正二位権大納言。同じ藤原の氏を持てど、遙か雲の上のひと。
 あのお方の優しさに、それを忘れていた自分がいけないのだ。

        *        *        *

 于子(ゆきこ)が女房として左大臣家に仕え始めたのは、十四の冬。父に連れられて初めて足を踏み入れた東三条の左大臣邸は、真白き雪を紅の山茶花が鮮やかに彩り、秘色の水を湛えた池は、大きく首を動かしてようやく端が見えるほど。于子の父も受領(ずりょう)として富を蓄えていたから家にだって花も池もあったけれども、目の前に広がる景色はまるでものがたりの中のそれのようで、殿上人というのはこれほどまでに見ている景色が違うのかと目を見ひらいた。邸の主である左大臣に挨拶をすると、父は于子を残して帰ってしまった。生まれて初めての、自分の邸以外の場所で過ごすとき。今までは姫君とかしずかれる側だったけれども、面倒を見てくれることになった右近(うこん)に連れられて、于子は女房としての仕事をこなす。初めの頃こそ勝手の判らぬ仕事に疲れ切り、自分の局でひっそりと泣くこともあったものの、しかし一月もすれば慣れてゆき、得意な仕事も見つかった。

 あなたが縫ったのだから、あなたがお持ちなさい。
 雪もとうに解け、風が春の匂いを多分にふくんだころ。右近に言いつけられ、于子は左大臣の嫡男である太郎君のところへ向かっていた。透渡殿のすぐそばに植えられた桜の木を見上げると、まだ少しつぼみが残っているけれども、柔らかにほころんだ花びらが美しく枝を彩っていた。ひそやかに風とたわむれ、ひとつ、ふたつ。枝を離れた花びらは、ゆらゆらと空を舞って、音を立てずに落ちてゆく。
 さくらばな、ちりぬるかぜの、なごりには。
 知らず知らずのうちに、于子はそう口ずさんでいた。名残惜しく思いながらもその場を過ぎた。ひたひたと裸足が踏む簀子は微かに冷たい。太郎君の居所がある西の対にたどり着いた。すぐにそのひとは見つかった。高欄の柱にもたれ、ゆるりと座している。于子は簀子に膝をつき、ひとつ息を吸って声を掛ける。
「おくつろぎのところ失礼いたします、太郎君。御衣ができあがりましたのでお持ちいたしました」
 澄んだ空を眺めていた太郎君は、少し驚いたような素振りをみせてから、こちらを振り向いた。儚げで、水晶を思わせる、冴え冴えとした顔立ちをしていた。かたちの美しい薄いくちびるを緩め、そのひとはおもむろに手を伸ばす。衣擦れの音がして、ふわり、と伽羅の香があたりに揺らめいた。于子は膝立ちのまま前に進み出て、できあがったばかりの衣を差し出した。受け取った衣に眼差しを向け、ほう、と太郎君は息を吐く。
「……このように美しい縫い目は初めて見る。上手いんだね」
 ありがとうございます、と返しながら、思わず子供のような笑みが零れた。ああまた、はしたないですよと母上に宥められてしまう、と思ったけれども、こちらに向き直った太郎君の眼差しは、驚く程に優しかった。
「新しいひと、だよね」
「はい。藤原の、伊予守(いよのかみ)(むすめ)です。伊予と呼ばれております」
「ああ、伊予守の。伊予守は息災かな、先の宴で倒れていたようだけど」
 その言葉で、先日受け取った兄からの文の内容を思い出した。端のほうにさりげなく、笑いばなしとして書かれていたことだ。于子が左大臣家に仕え始めてすぐのころ、父は五条の邸で催された宴で、山茶花よりも顔を真っ赤にして倒れたという。
「は、はい。ええと、その節はお見苦しいところをお見せいたしました。お酒が強くないのに飲みすぎたようで。ですが次の次の日くらいにはもうすっかり良くなって、伊予に戻ったそうでございます」
「久方ぶりに京に戻ってきたのだから、人が集うのだろうね。皆に酒を勧められたらたまったものじゃなかっただろう。息災なら良かった」
 その宴があったのは、もう二月も前のこと。その後も何度も宴はあっていただろうに、ただの地方官に起きた出来事を覚えている殿上人を意外な思いで見つめる。見つめた先の儚げな瞳が、ひとつ、まばたきをする。絹糸のように細く繊細な睫毛が揺れる。眼差しを緩めて、太郎君が微笑んだ。美しく優しく穏やかで、これまでに見たことがないほどに高貴な笑みだった。
「また、私の衣を縫ってくれると嬉しいよ」
「はい」
 嬉しくて、声が高く弾んだ。すると、やはり幼かったのか、くすくすと太郎君が笑う。先程の微笑みとは少し違って、親しみやすい笑い方だったけれども、さすがに恥じらう気持ちがうまれる。慌てて頭を下げて、それでは失礼いたします、と下がろうとした。
「待った」
 呼び止められ、振り返ると、太郎君はなよやかな指で自分の耳のあたりを示している。
「花弁が付いているよ」
 え、と于子は指先で髪を探る。もう少し上、と太郎君が言う。けれども場所の見当がまったく外れているようで、花びらは一向に捕まらない。
「あ、あの、さっき、桜の木の近くを通ったのです。だから、きっと、そのときに。やはり桜は綺麗ですね、咲いたばかりなのに、もう散っている花びらがあったのです。だから、よのなかにたえてさくらのなかりせばって、」
「上に行き過ぎだ。……失礼」
 え、と于子は息を呑んだ。衣擦れの音とともに二藍色の直衣に景色が遮られ、伽羅が鼻のすぐそばで強く香る。胸の中、隅から隅までを満たした貴い香りに眩暈がして、息が、
 ――息が、止まってしまう。
 手が固く強張って、知らず知らずのうちに衣をきつく握りしめていた。そうして、耳元をくすぐるように髪が揺れて、自分のものではない熱を、薄い膜のような何かの向こう側に感じた。
「はい、取れた」
 衣擦れの音。そうして景色が戻り、伽羅が薄れ、于子ははあと息を吐く。頬のあたりがひどく熱くて、それにうろたえていると、声を上げて太郎君が笑った。
「あ、あのっ、申し訳ございませんっ、ありがとうございますっ」
 なおも太郎君は笑っている。うつむき、失礼いたしますと辛うじて言葉を残し、滑るように踵を返した。けれどもまた、背中に声が掛かった。
「春の心はのどけからまし……」
  よのなかにたえてさくらのなかりせば
  はるのこころはのどけからまし
 咄嗟に口をついて出た名高い歌。当然、太郎君は知っている。まだ熱い頬を両手で押さえ、おそるおそる振り返ると、視線の先のひとは、于子の髪から掬い取った花びらを見つめ、てのひらにそっと握り込む。
「花が散ってしまうのはやはり惜しいね。だけども惜しまれながら散って、その上愛らしいひとのもとに舞い降りるなんて。私はお前が羨ましいよ」
 声にならない悲鳴のようなものが口から出て、于子は慌てて口を覆う。こちらに向き直った公達の柔らかな眼差しに捉えられると、足に根が張ったように動けなくなった。どくどくと、身体の隅から隅までを、血が駆け抜ける音がする。
 く、と太郎君が肩をふるわせて笑った。その笑い声に弾かれたように、はっと気を持ち直す。
「し……失礼いたします……っ」
 母にきつく叱られてしまうような足音を立てながら、于子は足早に太郎君のもとから逃げ去った。西の対を離れ、桜の木のそばの透渡殿で、ようやくひとつ息を吐く。高欄に手をついて、薄い色合いの花びらが舞う空を見上げ、小刻みにふるえる指で髪の束を掬う。
 ――ものがたりの中の、公達みたい。
 掬った髪の束を、耳に掛ける。耳挟みははしたない(・・・・・)と母によく叱られていた髪型だけれども、そんなことを気にしている余裕はなかった。だって、胸を満たした伽羅がまだ、身体の芯に残っているみたい。どきどきと変なふうに胸が上下して、痛いような、苦しいような、そんな感覚が身体の隅々にまでひろがる。衣の合わせをてのひらで押さえて、于子はたどたどしく息を吸った。浅くなった息は、未だ整わない。
 多くの公達や女君が集う宮中では、こんな、ものがたりのようなやりとりが絶えず行われているのだろうか。きっとそうだわ、と于子は思った。そして宮中の女君たちは、ものがたりの中の姫君のように、気の利いた和歌なんかを詠んでいるのだろう。
 だとしたら自分は、何と無粋な姿をさらしてしまったのだろうと今更ながら思い至り、肩を落としながら、右近が待っている北の対まで戻った。
 
 無粋な姿をさらしてしまったと落ち込んでいたものの、裁縫の腕をいたく気に入ってもらえたようで、于子は右近と一緒に北の方付きの女房から太郎君付きの女房となった。桜という呼び名を与えられ、年が近いせいか、話し相手に呼ばれることも多くなった。
「源の兵衛佐(ひょうえのすけ)殿に、この間桜が言っていたことを話したんだ」
「ええと、どのことでしょう」
在五(ざいご)中将(ちゅうじょう)物語の女君の話」
 ええっ、と于子は調子の外れた声を上げる。手の中から筒が滑り落ち、乾いた音とともにふたつの采ころが転がる。出た目は、一と一。ああっ、と于子はまた調子の外れた声を上げ、肩を落として駒を一ずつ進めた。太郎君はくすくすと笑いながら于子から筒を受け取る。
「なかなか面白い姫君だと、兵衛佐殿は笑っていたよ」
「そ、それは。面白いと思っていただけたのなら何よりでございます」
 于子は項垂れた顔を袖で覆った。
 在原業平様の恋が綴られているという、在五中将ものがたり。その中のある一段に、童と()の童の幼な恋がある。一途に互いを思い続け、大人になって二人は結ばれるのだけれども、やがて男君は別に通い処を持った。それでも女君は恨み言ひとつ言わない。それどころか、女君は男君を別の女のもとに送り出したあと、美しく化粧をして、歌を詠むのだ。
  かぜふけばおきつしらなみたつたやま
  よはにやきみがひとりこゆらむ
 夜半に険しい山を越えて、別の女に会いに行く夫の身を案じる歌を。
 これこそ女のあらまほしき姿だと、母も兄もそう言っていたけれども。
 何がきっかけだったか、そのものがたりについて太郎君と話していたときのことだった。確か、半年ほど前のこと。
 でも、女君は化粧をしていたのですよね。だったら、わざと男君を快く送り出して、いぶかしく思った男君が女君の様子を覗くように仕向けたのではないでしょうか。
 美しくよそおった姿で、男君の前で男君を案ずる歌を詠んで、それに心を打たれた男君が自分のところに戻るよう、もくろんだのです。
 太郎君に促されるまま、つらつらと話していたら、太郎君は目を丸くして于子を見ていた。そのときになって、自分が随分とけしからぬことを言っていることに気付く。
 ええと、その。夫が他のひとに心を移したのに、そんな、夫の身を案じるなんて、できるものでしょうか。わたくしは、とてもそんな清らかな心持ちではいられないと思うのです。
 言い募れば言い募るほどあらまほしき女とはかけ離れる気がして、于子は袖で顔を覆う。こんなことを言って、きっと太郎君に呆れられた。恥ずかしさと情けなさに、顔に熱が集まっているのが判った。太郎君は、ひどく顔を顰めていることだろう。そう思ったのに、笑い声が聞こえてきたから驚いた。おそるおそる、袖の隙間から太郎君を窺うと、そのひとは袖で口元を覆い、くつくつと肩をふるわせていた。
 随分素直なんだね。少女(おとめ)かと思っていたけど案外と……。
 言葉の途中で、不意に気付いたように太郎君がくちびるを結んだ。
 いいや、失礼、そんなことを言ってはいけないな。
 伽羅の匂いが風に乗って于子に届く。香が風を渡った轍を追うように、太郎君は于子へ眼差しを流した。そうして、くちびるを緩やかに持ち上げて艶めいた笑みで囁くように言った。
 ――きみは、姫君に違いないのに。
 笑みにつらなる息遣いは、柔らかな響きを残して消えた。
「そういえば、随分素直な姫君だとも、兵衛佐殿は言っていたかな」
 太郎君の言葉に意識を引き戻され、于子は太郎君を見つめた。すると筒を振る太郎君は、どこか不機嫌そうに見える。転がり出た采ころに一瞥をくれ、目を伏せたまま駒を進める。どうかなさったのかしら、と思ったけれども、顔を上げたときにはいつもの穏やかな面持ちだった。気の所為だったかと思い直し、于子は安堵して言葉を発す。
「素直、なのでしょうか。前に、太郎君もそう仰いましたけれど。あまり、女として好ましい考え方ではございませんので」
 思ったままに口に出した、という意味で良いのなら、確かに于子の言葉は素直だ。けれども、素直、という言葉の持つ従順で清らかな響きは、于子が放った言葉には相応しくないように思える。
「さあ、女君の本当の心は判らないけどね。心を通わせた姫君が他の男に心を移したとしたら、少なくとも私は、穏やかではいられないな。きみは、在五中将物語より、落窪の物語のほうが好きなのだったっけ」
 言いながら筒を手渡された。「はい」と控えめに頷きながら、于子はからからと筒を振る。
「おちくぼのものがたりの男君は、たとえ内親王を妻にいただけるとしても、承知しないのだと言います。一途に愛を向ける女君を悲しませたくないから。もしもわたくしも、そんなふうに言っていただけるほどに誰かに愛おしまれたなら、とおろかにも夢を願ってしまいます」
「愚かだとは思わないよ。桜だけではないのではないかな。ただ皆、あらまほしき女君であろうとしているだけで。だけど、それを口には出さない」
 かろん、かろん。賽ころが転がり出る。
「だから、きみは姫君に違いないけど、どこか少女のようでもある」
 瞳が、太郎君の瞳に捉えられる。于子は思わず目を逸らし、駒を進めようと手を伸ばした。ふ、と頭の上で息の音が聞こえる。
「少女のように素直なのか……それとも、」
 息をふくんだ太郎君の声が、艶をまとって囁いた。
「きみにとって私は、言葉を取り繕う必要などない、面白みのない男だってことなのかな」
 駒に伸ばした手を、ぴたりと止めた。于子は頬に上った熱を自覚しながら、せめて大人びた言葉を繕った。
「また、そんなことを仰って」
 動揺で舌足らずになった声は、あきらかに少女のものだった。于子が決まり悪さにうつむくなか、太郎君は明朗に笑って、于子の駒を目的の場所に動かした。なおも笑い続ける太郎君を恨めしく見つめると、太郎君は于子に賽ころを差し出した。
「ほら、すまなかった。きみがもう一度振っていいよ。だから、どうか機嫌を直して」
 太郎君が身体を揺らせば、伽羅がふわりとあたりを満たした。高貴な甘い香りを吸いこんだ胸は、どくどくと忙しなく早鐘を打つ。
 もう、三年も前のこと。それでも目を瞑れば、あの香りを鮮明に思い出せる。空間を朗らかにふるわせた太郎君の笑い声も、自分の中にうるさいほどに響いた心音も。

     *        *         *

「あら伊予、戻ったのね」
 透渡殿を歩いていたら、後ろから声が掛かった。于子は振り返る。右近だった。茜色の日に縁取られ、玄色に染まった美しい顔は、おそらく笑っているのだろう。
「はい、たった今戻ったところでございます」
 そう、と年相応に掠れた、けれども雅やかな声で相槌を打ちながら、右近は于子の隣に並ぶ。
「御父上のおはなしは何だったの」
 何気無い問いに、于子はひとつ、まばたきをした。息を吸って、何気無い声をよそおって答える。
「縁談の話でございました」
「……そう」
 右近がこちらを向いて立ち止まり、于子もならって足を止める。于子よりやや背の高い右近を見上げ、その目を見返した。
「お相手はどなた」
「源の中納言様の四郎君(しろうぎみ)の、兵衛佐様です」
「源の兵衛佐様……、立派な方ね。それで、どうするの」
「お受けいたします。お断りする理由など、ございません」
 真っ直ぐに見返した右近の瞳の中には、小さくて朧げな自分の影が映っている。そう、と相槌を打つ右近の眉が少し下がった気がした。再び歩き出した右近に半歩遅れ、于子もまた歩みを進める。簀子には、儚く散った花びらがひとつ。ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
「太郎君の御衣のことだけれど」
 右近の言葉ではっと顔を上げる。はい、と一息分遅れて返事をした。
「一昨日ね、布が織り上がったの。縫うのは全てあなたに任せようかと思うのだけれどどうかしら。太郎君は、あなたの腕を気に入っていらっしゃるから。……ただ」
 そこで一旦言葉が切れ、右近の瞳は于子の瞳を捉える。案ずるように、慮るように、于子を見下ろす瞳が静かに揺れる。
「あなたも自分の婚儀の準備があるのだから、きっと慌ただしくなるでしょう。無理は言いませんよ」
 ……ああ、きっと、右近殿は。
 下がった眉は気の所為ではない。于子がひた隠しにしようとした心を、右近はおそらく知っている。そうよね、と于子は内心で薄笑う。右近殿は、最初からずっと、わたくしの面倒を見てくださっていた人なのだから。
「太郎君には、たいそうお世話になりました。わたくしの、最後の務めです。最後まで力を尽くします」
 自分は随分と大人びた声を出せるようになったのだな、などと思ったのは、昔を思い出していたせいだ。于子はかつての記憶を振り落とすように、そっとまばたきをした。
「頼みましたよ」
 かたちの美しい眉を下げたまま、右近が微笑んだ。はい、と于子も笑おうとした。けれども、声を発そうとしたかたちのまま、于子のくちびるはひたと止まる。
 右近の後ろ、庭を挟んで西の対へ繋がる渡殿を、艶やかな髪を引き摺りながら女房が進んでゆく。息を呑んだまま、養分を吸いつくされた木の幹のようにその場に立ちすくむ。目を逸らしたいのに、身体が動かない。あのひとが――式部殿が、向かう先は、きっと。
「伊予」
 強張った手に、すべすべとしたぬくもりが触れた。行きますよ、と美しい声に導かれ、腕を引かれ、于子は呆然と足を進める。一歩、そして、もう一歩。足先に触れる簀子は冷たい。身体の熱を容赦なく奪ってゆく。それだから、身体の感覚が失くなってゆくのだろうか。
 ひらり、と爪先の上に花びらが落ちた。は、と短い息を吐いて顎を上げると、茜色の風の中を花びらが舞っていた。影色をした小さな花びらは、ひらりひらりと降りてきて、吸い込まれるように、于子へ舞い落ちる。影色だったそれは、于子の髪の上で、薄紅色にたたずむ。
 ――どうして。
 右近に聞こえてしまわぬように、掠れた息の中に言葉を隠した。けれども言葉を隠しても、身体の芯から思いが込み上げてくる。心がどくどくと音を立てる。肌に冷たい汗がにじむ。不安定に小刻みに眼差しが揺れる。いけない、いけない、そのようなこと、思ってはいけない。いけない、いけない、いけない。頭の中でそう繰り返すたびに、息遣いが浅くなってゆく。
「ねえ伊予、太郎君はご自分で結婚をお決めになったの。だからきっと太郎君も、どうにもできないでいらっしゃるのよ」
 右近の美しい声が、遠くに聞こえる。

 ねえ桜、縫物をするところを見せて。

 伽羅が強く香って、早鐘を打つ心の音が身体の中に響いて、針を刺す手元が覚束なかった。背中に覆いかぶさるように後ろから布を押さえていたひとは、ああ、と小さく声を上げて、身体を少し横にずらした。風が通り、伽羅が(くう)に散り、はあ、と大きく息を吐く。横から、愉快そうな笑い声が聞こえた。
 穏やかな声と、伽羅の匂い。すぐそばで明朗に笑う、美しい公達。それはまるで、ものがたりの中に迷い込んだかのような景色だった。

     *        *         *

 帝の妹宮が太郎君に降嫁することが決まったのは、二月(ふたつき)前。真白き空からちらちらと雪が散る頃だった。誰より貴い妻を得るという貴族としての誉の極りに、左大臣邸は色めき立つ。その中で、于子の心は地面に降り積もった雪のように、しんと静かに冷たくなった。けれどもすぐに思い直す。自分はいったい何を思ったのか。他でもない、太郎君の慶び事だというのに。
 このたびは、おめでとうございます。
 ああ、ありがとう、と太郎君は薄いくちびるを緩めて笑った。高貴な微笑だった。いつもと同じ、穏やかな声だった。穏やかな眼差しも、いつもと同じ。
 儚げで優しい、高貴な微笑が瞳に映ったとき、まるで鋭い氷柱に切り裂かれたように、心が引き攣れた叫び声を上げた。
 そのときに、判ったのだ。自分が、随分けしからぬ女房なのだと。
 自分が抱くにはふさわしくない思いが、心の中にあることは知っていた。それであっても、きちんと弁えているつもりでいたのに。それはほんの少し、心の端に芽生えたばかりのものにすぎない。細い指で、容易く手折ることのできるくらいのものだ、と。
 けれどもそれは、細く儚い枝のままでとどまれてはいなかった。いつのまにか心の隅々にまで根を張って、容易くは抜けない太い幹となっていた。今になっていくら必死で枝を手折ろうと、幹が枯れないならば、それは決して無くならない。

 闇よりも濃い豊かな髪は、薄闇の中で艶めかしく揺らめくのですか。なよやかな指が肌を辿れば、熱の籠った息を吐くのですか。つややかに濡れたくちびるは、掠れた声であの方を呼ぶのですか。
 頭から衣を引き被り、ひとときでも早く、夜が明けることを祈る。身体はひどく冷たいのに、肌はじっとりと汗ばんでいて、早鐘を打つ心音がけたたましいほどに響いている。
 そもそもが抱いてはいけない思いだった。だからそれをどうにか葬り去ろうとしていた二月前のある朝、ふとすれ違ったひとから伽羅の香りがした。振り返って、空に漂う伽羅を吸い込み、女房の後ろ姿を目に映した途端に、于子は愕然とした。その後も、幾人かの伽羅を纏う女房とたびたびすれ違った。その度に、于子はくちびるを噛んで目を伏せた。
 肩を抱き、袖をぎゅうと顔に押し付ける。幾ら鼻を押し付けても、于子からは決して伽羅が匂うことはない。ただ、瞳から落ちた水の跡が衣を濃く染めるだけ。どうして、と掠れた声を吐き出した。特段に、色を好むひとではなかった。ないのだろうと、思っていた。物語の中の公達のような振る舞いは、きっと、恋の遣り取りに慣れない于子の反応を面白がり、わざとそうしていたのだと思う。だって、袴の紐に手をかけられたことなどない。肌をなぞられたことなどない。髪を梳かれることすら、腕を引かれることすら、一度だってなかった。あったのは、ただ、髪に落ちた花びらを掬った指先と、色ごとめいた言葉だけ。
 どうして、そんなことを。どうして、たくさんのひとと。
 自分は問える立場などではない。問うことなど、そもそも許されないのに。
 顔に押し付けた袖は、次々に涙を吸っていく。涙が枯れるほどに泣けば、心の中に根を張ったものも、枯れてしまうのなら良いのに。

 眠れぬかと思ったもののいつの間にかきちんと眠っていたようで、于子は薄明りの中で目を覚ました。身体を起こすと、引き被っていた衣が下に落ち、身体が冷たい風にさらされる。春になったといえども、朝方はまだ寒い。靄がかかったように重い頭を持ち上げ、身支度を整えた。局を出ると、風はやはり冷たいものの、山の端から差す光が空に残る薄闇に美しい筋を描いていた。思わず目を細める眩さに、頭の中の靄も少しは晴れた気がした。今日から仕えを辞す一月(ひとつき)の間に、太郎君の御衣を仕上げなければならない。織り上がったという布を受け取るため、于子は右近の局に向かう。一歩一歩進めるごとに、足の先から、簀子に熱を奪われてゆく。
「あ、」
 建物の角から、出仕前の太郎君が現れた。こちらに向かってくるようで、于子は咄嗟に身をすくめた。けれども渡殿に逃げ道はない。その場に立ち止まり、心の音を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。息を吸って、于子は足を前に踏み出した。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。身体の芯でどくどくと生み出される熱は、きっと簀子が奪ってくれる。
 顔を上げ、一歩一歩進んでゆく。太郎君と目が合い、眼差しを伏せて頭を下げる。すれ違う手前、身体を端に寄せようとしたところで、声を掛けられた。
「桜、戻っていたんだね」
 衣擦れの音とともに、ふわりと、伽羅が香る。はい、昨日戻りました、と答えて、まぶたを伏せて微笑む。
「久方ぶりの実家で寛げたかな」
「ええ、久しぶりに、父とゆっくり話をしました」
「それは良かった。伊予守は息災かな」
「……ええ」
 まばたきをした瞼の裏で、桜の花びらが舞う。高貴な微笑は、優しい眼差しは、穏やかな声は、あの頃とまったく変わらない。
「桜、目が腫れているようだけど、どうかした」
 目線を合わせて顔を覗き込まれ、于子はびくりと肩を強張らせた。まばたきもできずに太郎君の瞳を見返していると、花びらを掬うように、なよやかな指が目の下に触れた。びく、とまぶたをまたたかせた間に、ほんの僅かに触れたぬくもりは、あっという間に消えてしまった。
「少し……疲れておりましたので、昨夜は戻ってすぐに眠ってしまいました。きっと、寝すぎて腫れてしまったのでしょう。特にどうとはしておりませんので」
「そう、だったら良いけれど」
「お心遣い、恐れ入ります。……失礼いたします」
 目を伏せ、頭を下げ、静かに踵を返す。袿を引きずる音が、于子の歩みに静かに伴う。伽羅が、遠ざかってゆく。
 親しげな言葉をいくら交わそうと、情けに満ちた言葉をいくら掛けられようと、于子が伽羅を纏うことはない。高貴な微笑も、優しい眼差しも、穏やかな眼差しも、初めに会った頃と何も変わらない。

     *        *         *

 薄紅の花びらが、枝の端から端までを彩った。儚く繊細な、ふわりと柔らかな花びらは、空に舞い、風に揺れ、そうして地面に舞い落ちる。
 渡殿で桜の木を見上げる于子に聞こえるのは、自分の動きにつらなる衣擦れの音と、時折遠くで鳴く鶯の甲高い声だけ。あと何度、鶯の声を聞いたなら、桜は全て散るのだろう。
 単はできた。指貫もできた。あとは袍を仕上げるだけ。于子に操られた針は迷いなく進んでゆくけれども、針はあと数日もすれば進む先を失うのに。それでも針は進んでゆくの。ねぇ、それだったなら、わたくしは。
「ねえ伊予、結婚するの」
 突然上から降ってきた声に、于子は驚いて肩をすくめる。振り返れば、太郎君の姉君である中君(なかのきみ)付きの女房だった。于子の顔は知らず知らずのうちに強張った。式部殿、と掠れた声で応じた。
「源の中納言様の四郎君と聞いたけど」
于子の戸惑いには構わず、式部は于子の隣に腰を下ろした。はい、と頷いて、于子はやむなく式部と向き合った。向き合っても、伽羅が香らないのがせめて心を落ち着かせた。
「へえ。源の中納言様は、血筋の割に中々官職に恵まれない。邸のうらぶれかたも相当なもののようね。もうなりふりなど構っていられない。下賤と見下していた血筋と交ざろうとも、あなたの御父上が蓄えている財の恩恵を受けたいというところかしら」
 中納言様を鼻で笑って蔑む物言いに、于子は目を見ひらいた。
「それは、わたくしの家も同じです。こちらには確かに財はありますが、父は六位の国守にすぎません。わたくしの父にも、四代前に源の氏を賜わられた貴いお血筋と結びつきを持ちたいという目論見があるはずです」
 ふっ、と式部はふたたび鼻を鳴らした。そうかと思ったなら、それであなたは結婚するの、と、愉快でたまらないといった声で于子に問うた。馬鹿にされているのだろうか、と于子は唖然とする。
「はい。お断りする理由などございませんから」
 相手が年長のため、声だけは静かに保つよう努めたものの、随分生意気な物言いをしてしまった。おそるおそる、式部の様子を窺う。式部は、声をあげて笑った。于子の母が聞いたなら、はしたないですよ、と窘めるような笑い方だった。
「そう。あなたも随分姫君らしくなったのね。いたいけであどけなくて、まるで、雛遊(ひいなあそ)びで喜ぶ少女のようだったのに」
 式部は気を悪くした様子はなく、血のように紅いくちびるの端を持ち上あげた。またも唖然とする于子に一瞥だけ寄越して立ち上がった。
「思い通りになんてならないの。仕方ないことよね。だって、太郎君ですら、思い通りにならないのだもの。だけどあなたは何も判っていない。それだけ、姫君らしくなったというのにね」
 ふふ、と艶めいた笑みを残して、式部は去ってゆく。于子は式部の後ろ姿を見送りながら、ただただ唖然としていた。
 ――今のは、いったい、どういうこと。

     *        *         *

 四年の間に、縫物の腕はさらに上がった。上手いと言われる縫い目の美しさはそのままに、昔は三日かかった仕事を、今は一日でできる。数えきれないほど、布に針を刺し、糸を針に巻き付ける。針を抜いて、糸を切る。そうして、美しい布は美しい衣となった。
 外を見ると、開け放した半蔀から覗く空は、茜色に染まっていた。出来上がった衣をそれぞれ丁寧に畳んで、ひとつ、ふたつ、まばたきをする。太郎君が邸に戻っているのは知っている。けれども、なかなか心が定まらなくて、于子は空を見つめ続けた。
 決心したのは、茜色が深い藍色に変わった頃だった。于子は静かに衣を持ち上げる。
 日が落ちても風は温く、夏が近づいてきていることを思わせる。釣灯籠の火に照らされて白く浮かび上がる簀子を進み、西の対の奥へ。母屋の手前で膝をつき、声を掛けた。「どうぞ」という返事を聞いて中へ入る。ふわり、と伽羅が香った。
「桜」
 文台に向かっていた太郎君が、こちらを振り返った。高貴で儚げな笑みが、燈台の炎を受けてゆらりと揺れ、よりいっそう儚げに見える。于子の身体の中で、ぴしり、と心が音を立てる。
「御衣が出来上がりましたので、お持ちいたしました」
 内心の動揺を気取られぬよう、努めて平坦な声で言った。
「ああ、……ありがとう」
 伸ばされた腕に、衣を渡す。まばたきをするくらいの間、指が、なよやかな指に触れて、肩がはねた。なよやかだと思っていた指は、于子の指よりもずっと太く骨っぽかった。太郎君は、膝に衣を置いて、いちばん上のいちまいを取り上げる。伏せた目が、おもむろに縫い目を辿った。
「相変わらず、上手いね」
「ありがとうございます」
 きしんだ音を立て続ける心を身体の奥に隠し、于子は微笑む。太郎君が衣から眼差しを上げた。瞳と瞳が重なった。于子は何かを言おうとした。けれども、何も言うことができなかった。この後はどうしたら良いのか、瞳を逸らしたほうが良いのかすらも判らず、于子はただ黙り込む。
「結婚、するの」
 黙を破ったのは太郎君の問いだった。身体の前で重ねた手に力が籠る。はい、と于子は頷いた。瞳をまっすぐに見つめたまま頷いた。
「源の兵衛佐殿と聞いたけど」
 はい、と于子はまた頷いた。
「兵衛佐殿と、先日内裏(だいり)で会って話したんだ。少女のように素直な姫君だから、縁談があって、是非妻に迎えたいと思ったそうだよ」
 え、と于子は目を見ひらいた。随分前に、太郎君から聞いた話を思い出す。在五中将のものがたりについて、于子が語った内容をどなたかに話したということだ。そういえば、太郎君が于子のことを話したと言っていたその相手は、他でもない源の兵衛佐様ではなかったか。
「そう、なのですね」
 握りしめた手が少しだけ緩んだ。結婚するひとは、顔を知らない。言葉も文も交わしたことがない。それでもあちらは、于子のことを何も知らなかったわけではなかったのか。太郎君が話した于子のことを覚えていて、
 その上で、わたくしを妻に迎えたいと思ってくださったの。
 張りつめた心が不意にほぐれて、つられて表情もほんの少しだけ緩むのが判った。それを自覚した次の途端だった。
「何を、思っているの」
 聞いたことのない低い声がそう問うた。太郎君の声だった。心がまったく読めない声に、どこか空恐ろしさを感じた。動揺しながらも、それでも不格好に笑み、于子はたどたどしく言葉を紡ぐ。
「互いの家のためだけに結婚するのだと、思っておりました。わたくしの家は高貴な家とのつながりを求めて、あちらは、父が蓄えている財を求めている。けれども、兵衛佐様は、それだけではなかったのなら、わたくしは、随分冷たい女だと、思いました」
「だから、きみは結婚するというの」
 だから、とはどういうことだろう。判らないまま、お断りする理由がございませんので、と于子は答えた。途端に、太郎君の瞳が歪む。
「きみのことを、話すのではなかったな」
「え、」
 きみは、随分大人になったね。
 先程よりもいっそう低い声がそう囁いたかと思うと、目の前の景色がまたたく間に反転した。ゆらり、と燈台の火が揺れる。伽羅が、身体を絡めとる。
「たろうぎ……っ」
 背中を襲った鈍い痛みに、咄嗟に、身体をかばうように腕を突き出した。けれどもその腕は強い力にいとも容易く組み敷かれ、手首が畳に押し付けられる。目をひらけば、太郎君が于子を上から見下ろしていた。于子を捉える瞳は、黒瑪瑙のように深い闇の色。
 たろうぎみ、と掠れる声を息と共に吐きだす。そのひとは答えず、襟の合わせに手をかけた。なよやかな指が肌に触れ、艶めかしい感覚に肌が泡立つ。太郎君の耳朶と、于子の耳朶がぶつかった。首筋にかかる息が熱い。緋の袴も、その帯を解かれ、布が肌をするりと滑る。肌が、露わに――きつく、目を閉じた。
 どうして、こんなことを。
 目を瞑った闇の中で于子は問う。
 特段に色を好む人ではなかった。ないのだろうと、思っていた。その微笑は高貴で、于子を見つめる眼差しはいつも優しく、掛けられる言葉は穏やかな情に満ちていた。それなのに、どうして、このようなことを。どうして、たくさんの女のひとと。
 どくん、と心が音を立てる。
 ――ああ、違う。
 于子は薄く目をひらき、腕の力を抜いた。自分が情けなくて仕方がない。ずっとそれを思っていたのに、今、ようやく判るなんて。
「……嫌なら、嫌と言って」
 ぼんやりと目に映る太郎君が、苦しげにくちびるを噛んだ。眉根には深い皺が刻まれている。その顔の意味が判らぬまま、于子は今にも消えそうな声で答えた。
「嫌では、ありません」
 答えた途端、どくどくと身体の中を激しく血が走り、てのひらに汗がにじむ。息が浅く荒くなって、強く握り締めた手が小刻みにふるえる。
 どうして。
 問う言葉はそこで終わり、その先はいつも曖昧だった。曖昧にしたのは恐れたから。心の奥の思いを、確かな願いにすることを。
 頭から衣を引き被り、闇の中で何度も問うた。どうして、どうして、どうして、どうして、
 ――どうして、わたくしではないの。
 桜という呼び名も与えられ、太郎君のいちばんおそばに仕えていると思っていた。それなのに、太郎君は于子ではないひとの腕を引いた。于子ではないひとの紐を解いた。于子ではないひとの肌に触れた。どうして、わたくしではなかったの。
 声を発そうとするくちびるがわななく。息を何度か吸い、吐いて、ふるえる声で言葉をつないだ。
「兵衛佐様との結婚は、わたくしにとって、勿体ないほどのお話です。わたくしの家にとっても、とても大きなこと。断る理由などありませんし、断ることなどできません。けれども、もし。……もし、太郎君が、わたくしをお求めになったのなら」
 左大臣が嫡男、正二位権大納言。妻と決めた女を奪ったとして、その権勢にいったい誰が逆らうことができるだろう。
「わたくしは、きっと、こうなることを望んでおりました。わたくしは、何という、浅ましいことを、」
 息が詰まり、温い水が頬を伝う。わざわざ炎が揺れる薄闇の中、太郎君のもとを訪ねた。腕を引かれ、帯を解かれることを導いたのは、他ならぬ自分だ。そうなることを、知らず知らずのうちに強く願っていた。
 于子は、息を吸ってくちびるをひらく。
「わたくしを、あなたのものにしてください」
 切なる声で願った。切なる眼差しで、太郎君を見つめた。
 けれども、
「……戯れが過ぎたな。すまなかった。下がりなさい」
 押さえ付けられていた腕は呆気なく手離され、太郎君は于子に背中を向ける。于子は目を見ひらいた。声にならない声で、どうして、とうわ言のように呻く。よろよろと身体を起こし、背中に縋りつこうとして、けれどもその背の貴さに慄き、縋りつくことはできなかった。畳にくずおれる。ぱたぱた、と畳に水が散った。
「駄目、ですか……、衛門殿と、甲斐殿と、式部殿を、お呼びに、なったのでしょう。だったら、わたくしも駄目ですか……っ」
 咽ながら、于子はうったえる。それでも、太郎君は振り返らない。于子に向けられた高貴な背中は、明確に于子を拒絶している。――ああ、駄目なのだ。
「申し訳、ありません。……浅ましい、ことを」
 太郎君は下がりなさいと言った。ならば、一刻も早く下がらねば。乱れた襟を引っ張り、袴の紐を結ぼうとするけれども、指先に力が入らない。諦めて立ち上がろうとして、袴に足を取られる。ふふ、と于子は涙にまみれた微笑みを零す。ああ、最後まで、なんてみっともないのだろう。目を閉じ、訪れる痛みを待った。
 けれども于子を包んだのは、ふわりと舞う伽羅。力強い腕で抱きとめられて初めて、于子は自分の身体がふるえていたことを知った。目をひらければ、切なげな太郎君の瞳に捉えられる。目を逸らせなかった。声を発せなかった。動けなかった。しばらく見つめ合っていたら、太郎君が諦めたように口をひらいた。
「私は、きみを妻にはできない」
 その言葉にはっとして、于子は顔を上げる。まぶたの縁から涙が落ちた。私は、きみを妻にはできない。太郎君の言葉を頭の中で繰り返した。――それなら、わたくしが、妻となることを望まなかったのなら。
「きみは私の召人(めしゅうと)として、ずっと、日陰の身になってしまう」
 構いません、と于子は即座に首を振った。妻など望みません、と追い縋るように続けた。幸せな結婚などいらない。女房のままでいい。誰に何と謗られようと構わない。ただ、あなたのそばにいられるのなら。
「日陰の身で構いません。だから、どうか、」
「駄目だ」
 強い声に息を呑む。見つめ合う先で、太郎君がひどく切なげに目を眇める。
「私は、きみを妻にしたかった」
 喉を絞められたように苦しそうな太郎君の声を、初めて聞いた。

 ねえ桜、散らない花などあるだろうか。
 花びらが舞い落ちるようにそっと、太郎君の声が落ちる。
 たとえば人が花だったとしたら、私は一番日当たりの良い場所で咲き誇る満開の花だ。艶麗に絢爛にあるいは高慢に、花の盛りを謳歌している。これ以上花弁を開く余地はない。咲き続けるか、さもなければ散るか。もしかしたなら、私が散ることを望んでいる莟もあるかもしれないね。意気揚々と袖を翻す私の陰になって、花を咲かせられずにいる莟が。彼らは私を疎んじているだろうか。私を恨んでいるだろうか。ともすれば、憎みすらしているだろうか。そんな彼らの目の前で、私が散ったら、いったいどうなるだろうね。

「ずっと、きみを憎からず思っていたよ。いずれきみを妻にしたいと願っていた。願っていたけれど、私は、散るわけにはいかない」
 涙の跡を張り付けた顔で、于子は太郎君を見つめる。
「きみの御父上は受領として財を蓄えているけれど、私に財は必要ない。帝直々のお申し出を拒んで、我が一門に帝との不和を齎すわけにもいかない。きみと帝の妹宮、婚姻を結ぶなら、我が一門に益があるのは宮様だ。そう判断したのは、私だ」
 ――太郎君は、泣いていらっしゃる。
 太郎君の目に涙はない。けれども咄嗟に、そう思った。手を伸ばして、向き合うひとの頬に触れる。もう仰らないでください、と不格好にくちびるを持ち上げると、頬に触れた手に、なよやかな指が絡められた。そうしてそのまま手を捉えられ、腕を引かれた。伽羅がすぐそばに香って、衣擦れの音がして、于子は浅黄色の袖に包まれる。
「きみを妻にしたかった。命尽きるまで、きみだけを愛したかった。きみは――貴女は、私が大切にしたいと願った人だから」
 于子を包む袖の力が強まる。少し痛いくらいの力加減だった。どくどくと響く血の音は、自分のものか太郎君のものか。
「貴女だけは召人にしない。貴女はどうか、妻として、幸せになって」
 ぐ、と于子はくちびるを噛んだ。苦しいほどに心が痛いけれども、太郎君が于子に幸いを願ったのだから、それをうったえることなどできない。込み上げる思いは、言葉の代わりに涙になった。頬に残る涙の跡が、新たな涙で洗われる。
「私は、貴女が望むような男ではないね。けれどもせめて、貴女の前だけでは貴女の望む男君であろうとした、私の意地だ」
 ふくりとふくらんだ涙が視界をにじませる。于子は手の甲で涙を拭って、太郎君の瞳を見つめた。わたくしも、と発した声がかすれた。息を吐いて、吸って、思いをもういちど言葉にする。
「わたくしも、お祈り申し上げます。あなたの幸いを、お祈り申し上げます」
 苦しげに、切なげに、太郎君の表情が歪む。于子は太郎君に強く抱きしめられた。苦しいほどに、切ないほどに、強く、懸命に。

 ねえ、桜。私の名は雅通(まさみち)と言うよ。貴女の名を訊いてもいいかな。
 于子と申します、と答えると、雅通様は目を伏せて、物悲しげに微笑んだ。
 ゆき、か。貴女は冬の名を持つひとだったんだね。掴もうとして触れれば、儚く消えてしまう。手に入れられるわけがなかったんだね。私は、桜の幻を見ていたのだから。
 物悲しく高貴な微笑みのまま、雅通様は囁いた。
 ゆきこ。貴女の名を、私はきっと忘れない。

 頬を、後から後から、涙が滑り落ちる。にじむ視界に、薄紅の花びらが、いちまい、にまい、ひらりひらりと舞い踊る。月が冴え冴えと影を伸ばす夜の中、桜の枝は静かに佇む。花の大半を落とした枝。しかしそれでもなお、月に向かって伸びる枝は美しい。
 ひた、ひた、と夜の冷たさが染みた簀子を于子は歩く。透渡殿の柱を伝って崩れるように座り込んで、桜の木を見上げる。まさみちさま、と声にならない声で呟いた。
 ものがたりの中のような、美しい景色。美しい景色を見つめる、貴いひと。
 私は、夢を見ていたのだ。
 この景色は、私のものではなかったのに。
 涙の絡んだ咽び声が喉から零れたその刹那、背中側から布を引きずる音がした。振り返ると、夜の闇に溶けるようにしてそこにいたのは式部だった。涙の筋を頬につけたまま于子が動きを止めると、血のように紅いくちびるを静かに結んで、式部は于子の前に膝を突く。そうして、于子と眼差しを合わせた。
「わたしたちと、同じになるつもりかしら」
 その問いの意味が、咄嗟には判らなかった。見ひらいた瞳で式部を見返していると、それとも、源兵衛佐様と結婚するの、と重ねて問われた。
「結婚します」
 かすれた声で答えたなら、そう、と式部はいつかと同じような声の調子で言った。
「それなら、表着(うわぎ)を貸しなさいな。代わりにこれをあげるから」
 自分の表着を肩から滑らせ、式部は微笑んだ。その言葉の意味はすぐに判った。于子の表着には伽羅の匂いが移っている。それをまとったまま邸の誰かとすれ違ったなら、今宵はひそやかな噂となって、至るところへしめやかに伝えられるだろう。もしかしたなら、源兵衛佐様にまで。
 太郎君は、于子が妻として幸せとなることを願った。それならば、式部の忠告に従ったほうがいいけれども、
「……どうして、」
 于子は式部に意図を問うた。式部と言葉を交わしたのはあの日の一度きりだけれども、于子にたいして、親しみの情を持っているようには思えなかった。それどころか、むしろ。
「あなたのことは、憎らしいわ。呪いたいくらいに、恨めしくて仕方がない」
 式部は直截に言い切った。面食らう于子から眼差しを外して、式部は傷心の瞳を静かに揺らした。
「でも、太郎君は、あなたに幸せになって欲しいのだもの。あなたが幸せでないと、太郎君は苦しいままなのだもの。あなたなの。……わたしでも、他の誰でもない」
 それは苦しいほどに強い思いだった。于子は黙って表着を脱いだ。衣擦れの音とともに、ふわり、とあたりに伽羅が揺らめく。
「……お借りいたします」
 于子と取り換えた、伽羅の染みた表着を、式部は泣きそうな眼差しで見下ろしていた。
 于子は式部の表着をまとって自分の局に戻った。寝具にしている袿のそばに、どこから入り込んだのか、桜の花びらが落ちていた。涙のようなかたちをしたそれを、指先でそっと拾い上げた。

     *        *         *

 ねえ桜、縫物をするところを見せて。

 伽羅が強く香って、早鐘を打つ心の音が身体の中に響いて、針を刺す手元が覚束なかった。背中に覆いかぶさるように後ろから布を押さえていたひとは、ああ、と小さく声を上げて、身体を少し横にずらした。風が通り、伽羅が空に散り、はあ、と大きく息を吐いた。横から、愉快そうな笑い声が聞こえた。
 押さえてもらっていた隣を一直線に縫った。やはり上手いね、と太郎君が感嘆の声を上げた。于子は嬉しくなって笑った。そうして、ふと、あるものがたりを思い出したのだった。
 おちくぼのものがたりのようですね。
 何ともなしにそう言ったなら、なるほど、と太郎君は笑った。桜が姫君で、私が少将だね、と。
 その言葉で、たいそうけしからぬことを言ったのだと気づき、すみません、と于子は肩をすくませた。どうして謝る、と問う太郎君は、けれどもどこか楽しそうだった。上手い言葉が見つからず、于子はうつむいて針を進めた。
 おちくぼのものがたり。継母に苛められていたおちくぼの姫君が、少将に見初められ、幸せになるものがたり。ものがたりの中に、少将が姫君の縫物を手伝う場面がある。まさか、その姫君と少将に、自分と太郎君を重ねてしまうなんて。
 落窪の物語が好きなの、と問われ、それには、はい、と頷いた。
 少将は、右大臣の姫君との縁談も断って、ずっと、姫君だけを大切にしました。ものがたりの中のことですが、憧れてしまいます。
 そう言ったなら、男としては耳が痛いねと太郎君が苦笑した。自分がまたもやけしからぬことをいっていると気付き、違うのです、と于子は慌てて言い募った。
 おちくぼのものがたりは、ものがたりですから。高貴な男君が数多の姫君のもとに通うのは当然のことです。それに、殿方の栄達は妻次第とも言いますし、だから、そういうわけではないのです。
 それでも、それが女君の……きみの、本当の心なのだろう。
 太郎君は、確か穏やかな声でそう言ったはずだった。
 女君はただ男の訪れを待つばかり。待つことの苦しみを、切なさを、理解できるほどには、私の心は枯れていないつもりだよ。
 穏やかに、そう微笑んだはずだった。

     *        *         *

 桜、と文台に向かっていた太郎君が、こちらを振り返った。水晶を思わせる冴え冴えとした顔立ちに、柔らかく優しい笑みを浮かべて、そのひとは于子を穏やかに見つめた。衣擦れの音がして、貴く甘い伽羅の香りがあたりに揺らめく。于子は微笑みを返し、床に手を突いて頭を下げた。
「今日まで、大変お世話になりました」
「君が縫う衣が着られなくなると思うと残念だけれど、君の幸いを祈っているよ」
 もったいないお言葉です、と于子は頭を下げたまま笑みを浮かべる。それから少しだけ昔のことを話して、于子は西の対を後にした。
 渡殿から庭を見渡せば、初夏の日の光に向かって、桜の木が勢いよく枝を伸ばしていた。薄紅の花びらは散り、代わりに青々とした葉が枝を彩る。庭に敷き詰められた白い砂に、風にそよぐ葉の影が揺れる。朱い橋が架かった池も熱をふくんだ光をきらめかせていて、まばゆいほどに美しい景色だ。ものがたりの、中のように。
 ――まさみちさま。
 そっと、口の中でひそやかに呟いた。この美しい景色の中で、自分が見てきた夢を思い返す。苦しくて、痛くて、切なくて、狂おしくて、冷たくて、温かくて、優しくて、穏やかで、幸せな夢だった。
 よのなかにたえてさくらのなかりせば
 はるのこころはどのけからまし
 もしもこの邸に仕えなかったのなら、眠れぬ夜を過ごすことも、息が詰まるほどに涙を流すことも、浅ましく情けない自分を知ることもなかったのだろう。けれどもそうしたら、優しい眼差しで見つめられることも、穏やかな声で名を呼ばれることも、懸命な声で幸せを祈られることもなかったのだ。夢の記憶は思い出となった。この思い出があれば、太郎君の妻となるひとを呪わずに、兵衛佐様の妻になれる。
 光をふくんだ風が、髪を背中側へなびかせた。けれども于子は振り返らず、懐かしい自邸へと戻る牛車に乗った。
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