私の人生は私のものです
2 私と結婚した理由 2
次の日の朝早くに、旦那様は視察に旅立っていった。
いつも、見送りはいらないと言われている。
でも、そんなことを義母達が許すはずもないし、少しの時間で良いから旦那様と一緒にいたかった。
馬車が見えなくなるまで、玄関のポーチに立っていると、エレファーナ様が話しかけてきた。
「また、今日からのんびりできて良かったわね」
「あの、エレファーナ様、私もやはり何か手伝わせてもらえませんか」
「あなたなんかに伯爵夫人の仕事が務まるわけがないでしょう!」
「ですが、何もしなければいつまで経っても仕事を覚えることができません」
「覚えられるわけがないと言っているのです。そんなにも仕事がしたいのなら、メイドと一緒に洗濯物でも干していなさい」
吐き捨てるように言うと、エレファーナ様は自分の侍女と共に屋敷の中に入って行った。
「あなたは覚えなくてもいいわよ。お母様が仕事をしなくなったら、私がやるから」
「そんな……。あの、失礼ですが、トノアーニ様はこの家から出ていく予定はないのですか」
「ないわ。わたしはアキームと一緒にいたいの。だから、諦めてちょうだい」
「諦めてって」
私が言おうとしているのに、トノアーニ様は私に背を向けて去っていく。
いつも、こんな風に話を打ち切られてしまう自分が情けない。
人から受ける悪意に傷ついた経験があるからか、これ以上、踏み込むことができなかった。
強くなりたいと願うのに、どうして行動に移せないのか。
これ以上、傷つきたくないという気持ちが勝ってしまうからだということはわかっている。
エレファーナ様達をどうにかできないにしても、何もしなければ旦那様が浮気をしているかもしれないという不安はいつまでも拭えない。
だから、両親よりも私のことを可愛がってくれている伯父夫婦に頼んで、旦那様の調査をお願いしてみることにした。
筆を執った数日後、手紙が届いたので読んでみた。
旦那様は毎日、宿屋から出ない日々を過ごしていた。
視察に行っているはずなのに、宿屋から出ないというのもどうかと思う。
でも、視察をしてみてわかった情報を整理しているのかもしれない。
サブリナが心配することはないと書かれてあり、私は旦那様の浮気を疑うことはやめた。
旦那様の領地視察は、それから半年経っても続いた。
特に変わりのない日々が続き、浮気ではないと思いつつも、そろそろ気持ちに限界が近付いてきたある日のことだ。
私は旦那様の友人である伯爵が主催するダンスパーティーに出席することになった。
旦那様は今回のパーティーのために、「君に似合うと思ったんだよ」と言って、薄い青色のイブニングドレスをプレゼントしてくれた。
大丈夫。
私は愛してもらえている。
大事にしてもらっているのよ。
ワガママを言っては駄目。
自分に暗示をかけて、パーティーの日までエレファーナ様たちを上手くやり過ごすことにした。
******
パーティー当日、主催者や他の招待客の人達との挨拶を終えると、旦那様は私の両肩に手を置いて微笑む。
「悪いね。少しだけ、この場を離れるから大人しく待っていてくれないか」
「……それはかまいませんが、どちらに行かれるのですか?」
「仕事の話をしないといけないんだ。だから、パーティー会場内では無理でね。君は気にしなくていいんだ。サブリナ、いいね? ここで待っているんだよ。動いたら駄目だからね」
「お手洗いやお化粧を直しに行くのはかまいませんか?」
「うーん。そうだな。まあ、パウダールームやお手洗いに行くのは良いかな。だけど、用事が済んだらすぐにここに戻るんだよ」
「……承知しました」
不服そうにしているからか、旦那様は私を優しく抱きしめる。
「君がまた誰かに傷付けられている姿を見たくないんだ」
「……わかりました」
そう思うなら一緒にいてくださいよ。
そう言おうとしてやめた。
こんなところで喧嘩をするものじゃない。
今は我慢して、今日こそは帰りの馬車の中か寝室で話を聞いてもらわなくちゃ。
旦那様が去っていく姿を見送ったあと、私は会場の隅に移動することにした。
昔のトラウマは簡単に消えるはずもなく、人の視線が怖い。
少し見られているだけで、悪口を言われている気持ちになる。
今までは、旦那様の後ろに隠れているだけだった。
でも、今日は顔を上げると決めて、ここに来た。
俯いてばかりじゃ何も変わらないもの。
気持ちも前を向かなくちゃ。
「あら、あそこにいるのは、オルドリン伯爵の奥様だわ」
「本当だわ。夫婦仲が良くないと聞いていたのだけれど、噂ではなかったみたいね」
旦那様と一緒に来たんです。
今はいないだけなんです。
そう言おうとして、私を見て笑っている女性二人に近づく。
「ごきげんよう」
「な、な、えっ」
「ご、ごきげんよう! さようなら!」
まさか、私から話しかけてくるだなんて思ってもいなかったみたい。
二人は焦った声を出して、逃げていってしまった。
先程の二人は子爵令嬢だから、伯爵夫人になった私に目をつけられるのが嫌なのね。
昔の私は、あんな風に聞こえるように悪口を言われたら、俯いて涙をこらえているだけだった。
立場が違うと変わってくるんだわ。
気分が良くなったところで、先程、飲食をしたので化粧が落ちているんじゃないかと気になった。
化粧室に行くのは良いと言われていたし、まずは、会場の外にある付き人用の控室に行くことにした。
化粧直しを自分でできないことはない。
でも、化粧道具は専属メイドが持っているし、彼女にやってもらったほうが良いに決まっている。
それくらい移動するのはいいわよね。
あとで謝りましょう。
そこで他の人の付き人から嫌がらせをされても、自分で対処しなくちゃいけないわ。
旦那様に迷惑をかけないことが大事だもの。
今までの私とは違う。
そう思っていたのに、控室には思った以上に人がいたから、言葉が出なくなってしまった。
入り口で立ち止まっていると、私の専属メイドであるノエラが駆け寄ってくる。
「奥さま、どうかなさいましたか」
「あ、あの、ノエラ、悪いんだけど化粧直しをしたいの」
「承知いたしました。道具を持ってまいりますので、少々お待ちくださいませ」
ノエラはエレファーナ様が雇ったメイドで男爵夫人だ。
でも、彼女は賢い人でエレファーナ様達の前では私に冷たい態度を取り、私の前では優しい対応をしてくれる。
そんな態度が他人に見られても、人前だからメイドらしい対応をしたと上手くかわせる人だ。
心を許すとまではいかないけれど、頼りにしている。
オルドリン家に来てすぐに、毅然とした態度をとるようにとアドバイスしてくれたのも彼女だった。
化粧箱を持ったノエラと、パウダールームに向かいながら話をする。
「本当は旦那様に化粧室以外に行ってはいけないと言われているの」
「承知しました。私が会場に顔を出したということにいたします」
ノエラはメイドだけど、メイド服を着ているわけではない。
だから、そんな話をしても信じてくれると思う。
でも、駄目よね。
私を受け入れてくれた旦那様には誠実でいたいもの。
「ううん。嘘は良くないから、ちゃんと話すわ」
「……そうですね。当主様のことですから、許してくださるでしょう」
ノエラが優しく微笑んでくれたので、私の顔にも笑みが浮かんだ。
その時、背後から声をかけられた。
「あの、オルドリン伯爵なら向こうにいらっしゃいましたよ」
声をかけてきたのはウェイターだった。
旦那様を探していると思ったみたいね。
「親切にありがとう。でも、私は主人を探しているわけではないの」
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
若いウェイターは頭を下げて去っていく。
でも、彼の様子が何だかおかしかった気がしてノエラに尋ねる。
「旦那様は用事があると言っていたけど、今はどこにいるのかしら」
「当主様は何も言っておられなかったのですか?」
「ええ。仕事の話をするから会場を離れるとしか聞いていないの」
「そうでしたか」
ノエラは難しい顔をすると、ウェイターが示していた方向に歩き始めた。
「ノエラ?」
「奥さまはこちらでお待ちください。わたくしが様子を見てまいります」
「駄目よ。勝手に歩いていると、あなたが怒られてしまうわ」
「……ですが」
「道に迷ったふりをして二人で行きましょう。立ち入ってはいけないところには人がいるはずだから大丈夫よ」
ダンスホールから本邸に続く廊下には兵士が立っている。
だから、間違えてプライベートな場所に入り込むことはない。
二人で歩いて行くと、中庭に続く小道があり、そちらから話し声が聞こえてきた。
「別れるのは無理だよ。母が許さない」
「面倒なお母様ね。捨ててやることが、一番、あの女にとっては辛いことなのに」
庭園の小道から離れた外灯のない場所で誰かが話をしている。
その一人の声を聞いた時、思わず声を上げそうになった。
『別れるのは無理だよ』
そう言っていた声は、旦那様の声にそっくりだった。
いつも、見送りはいらないと言われている。
でも、そんなことを義母達が許すはずもないし、少しの時間で良いから旦那様と一緒にいたかった。
馬車が見えなくなるまで、玄関のポーチに立っていると、エレファーナ様が話しかけてきた。
「また、今日からのんびりできて良かったわね」
「あの、エレファーナ様、私もやはり何か手伝わせてもらえませんか」
「あなたなんかに伯爵夫人の仕事が務まるわけがないでしょう!」
「ですが、何もしなければいつまで経っても仕事を覚えることができません」
「覚えられるわけがないと言っているのです。そんなにも仕事がしたいのなら、メイドと一緒に洗濯物でも干していなさい」
吐き捨てるように言うと、エレファーナ様は自分の侍女と共に屋敷の中に入って行った。
「あなたは覚えなくてもいいわよ。お母様が仕事をしなくなったら、私がやるから」
「そんな……。あの、失礼ですが、トノアーニ様はこの家から出ていく予定はないのですか」
「ないわ。わたしはアキームと一緒にいたいの。だから、諦めてちょうだい」
「諦めてって」
私が言おうとしているのに、トノアーニ様は私に背を向けて去っていく。
いつも、こんな風に話を打ち切られてしまう自分が情けない。
人から受ける悪意に傷ついた経験があるからか、これ以上、踏み込むことができなかった。
強くなりたいと願うのに、どうして行動に移せないのか。
これ以上、傷つきたくないという気持ちが勝ってしまうからだということはわかっている。
エレファーナ様達をどうにかできないにしても、何もしなければ旦那様が浮気をしているかもしれないという不安はいつまでも拭えない。
だから、両親よりも私のことを可愛がってくれている伯父夫婦に頼んで、旦那様の調査をお願いしてみることにした。
筆を執った数日後、手紙が届いたので読んでみた。
旦那様は毎日、宿屋から出ない日々を過ごしていた。
視察に行っているはずなのに、宿屋から出ないというのもどうかと思う。
でも、視察をしてみてわかった情報を整理しているのかもしれない。
サブリナが心配することはないと書かれてあり、私は旦那様の浮気を疑うことはやめた。
旦那様の領地視察は、それから半年経っても続いた。
特に変わりのない日々が続き、浮気ではないと思いつつも、そろそろ気持ちに限界が近付いてきたある日のことだ。
私は旦那様の友人である伯爵が主催するダンスパーティーに出席することになった。
旦那様は今回のパーティーのために、「君に似合うと思ったんだよ」と言って、薄い青色のイブニングドレスをプレゼントしてくれた。
大丈夫。
私は愛してもらえている。
大事にしてもらっているのよ。
ワガママを言っては駄目。
自分に暗示をかけて、パーティーの日までエレファーナ様たちを上手くやり過ごすことにした。
******
パーティー当日、主催者や他の招待客の人達との挨拶を終えると、旦那様は私の両肩に手を置いて微笑む。
「悪いね。少しだけ、この場を離れるから大人しく待っていてくれないか」
「……それはかまいませんが、どちらに行かれるのですか?」
「仕事の話をしないといけないんだ。だから、パーティー会場内では無理でね。君は気にしなくていいんだ。サブリナ、いいね? ここで待っているんだよ。動いたら駄目だからね」
「お手洗いやお化粧を直しに行くのはかまいませんか?」
「うーん。そうだな。まあ、パウダールームやお手洗いに行くのは良いかな。だけど、用事が済んだらすぐにここに戻るんだよ」
「……承知しました」
不服そうにしているからか、旦那様は私を優しく抱きしめる。
「君がまた誰かに傷付けられている姿を見たくないんだ」
「……わかりました」
そう思うなら一緒にいてくださいよ。
そう言おうとしてやめた。
こんなところで喧嘩をするものじゃない。
今は我慢して、今日こそは帰りの馬車の中か寝室で話を聞いてもらわなくちゃ。
旦那様が去っていく姿を見送ったあと、私は会場の隅に移動することにした。
昔のトラウマは簡単に消えるはずもなく、人の視線が怖い。
少し見られているだけで、悪口を言われている気持ちになる。
今までは、旦那様の後ろに隠れているだけだった。
でも、今日は顔を上げると決めて、ここに来た。
俯いてばかりじゃ何も変わらないもの。
気持ちも前を向かなくちゃ。
「あら、あそこにいるのは、オルドリン伯爵の奥様だわ」
「本当だわ。夫婦仲が良くないと聞いていたのだけれど、噂ではなかったみたいね」
旦那様と一緒に来たんです。
今はいないだけなんです。
そう言おうとして、私を見て笑っている女性二人に近づく。
「ごきげんよう」
「な、な、えっ」
「ご、ごきげんよう! さようなら!」
まさか、私から話しかけてくるだなんて思ってもいなかったみたい。
二人は焦った声を出して、逃げていってしまった。
先程の二人は子爵令嬢だから、伯爵夫人になった私に目をつけられるのが嫌なのね。
昔の私は、あんな風に聞こえるように悪口を言われたら、俯いて涙をこらえているだけだった。
立場が違うと変わってくるんだわ。
気分が良くなったところで、先程、飲食をしたので化粧が落ちているんじゃないかと気になった。
化粧室に行くのは良いと言われていたし、まずは、会場の外にある付き人用の控室に行くことにした。
化粧直しを自分でできないことはない。
でも、化粧道具は専属メイドが持っているし、彼女にやってもらったほうが良いに決まっている。
それくらい移動するのはいいわよね。
あとで謝りましょう。
そこで他の人の付き人から嫌がらせをされても、自分で対処しなくちゃいけないわ。
旦那様に迷惑をかけないことが大事だもの。
今までの私とは違う。
そう思っていたのに、控室には思った以上に人がいたから、言葉が出なくなってしまった。
入り口で立ち止まっていると、私の専属メイドであるノエラが駆け寄ってくる。
「奥さま、どうかなさいましたか」
「あ、あの、ノエラ、悪いんだけど化粧直しをしたいの」
「承知いたしました。道具を持ってまいりますので、少々お待ちくださいませ」
ノエラはエレファーナ様が雇ったメイドで男爵夫人だ。
でも、彼女は賢い人でエレファーナ様達の前では私に冷たい態度を取り、私の前では優しい対応をしてくれる。
そんな態度が他人に見られても、人前だからメイドらしい対応をしたと上手くかわせる人だ。
心を許すとまではいかないけれど、頼りにしている。
オルドリン家に来てすぐに、毅然とした態度をとるようにとアドバイスしてくれたのも彼女だった。
化粧箱を持ったノエラと、パウダールームに向かいながら話をする。
「本当は旦那様に化粧室以外に行ってはいけないと言われているの」
「承知しました。私が会場に顔を出したということにいたします」
ノエラはメイドだけど、メイド服を着ているわけではない。
だから、そんな話をしても信じてくれると思う。
でも、駄目よね。
私を受け入れてくれた旦那様には誠実でいたいもの。
「ううん。嘘は良くないから、ちゃんと話すわ」
「……そうですね。当主様のことですから、許してくださるでしょう」
ノエラが優しく微笑んでくれたので、私の顔にも笑みが浮かんだ。
その時、背後から声をかけられた。
「あの、オルドリン伯爵なら向こうにいらっしゃいましたよ」
声をかけてきたのはウェイターだった。
旦那様を探していると思ったみたいね。
「親切にありがとう。でも、私は主人を探しているわけではないの」
「そうでしたか。それは失礼いたしました」
若いウェイターは頭を下げて去っていく。
でも、彼の様子が何だかおかしかった気がしてノエラに尋ねる。
「旦那様は用事があると言っていたけど、今はどこにいるのかしら」
「当主様は何も言っておられなかったのですか?」
「ええ。仕事の話をするから会場を離れるとしか聞いていないの」
「そうでしたか」
ノエラは難しい顔をすると、ウェイターが示していた方向に歩き始めた。
「ノエラ?」
「奥さまはこちらでお待ちください。わたくしが様子を見てまいります」
「駄目よ。勝手に歩いていると、あなたが怒られてしまうわ」
「……ですが」
「道に迷ったふりをして二人で行きましょう。立ち入ってはいけないところには人がいるはずだから大丈夫よ」
ダンスホールから本邸に続く廊下には兵士が立っている。
だから、間違えてプライベートな場所に入り込むことはない。
二人で歩いて行くと、中庭に続く小道があり、そちらから話し声が聞こえてきた。
「別れるのは無理だよ。母が許さない」
「面倒なお母様ね。捨ててやることが、一番、あの女にとっては辛いことなのに」
庭園の小道から離れた外灯のない場所で誰かが話をしている。
その一人の声を聞いた時、思わず声を上げそうになった。
『別れるのは無理だよ』
そう言っていた声は、旦那様の声にそっくりだった。