Bravissima!ブラヴィッシマ
「あの、すみません」

事務局のオフィスを出てホールに向おうとしていた公平は、後ろから声をかけられて振り返った。

「はい、なんでしょう?」
「私、鈴木 弥生と申しますが、木村 芽衣さんの控え室にお邪魔出来ますでしょうか?今日、彼女のヘアメイクをすることになっていまして」
「ああ!芽衣ちゃんのお友達ですね。聞いています。ご案内しますので、どうぞ」
「はい、ありがとうございます」

肩を並べて歩きながら、弥生は公平の顔を見上げた。

「高瀬さんでいらっしゃいますよね?大学のレッスンで、如月さんとの演奏動画を何度も拝見しました」
「あはは、佐賀先生だよね。まったくもう、恥ずかしいったらありゃしない」
「すごくお上手ですよね。あ、お上手なんて言葉、失礼ですけど。高瀬さんのピアノの音、大好きです。なんて言うか、気品に満ち溢れていて。クラシック音楽ってこうやって弾くんだなっていう、お手本みたいな」

いやいや、と公平は肩をすくめる。

「俺なんか手本にしたら大変なことになるよ」
「そんなことないです。私の憧れの音です。あの、高瀬さんは今演奏活動は?どこかで弾いていらっしゃいますか?私、どうしても生で聴いてみたくて」
「そんなふうに言ってもらえるなんて光栄です。けど、今は一切人前では弾いてないんだ。まあ、弾く資格もないしね」

自嘲気味に笑うと、ふいに弥生は足を止めた。

「弾く資格がないなんて。そんなこと言わないでください。そしたら私も、高瀬さんのピアノを聴く資格がなくなります。私が好きな音を否定されると、私まで否定された気がして悲しいです」

公平は驚いて弥生を振り返る。

「えっと、ごめん。軽く話してしまったな。本音を言うとね、聖の音を目の当たりにして、自信を失くしたんだ。だからこれは、俺だけの問題。まあ、天才に敵わなかった凡人の愚痴だと思って聞き流して。君はピアノに真摯に向き合っているんだね。どうかこれからも弾き続けて欲しい」

すると弥生はじっとうつむいてから思い切ったように顔を上げた。

「私も芽衣の音を目の当たりにして自信を失くしました。だけど、自分の音を嫌いにはなりたくないです。天才には天才にしか出せない音があるけど、凡人にだって凡人にしか出せない良さがあると信じてます。まあ、凡人よりはちょっとだけ上手な、天才と凡人の間、って感じですかね?」

えへへと笑う弥生を、公平は呆然としながら見つめる。

「ほら、世の中にはものすごい美人がたくさんいるでしょ?スタイルも抜群で、誰もが認めるいい女。だけど自分とその人を比較して、いちいち落ち込んでいたらキリがないし、悲観してばかりの毎日を送るなんてまっぴらごめんです。私は程よくぶちゃいくで、だけどちょっとした時に愛嬌があるんですよ。それを見つけた人からは、弥生って可愛いねって、ごくごくたまーに言われます。ぶさ可愛いってやつですかね?まあ、高瀬さんはイケメンだから、そんな気持ちは分からないでしょうけど」
「ううん、分かる」

え……と弥生は顔を上げた。

「君の話、よく分かるよ」
「ほんとに?でも高瀬さん、イケメンですよ?」
「いや、違う。聖に比べたら俺の魅力なんて何もないと思ってた。天才と凡人、まさにそう思ってた。悲観してた訳じゃないけど、知らず知らずのうちに諦めてた。ちょっといじけたりもして」
「えー、可愛い!イケメンがいじけたら、もうキュンキュンです」

は?と公平は目が点になる。

「そうなの?」
「そうですよ!だってかっこつけてるイケメンなんて『はい、そうですか』ってだけですよ。いじけたイケメンー、萌えー。もう私、ハートが打ち抜かれちゃう」
「はあ……」

手を胸に当ててほわーんと宙を見つめる弥生に、公平は考え込んだ。

(なんだろう?この子と話すと、自分の中の常識がひっくり返る。悩んでたことが一瞬でどこかに消え去って行く)

こんな感覚は初めてだった。
長年抱えていたコンプレックスが、急にちっぽけでバカげたものに思えてくる。

「えっと、君、弥生ちゃんだっけ?」
「はい、そうです」
「3月生まれだから弥生ちゃんなの?」
「それが違うんですよ。出産予定日が3月3日だったから、生まれる前に『弥生にしよう』って両親が決めてたらしいんです。だけど早く生まれちゃって、まさかの2月生まれの弥生ちゃん」
「あはは!そうなんだ」
「私も芽衣みたいに、3月生まれの弥生だったら天才になれたかな?なんてバカなこと考えたりもしましたけどね。ま、それも凡人のご愛嬌ですよ」

ふっと公平は笑みをもらす。

「俺もだよ。バレンティーノにはなれなかった」
「は?何それ?高瀬さん、バレンティーノって名前なんですか?」
「違うよ。凡人な公平」
「公平さんかー。バレンティーノよりよっぽどかっこいいですよ?」
「そうかな。ありがとう、2月生まれの弥生ちゃん」
「ふふ、どういたしまして」

二人は笑顔で見つめ合うと、また肩を並べて歩き出した。
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