Bravissima!ブラヴィッシマ
数日後。
公平は仕事が休みの日に、古巣の音楽大学を訪れていた。

佐賀教授に、芽衣を紹介してくれたことへのお礼の挨拶に来たのだが、やはり芽衣のことも相談したい。

約束の時間になり、なつかしい教授室のドアをノックすると、教授は変わらぬ笑顔で公平を出迎えてくれた。

「高瀬くん、久しぶりだね。いやー、ますます男に磨きがかかったな」
「ご無沙汰しております。先生も変わらずお元気そうで」
「そうだな。学生達に若さのパワーをもらっているよ。さ、ソファにどうぞ。今コーヒーでも淹れるよ」
「いえ、私にやらせてください。懐かしいなあ」

勝手知ったる様子で公平はミニキッチンでコーヒーを二人分淹れた。

ソファに腰を落ち着けると、手土産のお菓子を差し出す。

「ありがとう。早速いただこうか」

コーヒーに合うほろ苦いチョコレートケーキを食べながら、昔の話に笑い合う。

「あの時代は楽しかったな。個性豊かでちょっと尖った学生達もいて。指導するのは大変だったけど、今思うと若いうちに自分の芯をしっかり持つことは大切だったんだと思うよ。問題児も多かったけど、そんな中、君と聖くんのデュオは素晴らしかった」
「ええ?!先生、その流れですと、私と聖が問題児だったみたいに聞こえますが」
「ああ、問題児だったとも。だって二人とも、私達指導者の言うことに全く耳を傾けなかっただろう?」
「そんなはずは……」
「演奏に夢中で気がついてなかったんだよ。私達が、ちょっと今のところ……って言っても完全にスル―。君も聖くんもものすごい集中力で研ぎ澄まされた演奏しててね。で、終わったら満足そうに二人で盛り上がるの。いいねー!とかって。私達教授陣は肩をすくめるばかりだったよ」
「そうだったんですか?お恥ずかしい。大変失礼いたしました」

ははは!と教授は明るく笑う。

「それくらい勢いのある方がいいんだなと、今になって思うよ。最近の学生は、評価や成績を気にし過ぎる余り、自分が本当にやりたいことや個性を見い出せない子が多い。まあ、演奏技術はどんどん上がってはいるがね。大切なのは一体なんだろうと、私自身も考えさせられるよ」

公平は一つ頷いてから、芽衣の話題を切り出した。

「先生が紹介してくださった木村 芽衣さん、類まれな技術を持つピアニストですね。ご紹介くださってありがとうございました」
「こちらこそ。どうだい?彼女。上手くやってるかい?動画は毎回観させてもらってるけど、聖くんとも息が合っていていい演奏だね」
「はい。聖の超絶技巧に釣り合うのは彼女以外考えられません。おかげで演奏動画は投稿するたびに高い関心と評価をいただいています。ですが、少し気になることがありまして」

言葉を濁すと、教授は心得たように頷いた。

「やはり彼女には、避けて通れない問題があるね」
「そうですね。演奏技術は申し分ありません。素晴らしいピアニストなのは間違いないです。ただ、この先のピアニストとしての人生を考えると……」

うむ……と教授も笑顔を消して腕を組む。

「先生は、彼女がいつ頃からそうなったのか、ご存知なんですか?」
「それがね、どうやら12歳の時のコンクールだったらしいんだ。だから私も詳しい状況は分からない。幼い頃はただ無邪気に弾いていれば良かったのが、思春期に差し掛かるとだんだん審査員の鋭い視線や評価が気になり出した。そんな時にふと魔が差したように舞台の上で恐怖心に襲われ、手が止まってしまったそうだ。それ以来彼女は、舞台に立つと途端に自分の力が発揮出来なくなった。だけどもともとずば抜けて上手い子だからね。実力の7割程度しか出せなくても音大には合格出来た。入学後に彼女を初めて指導した時、私は雷に打たれたようにショックを受けたよ。入学試験の時とはまるで別人だった。天才を目の当たりにしたと思ったよ。興奮して手が震えるほどだった。すぐにでも国際コンクールのエントリーを薦めたら、どうしても嫌だと言い張ってね。時間をかけてじっくり話を聞いて、ようやくその悩みを知ったんだよ」

そうでしたか、と公平は言葉少なにうつむいた。

「12歳の頃のトラウマは、そう簡単に乗り越えられるものではない。私は彼女が嫌がるコンクールは無理強いせず、最低限の学内演奏会だけはなんとか乗るようにと指導して来たんだ。だがそんな彼女も、もうすぐ卒業だろう?進路の希望を聞いたら、母親のピアノ教室を手伝うって言うんだ。自分にとってはそれが一番幸せだと。私は今も毎日葛藤しているよ。仮にも音楽家を育てる立場にありながら、あんなにも稀有な存在のピアニストを埋もれさせていいのだろうかとね」

教授のその言葉は、音楽の神様に対しての罪悪感が感じられる。

「そんな時、君から聖くんの伴奏ピアニストの話をもらった。これだ!と思ったね。もう彼女以外の誰の顔も思い浮かべられなかった。とにかく成績順に生徒達の演奏データを集めたが、確信していたよ。君と聖くんは、必ず彼女を選ぶとね」
「それは当然です。あの《イスラメイ》を聴いたら、もう……。思わず平伏したくなりましたよ」
「ははは!分かるよ。ヴィルトゥオーゾ同士の共鳴と言うのかな、彼女と聖くんの演奏は動画で聴いても素晴らしい」
「間近で聴くと、全身に鳥肌が立って血が逆流しますよ。感動どころか、心臓に悪いです」
「あはは!寿命が縮みそうで恐ろしいな。だがいつか生で聴いてみたい」
「ぜひ。いつでも撮影現場にいらしてください。それに私も先生に相談させていただきたいですから。彼女の今後を」

うん、と教授は難しい顔に戻った。

「実は如月シンフォニーホールの館長が、彼女と聖のデュオコンサートを企画しようとしました。彼女の余りの拒絶ぶりに、私から館長に話をして白紙に戻しましたが。私としては、この先もずっと彼女を見守っていきたいと思っています。音大を卒業後も、引き続き聖の伴奏ピアニストをお願いしたい。少しずつ様子を見ながら、彼女のトラウマに寄り添っていけたらと」
「ああ、頼むよ。それを聞いて安心した。大学を卒業すれば私は彼女と顔を合わせることはなくなる。それまでになんとかしたいと焦っていたんだ。高瀬くん、それから聖くんも。どうか彼女のことをよろしく頼みます。何かあれば、いつでも私に連絡してもらって構わない」
「はい、かしこまりました」

公平は教授と視線を合わせてしっかりと頷いてみせた。
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