恋より仕事と決めたのに、エリートなお隣さんが心の壁を越えてくる
あの女性は以前もこのマンションを訪れていた。真城さんはあまり深い関係じゃない風を装っていたけれど、きっとあれは嘘だったのだ。
彼のことを『昴矢』と下の名前で呼ぶ人は会社でひとりもいないし、彼はひとりっ子だと言っていたから女きょうだいという線もない。
恋人にしては彼の対応がぞんざいな気もするが、二度も自宅を訪れるなんて、特別な女性であることは明らかだ。
「神崎さん、誤解しないでほしいんだけど――」
真城さんが彼女を置いてこちらに来ようとしたので、私はとっさに自分の部屋に戻り、激しい音を立ててドアを閉める。
今は、冷静に彼と話ができる気がしなかった。目にしたばかりの女性と彼が抱き合うシーンが、頭の中に何度も浮かんでは消える。
さすがにドアベルを鳴らされるようなことはなく、そのうちドアの外には誰の気配もしなくなった。
ランニングに行くような気分ではなくなってしまい、後頭部に手を伸ばすとシュル、とヘアゴムを外す。
……大丈夫。彼とはまだなにも始まってなかった。
これまでもこれからも、真城さんはお隣さんで、相棒。それ以上でもそれ以下でもない。
たった一度のキスくらい、なかったことにできる――よね?
気持とは裏腹にいまだ口づけの余韻が残る唇を、強めにキュッと噛みしめる。あの時感じた甘い感触や心に湧いた感情のすべてを、痛みで上書きしてしまいたかった。
やがて口の中に薄っすら鉄の味が広がって、ふっと力を緩める。
しかし、血が出るほどの痛みの後でも、真城さんとのキスをきれいさっぱり忘れることは、どうしてもできなかった。