恋より仕事と決めたのに、エリートなお隣さんが心の壁を越えてくる
ただの同僚から抜け出すために――side昴矢
浅井部長に飲みに誘われ、会社近くのワインバー『残照』へやってきた。初老の店主がひとりで営んでいるらしい、静かで雰囲気のいい店だ。
レトロな喫茶店にありそうなえんじ色のソファのボックス席で、グラスを片手に部長と向き合う。
「神崎さん、とても驚いていましたよ」
「……そうですか。引いてませんでした?」
針ヶ谷の退職が正式に決まり、そのことを神崎さんにも伝えたと部長から報告を受けた。俺が針ヶ谷とやり合った時の音声データについても、具体的な内容は伏せてそれとなく話したようだ。
「そんな感じではなかったですよ。ただ、『相談してほしかった』という顔はしていましたね」
「はは、ですよね」
しかし、もしも相談していたら彼女は俺を止めただろう。自分のためにそこまでしなくていいと遠慮するか、逆に迷惑がったかもしれない。
「しかし、そこまでするほど神崎さんのことが大事なら、いっそあの音声を彼女にも聞かせてしまった方がよかったんじゃないですか?」
部長にそう言われ、俺は思わず苦笑する。
「無理ですよ、あんな恥ずかしい会話。それに、針ヶ谷の暴言を彼女に聞かせるわけにはいきません」
「……それは確かに。すみません、余計なことを言いました」
部長は納得したように頷き、静かにグラスを傾ける。
テーブルに沈黙が落ちると、脳裏には自然に針ヶ谷とのやり取りが蘇った。