恋より仕事と決めたのに、エリートなお隣さんが心の壁を越えてくる
「じゃ、先輩の俺からも大事なお願い」
「お願い……?」
「完全に体力が回復するまではもちろん、元気になってからも遅い時間帯はランニング禁止。モヤモヤした時は俺が愚痴を聞く。それでいい?」
彼女の体が心配なのはもちろん、暗い夜道をひとりで女性がランニングするのはそれ以外のリスクも伴う。
神崎さんはとくに危機感を覚えているわけでもなさそうなので、忠告せずにはいられなかった。
「でも……」
「部長の仕事は倒れるまでまっとうしておいて、俺の頼みは聞けない?」
意地悪な言い方をしているのは承知で、神崎さんの顔を覗き込む。
彼女は葛藤するような表情をしていたが、やがて観念したようにため息をついた。
「……わかりました。真城さんの言う通りにします」
「素直でよろしい」
少し悔しそうに口を尖らせる彼女がかわいくて、思わず頭の上にポンと手を置いた。
すると、神崎さんは俺の手から逃れるようにシートの上で体を横にサッとずらし、端に寄って小さく身を縮めた。
そ、そんなに嫌がらなくても……。
行き場をなくした手を見つめ、軽くショックを受ける。
しかし、食事の約束にうんと言ってくれたからといって、急に距離を縮めようとした俺が焦りすぎていたのかもしれない。
「ごめん」
「いえ、私こそ……っ」
神崎さんはこわばったような声でそう言っただけで、近くに戻ってきてくれる気配はない。
彼女の心が見えるようで見えないもどかしさを抱えながら、それきり無言になってしまったタクシーに揺られた。