二人乗りの帰り道〜田舎に住む女子高生は、うまく恋を始められない〜
13. ベンチと公園
藍川君と精肉店に入り、コロッケをひとつ頼む。
ひとつの注文でも、おばさんは笑顔で揚げてくれるので、小学生の頃からお小遣いを握りしめてコロッケを買っている。
私のはじめてのおつかいもコロッケです。
つまり、私も常連の端くれだったりするので、おばさんとは顔見知りだし、会えば立ち話くらいはするのだ。
「あら、葵ちゃん、もしかして彼氏?」
「ち、違うよ……っ。おばさん、絶対お母さんに言わないでね! 本当に違うからね、同級生なの!」
「はいはい、格好いいじゃない! はーい、揚がったよ。これ、おまけね。二人で食べてね」
「——ありがとう……」
「ありがとうございます!」
藍川君の横顔をちらりと見上げると、爽やか選手権に出場するみたいな笑顔を浮かべていて、ぽかんと口を開けて呆気に取られてしまった。
「ほら、行こうか?」
藍川君に優しく腕を取られて精肉店を出る。
ちらりと藍川君を見上げると、柔らかな微笑みを浮かべたままなのが、知らない人みたいに見え、慌てて視線を下げる。
「渡辺さん、もしかして惚れちゃった?」
「……ええっ?」
爽やかな笑顔のまま聞かれ、もやもやするみたいな、変な感覚がする。調子が狂ってしまうのを振り払うように、藍川君をもう一度ぐっと見上げて声を掛ける。
「藍川君、折角だから公園で食べようよ!」
「お、それ、いいな」
いつものように口角を綺麗に上げる藍川君に、ほっと心の中で息を吐く。
精肉店から数分歩くと、少し高台の公園が見える。
ここのベンチから見える景色が好きで、ちょっと嫌なことがあったり、一人になりたい気分の日はここに寄ってから帰ることもある。
白い薄紙に挟まれたコロッケを藍川君に渡され、さくっと齧る。熱々のコロッケから湯気が立ち上る。揚げ物は揚げたてが一番美味しい。
食べたい物を食べたい時に食べる、この幸せな買い食いの味に自然と笑みが零れる。
「やっぱりコロッケ美味しいね……っ!」
「旨いよな」
初夏のような日差しがベンチに木の陰を落とし、青々とした風が通り過ぎる。
外で食べるコロッケは、いつもより美味しくて、ここから見えるベランダ用の小さな鯉のぼりは、ほんの少しだけ泳いでいる。
圭君の大きな鯉のぼりは、きっと寝たままだろうなと、ふと思う。
「本当に好きなんだな」
「ふえっ?」
「鯉のぼり。——さっきからずっと見てる」
藍川君に話しかけられたタイミングと圭君のことを思い出していたタイミングが同じで、変な声が出てしまう。
鯉のぼり、どうやら思っている以上に好きなのかもしれない。
「ふふ、そうかもしれない。ねえ、藍川君の鯉のぼりはどんなのだったの?」
私の質問が予想外だったのか、藍川君が鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔になった。
小さな藍川君は、どんな鯉のぼりを見ていたのか気になって質問してみたら、
「ない。それに、欲しいと思った事もない」
藍川君にあっさり返事をされてしまう。
鯉のぼりが欲しくない子なんて、要るのかなと首を傾げる。
「あのな、俺の家は、平家の末裔だから鯉のぼりと鶏は飼うなって言われてるんだよ」
「えっと、どういうこと?」
「源平、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の人たちが各地に逃げて、身を隠してたんだよ。鯉のぼり上げると、跡取りいるってバレるし、鶏も鳴くからバレるだろ」
「すごい、すごい! 今の話、ぞくぞくした……っ」
鯉のぼりにそんな話があるなんて、わくわくする。
思わず身を乗り出して、聞いていると、藍川君に呆れたように深いため息を吐いた。
「割とよくある話だろ。風があると漁に出れないから漁師町とかも鯉のぼり上げないしな」
「そうなの?」
当たり前に言われるけど、私は初めて聞く話に、驚いた。
「俺の家は、鯉のぼりはないけど、代わりに揚羽蝶の家紋が入ったやたらデカイ鎧飾りがあったし、別に鯉のぼりが欲しいと思ったことはないな」
いつもより早口な藍川君を見ていたら、胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
気付いたら藍川君のつんつんした黒髪に手のひらを伸ばしていた。
「え、急に、なに?」
目をまん丸に見開いた藍川君と目が合う。
自分でも自分の行動に驚いてしまい、手がぴたりと止まった。
数秒の沈黙が、とても長い時間に感じられた。
「あ、……ごめん。なんか、子供の藍川君を撫でたくなったと言うか、うん、ごめん」
頭に乗せた手を引っ込めようすると、藍川君に手首を捕まえられる。
触られた部分が熱を持つ。心臓が跳ねる。
「気になるから、ちゃんと教えてよ」
藍川君の瞳に真っ直ぐ見つめられる。
心臓が、とくん、と音を立てる。
「俺、エスパーでもヒーローでもないし、流行りのスパダリとか幼馴染じゃないから、話してくれないと分からない」
藍川君のいつもは涼やかな瞳が、射抜かれるみたいに見つめられ、頬に痛いくらいに熱くなる。
藍川君に手首を繋がれている状況に、身体中が心臓になったみたいで、口から心臓が飛び出しそうで、頭が上手く働かない。
「渡辺さん、なあ、顔赤くないか? もしかして、熱か?」
ゆっくり藍川君の手が伸びて来て、ミントの整髪料の匂いが鼻を掠める。距離の近さに驚いて、藍川君の肩を慌てて、押し返す。
藍川君が、喉の奥でくつくつ笑うと、手を離してくれた。
「ゆっくりでいいから教えてよ」
柔らかな風が熱を持った頬を撫でて行く。何度か深呼吸を繰り返すのを、藍川君は目の前の景色を何も言わずに見ている。
「えっと、藍川君が鯉のぼり欲しくないって言ってたけど、その割にすごく鯉のぼりに詳しくて、……好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心だから、……本当はすごく好きなのかなって思って」
藍川君が頷き、視線で先を促される。
「でも、お家の事情で買えないのも分かってたから、子供心に欲しくないって思おうと思っていたのかなって、思ったら、急にその——小さな頃の藍川君を撫でたいなって……」
真っ赤な顔を隠すように、俯いてしまう。
「話してくれて、ありがとう。渡辺さんの行動の理由が分かったわ。俺、勝手に思い込んで、勘違いするの嫌なんだよ。大切な人とは、ちゃんと話し合いたいんだよ」
声の優しさに顔を上げれば、藍川君の手がゆっくり動いて来る。
——ぺちっ
「痛い……っ」
藍川君にデコピンをされていた。
今日はいつもより痛くて、目尻に涙が溜まる。
一生懸命話したのに、なんで、と藍川君に首を傾げると、藍川君の口角がきれいに上がっている。
「渡辺さんのおでこって、デコピンしたくなるよね」
そう言うと、ほんの一瞬、見つめ合ってしまう。
もう帰るのひと言をどちらも言い出さないまま、ゆっくり形を変える優しい雲を見ていた。