早河シリーズ第六幕【砂時計】
11月7日(Sat)午前9時

 探偵事務所の鍵穴に差し込んだ鍵が音を立てて回る。立て付けの悪い軋む扉を開いて、なぎさは事務所の中に入った。

室内は静かで空気はひんやりとしていた。関東地方は全域ですっきりしない曇り空、今朝の最低気温は12℃だった。ブラインドが下ろされているため薄暗い。

 探偵事務所の仕事は、よほどの急用でない限りは土日は出勤しない契約になっている。今日は来週の月曜と火曜を取材旅行で不在にする代わりの休日出勤だ。

 なぎさはまずブラインドをすべて上げて電気をつけた。
デスクに早河の姿はない。早河の愛車はガレージに駐車してある。まだ三階の彼の自宅にいるのだろう。

昨夜、彼と一緒にいた女の素性が気になった。金子からの告白と女のことが気になって結局眠れずに朝を迎えてしまった。
最低のコンディションに最悪の気分。

 早河と知らない女が二人で歩いているのを目撃しただけでこんなに傷付いている自分が情けなくてみっともない。

「とにかく仕事だ。溜まっているいらない書類をシュレッダーにかけて、所長のスーツをクリーニングに引き取りに行って、あとこれをポストに出して……」

 誰に聞かれることもない独り言を呟いて仕事に取りかかった。ポストに投函する書類とクリーニングの伝票を持って再び出掛け、忙しく動き回っていると時間はあっという間に過ぎていく。

 時計の針が午前11時に近付いた頃、三階に繋がる階段から足音が聞こえた。白のワイシャツにノーネクタイ、黒い大きめのカーディガンを羽織った早河が事務所に入ってくる。

「……おはようございます」
『おはよ。休みなのに来てたのか』
「月曜と火曜にお休みをいただいていますから、今日は休日出勤です」
『そういうとこ律儀だよな』

動物園にいる熊かライオンのように、のっそりと怠慢な動きで早河はリクライニングチェアーに腰掛ける。

「コーヒー淹れてきます」
『なぎさ、コーヒーはいいから話がある』

 早河が給湯室に行きかけたなぎさを呼び止めた。話とは昨夜のことかもしれないと彼女は思った。緊張の面持ちで早河のデスクの前まで進み出る。

「話って……」
『そろそろライターの仕事を本業にしたらどうだ?』
「……え?」
『やっぱり俺の助手とライターの仕事の二足のわらじは無理があるだろ。助手を辞めればライターとして仕事していける。世話になってる出版社にでも頼み込めば、今からでも雇ってもらえるかもしれない』
「なんで急に……そんなこと……」

なぎさにとってそれは予想もしない話だった。困惑する彼女に構わず早河は話を続ける。

『それがお前のためだ。なぎさの……香道さんの仇がとりたい気持ちはわかってる。でもな……』
「わかってるならどうしてそんなこと言うんですかっ?」

 早河の言葉を遮ったのは震えるなぎさの声。早河はけだるそうにリクライニングチェアーの背にもたれた。

『お前がここにいたって出来ることは何もない。危険な場所には行かせられない、徹夜もさせられない。玲夏の依頼の時には潜入調査をさせたが、あれは吉岡社長の意向あっての特例だ。なぎさがここで出来る仕事は依頼人との連絡係と報告書作り、あとはお茶汲みと雑用くらいだろ』
「それは……そうですけど……」

 何も言い返せなくて悔しかった。確かに早河はなぎさに危険が伴う仕事はさせない。
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