早河シリーズ第六幕【砂時計】
第一章 逆流する過去
11月6日(Fri)

 香道なぎさは表参道駅のA4出口の階段を上り、地上に出た。出口のすぐ側で待っている人物を見つけて懐かしさと切なさが込み上げてくる。

「恵さん!」

桐原恵に彼女は手を振った。なぎさに気付いた恵も笑顔で手を振り返す。

「なぎさちゃん、久しぶり」

恵の昔と変わらない笑顔を見て、もしかしたら今頃は彼女のことをお義姉ちゃんと呼んでいたのかもしれないと思うと涙が出そうになった。

 桐原恵は2年前に逝去した兄、香道秋彦の婚約者だった。なぎさや、なぎさの両親にとってはすでに家族同然の存在だった。

「東京はすぐに景色が変わっちゃうね。知らないお店が増えていてびっくりよ」

 表参道駅を離れて街を歩く恵は物珍しげに街の風景を見渡している。二人が向かうのは港区青山三丁目。
バレエ学校やインターナショナルスクールが並ぶ通りを抜けると見えてきたのは白色のタイルで埋められたこじんまりとした建物だ。

 イタリア語で月を意味するルナの名前を掲げた【トラットリア ルナ】の看板が目に入る。イタリア国旗がはためくこの店はイタリアンレストランだ。

「表参道にこんなお店あったんだね」
「私も夏に取材で来て知ったんです。ご夫婦で経営していて、パスタがとっても美味しいんですよ」

 平日の昼時もあって、なぎさや恵の前には数人の客が並んでいた。
なぎさが雑誌の取材で訪れた今夏はテレビのグルメ特集で紹介された影響もあってかこの店には人が押し寄せていた。

その時ほどの賑わいは落ち着いてもリピーターが多く、今日も店は満席状態だった。

 なぎさが扉を開けると最上部につけられた鈴の音がカランカランと音を鳴らす。

予約した香道だと告げると、エプロンをつけた穏やかな雰囲気の年配女性が「久しぶりですね」と声をかけてくれた。彼女は店主の夫人だ。なぎさが夏に店の取材をしたライターだと覚えていてくれたようだ。

「母から聞きました。今年の春にお父さんが亡くなったって……」
「元々、肝臓が悪くてね。去年からずっと入院していたの。群馬に帰ったのも半分は父が心配だったのもあるんだ」
「知らせてくれたらお見舞いに行ったのに……。恵さんのお父さんには私も何度かお会いして、よくしてもらっていたので亡くなったって聞いてショックでした」

 なぎさが注文したボロネーゼ、恵の注文したトマトとナスのアラビアータが飴色のテーブルに並んだ。

「ごめんね。なぎさちゃんや、なぎさちゃんのご両親と繋がりを持ってしまうと、どうしても秋彦のことを思い出して辛くてね」
「お兄ちゃんのことはまだ……」
「秋彦のことはまだ好きだよ。結婚まで考えていた人だもの。忘れることはできない。だから新しい恋の報告もないのよ」

 天窓からは暖かな秋の日差しが差し込んでいる。半円形の天井や周りを白色のタイルに囲まれているせいか、白い洞窟にいるみたいだ。
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