早河シリーズ第六幕【砂時計】
 こんなに荒れた早河を見るのは2年振りだ。香道秋彦を失ったあの時の彼も、こんな状態だった。
良くも悪くも、香道兄妹は早河のメンタルに多大な影響を及ぼすらしい。

『とにかく、今は呑んだくれて荒れてる場合じゃないってことは自覚してくださいよ』

 何も言わない早河に背を向けて矢野は事務所を出た。苛立ちに任せて螺旋階段を駆け降りた彼はたった今までそこにいた二階の窓を見上げる。

『まじにどうしようもねぇ人だな……』

コートのポケットに入る携帯電話が振動する。矢野の伯父の武田財務大臣からの呼び出しのメールだ。

『あのクソジジィ……呼びつければ俺がいつでも行くと思ってやがる』

 早河もなぎさも、伯父も、みんな勝手だ。どいつもこいつも、世話が焼ける。

(これは早いとこ、なぎさちゃんに帰って来てもらわないと早河さんがダメダメになっちまう)

素早くメールの返信を打って、矢野は大通りに足を向けた。

         *

 矢野が立ち去った事務所でひとりになった早河は視線を上げて室内を見回した。
この部屋はこんなに広かったか? こんなに寒々しかったか?

 なぎさがライターの仕事で不在の日に事務所でひとりきりで過ごす日は、これまで何度もあった。それでも彼女はいつも“ここ”に帰って来てくれる。

 彼が『ただいま』と言えば「お帰りなさい」と彼女が出迎え、熱くて濃いコーヒーを淹れて「お疲れ様です」と労《ねぎら》ってくれる。

彼女の笑顔を見ると不思議と疲れも吹き飛んだ。いつの間にかそれが当たり前で、そんな日常がこれからも続けばいいと願っていた。

 携帯電話に残るなぎさの連絡先。彼女が助手を辞めたあの日から連絡はしていない。
今頃は京都の取材旅行の真っ只中だろう。

『しょうがねぇだろ。離さないと……なぎさが危なくなるんだから……』

 会いたいと思ってしまうのは何故?
 恋しいと思ってしまうのは何故?
 その答えを自分は知っている。

 わかっていたのに目を背けて、気持ちに蓋をして誤魔化した。
本当はもうずっと前から、わかっていたことだったのに。
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