早河シリーズ第六幕【砂時計】
 511号室がなぎさに割り当てられた部屋だ。彼女はシングルベッドに横になり、携帯電話を握り締めた。

 金子との約束の答えが出ない。どうすればいい? どうしたい?

このまま金子の部屋に行って、早河のことは忘れて金子に身を委ねてしまおうか……そんな考えが頭をよぎる。でもそれは金子を恋愛対象として見ているのではなく、早河を失った寂しさから逃げたいだけだ。

(やっぱり一度も連絡くれない)

 早河からの着信履歴もメールの履歴も、なぎさが事務所を辞める数日前の日付で止まっている。早河は用事がないと連絡しない。

助手を辞めたなぎさに今更、彼が連絡することなんてないとわかっていても心の片隅では甘い期待をしてしまう。
これでは別れたいと自分から言い出して男に引き留めてもらいたい身勝手な女の真似事だ。

(所長が私をカオスとのことに巻き込みたくないのはわかってる)

 早河の気持ちはわかっている。だけど早河への恋心とは別にして、兄を殺した貴嶋を追いたい、友人である莉央を救いたい。

早河と一緒にカオスを追いたい気持ちは変わらない。なぎさの想いを早河は充分に理解している。だから遠ざけた。

(私のことを考えてくれたんだよね。でもその優しさが辛い。所長の傍に居たいのに……居させてもらえない)

 涙がベッドのシーツを濡らす。手の中で握り締めていた携帯が着信音を鳴らした。表示を見ると矢野一輝からだ。

「……はい……」
{ああ、なぎさちゃん? 今って仕事中?}

 久しぶりに聞く矢野の声にホッとする。早河の助手として探偵事務所に勤務してからは、矢野とも毎日のように一緒にいた。
その日々がすでに遠い昔に感じて懐かしかった。

「仕事は終わっていて……今はひとりで部屋に……」
{もしかして泣いてた?}

 矢野はさすがに察しがいい。なぎさはベッド脇に置かれたティッシュに手を伸ばして目元を拭う。

「はい……」
{早河さんのこと考えてたの? 助手を辞めたって聞いたよ}

いつもと同じで矢野の声は温かく優しい。いつも彼は兄のようになぎさに接してくれる。

(こんな優しい矢野さんが彼氏で、真紀さんが羨ましい)

「土曜日に辞めたんです。所長がライターの仕事だけにすればいいって」
{そっか}
「私を巻き込みたくないのはわかっているんです。だけど私は所長と一緒にカオスを追いたいのに……」

 しわくちゃになったティッシュが手から落ちた。矢野に気持ちを吐き出しているとまた涙が止まらなくなって溢れてくる。

{早河さんは口下手なんだよね。昔っからそうなんだけど、大事なことほど言わないし、大事なものほど手離そうとする}

溜息混じりの矢野の声。

{早河さんはなぎさちゃんのライターとしての今後を考えていたんだよ}
「……え?」
{なぎさちゃんが書いた記事をこっそり見てたの、知ってる?}
「ええっ? 記事って……所長が?」
{いつも俺になぎさちゃんが書いた記事が載ってる雑誌を買いに行かせるんだよ。あの人はなぎさちゃんの記事、ちゃんと読んでるんだ。早河さんのデスクの一番下の引き出し、あそこにはなぎさちゃんが書いたこれまでの記事の切り抜きや雑誌が沢山入っているんだよー}

 驚きのあまり、なぎさは言葉が出なかった。気づいた時には涙も止まっていた。
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