早河シリーズ第六幕【砂時計】
 ここのところ毎朝、寝覚めが悪い。今朝の目覚めも最悪だった。頭が鉛のように重く、痛い。
雨の音が聴こえた。視線を泳がせると見慣れないピンク色のカーテンが目に入る。

(ここはどこだ……?)

 早河仁はまだ覚醒しきらない頭を必死に働かせた。昨夜の行動を思い返してみる。

昨日の夕方、矢野が事務所に来た時にはすでに酒を呷ってしたたかに酔っていた。
その後に香澄から連絡を受けて……。

(ああ、そうだ。香澄に会いに店に行って、話を聞いて……それからどうしたんだ?)

「……んー……」

 隣で誰かの息遣いが聞こえて嫌な予感が脳裏をかすめた。そう言えば身体の左側がなにやら温かく、柔らかいものに触れている。早河は怖々と左側に視線を向けた。

『……なんでこうなってんだよ』

 稲本香澄が早河に寄り添って眠っている。溜息と独り言を繰り返して彼はベッドの中を覗き見る。一応、衣服を身につけていた。
あどけない顔で寝息を立てる香澄もふわふわとした素材のパジャマを着ている。

二人共に服を着ていたことで、一瞬よぎった恐ろしい予感は少しずつ消えていく。

(何も……なかったよな?)

 身体に残留する気怠《けだる》さは“事後”の気怠さとは種類が違う。しかし昨夜の出来事はやはり思い出せない。

(ここは香澄の家か……。ホテルじゃないだけまだマシだよな)

もしもここがホテルのベッドであったのなら、早河は身の潔白を信じられず、己をいつまでも疑っていただろう。寝ている香澄を起こさないようにベッドを這い出た。

 とりあえず思考をクリアにするために煙草が吸いたかった。鴨居《かもい》に吊るされたハンガーにかけてあるジャケットのポケットから煙草とライターを取り出す。

一緒に入っていた携帯電話で日時を確認すると、あと数分で11月10日の午前7時を迎えるところだった。
携帯の充電は残り40%を切っている。

 ピンク色のカーテンが引かれた窓辺にもたれて座り、煙草をふかす。彼は香澄が早河のジャケットやコートをハンガーにかけたことに感心していた。

他人が聞けばそんなこと小学生でもできると思うかもしれない。でも早河と香澄の出会いを考えれば、この行動には彼女の成長が窺えた。

(あのどうしようもない不良娘だった香澄がこんな気遣いできるようになるとはね)

 香澄との出会いは早河が新宿西警察署の刑事をしていた6年前。

早河が薬物所持と使用の現行犯で逮捕したチンピラ崩れの男と交際していたのが、当時16歳だった香澄だ。香澄も薬物使用の疑いがあったが彼女は容疑を否認、尿検査でも薬物反応は認められなかった。

 だが捜査本部は香澄の薬物使用を最後まで疑っていた。家出をして高校も行かずに男と遊び歩き、髪を派手な金色に染めた香澄の言い分を信じる刑事は早河を除いては誰一人いなかった。

 早河だけは香澄の無実を信じて、彼女に定時制高校や職場を紹介して面倒を見てきた。

香澄は早河の助力と彼女自身の努力で定時制高校を卒業後は小料理屋で働いている。職場の小料理屋も早河が紹介した店だ。
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