早河シリーズ第六幕【砂時計】
 阿部を刺した男は黒いパーカー、フードの隙間から見えた顔はまだ若い。二十代から三十代に見えた。

手と服を血に染めて走る真紀を道行く人々は怪訝な顔で振り返る。走りながら上野警部に連絡した。被疑者の特徴を伝え、緊急配備を要請する。

「ダメだ……逃げられた」

 息を切らして立ち止まり、真紀は舌打ちした。目の前で上司が刺されたショックと犯人を取り逃がした屈辱で涙が滲む。

(泣くな。現場では泣かないって香道先輩と約束したでしょ!)

現場では泣かない。香道秋彦との約束が警察官としての自制心を取り戻させてくれる。

 道を引き返して阿部のもとに急ぐ。通行人に囲まれた輪の中で阿部が苦しげに呼吸していた。

「警視!」

真紀の呼び掛けに阿部が薄く目を開ける。

『奴は……』
「すみません、取り逃がしました。でも緊急配備の要請はかけました。すぐに救急車も来ます」

 通行人から借りたマフラーやハンカチで阿部の傷口を押さえた。マフラーもハンカチもみるみる血に染まり、通り沿いの100円ショップやコンビニの店員から売り物のガーゼやタオルを支給してもらった。

真紀は阿部の血が手につくのも構わず止血を続けた。阿部の額に浮かぶ汗をハンカチで拭う。

『民間人への被害は……』
「今のところ報告はありません。警視だけを狙ったのだと思います」

 11月の寒空の下、阿部の唇の色が薄くなっていくのは寒さのせいではない。目を閉じて呼吸を荒くする阿部の頬に真紀の涙が落ちた。

「しっかりしてください……! 二人目のお子さん産まれるんでしょ? 二人の子どものお父さんなんですよ? 警視がいなくなったら子どもと奥さんはどうすればいいんですかっ!」
『勝手に殺すな……』

胸を上下させる阿部が弱々しく笑う。阿部は震える手で傷口を押さえる真紀の手に触れた。

『……笹本……警視総監には……気を付けろ……』

阿部から語られた警視庁トップの名前。

『奴は……笹本は……』

 握られた阿部の手は力が抜けて地面に静かに落ちる。救急車のサイレンの音が近付いてきた。

場所は都心の交差点、時刻は21時。真紀の叫び声とサイレンの音が雑踏を掻き消して響いた。
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