捨てられた『壁令嬢』、北方騎士団の癒やし担当になる
 エルドレッドがついてきてくれるということで最初は緊張していたシャノンも、城の構造やら歴史やらについて彼と話していると思いのほか会話が弾み、事務官室前に到着したときには「もう?」と思ってしまった。

(閣下、話し上手の聞き上手で、つい盛り上がっちゃった……)

「もう着いてしまったか。楽しい時間があっという間に過ぎるというのは、本当だな」

 エルドレッドも同じことを思っていたようで残念そうにつぶやくため、シャノンの心臓がちょっとだけはねた。

(閣下も、同じように思ってくださったのね……)

「ありがとうございました、閣下。付き添ってくださっただけでなくて、おしゃべりにも付き合ってくださって……」
「私こそ、皆の人気者のあなたをこうして独り占めできて本当に嬉しかった」

 そう言って身をかがめたエルドレッドがいたずらっぽく笑い、自分の唇に人差し指を宛てて片目をつぶった。
 気障な所作ではあるが、明るい貴公子といった感じのエルドレッドがするからかイヤミっぽさはなく、むしろ様になっている。

「あなたがこの城や辺境伯領について興味を持ってくれたのなら、私も嬉しい」
「はい! まだここに来て二ヶ月も経っていませんが、閣下のおかげでずっと好きになれました!」
「す、好きに? ……そうか」

 なぜかエルドレッドは少し驚いたように言ってから微笑み、それからシャノンとつなぎっぱなしの自分の左手をじっと見た。

「……それにしても、あなたの手は小さいな」
「そうですか? 私、家族からはディナー用の皿のような手だと言われていたのですが」
「それは、私の手の比喩だろう。あなたの手は小さくて温かくて、爪も磨かれた貝殻のように小さくて……」

 そう言いながら、エルドレッドはシャノンの右手を指先までじっと見てくる。決してやましい意味はないのだろうが、あまり手入れの行き届いていない指先を見られるのは恥ずかしい。

(お姉様やオリアーナはメイドに爪の手入れもしてもらっていたけれど、私は適当に切るだけだったから……)

 だから無礼とは思いつつ手を引き抜いたのだが、エルドレッドはさして気にした様子もなく顔を上げた。

「……ああ、すまない。いつまでも引き留めていてはいけないな」
「いえ……」
「今日は、楽しかった。……これからのあなたの活躍を、城主として期待している」

 エルドレッドはそう言って微笑み、優雅に腰を折ってお辞儀をした。
 だからシャノンも微笑み、制服のスカートを少し持ち上げて腰を折る淑女のお辞儀をする。

「こちらこそ、楽しかったです。……私、辺境伯城の一員として頑張ります」
「ああ」

 エルドレッドは笑顔でうなずき、きびすを返した。

 彼の大きな背中が廊下の角を曲がって見えなくなってから、シャノンは事務官室に入った。
 そのデスクには、この部屋を出たときにはなかったはずのメモが置かれている。そこに書かれているのはディエゴの字で、おそらく不在の間に彼が来たのだろう。

 そこには仕事内容についての頼みごとが書かれている。すぐに、ディエゴからの依頼をしなければならないのだが……。

「……顔、熱いかも」

 つぶやいて、そっと頬に触れる。
 そこだけ、長時間暖炉の前にいたかのようにほてっていた。








 なお、エルドレッドが「すぐさま取り除こう」と言っていた中庭の段差は、その日のうちにきれいさっぱり消えてなだらかなスロープになっていた。
< 29 / 74 >

この作品をシェア

pagetop