元使用人の公爵様は、不遇の伯爵令嬢を愛してやまない。
 クラウスがテーブルの上に置いた本を、早速手に取るアンジェリカ。
 次はどれを読もうかと、表紙を取っ替え引っ替え見比べている。
 その間にクラウスはランタンの明かりを確認する。
 昼間でも外の明るさが届かない地下室では、このランタンの光が重要だ。
 だからクラウスは時折様子を見に来て、油が切れかけていると、急いで交換する。
 アンジェリカより幾分か小柄なクラウスは、彼女より二つ年下の八歳だ。
 しかし八歳とは思えないほど、よく気がつき、仕事のできる少年だった。
 ランタンの油が十分なことを確認すると、クラウスはベッドに置かれた本を回収する。
 アンジェリカが読み終えた本をベッドに置くので、それを片付けてはまた、新しい本を持ってくるの繰り返しだ。
 アンジェリカは日中、上の階に行くことはなく、夜になると書庫の鍵は閉められてしまう。
 そのため、クラウスがアンジェリカに代わって、本を運んでいるのだ。
 クラウスの本の見たてがよく、アンジェリカはいつも、この時を楽しみにしていた。
 
「よい本はございましたか?」
「ええ、その……赤い本が一番気に入ったわ」

 アンジェリカに言われ、クラウスが手にした赤い本を見ると、題名や表紙からして、恋物語だとわかった。

「アンジェリカお嬢様は、やはり恋愛の物語がお好きなのですね」
「そうね……私もいつかは、王子様が、なんて……少し夢を見られるから」

 長いまつ毛を伏せて言うアンジェリカを、クラウスはしばらく黙って見つめ、そして口を開いた。

「……夢ではありません、アンジェリカお嬢様なら、いつか必ず、王子様が迎えに来てくださいます」

 アンジェリカは、クラウスの真っ直ぐな瞳と言葉に、少し悲しげな笑みを浮かべた。

「ありがとう、クラウス……ねえ、私をアンって呼んでくださらない?」
「え、しかし……」
「もっと小さな頃は、父も母もアンと呼んでくれたの……だけどもう誰も呼んでくれなくて、寂しいのよ」

 クラウスは困惑した後、少し照れたように目を逸らした。

「……で、では、アンお嬢様で」
「ふふ、それでもいいわ、ありがとう」
「……お礼を言うのは、僕の方です」
「え? なにか言った?」
「……いいえ、なにも」

 クラウスは三冊の本を片手に、そしてもう片方の手で、ソーサーごとティーカップを持った。

「もう一杯、お淹れいたしましょうか?」
「今日はもういいわ、あまり私に持ってくると、クラウスが叱られてしまうでしょう」
「かまいません、注いでまいります」

 使用人たちは、この家の主から、アンジェリカには上等なものをやるなと言われている。
 それを破ってまで尽くしてくれるのは、クラウス一人だけだった。
 こんなふうに真っ直ぐに、アンジェリカを瞳に映してくれるのも――。

「クラウスは瞳が本当に綺麗ね、まるでアクアマリンのようだわ。髪も銀の糸のようで、本当に美しい」
「……そんなことをおっしゃるのは、アンお嬢様くらいです」

 二人は顔を合わせ、ふふっと小さく微笑み合う。
 地下室でひっそりと生きるアンジェリカにとって、クラウスは唯一の拠り所であった。
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