元使用人の公爵様は、不遇の伯爵令嬢を愛してやまない。
「……な、なぜ?」
「なぜって、料理は火を使います、火を使うということは、火傷の恐れがあるということです。ナイフで手を切るかもしれないし、油を浴びるかもしれない。僕は小さな頃、母に温かいミルクを飲ませてやりたくて、鍋に入れて沸かしたことがありました。だけど鍋の持ち手が服の袖に引っかかり、ひっくり返してしまったんです。幸い、離れたところに落下したので、難を逃れましたが……料理は一歩間違えれば大惨事に繋がる、危険な家事なんです」

 クラウスは自身の経験を織り交ぜて、アンジェリカに言い聞かせるように話した。
 そして真剣な面持ちのまま、アンジェリカに少し身体を向けると、彼女の細い手を取った。

「あなたの玉の肌に傷ができるかと思うと、僕は気になって公務に集中できません。どうかあきらめて、大好きな読書でもしてください、ここには図書館がありますので」

 クラウスはアンジェリカの傷一つない手を見つめて言った。
 そんな彼を前に、アンジェリカは考える。
 クラウスの気持ちは嬉しい、自由に読書ができるのも楽しみだ、だけどそれだけでは、一歩も先に進めない気がした。

「……クラウスが私を心配してくれるのは嬉しいわ、だけど、クラウスがミルクを零したのは子供の頃でしょう、私はもう大人よ、ガルシアやルカナに、ヴァネッサもサポートすると言ってくれているし、怪我をするようなことはしないわ」
「もしものことがあってからでは遅いのですよ、料理は絶対ダメです」
「……私は、昔からクラウスに助けてもらってばかりよ、ただじっとしているだけで、なにもできないなんて嫌だわ、私もなにかお返ししたいの」

 そう言ってアンジェリカは、クラウスの両手を強く握った。
 そして正面からクラウスを見上げ、切なげに目を潤ませる。

「……ねえ、クラウス……どうか、私のお願いを聞いて」

 クラウスのアクアマリンの瞳に、上目遣いに懇願するアンジェリカが映る。
 ちなみにアンジェリカは、すでにヴァネッサの指示を忘れている。
 なので、今の言動は、彼女の意思でやっていることだ。
 ヴァネッサに教えられなくても、無意識のうちにクラウスを揺さぶる。
 彼を落とす方法は、アンジェリカが一番よくわかっていた。
 その証拠に、クラウスの頑なだった表情が、少し崩れた。
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