元使用人の公爵様は、不遇の伯爵令嬢を愛してやまない。
「……そう、どうりでお母様の顔色がよろしいはずだわ」
「アンジェリカが美味しいものを作ってくれるの、そのおかげか身体が軽くてね、ここのところ、とても調子がいいわ」
「それはいいこと、嫌なことは早く忘れて、自分のために生きてくださいませ」

 ジュリアンヌは近くにいた父、サウロスを横目で見ながら言った。
 そんな娘にサウロスは苦笑いするしかない。
 クラウスも特に父を立てようとはしないので、わりとサウロスの立場は弱い。

「マリアンヌ様、本日はご参加いただきありがとうございます、あなたからすれば複雑な部分もあるかと思いますが、円滑に進めていただき、感謝しています」

 クラウスはマリアンヌに会釈をして感謝の意を伝えた。
 マリアンヌはクラウスを引き取った時、厳しい現実にすぐに根を上げて逃げ出すと思っていた。
 しかし、彼は決してめげることなく、一歩ずつ前進していった。
 妾の子でありながら、貴族社会に溶け込み、揺るぎない地位を築き上げたクラウス。
 その確固たる信念に、マリアンヌは感服すら覚えた。
 彼女はいつしか、クラウスを『妾の子』ではなく、一人の人間として見るようになった。
 そしてそれは、自身の『息子』として認めることを意味していた。

「あなたは公爵として立派に勤めを果たしているわ、女性の趣味もいいし……これで不平不満を述べては、淑女の名が廃るというもの」

 マリアンヌはチラッとアンジェリカに目を配った後、さらに続ける。

「……ところで、あなたたちはいつまでわたくしを『マリアンヌ様』と呼ぶつもりなのかしら……二人とも、もう家族だと思っているのはわたくしだけなのかしらね」

 そう言ってマリアンヌは、扇子ですっと口元を隠した。
 別の呼び方をしてほしいという、マリアンヌからの遠回しなお願いである。
 それを察したアンジェリカとクラウスは、お互い顔を見合わせた。

「別に、呼びたくないならかまわないけれど……」

 アンジェリカは心から喜び、クラウスは驚きながらも悪い気はしなかった。
 
「ありがとうございます、ぜひ、呼ばせてください、お母様」
「……僕も、今後は、そうさせていただきます……お母様」

 その言葉に、マリアンヌは扇子の下で微笑んだ。
 血の繋がりはなくても、確かな絆が少しずつ育まれていた。
 
 それからしばらく、貴族たちと顔合わせしたり、食事をしながら談笑する時間が過ぎた。
 そんな中、アンジェリカはお手洗いに行くため、一旦その場を離れる。
 広い会場の扉から廊下に出て、左手の突き当たりに見える手洗い場に向かう。
 そしてその奥の出入り口を通過した時、アンジェリカは誰かに背中を突き飛ばされた。

「キャッ――!?」

 バランスを崩したアンジェリカは、よろけて前方に倒れてしまった。
 豪華な鏡が並ぶ手洗い場の前で、床に蹲ったアンジェリカは、後ろを見上げた。
 するとそこに立っていたのは――。

「ミ、ミレイユ……!?」

 アンジェリカの背後に立ったミレイユは、大きな目を見開き、彼女を見下ろしていた。
 アンジェリカが一人になるタイミングを見計らっていたミレイユは、お手洗いに行く彼女をつけてきた。そして誰もいないのを確認すると、思いきり背中を押したのだ。
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