密室、愛のひととき。
きつく締めた藍色のネクタイ。
書類を握る細くて長い指。
上げた前髪は硬めのワックスで固定され、色気が醸し出される。
仕事をする彼の姿を、斜め前という特等席から独り占めだ。
社長秘書――最初こそ荷が重いと思った。だがその思いも束の間。今では社長秘書であることに誇りを持つと同時に、妙な優越感まで抱いている。
私はパソコンのモニター越しに、少し先の彼に視線を向ける。
彼――椋野社長は総務部から回ってきた起案伺に首を傾げて、小さく溜息をついていた。
私は席を立ち、社長室から出る。
そして給湯室に向かいコーヒーを2杯ほど入れた。
社長はブラック。私は角砂糖を1つ。
ここだけの話、ペアマグカップ……だったりして。
白地に青い四つ葉のクローバーと、黄色い四つ葉のクローバーがあしらわれたデザイン。まさか意図的に揃えているなんて……誰も思うはずがあるまい。
社長室に戻ると、彼はまだ起案伺と睨めっこをしていた。
そっと机にマグカップを置き、背後からその書類を覗き込んでみる。内容は『複合機の入れ替えについて』らしい。壊れているわけではないが、最新のものにした方が仕事の効率が上がるなどと、微妙で曖昧な理由が、社長の中で引っかかっているみたい。
別に入れ替えること自体は問題ない。ただ、もう少し理由を考えて欲しい。それが社長の思いだった。
「渕田さん、コーヒーありがとう」
「いえ」
冷めないうちにコーヒーを口に運び、小さく喉を鳴らす。社長の口元で傾けられている、青い四つ葉のクローバー。自身も手に持つ、黄色い四つ葉のクローバーを優しく撫でながら、少しだけ甘いコーヒーを同じように口に運んだ。
「このコーヒーは、仄かに酸味がある」
「さすが社長。こちらはキリマンジャロコーヒーの深煎りです。濃い味わいの中に広がる酸味や苦味が特徴となっております」
私はコーヒーの香りが大好きで、色々なコーヒーショップに足を運んで豆を購入している。社長も同じようにコーヒーが大好きだったようで、社長秘書になってすぐ、彼とはコーヒーの話題で意気投合して距離も縮まった。
「……渕田さんが淹れてくれたコーヒーは、やはり落ち着く」
社長はマグカップを置いて、私の方に体を向けた。
そして両手を広げて「おいで?」と優しく囁く。
今はまだ勤務時間中だ。
すぐにでもその胸に飛び込みたい感情を抑え、冷静に返答をする。
「仕事中ですから……」
「大丈夫。誰も来ないし、鍵も閉めている」
「え、いつの間に?」
「俺に抜かりないよ」
謎の自信に満ち溢れている社長は、もう一度両手を広げて「おいで?」と優しく囁いた。
そこまで言われたらもう……私の〝社長秘書〟の皮も簡単に剥がれてしまう。
両手を広げていた彼の胸にそっと近寄り、膝の上に腰を下ろす。
そして優しく私を抱きしめ、ついばむように耳を甘噛みした。甘くて優しい社長の動きに、私の脳は簡単に蕩けだす。
私は社長の方に顔を向けて額を重ねた。至近距離で見つめ合いながらゆっくりと唇を重ねると、お互いの口内に残るほろ苦いコーヒーの香りが強く感じられる。その苦さの中で感じるキスの甘さに、眩暈がして頭がおかしくなりそうだった。
「社長……」
「名前で呼んでよ、香音」
「……樹希さん」
「良く言えました」
左手で体を支えられて、右手で頭を固定される。そして先程よりも荒く唇を重ねてお互いの舌を絡めた。社長室に卑猥な水音を響かせながら夢中で舌に吸い付く。濃厚で深く溺れそうなキスに意識が飛びそう。
しばらく無言でキスを繰り返す。そして私の口角から溢れた唾液が顎を伝った時、社長はやっと唇を離して強く私の頭を抱きかかえた。
「キス、上手になったね」
「……はぁ、はぁ」
「可愛い」
荒く肩で呼吸をする私を他所に、社長は平然とした表情を浮かべていた。私ばかりがいっぱいいっぱいで、社長だけ余裕そうなのは少し癪だ。
今度は私が主導権を握ってキスをしてみよう――そう思い彼の頬に自身の手を添えた時、社長の机に置いてある電話が不意に鳴り出した。どうやら内線のようだ。
社長とアイコンタクトを交わし、そっと社長から離れる。そして私が離れたことを確認すると、毅然とした態度で電話を取った。
「椋野です」
電話の相手は総務部長らしい。社長が頭を悩ませていた起案伺の件で相談があるようだ。社長は「分かった、ちょうど俺も話したかった」と答えて電話を切る。そして何事も無かったかのように、微笑んで再び私の体を抱きしめた。
「樹希さん……」
「総務部長に会う前に、香音を補給させて」
私の耳元ですぅ……と息を吸い、また耳に甘く噛み付く。ついばむような甘噛みに体の力が抜ける感覚がした。左手で私の体を支え、また激しく唇を重ねる。社長から漏れ出る熱い吐息に、私は思わず涙が滲んだ。
社長の固定された前髪が一束ほど崩れ落ちる。それにすら色気を感じてどうしようもない。
「……香音、今日は早く帰るから」
「はい、お待ちしております」
「俺たちにとって、大切な日だからね……」
再び社長の机にある電話が鳴り始める。
だが今度はその電話を取らなかった。
社長は優しく私を抱きしめて、ふわっと頭をなでてくれる。
私と社長が付き合い始めて、3回目の記念日である今日のこと。
終
書類を握る細くて長い指。
上げた前髪は硬めのワックスで固定され、色気が醸し出される。
仕事をする彼の姿を、斜め前という特等席から独り占めだ。
社長秘書――最初こそ荷が重いと思った。だがその思いも束の間。今では社長秘書であることに誇りを持つと同時に、妙な優越感まで抱いている。
私はパソコンのモニター越しに、少し先の彼に視線を向ける。
彼――椋野社長は総務部から回ってきた起案伺に首を傾げて、小さく溜息をついていた。
私は席を立ち、社長室から出る。
そして給湯室に向かいコーヒーを2杯ほど入れた。
社長はブラック。私は角砂糖を1つ。
ここだけの話、ペアマグカップ……だったりして。
白地に青い四つ葉のクローバーと、黄色い四つ葉のクローバーがあしらわれたデザイン。まさか意図的に揃えているなんて……誰も思うはずがあるまい。
社長室に戻ると、彼はまだ起案伺と睨めっこをしていた。
そっと机にマグカップを置き、背後からその書類を覗き込んでみる。内容は『複合機の入れ替えについて』らしい。壊れているわけではないが、最新のものにした方が仕事の効率が上がるなどと、微妙で曖昧な理由が、社長の中で引っかかっているみたい。
別に入れ替えること自体は問題ない。ただ、もう少し理由を考えて欲しい。それが社長の思いだった。
「渕田さん、コーヒーありがとう」
「いえ」
冷めないうちにコーヒーを口に運び、小さく喉を鳴らす。社長の口元で傾けられている、青い四つ葉のクローバー。自身も手に持つ、黄色い四つ葉のクローバーを優しく撫でながら、少しだけ甘いコーヒーを同じように口に運んだ。
「このコーヒーは、仄かに酸味がある」
「さすが社長。こちらはキリマンジャロコーヒーの深煎りです。濃い味わいの中に広がる酸味や苦味が特徴となっております」
私はコーヒーの香りが大好きで、色々なコーヒーショップに足を運んで豆を購入している。社長も同じようにコーヒーが大好きだったようで、社長秘書になってすぐ、彼とはコーヒーの話題で意気投合して距離も縮まった。
「……渕田さんが淹れてくれたコーヒーは、やはり落ち着く」
社長はマグカップを置いて、私の方に体を向けた。
そして両手を広げて「おいで?」と優しく囁く。
今はまだ勤務時間中だ。
すぐにでもその胸に飛び込みたい感情を抑え、冷静に返答をする。
「仕事中ですから……」
「大丈夫。誰も来ないし、鍵も閉めている」
「え、いつの間に?」
「俺に抜かりないよ」
謎の自信に満ち溢れている社長は、もう一度両手を広げて「おいで?」と優しく囁いた。
そこまで言われたらもう……私の〝社長秘書〟の皮も簡単に剥がれてしまう。
両手を広げていた彼の胸にそっと近寄り、膝の上に腰を下ろす。
そして優しく私を抱きしめ、ついばむように耳を甘噛みした。甘くて優しい社長の動きに、私の脳は簡単に蕩けだす。
私は社長の方に顔を向けて額を重ねた。至近距離で見つめ合いながらゆっくりと唇を重ねると、お互いの口内に残るほろ苦いコーヒーの香りが強く感じられる。その苦さの中で感じるキスの甘さに、眩暈がして頭がおかしくなりそうだった。
「社長……」
「名前で呼んでよ、香音」
「……樹希さん」
「良く言えました」
左手で体を支えられて、右手で頭を固定される。そして先程よりも荒く唇を重ねてお互いの舌を絡めた。社長室に卑猥な水音を響かせながら夢中で舌に吸い付く。濃厚で深く溺れそうなキスに意識が飛びそう。
しばらく無言でキスを繰り返す。そして私の口角から溢れた唾液が顎を伝った時、社長はやっと唇を離して強く私の頭を抱きかかえた。
「キス、上手になったね」
「……はぁ、はぁ」
「可愛い」
荒く肩で呼吸をする私を他所に、社長は平然とした表情を浮かべていた。私ばかりがいっぱいいっぱいで、社長だけ余裕そうなのは少し癪だ。
今度は私が主導権を握ってキスをしてみよう――そう思い彼の頬に自身の手を添えた時、社長の机に置いてある電話が不意に鳴り出した。どうやら内線のようだ。
社長とアイコンタクトを交わし、そっと社長から離れる。そして私が離れたことを確認すると、毅然とした態度で電話を取った。
「椋野です」
電話の相手は総務部長らしい。社長が頭を悩ませていた起案伺の件で相談があるようだ。社長は「分かった、ちょうど俺も話したかった」と答えて電話を切る。そして何事も無かったかのように、微笑んで再び私の体を抱きしめた。
「樹希さん……」
「総務部長に会う前に、香音を補給させて」
私の耳元ですぅ……と息を吸い、また耳に甘く噛み付く。ついばむような甘噛みに体の力が抜ける感覚がした。左手で私の体を支え、また激しく唇を重ねる。社長から漏れ出る熱い吐息に、私は思わず涙が滲んだ。
社長の固定された前髪が一束ほど崩れ落ちる。それにすら色気を感じてどうしようもない。
「……香音、今日は早く帰るから」
「はい、お待ちしております」
「俺たちにとって、大切な日だからね……」
再び社長の机にある電話が鳴り始める。
だが今度はその電話を取らなかった。
社長は優しく私を抱きしめて、ふわっと頭をなでてくれる。
私と社長が付き合い始めて、3回目の記念日である今日のこと。
終