エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
貸し切りにした創作居酒屋の一室は、医師、看護師、医師が連れてきた製薬会社のお気に入りの営業職などでひしめいていた。二十名弱は座れるであろう長い座卓の三つが悠に埋まっており、アルコールが染みていつもより大きくなったスタッフたちの声と、食べ物の匂いが広がって混沌としている。
「亨ちゃん飲んでる? 楽しみなさいよ? こんな機会あんまり無いんだから。女の子の一人でも引っかけておいで。勿論独身の」
亨の隣で浴びるようにウィスキーを仰いでいた循環器内科病棟所属医師の芳賀(はが)が豪快に笑う。まるで熊のように大きく野性的な風体で、常に無精髭を湛えているが、それがだらしないと不潔とワイルドの間で絶妙なバランスを取っているのが、男としては羨ましい。厚い手が亨の背中をバンバンと音がするほど叩く。
「最近忙しかったみたいじゃない。ご無沙汰でしょ? 君と遊びたい子も沢山いると思うよ」
大きなお世話なのだが、その軽いノリに流されてもいいかなと思う程度には彼の言葉には説得力と勢いがある。亨が笑って流しながら曖昧な返事をしていると、芳賀の後ろから蜜橋が顔を出した。
「芳賀先生、亨先生に絡んじゃ駄目ですよ。先生には先生の好みとかタイミングがあるんだから。もしかしたらもう付き合ってる方とかいるかもしれないじゃないですか」
蜜橋が芳賀に言い聞かせるように言う。さすが、母親という感じだ。淑やかな所作と穏やかな笑顔が子どものみならず野獣のような中年男にも効いたようで、芳賀は「そうですよね」と彼女を見て脳が混ざりそうなほど縦に振った。
喧騒の中からますます深く切り出された喧騒が近付いてくる。
「亨先生! 一緒に飲みませんか?」
病棟とCCUの若い看護師が亨が座っている座卓の向かい側に腰を下ろしながら明るい声調で言った。その何席かが空いていたのはそこにいたはずののCCUの医師たちが看護師の群れに突っ込んで行ったからだ。院内では一線を引いているような関係性だが、職場というしがらみから解放されるとただの男と女である。こういうイベントから育まれていく恋愛関係も多い。かく言う自分も一夜限りと思いつつ、セックスフレンドを作ってしまった身なので何とも言えない。
目の前に座る看護師の中に、そのセックスフレンドがいないか視線を這わせて確かめる。
いない。
安心して喋れる、と安堵に頬を緩ませたとき、はしゃぐ看護師たちの間から視線を感じた。目を凝らさなくても、一人だけ闇を固めたような姿は目立っていた。黒い影のような衣服を身にまとった玲音が見張るように亨を凝視している。
「う、うわあ」
腑抜けた声を出した亨を、先に看護師たちと喋っていた芳賀が振り向いた。
「どうしたの? 虫でもいた?」
「虫……だったらよかったんですけどね」
「ありゃ、女の子かい」
「ノーコメントで……」
モテる男は辛いねえ、と同情の感じられない爆笑をしながら、芳賀は看護師たちの相手をしている。飲み始めてからもう二時間も経っているので、皆酒にやられて陽気だったり泣き出したり行き過ぎた自慢話を繰り返したり、人間の感情を煮詰めたような空間が出来上がっていて、亨は辟易した。
亨自身もいつもはもう少し機嫌よく飲んでいるのだが、今日は疲労もあってか気分が上がらない。それに重ねて監視するような玲音の視線もある。上手く笑顔を作れているか怪しかった。
女の子たちの会話に軽い相槌を打ちつつ、酒もすすまないまま飲み会が終わるのを待って、波に攫われるように居酒屋を出た頃には日を跨ぐ直前だった。
「じゃあ気を付けて帰れよー。特に女の子ー」
芳賀が熊が鳴くような声を上げている。なのに自分はちゃっかり蜜橋とタクシーに乗っている。
そのままどこへ行くのかは野暮なので訊かない。万が一ことが起こっても、蜜橋はシングルマザーだし芳賀は独身なので面倒にはならないだろう。笑顔で別れる。
二次会の誘いを蹴って亨が帰ろうとしたとき、居酒屋の立ち並ぶアーケード通りに停まっていたタクシーはスタッフの乗車により全て埋まっていた。次が来るのを待つ気になれず、亨は酔い冷ましも兼ねて歩きながら空車を探すことにした。冬に向かう冷たい風が頬を切る。
酔っ払いを避けながら歩道を進み、アーケードの出口まで着いたとき、背後から声を掛けられた。
「先生、歩きですか?」
嫌な予感が当たらなければいいと願いつつ振り向くと、酔いのせいか寒さのせいか、頬を赤くした玲音が少女のように微笑んでいた。
仕方なく歩調を緩める。
「いや、タクシーを探してる」
「私もです。相乗りして行きませんか?」
まずいな、と亨は思った。
このまま一緒にタクシーに乗れば、自宅までついて来るだろう。
亨と玲音は春に開催された循環器外科内の飲み会で交流を持ち、互いの暇を埋めと性欲を発散する為だけに体を結ぶようになった。しかしいつからか、玲音は亨の心をも独占したいと思うようになった。反比例するように亨の心が離れていったのを知ってか知らずか、彼女の執着から生まれる行動はエスカレートし、現在も続いている。
もうあまり関わりたくない、というのが亨の本心だった。
「あー……ごめん。友達のところに忘れ物取りに行くから。玲音ちゃんの家とは反対だし、今日は帰りな?」
亨が誤魔化すように後頭部を掻くと、玲音は端正な顔に刻んだ笑みを深くする。
竜に対する鬼のような態度も知っているので、こういった彼女の変化の激しさには気味悪さを感じる。よくこんなギャップのある女を構うなと竜に関心すら覚える。
彼女の、明確に輪郭を隔てた赤い唇が動く。
「ついて行きます」
「それは困るな」
「大丈夫です。静かにしてますから」
「そういう問題じゃなくてね」
話している間に、知らず速足になっていた。アーケードを抜け、車通りの多い通りを歩きながら後ろを確認すると玲音はスキップでもしそうな足取りでついて来る。あーもう困った。
先生のお友達ってどんな人ですか? 病院の人ですか? おうちどこですか? ねえねえ先生。
玲音の声が聞こえる度二の腕から鳥肌が広がった。振り切りたいのに振り切れない。しつこいと怒鳴ることができたらどんなに楽だろう。苛々しながらそんなことを考えているうちに見覚えのある無人駅が見えて来た。亨の頭に苦肉の策が浮かんだ。
「友達の家もうすぐなんだ。そろそろ帰りなよ。俺泊まって行くかもしれないし」
無人駅を通り過ぎた先で立ち止まり、振り返ると相変わらずニコニコとしている玲音が一緒に行くと言い出した。亨は溜息をついて肩を下げる。仕方なく、しかし戦略的に、彼は道路から奥まったところにある古いアパートの階段を上り始めた。
錆びれた鉄がカンカンと高い音を立てる。二階の一番奥の玄関ドアの前に立ち深呼吸すると、様子を窺うように離れたところにいた玲音が、怪訝な表情を浮かべたのが視界の端に映った。
亨がインターフォンを押す。
薄いドアの向こうで電子音が鳴っているのが聞こえた。
足音と開錠の気配。
「玲音ちゃん、ちゃんと帰れよ」
ドアが開き始めた瞬間、亨は彼女のほうに顔を向けて手を振り、隙間に滑り込むようにして部屋に入った。硬い音がして鍵が閉まる。あっという間の出来事に、玲音は何もできず、ただ佇んでいた。
上がった息を落ち着かせようと、亨が玄関で肩を上下させている間、パジャマ姿のゆえは驚いたような戸惑っているような顔で深夜の来訪者を見ていた。
「先生、どうしたんですか?」
亨は首を傾げるゆえから香るボディーソープの香りを肺いっぱいに吸い込み、「ごめん」と深く頭を下げる。
「ちょっと非難させてほしい」
眉尻を下げて笑みを作った彼の気苦労を察したように、ゆえは容易に彼を部屋に招いた。
「亨ちゃん飲んでる? 楽しみなさいよ? こんな機会あんまり無いんだから。女の子の一人でも引っかけておいで。勿論独身の」
亨の隣で浴びるようにウィスキーを仰いでいた循環器内科病棟所属医師の芳賀(はが)が豪快に笑う。まるで熊のように大きく野性的な風体で、常に無精髭を湛えているが、それがだらしないと不潔とワイルドの間で絶妙なバランスを取っているのが、男としては羨ましい。厚い手が亨の背中をバンバンと音がするほど叩く。
「最近忙しかったみたいじゃない。ご無沙汰でしょ? 君と遊びたい子も沢山いると思うよ」
大きなお世話なのだが、その軽いノリに流されてもいいかなと思う程度には彼の言葉には説得力と勢いがある。亨が笑って流しながら曖昧な返事をしていると、芳賀の後ろから蜜橋が顔を出した。
「芳賀先生、亨先生に絡んじゃ駄目ですよ。先生には先生の好みとかタイミングがあるんだから。もしかしたらもう付き合ってる方とかいるかもしれないじゃないですか」
蜜橋が芳賀に言い聞かせるように言う。さすが、母親という感じだ。淑やかな所作と穏やかな笑顔が子どものみならず野獣のような中年男にも効いたようで、芳賀は「そうですよね」と彼女を見て脳が混ざりそうなほど縦に振った。
喧騒の中からますます深く切り出された喧騒が近付いてくる。
「亨先生! 一緒に飲みませんか?」
病棟とCCUの若い看護師が亨が座っている座卓の向かい側に腰を下ろしながら明るい声調で言った。その何席かが空いていたのはそこにいたはずののCCUの医師たちが看護師の群れに突っ込んで行ったからだ。院内では一線を引いているような関係性だが、職場というしがらみから解放されるとただの男と女である。こういうイベントから育まれていく恋愛関係も多い。かく言う自分も一夜限りと思いつつ、セックスフレンドを作ってしまった身なので何とも言えない。
目の前に座る看護師の中に、そのセックスフレンドがいないか視線を這わせて確かめる。
いない。
安心して喋れる、と安堵に頬を緩ませたとき、はしゃぐ看護師たちの間から視線を感じた。目を凝らさなくても、一人だけ闇を固めたような姿は目立っていた。黒い影のような衣服を身にまとった玲音が見張るように亨を凝視している。
「う、うわあ」
腑抜けた声を出した亨を、先に看護師たちと喋っていた芳賀が振り向いた。
「どうしたの? 虫でもいた?」
「虫……だったらよかったんですけどね」
「ありゃ、女の子かい」
「ノーコメントで……」
モテる男は辛いねえ、と同情の感じられない爆笑をしながら、芳賀は看護師たちの相手をしている。飲み始めてからもう二時間も経っているので、皆酒にやられて陽気だったり泣き出したり行き過ぎた自慢話を繰り返したり、人間の感情を煮詰めたような空間が出来上がっていて、亨は辟易した。
亨自身もいつもはもう少し機嫌よく飲んでいるのだが、今日は疲労もあってか気分が上がらない。それに重ねて監視するような玲音の視線もある。上手く笑顔を作れているか怪しかった。
女の子たちの会話に軽い相槌を打ちつつ、酒もすすまないまま飲み会が終わるのを待って、波に攫われるように居酒屋を出た頃には日を跨ぐ直前だった。
「じゃあ気を付けて帰れよー。特に女の子ー」
芳賀が熊が鳴くような声を上げている。なのに自分はちゃっかり蜜橋とタクシーに乗っている。
そのままどこへ行くのかは野暮なので訊かない。万が一ことが起こっても、蜜橋はシングルマザーだし芳賀は独身なので面倒にはならないだろう。笑顔で別れる。
二次会の誘いを蹴って亨が帰ろうとしたとき、居酒屋の立ち並ぶアーケード通りに停まっていたタクシーはスタッフの乗車により全て埋まっていた。次が来るのを待つ気になれず、亨は酔い冷ましも兼ねて歩きながら空車を探すことにした。冬に向かう冷たい風が頬を切る。
酔っ払いを避けながら歩道を進み、アーケードの出口まで着いたとき、背後から声を掛けられた。
「先生、歩きですか?」
嫌な予感が当たらなければいいと願いつつ振り向くと、酔いのせいか寒さのせいか、頬を赤くした玲音が少女のように微笑んでいた。
仕方なく歩調を緩める。
「いや、タクシーを探してる」
「私もです。相乗りして行きませんか?」
まずいな、と亨は思った。
このまま一緒にタクシーに乗れば、自宅までついて来るだろう。
亨と玲音は春に開催された循環器外科内の飲み会で交流を持ち、互いの暇を埋めと性欲を発散する為だけに体を結ぶようになった。しかしいつからか、玲音は亨の心をも独占したいと思うようになった。反比例するように亨の心が離れていったのを知ってか知らずか、彼女の執着から生まれる行動はエスカレートし、現在も続いている。
もうあまり関わりたくない、というのが亨の本心だった。
「あー……ごめん。友達のところに忘れ物取りに行くから。玲音ちゃんの家とは反対だし、今日は帰りな?」
亨が誤魔化すように後頭部を掻くと、玲音は端正な顔に刻んだ笑みを深くする。
竜に対する鬼のような態度も知っているので、こういった彼女の変化の激しさには気味悪さを感じる。よくこんなギャップのある女を構うなと竜に関心すら覚える。
彼女の、明確に輪郭を隔てた赤い唇が動く。
「ついて行きます」
「それは困るな」
「大丈夫です。静かにしてますから」
「そういう問題じゃなくてね」
話している間に、知らず速足になっていた。アーケードを抜け、車通りの多い通りを歩きながら後ろを確認すると玲音はスキップでもしそうな足取りでついて来る。あーもう困った。
先生のお友達ってどんな人ですか? 病院の人ですか? おうちどこですか? ねえねえ先生。
玲音の声が聞こえる度二の腕から鳥肌が広がった。振り切りたいのに振り切れない。しつこいと怒鳴ることができたらどんなに楽だろう。苛々しながらそんなことを考えているうちに見覚えのある無人駅が見えて来た。亨の頭に苦肉の策が浮かんだ。
「友達の家もうすぐなんだ。そろそろ帰りなよ。俺泊まって行くかもしれないし」
無人駅を通り過ぎた先で立ち止まり、振り返ると相変わらずニコニコとしている玲音が一緒に行くと言い出した。亨は溜息をついて肩を下げる。仕方なく、しかし戦略的に、彼は道路から奥まったところにある古いアパートの階段を上り始めた。
錆びれた鉄がカンカンと高い音を立てる。二階の一番奥の玄関ドアの前に立ち深呼吸すると、様子を窺うように離れたところにいた玲音が、怪訝な表情を浮かべたのが視界の端に映った。
亨がインターフォンを押す。
薄いドアの向こうで電子音が鳴っているのが聞こえた。
足音と開錠の気配。
「玲音ちゃん、ちゃんと帰れよ」
ドアが開き始めた瞬間、亨は彼女のほうに顔を向けて手を振り、隙間に滑り込むようにして部屋に入った。硬い音がして鍵が閉まる。あっという間の出来事に、玲音は何もできず、ただ佇んでいた。
上がった息を落ち着かせようと、亨が玄関で肩を上下させている間、パジャマ姿のゆえは驚いたような戸惑っているような顔で深夜の来訪者を見ていた。
「先生、どうしたんですか?」
亨は首を傾げるゆえから香るボディーソープの香りを肺いっぱいに吸い込み、「ごめん」と深く頭を下げる。
「ちょっと非難させてほしい」
眉尻を下げて笑みを作った彼の気苦労を察したように、ゆえは容易に彼を部屋に招いた。