エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい

「外に誰かいるんですか?」

 しきりにカーテンの隙間から外の様子を眺めている亨にゆえが声をを掛けると、彼は大きく息を吐いて「いるんだけどね」と弱りきった表情を浮かべた。
「でもどうしようもない」
 ゆえは亨の囁くような声を聞きながら、台所で淹れたアールグレイをマグカップに注いで持って行く。彼の前と自分のところに湯気の立つそれを置くと、気付いた亨が一瞬呆気にとられたような顔を浮かべた。
「茶碗で紅茶を飲むの?」
 ゆえの前に置かれた紅色が、チープな花柄の飯茶碗に収まっていたことに目を丸くする。
「食器はほとんど一人分しか持っていなくて……お行儀悪いですよね」
 情けなさそうな困ったような微笑みを口元に浮かべてゆえは肩をすくめた。
「いや、そんなことないよ。飲めれば何でもいいんだから」
 俺がそっちでもいいよ、と亨は綺麗な形の目を細めたがゆえは丁重に断った。
 部屋に友人を招くこともなければ、誰かと一緒に住む予定も無い。必要最低限の食器があれば事足りる。だから予備のものを購入するなんて考えは最初から無かった。先日、そして今日のように病棟の憧れの的が来ることなど悪戯な奇跡みたいなものなので、きっとこれからも食器を買い足すことはしないだろう。今いる亨にはみっともないところを見せた羞恥もあるし、不快に思わせた申し訳なさもあるが。
 音もたてずに一口飲んで、彼はここに来てから何度目かも分からない溜息をついた。
「参ったなあ」
 もごもごと言いながら膝を抱えるようにして足の間に顔を埋める。


 ゆえはどうしても窓の外が気になり彼の隣に座った。微かにアルコールの匂いがする。
 亨がきっちりと閉じたカーテンにゆえが触れようとすると、縮こまっていた亨が夢遊病者のような覇気の無い顔で「見ないでほしい」と請うように呟いた。
「ひどいことをしている俺を、追い出したくなるよ」
 泣きそうな声に、ゆえは心臓が締め付けられた。こんなに不安定な表情の亨を職場では一度も見たことがない。多忙で疲弊していたり、救命処置などの不手際を自責し唇を噛んでいるのを見たことはあるが、吹けば消え入りそうなほど弱っている姿は知らない。
 本当に自分には見せたくないものが、人が、窓の外にはいるのだろう。
 しかし徐々に聞こえ始めた雷鳴と雨音に、ゆえの胸中はざわついていた。
「濡れてしまうのではないでしょうか」
「……そうかもね」
「傘を」
「放っておいていい。いや、放っておいてほしい。傷付けるつもりで俺はここに逃げて来たんだから。俺今、彼女にひどいことしてるんだ」
 顔を上げない亨にゆえは少しだけ近付いて、硬く丸まった背をあやすように撫でた。
「でも助けてあげてほしいです」
 ――先生じゃない人でいいから。
 とゆえは寂然とした声で言い、まるで自分も降ってくる雨粒を眺めるように天井を見た。
「雨の中で一人でいるのはとても寂しいです。私でよければ声を掛けてきま……」
「ああ、いや、うん。適役がいる。どうして忘れてたんだ」
 ゆえの言葉を遮って、前髪を乱した亨が潜水艦のように目だけを前方に向けた。そしてスラックスからスマホを取り出し、「ごめん、電話させて」とゆえのほうを向いた。
 相変わらず暗い瞳をしていて、ゆえのほうが不安になった。亨は外にいる人と同じくらい傷付いている気がする。慰めたいけれど、事情も分からないし何と声を掛けていいか分からなかった。


 考えているうちに呼び出し音が止み、相手の声が聞こえ始めた。
 盗み聞きするつもりはなかったが、低い声が返事をしたのが分かった。
「寝てた?ごめん。ちょっと頼みたいことがあってさ。あいつを迎えに来てほしい。……いや、今は一緒にいない。うん。場所画像で送るから。雨降ってるだろ? 外にいるんだよ。……あー、うん。俺のせい。ごめん、後で詳しいこと話すから。とりあえず車出してやって。ひどいことになってると思うけど。……うん、よろしく」


 ディスプレイをタップし、携帯を畳の上に置いた亨はまた溜息を吐いた。そして足を崩して座っているゆえに視線を合わせて、「嫌な奴だ、俺は」と濁った水溜りを飲んだような表情で言った。
「君のこともこうして利用して、申し訳ない」
「それは心配しないで下さい。私は大丈夫ですから」
 可哀想とか哀れみとか少しの心配とか、恐らくそういう感情だったのだと思う。ゆえは彼の頭に自分の頭をくっつけた。身長の差でゆえのほうが亨の肩に凭れかかる格好になったが、自分の体温や鼓動が伝わればいいと思った。
 亨は瞠目して肩を揺らした。
「いつか仲直り出来たらいいですね」
 ゆえは思いついたままを、出来るだけ刺激のない声調で発した。衣服を越えてじんわりと溶けだす彼の体温をゆえはひどく愛しいと思った。
「出来たら、いいな」
 亨が頬ずりするようにゆえの側頭部に触れる。彼の顔が動くと、そのかさついた唇がこめかみに触れて「きゃあ」と声が出た。
「あ、ごめん」
「い、いえ、大丈夫です! 驚いただけで……!」
「ゆえさんにくっついてると何でか安心するんだよな。柔らかいからかな」
「柔らかいですか?」
「こう……マシュマロみたいな」
「それは喜んでいいんでしょうか」
「俺はいいと思ってるけどね」
 ゆえにはよく分からなかったが、要は脂肪が多いということなのだと思った。
 あまりの率直さに思わず笑うと、沈んでいた亨の顔も少しだけ綻んだので安心とした。しかしすぐに険しい表情に変わる。
「後はあいつに任せるしかないな」
 雨脚はますます強くなっている。
 湿度の高い室内で、亨はぬくもりを求めるようにゆえの手を握った。

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