エリート医師は美味しそうな看護師とお近づきになりたい
亨から午前二時にもなろうというときに電話が着て只事では無いと予想はしていたが、教えられた場所に着いて目の当たりにした事の重大さと深刻さに愕然とした。雨に煙る中で距離を取って見ても、誰がそこに佇んでいたのかわかった。否、わかっていたのだ最初から。亨が言う「あいつ」が誰を指すのか、見当がついていた。しかし実際に見たその姿はまるで亡霊のようで、アスファルトを動かず、しきりに腕で顔を拭っていた。
竜は恐がらせないように徐行しながら近付き、反対車線の歩道にいる玲音の側で車を止めた。ライトは付けていたしこんなに大きな存在に気付かない筈がないのに、玲音は俯いたまま顔を上げない。車を降りて駆け寄ると、漸く赤い目が竜を見た。
「笑いに来たんだろ」
玲音の色のない唇が自嘲気味に歪む。
「笑えよ。馬鹿みたいだろ」
何十メートルか先にある街灯が、かろうじて二人の姿を闇の中に浮き上がらせているが、雨がノイズのように声を覆い隠す。歩幅一歩分の距離に竜が寄ると、玲音は威嚇するように声を張り上げた。
「近付くな! 早く家に帰れよ! 同情でもするつもりかよ! 迷惑なんだよ!」
まるで傷を負った猫が身を守るために戦うような、必死さと痛々しさの塊のような生き物と対峙しても、竜は躊躇なく手を伸ばした。
「風邪をひく」
パンッとその温かい手が、濡れそぼり芯まで冷え切った掌に叩き落とされる。
「触るな! 嫌いだ! お前も、あの人以外はみんな嫌いだ!」
彼女の頬を伝うのが雨か涙か判断付かない。竜は玲音の言葉にひそかに腹を立てた。表情にも態度にも出ないが、振り続ける雨粒も雨音も煩わしいし、玲音は自分を拒絶するし、兄に叩き起こされてここまで来たのに、自分にメリットなど何も無いではないか。好ましく思っている相手でも、ずぶ濡れになってまで助ける義理があるのか。
途端に氷を放り込まれたように胸の中が冷えていく感じがした。
尖った思考が途切れると、出てきた言葉は驚くほど冷たい響きをしていた。
「好きにしろ」
一瞬だけ彼女の泣き声が止んだ。潤んだ目で竜を見上げて、何秒かの沈黙をつくり、「ありがとう」と壊れ物みたいに儚く微笑んだ顔が竜の心を揺さぶった。息が詰まる。
歩道に沿ってどこかへ行こうとする彼女を見送ればよかったのに。
竜はその腕を掴んだ。
「ありがとうって何だよ」
玲音は振り向かなかった。
「何か、あんたに言われたらすっきりした」
「何が?」
「もういいかなって」
激しい雨音が五月蠅いはずなのに、囁くような声は不思議とよく聞こえた。聞き洩らしていけないように思えた。玲音が歩を進めようと足を出す。しかし竜の腕を振り払おうとはしなかった。
「帰るから」
「送る」
「大丈夫」
「お前の大丈夫は大丈夫じゃない」
助ける義理も見返りも期待出来無いのに、冷静になれば思い直しそうなものなのに、竜は自分らしくもなく動揺していた。このまま手を離したらひどく後悔するだろうと確信に似た警鐘が鳴っていた。
初めて会ったときに見た笑顔も泣き顔も好きだと思った。何でもなあなあにして濃度の薄い人生を送って来た自分とは真反対の彼女と関わると、自分の生きざまにも色がついていく気がした。手放してはいけない。メリットなどではなく、自分の我儘で玲音に関わりたいんだと竜は自覚した。
「俺を置いていかないでほしい」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない、困る。……暗いところが苦手なんだ」
――だから一人では帰れない。
竜が僅かに不安の色を見せると、玲音は振り返り突然噴き出して破顔した。
「え、そうなの?」
「ああ」
「そこは頑張って帰れよ!」
玲音は暫く腹を抱えて笑っていた。この世の絶望を全部背負ったような顔が幻だったのではと疑うくらい可笑しそうにしていた。竜はその変化についていけず、首を傾げた。
「俺は何か笑われるようなことを言ったか?」
「だってこんなに図体のでかい男が、恐いって……あはははは!」
呼吸困難になりそうなほど続く笑い声に、竜は呆然としながらも安堵していた。後はこのまま連れて帰ればいい。いや、でも、どこへ。
「……一緒にうちに来るか?」
実家である。
「え、やだよ。ていうかもうどこにも帰らないから」
「何故」
「面白かったし、いい気分でいけそうだから」
「そういうことを言うのはやめてくれ」
「じゃあ勝手に持ってってよ、これ」
玲音は言いながら右手で拳銃のかたちを作り、自分のこめかみに銃口を向けた。
「私はもう要らないから」
もう泣いてはいない。口元を愉快そうに持ち上げている。しかし彼女はどこか壊れていた。竜が一歩踏み出してその体を抱きしめる。力を込めれば濡れた上衣から水が滴った。
「じゃあ勝手にする」
竜の胸に顔を押し付けながら、柄にもなく躾けられた猫みたいに玲音が頷く。
竜は彼女を俵抱きにして路上駐車したままの車に向かった。アスファルトの亀裂に出来た水溜りがスニーカーを濡らす。
「物って感じ」
「俺が貰ったんだからどうしたっていいだろ」
話している間に竜が玲音を後部座席に放り込んだ。エンジンを掛ける。
「煙草ちょうだい」
「禁煙だ」
車は駅前にあるビジネスホテルの駐車場に停まった。
竜は恐がらせないように徐行しながら近付き、反対車線の歩道にいる玲音の側で車を止めた。ライトは付けていたしこんなに大きな存在に気付かない筈がないのに、玲音は俯いたまま顔を上げない。車を降りて駆け寄ると、漸く赤い目が竜を見た。
「笑いに来たんだろ」
玲音の色のない唇が自嘲気味に歪む。
「笑えよ。馬鹿みたいだろ」
何十メートルか先にある街灯が、かろうじて二人の姿を闇の中に浮き上がらせているが、雨がノイズのように声を覆い隠す。歩幅一歩分の距離に竜が寄ると、玲音は威嚇するように声を張り上げた。
「近付くな! 早く家に帰れよ! 同情でもするつもりかよ! 迷惑なんだよ!」
まるで傷を負った猫が身を守るために戦うような、必死さと痛々しさの塊のような生き物と対峙しても、竜は躊躇なく手を伸ばした。
「風邪をひく」
パンッとその温かい手が、濡れそぼり芯まで冷え切った掌に叩き落とされる。
「触るな! 嫌いだ! お前も、あの人以外はみんな嫌いだ!」
彼女の頬を伝うのが雨か涙か判断付かない。竜は玲音の言葉にひそかに腹を立てた。表情にも態度にも出ないが、振り続ける雨粒も雨音も煩わしいし、玲音は自分を拒絶するし、兄に叩き起こされてここまで来たのに、自分にメリットなど何も無いではないか。好ましく思っている相手でも、ずぶ濡れになってまで助ける義理があるのか。
途端に氷を放り込まれたように胸の中が冷えていく感じがした。
尖った思考が途切れると、出てきた言葉は驚くほど冷たい響きをしていた。
「好きにしろ」
一瞬だけ彼女の泣き声が止んだ。潤んだ目で竜を見上げて、何秒かの沈黙をつくり、「ありがとう」と壊れ物みたいに儚く微笑んだ顔が竜の心を揺さぶった。息が詰まる。
歩道に沿ってどこかへ行こうとする彼女を見送ればよかったのに。
竜はその腕を掴んだ。
「ありがとうって何だよ」
玲音は振り向かなかった。
「何か、あんたに言われたらすっきりした」
「何が?」
「もういいかなって」
激しい雨音が五月蠅いはずなのに、囁くような声は不思議とよく聞こえた。聞き洩らしていけないように思えた。玲音が歩を進めようと足を出す。しかし竜の腕を振り払おうとはしなかった。
「帰るから」
「送る」
「大丈夫」
「お前の大丈夫は大丈夫じゃない」
助ける義理も見返りも期待出来無いのに、冷静になれば思い直しそうなものなのに、竜は自分らしくもなく動揺していた。このまま手を離したらひどく後悔するだろうと確信に似た警鐘が鳴っていた。
初めて会ったときに見た笑顔も泣き顔も好きだと思った。何でもなあなあにして濃度の薄い人生を送って来た自分とは真反対の彼女と関わると、自分の生きざまにも色がついていく気がした。手放してはいけない。メリットなどではなく、自分の我儘で玲音に関わりたいんだと竜は自覚した。
「俺を置いていかないでほしい」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない、困る。……暗いところが苦手なんだ」
――だから一人では帰れない。
竜が僅かに不安の色を見せると、玲音は振り返り突然噴き出して破顔した。
「え、そうなの?」
「ああ」
「そこは頑張って帰れよ!」
玲音は暫く腹を抱えて笑っていた。この世の絶望を全部背負ったような顔が幻だったのではと疑うくらい可笑しそうにしていた。竜はその変化についていけず、首を傾げた。
「俺は何か笑われるようなことを言ったか?」
「だってこんなに図体のでかい男が、恐いって……あはははは!」
呼吸困難になりそうなほど続く笑い声に、竜は呆然としながらも安堵していた。後はこのまま連れて帰ればいい。いや、でも、どこへ。
「……一緒にうちに来るか?」
実家である。
「え、やだよ。ていうかもうどこにも帰らないから」
「何故」
「面白かったし、いい気分でいけそうだから」
「そういうことを言うのはやめてくれ」
「じゃあ勝手に持ってってよ、これ」
玲音は言いながら右手で拳銃のかたちを作り、自分のこめかみに銃口を向けた。
「私はもう要らないから」
もう泣いてはいない。口元を愉快そうに持ち上げている。しかし彼女はどこか壊れていた。竜が一歩踏み出してその体を抱きしめる。力を込めれば濡れた上衣から水が滴った。
「じゃあ勝手にする」
竜の胸に顔を押し付けながら、柄にもなく躾けられた猫みたいに玲音が頷く。
竜は彼女を俵抱きにして路上駐車したままの車に向かった。アスファルトの亀裂に出来た水溜りがスニーカーを濡らす。
「物って感じ」
「俺が貰ったんだからどうしたっていいだろ」
話している間に竜が玲音を後部座席に放り込んだ。エンジンを掛ける。
「煙草ちょうだい」
「禁煙だ」
車は駅前にあるビジネスホテルの駐車場に停まった。