看護師彼女の恋愛模様
苦しいほど暗い深海からゆっくりと浮かぶ。裏側から見る水面はきらきらと明るい。ずっと待ち望んでいたそれが目の前にあるのに、眩し過ぎて目を瞑ってしまう。やっぱり海の底へ戻ろうか。冷たく孤独で、慣れてしまえば案外居心地がいいのだ。肺の中の酸素が尽き、窒息するのを待つ穏やかな時間がひどく心を安定させるのだ。誰も立ち入らないで。この浮遊する檻から、私は太陽を羨むだけでいいから。
柔らかなところで目が覚めた。目の前には男の顔があった。まだぼうっとする頭と瞳に貼りついたコンタクトの不快さの中で観察すれば、ベッドサイドランプに浮き上がる、狭くも広くもない額と、濃くはないが長い睫毛と、すっと筆を入れたような鼻筋、薄い唇と凹凸の目立つ首と鎖骨が見えた。玲音のほうを向いて、規則正しいリズムで呼吸をしている。
逞しい体に白く清潔そうなガウンを纏い、その半分が掛け布団の中に埋まっている。知っているようで、知らない姿。不思議な気持ちで伸ばした手が、彼の短い前髪をそっと避ける。どうしてそうしたかはわからない。昔実家で買っていた犬を撫でる感覚に近かったかもしれない。起きる気配は無い。寂しさが胸に染みていく。
体を起こすと玲音も同じガウンを着ていることに気付いた。下着とタンクトップはそのまま身に着けている。濡れた筈の服はどこへいったのだろう。
クッションの利いたベッドはダブルの大きさで、大人二人で寝るにはいささか窮屈だ。しかし彼――竜が背中が落ちそうなほど端に寄っているので玲音は別段狭いとは思わなかった。
窓にはレースカーテンだけが掛けられていて、その向こうは広大な闇だった。雨が続いているのかどうかは分からない。知ろうとする気力も無かった。
気が抜けて、再び横になる。シーツが濡れていることに気付いた。そういえば髪も半端に濡れている。頭を手で掻き混ぜると愛用のシャンプーの香りが広がった。同時に煙草が吸いたくなった。薄い毛布と厚い掛け布団の温かさに負けそうになりながらも耐えられず、再びのそのそと起き上がる。寝床から抜け出そうとシーツを蹴った時、背中に腕が回って引き倒された。
「どこに行く」
寝ぼけ眼の竜が開いていない口で言った。
「……煙草を吸いに」
玲音が大人しく竜の腕に収まりながら返す。彼の胸は温かく、静かな鼓動が聞こえた。
「俺も行く」
「眠いでしょ。まだ寝てたら」
「いや、大丈夫……」
言いながら玲音を抱き枕のように抱きしめる。もう目が開いていない。行く気ないな、と玲音は残念がりながらも、他人の体温の心地よさとほどよい拘束感に思わず縋ってしまった。
ぎゅっと竜の首に腕を回す。胸が当たってるとか布団の中で足が剥き出しになっているとか、どうでもよかった。悲しい夜を一緒に過ごしてくれた彼に、感謝と愛おしさを感じていた。もう朝日など見られなくてもいいと思っていた。振り向いてくれない人追いかける、ゴールのない長距離走に疲弊していた。ずっと夜に沈んでいたかった。
いや、まだ囚われているのかもしれないけれど、今、彼に抱かれている間だけは何ものにも傷付けられないという確信があった。硬くて厚い体が盾になってくれる。私を引き取った責任を取ってくれる。そういう安心を竜はくれた。
彼の肩に額を擦りつけ、隙間を埋めるように体をくっつけると、竜が玲音の頭の上でふっと笑った。
「猫みたいだな」
玲音の背中を幼い子どもをあやすように何度も叩く。
玲音はすこしだけ身を引いて彼の顔を見た。両目はちゃんと開いていて、玲音を見つめ返していた。
「……どうして優しくするの」
「好きだからじゃないのか」
彼の声は穏やかだった。
「好きな奴には優しくしたいだろ」
「自分は嫌われて、ひどいこと言われても?」
「ひどいことを言っている自分を責めて、傷ついてる玲音が好きだった」
竜は綿が潰れないように触れるみたい玲音の頬を包んだ。
「繊細で優しくて脆いから、放っておけない」
竜の言葉を聞いて、ひ、と玲音の喉から声ともつかない引き攣った音が漏れた。蛇口を捻ったように目尻から涙が零れていく。竜の手がそれを受け止めた。
「兄さんを好きならそれでもいい。玲音は好きなようにやればいい。でも、辛くなったら俺のところにきてほしい」
――――俺は、いつでも玲を抱きしめるから。
真っ直ぐな瞳は、濡れた瞳を通してもやっぱり貫くように力強かった。
玲音の涙が竜の首筋を濡らす。彼の頸動脈が生きているを証明している。
「竜、ありが……ん」
玲音の言葉を聞き終わる前に、竜は待ち望意でいたとばかりに、しかし触れていいのかという戸惑いを残しながら彼女に口づけた。皮膚を霞めるだけのキスを玲音は受け入れ、彼の下唇を攫うように舐めた。
「これだけで止めるのは無理だぞ」
彼の瞳で小さくも熱い炎が燃えている。
「もう竜のだから。好きにしていいよ」
玲音は涙の跡を拭きながら答えた。再び触れてきた竜の唇に噛みつく。開いた唇から彼の舌が入ってきて、玲音の舌を恐がらせないようにと気遣うように舐めた。
そういえば人とキスするのは久しぶりだ。あの人とやるときはこういうことはしなかったから。
粘膜の擦れる感触が気持ちいい。どうして忘れてたんだろう。
愛されるってこういうことだった気がする。
柔らかなところで目が覚めた。目の前には男の顔があった。まだぼうっとする頭と瞳に貼りついたコンタクトの不快さの中で観察すれば、ベッドサイドランプに浮き上がる、狭くも広くもない額と、濃くはないが長い睫毛と、すっと筆を入れたような鼻筋、薄い唇と凹凸の目立つ首と鎖骨が見えた。玲音のほうを向いて、規則正しいリズムで呼吸をしている。
逞しい体に白く清潔そうなガウンを纏い、その半分が掛け布団の中に埋まっている。知っているようで、知らない姿。不思議な気持ちで伸ばした手が、彼の短い前髪をそっと避ける。どうしてそうしたかはわからない。昔実家で買っていた犬を撫でる感覚に近かったかもしれない。起きる気配は無い。寂しさが胸に染みていく。
体を起こすと玲音も同じガウンを着ていることに気付いた。下着とタンクトップはそのまま身に着けている。濡れた筈の服はどこへいったのだろう。
クッションの利いたベッドはダブルの大きさで、大人二人で寝るにはいささか窮屈だ。しかし彼――竜が背中が落ちそうなほど端に寄っているので玲音は別段狭いとは思わなかった。
窓にはレースカーテンだけが掛けられていて、その向こうは広大な闇だった。雨が続いているのかどうかは分からない。知ろうとする気力も無かった。
気が抜けて、再び横になる。シーツが濡れていることに気付いた。そういえば髪も半端に濡れている。頭を手で掻き混ぜると愛用のシャンプーの香りが広がった。同時に煙草が吸いたくなった。薄い毛布と厚い掛け布団の温かさに負けそうになりながらも耐えられず、再びのそのそと起き上がる。寝床から抜け出そうとシーツを蹴った時、背中に腕が回って引き倒された。
「どこに行く」
寝ぼけ眼の竜が開いていない口で言った。
「……煙草を吸いに」
玲音が大人しく竜の腕に収まりながら返す。彼の胸は温かく、静かな鼓動が聞こえた。
「俺も行く」
「眠いでしょ。まだ寝てたら」
「いや、大丈夫……」
言いながら玲音を抱き枕のように抱きしめる。もう目が開いていない。行く気ないな、と玲音は残念がりながらも、他人の体温の心地よさとほどよい拘束感に思わず縋ってしまった。
ぎゅっと竜の首に腕を回す。胸が当たってるとか布団の中で足が剥き出しになっているとか、どうでもよかった。悲しい夜を一緒に過ごしてくれた彼に、感謝と愛おしさを感じていた。もう朝日など見られなくてもいいと思っていた。振り向いてくれない人追いかける、ゴールのない長距離走に疲弊していた。ずっと夜に沈んでいたかった。
いや、まだ囚われているのかもしれないけれど、今、彼に抱かれている間だけは何ものにも傷付けられないという確信があった。硬くて厚い体が盾になってくれる。私を引き取った責任を取ってくれる。そういう安心を竜はくれた。
彼の肩に額を擦りつけ、隙間を埋めるように体をくっつけると、竜が玲音の頭の上でふっと笑った。
「猫みたいだな」
玲音の背中を幼い子どもをあやすように何度も叩く。
玲音はすこしだけ身を引いて彼の顔を見た。両目はちゃんと開いていて、玲音を見つめ返していた。
「……どうして優しくするの」
「好きだからじゃないのか」
彼の声は穏やかだった。
「好きな奴には優しくしたいだろ」
「自分は嫌われて、ひどいこと言われても?」
「ひどいことを言っている自分を責めて、傷ついてる玲音が好きだった」
竜は綿が潰れないように触れるみたい玲音の頬を包んだ。
「繊細で優しくて脆いから、放っておけない」
竜の言葉を聞いて、ひ、と玲音の喉から声ともつかない引き攣った音が漏れた。蛇口を捻ったように目尻から涙が零れていく。竜の手がそれを受け止めた。
「兄さんを好きならそれでもいい。玲音は好きなようにやればいい。でも、辛くなったら俺のところにきてほしい」
――――俺は、いつでも玲を抱きしめるから。
真っ直ぐな瞳は、濡れた瞳を通してもやっぱり貫くように力強かった。
玲音の涙が竜の首筋を濡らす。彼の頸動脈が生きているを証明している。
「竜、ありが……ん」
玲音の言葉を聞き終わる前に、竜は待ち望意でいたとばかりに、しかし触れていいのかという戸惑いを残しながら彼女に口づけた。皮膚を霞めるだけのキスを玲音は受け入れ、彼の下唇を攫うように舐めた。
「これだけで止めるのは無理だぞ」
彼の瞳で小さくも熱い炎が燃えている。
「もう竜のだから。好きにしていいよ」
玲音は涙の跡を拭きながら答えた。再び触れてきた竜の唇に噛みつく。開いた唇から彼の舌が入ってきて、玲音の舌を恐がらせないようにと気遣うように舐めた。
そういえば人とキスするのは久しぶりだ。あの人とやるときはこういうことはしなかったから。
粘膜の擦れる感触が気持ちいい。どうして忘れてたんだろう。
愛されるってこういうことだった気がする。