エリート医師は癒し系看護師とお近づきになりたい
 ゴツン、と薄い布団の上に硬いものが落ちた。
 ゆえの頭の側に、亨の額がぶつかった音だった。布団に顔が美しい顔が埋まり、同時に脱力した体がゆえに乗りかかってきたので息が詰まった。自分とは違う生き物の体の硬さと大きさ、熱さをどうしたらいいか分からず、宙を浮いた両手が行き場を失う。とはいえこのままにしておけば自分が胸部圧迫で危険な状態になりそうなので、彼自身にどいてもらうように声を掛けた。
「先生、起きてください」
 反応はない。彼の胸が規則的に膨らんだり沈んだりしているだけだ。
「先生、先生。重いので……」
 亨の体の下から抜け出そうと動いでみたが全く歯が立たなかった。どうしよう。ゆえは考える。
 そして一つの案に思い至った。亨の片腕を胸の前で内側に折り、彼の縮まった肩のほうにゆえ自身ごとごろんと転がる。体の場所が代わり、密着したまま亨が下、ゆえが上に起き上がった。一仕事終えた彼女が大きく息を吐き、亨に寄りかからないように上半身を浮かせる。


 端正な顔がそこにはあり、ゆえは思わず唾を飲む。中性的とまではいかないが、どちらかというと柔らかい印象を与える顔立ちである。先ほどくっつきそうなくらい近付いた唇のほのかな桃色が艶っぽく、見ていると妙な気分になってくる。
 しかしそれはすぐに、浅黒く乾燥し、口の周りから顎まで濃くまばらな髭を蓄えた中年の男の記憶に変わっていった。罵倒、罵声、汚らしい肉欲の叫び。振り上げられた拳。母の擦り切れそうな悲鳴。


 気付けば亨のきれいな頬にいくつもの丸い水溜りができ、伝っては布団に染みを作っていた。
 目を開けたまま悪夢を見ている心地だ。亨の吐くアルコールの匂いに酔ったのかもしれない。狂ったように流れ落ちていくそれを拭おうと手を持ち上げたとき、亨の両腕がゆえの背中を抱き締めた。
「きゃっ」
 驚いて漏れた声に反応したように、彼の手がゆえの頭を自分の首元に縫いつける。自分のものより大きい喉ぼとけが持ち上がり、元の位置に収まる。亨が起きているのかどうかはわからなかった。わからないふりをした。ゆえは堪えきれなくなったように頬を擦り寄せ、滲む視界を白く張りのある皮膚で塞いだ。ふいに頭を撫でられる。慈しむように壊さないように優しく。
 こわい。こわかった。
 でも彼は大丈夫。彼は私のことなど見ていない。まるで違う世界に生きていて、こんな粗末な私などには目もくれない。みすぼらして可哀想だから優しくしてくれるだけ。
 手放したくないと我儘を言うように亨の頭を抱き締めて、すすり泣く私の愚かさに気付かないふりをして、この夜だけは傍にいてほしいとゆえは願った。雨の檻の中で、亨の温かい腕に捕まっていたいと思った。


いつの間にか眠っていたらしく、薄明るい刺激に瞼を開けると、栗色の宝石のような瞳と目があった。
「ひっ」
「いや、ごめん、待って。全面的に俺が悪い……悪いんだけどさ」
 よく覚えてなくて、と亨はゆえのほうを向いたまま恥ずかしそうに言った。ゆえも動転して動けず、布団に横になったまま青い顔をする。毛布がその中で二人の体温を混ぜ合わせていて温かい。
「ご、ごめんなさい!先生をこんな薄い布団に寝かせてしまって、大したおもてなしもできず……」
「多分、それよりもこの状況がまずい」
「この状況とは……」
「あー……普通は、いい歳の女と男が同じ布団で寝たりしない、と思う」
 確かに。
 ゆえは青い顔を土気色に変えて「どどどうしましょう」と祈るように両手の指を絡めた。
「先生が私みたいな地味な年増に手籠めにされたなんて広まったら、沽券に関わりますよね」
「沽券というか、無垢な女性に手を出したって方向でやばいことになる」
 ゆえはわあっと泣きたくなった。誓って間違い事など起こしていないが、亨に迷惑が掛かるのはよくない。でも本当に何も無いのだ。
「私と先生が昨夜のことは無かったということにすればいいんじゃないですか」
 ゆえの提案に亨は頷き、しかしむくれた子どものように視線を外してひとりごちるように返した。
「俺は覚えてるから」
 ゆえは首を傾げ、目を瞬かせる。
「はちみつレモンジュースですか?」
「いや、色々」


 そしてこの件に関しての対応の仕方を確認し合った二人は、毛布の誘惑に負けそうになりながらも布団から這い出た。寝ぐせのついた頭を手櫛で直しながら、亨は早々にゆえに帰ると告げ、ゆえもこれ以上余計なことをして罪を重ねてはいけないと送り出した。玄関ドアを開けたときに見えた空は濃い水色をしていた。
 長い夜だったようにゆえには感じられた。
 亨の辛さにあてられたように自分の嫌な記憶も思い出されて、いいように彼を利用して慰めを得たことに対する後悔は大きかった。罪悪感が息を吸い込む度に胸の中に募る感じがする。
 ゆえは男性が苦手だった。特に年上の、中年ほどの男性が近くにいると動悸がして呼吸が乱れる。職場では仕事と割り切ってはいるが、高圧的な人は、事情を話している沙彩などに対応を変わってもらっている。
 男性とは縁の無い人生だった。しかしそれで困ることも無かった。なのに、ゆえは亨の腕で抱き締められた感触をいつまでも忘れないだろうと思った。いつかまた、そうしてほしいとも思った。叶わぬ願いなのも、ほんの一夜の夢だったことも分かっているが、初めて心地よいと感じた男性との宝物のような時間だった。
 亨を送り出したドアの前で、ゆえは蹲る。
 胸の中が熱く、苦しくなる感情を何と呼べばいいのだろう。
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