看護師彼女の恋愛模様
2.ちかづきたい
亨がゆえの家に非難してきてから数日が経った。互いに同じ病棟で仕事をしているので顔を合わせる機会は少なくないが、特別に話をするとか接触するようなことは無い。避けていると言っていいほどない。実際に間違いが起こったわけでは無いが、半透明の気まずさはみたいなものが二人の間にある、とゆえは感じている。否、元々親しい間柄でも無いのでこの距離感が自然な気もする。
「看護師さん、点滴終わりそうだよ」
獣医師をしている中年の男性――九重がベッド上から手を振り、廊下で立ち止まっていたゆえに声を掛けた。ゆえは一瞬息をつめた。
彼は一週間前に入室してきた手術後の患者で、動物を心底好いているのだろうと想像できるような穏やかで慈愛に満ちた人物だった。しかし大型の動物を宥められるほどの厚い体をしていて、それがゆえの恐怖心を煽った。あの腕に押さえつけられたらひとたまりもない。嫌でも浮かんでくる記憶と恐怖心が彼女の足を竦ませる。
返事をしながらも当惑していると背後から近付いてくる足音がして、ゆえは救いを求めるように、しかし咎められるのを恐れるように、冷汗をかいたまま振り返った。
「先輩、私対応します」
風のように現れた藍澤沙彩がゆえに一瞥もくれず、足早に通りすぎて九重のベッドに向かった。
クレンメを閉じて、コネクターを外す。それだけの業務が出来ない自分が恥ずかしかった。沙彩は九重にぎこちなく口角を上げて戻ってくる。
「はあ、緊張した」
彼女は病室の死角になるところで息を吐いた。
「いつもごめんね」
「いいえ、私も沢山助けられてますから」
「でも沙彩ちゃんも起きてる患者さん苦手でしょ?」
「正直CCUのほうが鎮静のかかってる患者さんが多いぶん気は楽でしたけど、この仕事やっててずっとてコミュ障っていうわけにもいきませんし」
沙彩の目が細まると本物の猫のようでゆえは頭を撫でたくなったが勤務中ということでぐっと我慢した。沙彩は自称『コミュ障』で、乳幼児以外の人間と接するのが苦手らしい。確かにCCUから循環器内科病棟に異動してきた頃は借りてきた猫、と言うより捨て猫のように警戒心が強かった。そんな態度とどもるような喋り方にスタッフ一同困惑していたのは事実である。現在もそのけはあるが、だいぶ人慣れしてきたことにゆえは微笑ましさを感じ、また自身も恩返しのように彼女にサポートしてもらっていることに感謝を感じていた。
「ていうか先輩最近ぼーっとしてますけど大丈夫ですか?具合よくないですか?」
沙彩が首を傾けると、前下がりの直毛がさらさらと揺れる。
「ううん、大丈夫だよ。私そんなにぼーっとしてる?」
ゆえは沙彩の手にあった輸液バッグを受け取り、ワゴンにぶら下げていたゴミ袋に捨てながら眉を八の字にして問うた。
「心ここにあらずって感じですよ。体調……じゃなかったら恋煩い、みたいな」
「恋患い?」
「はい。好きな人とか出来ました?」
「えーっと……うーん。心当たりはないけど」
「先輩モテるのに勿体ないですよね」
ふふっと沙彩がからかうように笑う。
そのとき詰め所から彼女の名が呼ばれた。
「隙だらけじゃダメですよ」と言い残して駆けて行く背中に心強さを感じながら、ゆえは自身を鼓舞する為に頬を叩く。不注意で患者の安心・安全を害するようでは看護師失格だ。真っ直ぐに続く廊下の先を見ながら精神統一をしていると、遠くの病室から出てきた亨が視界に入った。
白衣の裾を羽のように翻し、大股で歩いてくる彼は通り過ぎる病室一つ一つに目を向けており、直線上にいるゆえには気付いていないようだった。怯んだゆえだったが、この隙にとワゴンをガラガラ押しながら詰め所に戻って行く。頬に視線を受けたような気がしたが気付かないふりをした。処置台のほうで物品を片付けながら気持ちを落ち着ける。
表のほうがいっそう賑やかになったので、亨も詰め所に入ってきたのかもしれない。はしゃぐような声を聞きながら、ゆえは急くようにそこを出た。自分は割り振られた業務だけをこなしていればいいのだ。言い聞かせながら、フロアの奥にあるリネン室に駆け込み、重いドアを閉めて溜めていた息を吐いた。
今日はベッドメイキングが必要な患者が多数いた。普段は看護補助がシーツやカバーなどのリネン類を準備をしているのだが、急遽休みになりゆえがその代わりを勤めている。探していた褥瘡予防に使うクッションが棚の一番上にあった。いくつか必要なので、取るために腕を伸ばす。爪先立ちになって漸く指先が届いた。そういえば最近もこんなことがあった気がする。あのときは亨が――。
記憶が蘇った瞬間、ぶわっと顔全体が熱くなった。
頭の後ろにあった彼の首や、清潔感のあるシャンプーの香り。背中から伝わってくる男の人の圧と広い体。伸ばしていた体を戻し、集めた物を片腕で抱きながらもう片方の手で頬を冷やしていると、いきなり重さのあるドアが開きすぐにバタンと閉まった。驚いて視線をやると、ドアを背にした亨が睨むような目でゆえを見つめていた。
「看護師さん、点滴終わりそうだよ」
獣医師をしている中年の男性――九重がベッド上から手を振り、廊下で立ち止まっていたゆえに声を掛けた。ゆえは一瞬息をつめた。
彼は一週間前に入室してきた手術後の患者で、動物を心底好いているのだろうと想像できるような穏やかで慈愛に満ちた人物だった。しかし大型の動物を宥められるほどの厚い体をしていて、それがゆえの恐怖心を煽った。あの腕に押さえつけられたらひとたまりもない。嫌でも浮かんでくる記憶と恐怖心が彼女の足を竦ませる。
返事をしながらも当惑していると背後から近付いてくる足音がして、ゆえは救いを求めるように、しかし咎められるのを恐れるように、冷汗をかいたまま振り返った。
「先輩、私対応します」
風のように現れた藍澤沙彩がゆえに一瞥もくれず、足早に通りすぎて九重のベッドに向かった。
クレンメを閉じて、コネクターを外す。それだけの業務が出来ない自分が恥ずかしかった。沙彩は九重にぎこちなく口角を上げて戻ってくる。
「はあ、緊張した」
彼女は病室の死角になるところで息を吐いた。
「いつもごめんね」
「いいえ、私も沢山助けられてますから」
「でも沙彩ちゃんも起きてる患者さん苦手でしょ?」
「正直CCUのほうが鎮静のかかってる患者さんが多いぶん気は楽でしたけど、この仕事やっててずっとてコミュ障っていうわけにもいきませんし」
沙彩の目が細まると本物の猫のようでゆえは頭を撫でたくなったが勤務中ということでぐっと我慢した。沙彩は自称『コミュ障』で、乳幼児以外の人間と接するのが苦手らしい。確かにCCUから循環器内科病棟に異動してきた頃は借りてきた猫、と言うより捨て猫のように警戒心が強かった。そんな態度とどもるような喋り方にスタッフ一同困惑していたのは事実である。現在もそのけはあるが、だいぶ人慣れしてきたことにゆえは微笑ましさを感じ、また自身も恩返しのように彼女にサポートしてもらっていることに感謝を感じていた。
「ていうか先輩最近ぼーっとしてますけど大丈夫ですか?具合よくないですか?」
沙彩が首を傾けると、前下がりの直毛がさらさらと揺れる。
「ううん、大丈夫だよ。私そんなにぼーっとしてる?」
ゆえは沙彩の手にあった輸液バッグを受け取り、ワゴンにぶら下げていたゴミ袋に捨てながら眉を八の字にして問うた。
「心ここにあらずって感じですよ。体調……じゃなかったら恋煩い、みたいな」
「恋患い?」
「はい。好きな人とか出来ました?」
「えーっと……うーん。心当たりはないけど」
「先輩モテるのに勿体ないですよね」
ふふっと沙彩がからかうように笑う。
そのとき詰め所から彼女の名が呼ばれた。
「隙だらけじゃダメですよ」と言い残して駆けて行く背中に心強さを感じながら、ゆえは自身を鼓舞する為に頬を叩く。不注意で患者の安心・安全を害するようでは看護師失格だ。真っ直ぐに続く廊下の先を見ながら精神統一をしていると、遠くの病室から出てきた亨が視界に入った。
白衣の裾を羽のように翻し、大股で歩いてくる彼は通り過ぎる病室一つ一つに目を向けており、直線上にいるゆえには気付いていないようだった。怯んだゆえだったが、この隙にとワゴンをガラガラ押しながら詰め所に戻って行く。頬に視線を受けたような気がしたが気付かないふりをした。処置台のほうで物品を片付けながら気持ちを落ち着ける。
表のほうがいっそう賑やかになったので、亨も詰め所に入ってきたのかもしれない。はしゃぐような声を聞きながら、ゆえは急くようにそこを出た。自分は割り振られた業務だけをこなしていればいいのだ。言い聞かせながら、フロアの奥にあるリネン室に駆け込み、重いドアを閉めて溜めていた息を吐いた。
今日はベッドメイキングが必要な患者が多数いた。普段は看護補助がシーツやカバーなどのリネン類を準備をしているのだが、急遽休みになりゆえがその代わりを勤めている。探していた褥瘡予防に使うクッションが棚の一番上にあった。いくつか必要なので、取るために腕を伸ばす。爪先立ちになって漸く指先が届いた。そういえば最近もこんなことがあった気がする。あのときは亨が――。
記憶が蘇った瞬間、ぶわっと顔全体が熱くなった。
頭の後ろにあった彼の首や、清潔感のあるシャンプーの香り。背中から伝わってくる男の人の圧と広い体。伸ばしていた体を戻し、集めた物を片腕で抱きながらもう片方の手で頬を冷やしていると、いきなり重さのあるドアが開きすぐにバタンと閉まった。驚いて視線をやると、ドアを背にした亨が睨むような目でゆえを見つめていた。