看護師彼女の恋愛模様
亨の冷たい視線が氷霧を生み出し、慄然としたゆえの体を固まらせる。異性のみならず、怒気の対象になる経験が無かったゆえは、その原因となる事象を探す為に思考をフル回転させた。亨に対しては確かに、身分不相応な対応をしてしまった覚えが鮮明にある。全て駄目だったのかな。考えれば考えるほど恐れよりも悲しみがこみ上げてきて、ゆえは彼を見ていられず顔を背けた。
すると迷いのない足が踏み出された。ゆえまでの距離は数歩。その数歩が、ゆえの予測より早く彼女の前に辿り着く。思わず後退るが、背中に冷たい壁の感触が当たった。目前に迫った彼への畏怖に目を瞑ったとき。
ダンッッッ。
左耳の傍で硬いものを叩きつける音が鳴った。
突然の衝撃音に体が跳ね、自身を守るように頭を抱えると、頭上から「何で」と掠れた声が降ってきた。深夜に飛び込んできたあの夜のように弱弱しく、寂寥感を隠さない迷子のような響きだった。哀憐の情を擽られ見上げると、亨は下唇を噛んで痛みに耐えるような表情をしていた。彼の体が傘になり、蛍光灯の光がゆえのもとには十分に届かない。片腕で彼女の行き場を塞いだまま黒い紗幕の下にゆえを縫いつけた亨の形のいい唇が自嘲するように歪められた。
「避けるのかな」
亨は王子たる自分を保つために無理に笑っているようにも見えた。
ゆえは彼の言葉を飲み下すのに時間を要した。避けているように見えるのだろうか。そんなことはないと否定するには自覚があり過ぎる。彼はそれに対して疑問を抱いている。どうして。仕事上必要な事項については話していた筈だ。不備でもあったのだろうか。
ゆえが答えないでいると、亨が溜息を吐いた。
「迷惑だったのなら拒絶してくれて構わなかった。俺が嫌になったのならこれからは関わらない。業務上全く話さないことは出来ないだろうがそのへんは善処する」
彼の温かい吐息が額に当たる。
柔らかな白衣の檻がゆえを離さない。まるで守られているみたい。否、彼の体、気配、纏っている衣服、全てに抱き締められているような錯覚をする。それほど密着していて戸惑う。
「め、迷惑ではありませんでした。必要にされてもらったことは寧ろ嬉しかったです。先生のことを嫌になったわけでもありません。業務外の先生も素敵だと思いました。ただ、その……」
恥ずかしくて。
幼稚な理由だ。それだけの為に近付けなかった。
亨は黙って聞いていたが、徐々に眉根に刻んでいた深い皺を解いていった。長い睫毛を扇ぐように瞬かせ、じっとゆえを見つめている。ゆえが喋り終えても観察するように目を離さないので、居心地が悪くなった彼女はひりつく唇を舐めた。
じーっと見つめていて、突然はっと目が覚めたような反応をした亨は、重力に負けたように額をゆえの肩に落とした。ずっしりとした重みに困惑していると、亨が「ああ、よかった」と安堵したように言った。
「本当に嫌われたのかと思った」
額をごしごしと擦りつけられ、ゆえは妙な気分になる。あ、母親ってこういう気分なのかも。
「ゆえさんには嫌われたくない。今は」
「今は?」
「好きな人っていつできるか分からないからさ」
ゆえは可笑しくなって笑ってしまった。生活でも人間関係でも困る事が無い人の価値観や考えは自分にはよく分からないが、好きな人の出現については事実そうなのだろうと思った。その主張を隠さず、自然体でいても許される――少なくともゆえは許すことができる、彼はやはりどこを取っても魅力的な人なのだろう。
彼にとっての今のゆえは一時のブーム、みたいなものなのだ。そのうち飽きて、また別のブームがくる。優しく頬を撫でて過ぎ去っていく風のような人だ。そう思うと気が解れた。
ゆえは亨の頬を右手で包む。
「いい人に巡り会えるといいですね」
微笑んだつもりだったが頬に抵抗があった。途端に上手く笑えたのか自信が無くなる。亨は半端に口を開けたまま考えるような間を作った。
「何か間違った気がする」
「処方ですか?」
「いや……何か、失言をしたような」
「大丈夫ですよ。先生なら誰に何を言っても許されますから」
ふふっと声だけで笑うゆえを解放しようと亨が腕を上げたとき、頭上の蛍光灯の光が彼女の顔を照らした。眩しそうに目を細める。その様子が何故かとても嫌で、亨は彼女を抱え込むように抱き締めた。
「……逃したくないなあ」
突然押し付けられた白衣から、ゆえは息継ぎをするように顔を出した。亨の腕が逃がすつもりは無いと力を入れる。
「大丈夫です。逃げませんよ」
ゆえは彼の背中を優しく撫でた。異性という感じはもう無い。相手は子どもと同じなのだ。
「また部屋に言ってもいいかな」
「勿論です」
「ゆえさんは優しいから、誰にでもこういうことするんだろ」
ゆえは言葉に詰まった。そうなのだろうか。思いつく限りの男性と抱き合う想像をする。怖気が走った。ぎゅうと腕に力を込められて、絞られるように息を吐く。
「どうして君なんだろうな」
亨が悄然と呟くのを、ゆえは夢見心地で聞いていた。
すると迷いのない足が踏み出された。ゆえまでの距離は数歩。その数歩が、ゆえの予測より早く彼女の前に辿り着く。思わず後退るが、背中に冷たい壁の感触が当たった。目前に迫った彼への畏怖に目を瞑ったとき。
ダンッッッ。
左耳の傍で硬いものを叩きつける音が鳴った。
突然の衝撃音に体が跳ね、自身を守るように頭を抱えると、頭上から「何で」と掠れた声が降ってきた。深夜に飛び込んできたあの夜のように弱弱しく、寂寥感を隠さない迷子のような響きだった。哀憐の情を擽られ見上げると、亨は下唇を噛んで痛みに耐えるような表情をしていた。彼の体が傘になり、蛍光灯の光がゆえのもとには十分に届かない。片腕で彼女の行き場を塞いだまま黒い紗幕の下にゆえを縫いつけた亨の形のいい唇が自嘲するように歪められた。
「避けるのかな」
亨は王子たる自分を保つために無理に笑っているようにも見えた。
ゆえは彼の言葉を飲み下すのに時間を要した。避けているように見えるのだろうか。そんなことはないと否定するには自覚があり過ぎる。彼はそれに対して疑問を抱いている。どうして。仕事上必要な事項については話していた筈だ。不備でもあったのだろうか。
ゆえが答えないでいると、亨が溜息を吐いた。
「迷惑だったのなら拒絶してくれて構わなかった。俺が嫌になったのならこれからは関わらない。業務上全く話さないことは出来ないだろうがそのへんは善処する」
彼の温かい吐息が額に当たる。
柔らかな白衣の檻がゆえを離さない。まるで守られているみたい。否、彼の体、気配、纏っている衣服、全てに抱き締められているような錯覚をする。それほど密着していて戸惑う。
「め、迷惑ではありませんでした。必要にされてもらったことは寧ろ嬉しかったです。先生のことを嫌になったわけでもありません。業務外の先生も素敵だと思いました。ただ、その……」
恥ずかしくて。
幼稚な理由だ。それだけの為に近付けなかった。
亨は黙って聞いていたが、徐々に眉根に刻んでいた深い皺を解いていった。長い睫毛を扇ぐように瞬かせ、じっとゆえを見つめている。ゆえが喋り終えても観察するように目を離さないので、居心地が悪くなった彼女はひりつく唇を舐めた。
じーっと見つめていて、突然はっと目が覚めたような反応をした亨は、重力に負けたように額をゆえの肩に落とした。ずっしりとした重みに困惑していると、亨が「ああ、よかった」と安堵したように言った。
「本当に嫌われたのかと思った」
額をごしごしと擦りつけられ、ゆえは妙な気分になる。あ、母親ってこういう気分なのかも。
「ゆえさんには嫌われたくない。今は」
「今は?」
「好きな人っていつできるか分からないからさ」
ゆえは可笑しくなって笑ってしまった。生活でも人間関係でも困る事が無い人の価値観や考えは自分にはよく分からないが、好きな人の出現については事実そうなのだろうと思った。その主張を隠さず、自然体でいても許される――少なくともゆえは許すことができる、彼はやはりどこを取っても魅力的な人なのだろう。
彼にとっての今のゆえは一時のブーム、みたいなものなのだ。そのうち飽きて、また別のブームがくる。優しく頬を撫でて過ぎ去っていく風のような人だ。そう思うと気が解れた。
ゆえは亨の頬を右手で包む。
「いい人に巡り会えるといいですね」
微笑んだつもりだったが頬に抵抗があった。途端に上手く笑えたのか自信が無くなる。亨は半端に口を開けたまま考えるような間を作った。
「何か間違った気がする」
「処方ですか?」
「いや……何か、失言をしたような」
「大丈夫ですよ。先生なら誰に何を言っても許されますから」
ふふっと声だけで笑うゆえを解放しようと亨が腕を上げたとき、頭上の蛍光灯の光が彼女の顔を照らした。眩しそうに目を細める。その様子が何故かとても嫌で、亨は彼女を抱え込むように抱き締めた。
「……逃したくないなあ」
突然押し付けられた白衣から、ゆえは息継ぎをするように顔を出した。亨の腕が逃がすつもりは無いと力を入れる。
「大丈夫です。逃げませんよ」
ゆえは彼の背中を優しく撫でた。異性という感じはもう無い。相手は子どもと同じなのだ。
「また部屋に言ってもいいかな」
「勿論です」
「ゆえさんは優しいから、誰にでもこういうことするんだろ」
ゆえは言葉に詰まった。そうなのだろうか。思いつく限りの男性と抱き合う想像をする。怖気が走った。ぎゅうと腕に力を込められて、絞られるように息を吐く。
「どうして君なんだろうな」
亨が悄然と呟くのを、ゆえは夢見心地で聞いていた。