看護師彼女の恋愛模様
 亨がリネン室を出ていくとき、書くものを貸してほしいと頼まれ、ゆえはポケットからペンとメモ用紙を出した。彼は手頃な高さの棚の上でさらさらとペンを走らせ、それを彼女に返した。
「予約させて欲しい。土曜日の十時、行き先は動物園。アパートに迎えに行く」
 君も休みだろ?問われてゆえは頭の中にシフト表を展開した。四日後は確かに準夜勤後の休みだった気がする。突然の誘いにペンとメモ用紙を受け取ったまま答えあぐねていると、亨が「この間のお詫びとお礼」と続けた。
「気にしないで下さい」
「俺がしたいの」
 ゆえは困ってしまった。沢山のファンを抱えるエリート王子と二人で出掛けるのは何においても不相応である。自分がみじめになるぶんにはいいが、彼に不名誉な噂が立ってしまったら大事だ。これは互いの為に断らなければいけない。しかし彼の気遣いを無下にするのも気が引ける。大したことをしたわけではないが、亨が恩だと感じ、それを返したほうが気が楽になるというのならば、それを受け入れるのが彼の為ではないか。
 ゆえは考えた。よほど難しい顔をしていたのか、亨が困ったように笑う。
「嫌ならいいんだ。無理強いはしたくない」
 索漠とした表情で瞳を目尻側に流されると、ゆえの意思も流されそうになってしまう。しかし。
「その日は、予定があるので……」
 互いの為、と言い聞かせ断る選択肢を選ぶ。
 決して嫌でなわけでは無いが、二人の間には障壁が多過ぎた。
「そうか、分かった」
 囁くように言ったまま、彼は狭い部屋から出て行った。ゆえは緊張を口から吐き出して、棚に手を掛け俯く。躾けられた猿の反省ポーズそのままである。否、本当に反省していた。自分の軽はずみな行動を。
 外で誰かが呼んでいる。胸の中は混沌としていたが何も無かったふうに業務に戻った。


 意識が急浮上してゆえは飛び起きた。
 背中が汗でじっとりと濡れており、触れれば額にも水の珠が浮いていた。荒い呼吸を繰り返し、脳に酸素を送る。豆電球の薄明るい暖色が救いの色に見えた。
 久しぶりに幼い頃の夢を見た。
 母に暴力を振るう父。場所を問わずいかがわしい行為を強要する父。自分をゴミを見るような目でねめつける父。記憶の中の横暴で理不尽な父の行いがダイジェスト映像のように上映され、汚れのようにこびりついて離れない。厭悪と畏怖の念を含んだ空気に、敏感になった肌が刺激され鳥肌が立つ。
 こうなってしまうと再び寝付くことは難しい。
 ゆえはよろける足で立ち上がり、冷蔵庫の前に立った。扉を開けば冷気と部屋より明るい光に照らされ、体に籠った熱が発散されるような心地になる。手を伸ばし、ここでは見慣れない350ミリ缶を一本取り出す。ピンク色の可愛らしいパッケージは先日沙彩に貰った桃味の缶チューハイだ。プルタブを上げながら薄暗い部屋に戻る。
 布団に足だけ入れて、それを唇の先で啜った。ジュースと変わらない甘さの後に僅かにアルコールの風味が感じられる。あまり強くないので普段酒を飲むことは無いが、今日は特別。アルコールの効果で眠れるのではという期待と願いがあった。 
 沙彩は甘ったるい酒が苦手だという理由でくれたが、甘党のゆえの舌には丁度良かった。少しずつ飲んでいたつもりがそのうち缶を煽っていて、一本はすぐに無くなった。


 頭がふわふわと風船になったみたいに軽い。嫌な夢も朧と化してゆえの不安は霧散していく。気分は良かったが、そうなると一人でいることに物足りなさを感じた。この愉快な気持ち誰かと共有したい。
 まるで自然にスマホをタップしていた。最近登録した番号は、呼び出し音を五回鳴らして相手へと繋がった。
「はい」
 亨は籠った声で電話に出た。上気したゆえの頬が緩む。
「こんばんは」
「こんばんは。……ねえ、ゆえさん酒飲んでるでしょ」
 どうして分かったんだろう。舌の回っていないゆえは不思議に思う。
「眠れなくて、一本だけ飲んでみたんです。そしたら誰かとお喋りをしたくなりまして」
「『誰かと』か。いや、いいけど。嫌な夢でも見た?」
「そうそう、見たんですよ。父がいつも恐いんです。三十にもなって親が恐いなんて馬鹿みたいですよね。ほんと、馬鹿みたいで」
「トラウマなんだろうな。そういうのは馬鹿とは言わないよ。辛いよな」
 亨の低い声はゆえの耳にはとても心地よく流れ込んできた。
 辛いのか。自分は辛かったのか。
 優しい言葉に、途端に肺が酸素を受け付けるようになった。
「明日、やっぱり連れて行ってくれませんか」
 ゆえは落ち着いた口調になるようを心掛けた。自分がいつもとは違うことに気付いていたから。感情を自分でコントロール出来ない。
「動物園好きなんです」
 言いながら、言葉の裏に隠した我儘への後悔と断られることに対する怯えが目の前を滲ませる。
 訪れた沈黙に耐えられず、ゆえが誤魔化そうとしたとき。
「迎えに行く」
 と彼は声量を抑えながらも力強く宣言した。
「待ってて」
 亨の優しい返答に、ゆえの心は喜びに満たされた。酔いすら忘れ、起こしていた上半身を布団に潜り込ませてひそかに笑むと「笑ってる?」と問われる。
「嬉しいです。楽しみです」
「そう、よかった。……しかしあまり人前で出してほしくない酔い方だなあ」
「そんなに変ですか?」
「ううん、でも勘違いさせそう。とりあえず明日行くから早く寝ること。一人で寝れる?」
「はい、先生の声を聞いたら安心しました。夜中にすみませんでした」
「別にいいよ。眠れなくなったら、また俺に掛けてきて」
 俺に、を亨は強調するように言った。
「ありがとうございます。では、おやすみなさい」
 彼の返事を待ってから、ゆえはそっと通話を切った。アルコールが回りきった頭に亨の声や匂い、感触、様々な表情が上書きされていく。嫌な夢は微塵も残っていなかった。
 秋の寒さを詰め込んだ室内で、自分の体温で温められた布団が気持ちいい。雲に囲まれているような心地で目を瞑ると、明日の蒼穹が見えるような気がした。
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