看護師彼女の恋愛模様
十時ちょうどにインターフォンが鳴った。
ゆえは畳を滑って転びそうになりながら、急いで玄関ドアを開ける。
「……う。おはよう」
う、って何だろう?
謎めいた一音を不思議に思いながらも、亨が朝露よりもきらめく存在感で清々しい挨拶をすると、ゆえもつられて笑顔になった。外は相当冷えているらしく、彼は厚手のコートの前をしっかりと閉めている。
「予定あったんでしょ?大丈夫なの?」
三和土に上がりながら亨が問う。手にぶら下げていた小ぶりの紙袋を自然な動作でゆえに引き渡す。
ゆえはそれを首を傾げて受け取り「予定のほうは大丈夫にしました」と目を逸らした。
紙袋を開くと中には正方形の赤い缶が入っていた。英字を囲むように蔦や花の模様が描かれていた上品で洒落たデザインだ。ゆえが興味深げにそれを回して見ていると、亨が「美味しい紅茶をもらったから、お裾分け」と片目を閉じた。王子のウィンクだ。これを浴びたファンは卒倒するだろう。ゆえも、やはり美しい人だなあと思いながら笑みを返す。両サイドを三つ編みにし、ハーフアップにアレンジした髪がふわっと揺れた。
矢庭に、彼女を見ていた亨が俯いて鼻と口を覆った。そのまま上を向き、
「ごめん、鼻血出た」
と呟く。
仰天したゆえが急いで部屋に戻りティッシュ箱を持ってくると、彼はそれを何枚か抜き取り顔を下げた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。全然大したことない。それより、ゆえさん今日髪型違くない?」
ゆえは彼を部屋に案内してテーブルの前に座らせた。当てているティッシュが血で染まっていくのを見ていると動物園は後にしようと言いたくなる。鼻血など出やすい人など日常茶飯事なのだろうし、大変な怪我ではない。しかし王子が血を流しているとそれがとても大事に見えてしまう。
うんうん考えていると、鼻を押さえている亨が再び同じ質問を投げかけた。ゆえは慌てて頭の横の三つ編みに触れる。
「顔の周りに髪が無い方が、景色や動物がよく見えるかなと思いまして」
「……そうか、確かに」
亨は喉まで出かかっていた言葉を吐き出せず、胸の中に戻して「可愛い!」と叫んだ。「デートだから可愛くしてみました。てへ」とか言われるかと思っていたけど、とても実用的な理由で驚いた。そしてそう返されていたら素直に褒めることが出来たのにそれが叶わなかったことを残念に思った。
しかし可愛いものは可愛い。本人はもう三十路だから、と女性としての第一線を退いたような発言をよくするが、まだまだ戦闘要員だということを自覚したほうがいいと思う。からし色のゆるいセーターもミルク色のロングスカートも、どこか隙だらけで貼りついていないと人前に出したくないほど魅力的だ。纏っている衣服を見るに全て安物で、上から下までの値段を足しても、亨のコート一着にも満たないだろう。が、そんなことはどうでもいい。似合ってさえいればいいのだ。こんなこと今まで考えたことも無かったが。
というか早く鼻血を止めなければいけない。亨は小鼻を摘まんだまま、心配そうにしているゆえに「大丈夫」と口の端を上げて見せた。
ゆえは眉尻を下げて亨の顔を覗きこんでいたが、「では私、準備してますね」と廊下に出ていった。
アルミ鍋で湯を沸かし、紅茶のティーバッグと共に魔法瓶水筒に注ぐ。湯気が泳ぐように天井に上っていくのがいつも、ゆえには昇り竜に見える。
冷蔵庫から今朝作ったばかりのハムと玉子と塩もみキュウリのサンドイッチを出して一つ一つラップに包み、タッパーに詰めてランチクロスで縛った。そうしているうちに顔を晒した亨が表れて、「もう大丈夫」と手を広げて見せた。
台所でベージュのリュックを弄るゆえの背中に視線が突き刺さる。背中のわりと近くに、母親について回る乳幼児のように亨がくっついてくる。ゆえよりも高いところにある双眸が、ゆえの行動というよりもゆえ自身の体から離れない。振り返って確認しなくても分かるくらい大袈裟に彼はこちらを見ている。監視されているようで緊張する。
最後にジッパーをしっかり閉めて、ゆえは息をついた。
「遅くなってすいません。準備出来ました」
「ああ、うん。大丈夫。俺は退屈しなかったから」
スマホを弄っている様子は無かったが、この部屋に面白いものでもあっただろうか。考えるように瞬きをしていると「さあ行こうか」と促され、部屋を出た。
ジャンパーの上にチャック柄の大判マフラーを巻きつけても顔や手などの空気に触れているところが、寒さでひりひりする。アパートの前に停められていた光沢のあるSUVに乗り込むと、以前乗った時よりも車内は片付いていた。
「あ、ていうかもしかして食べるもの用意してた?」
亨が助手席のゆえを見る。
「あ、はい。昼食をと思って……駄目でしたか?」
「いや、ううん。ありがとう。楽しみにしておくよ」
蕾が綻び花が咲いたような亨の笑顔を眩しい。
でも、もしかしたら他に食べたいものがあったのかも……。勝手なことをしてしまったと後悔するゆえを連れて、車は滑らかに走り出した。
ゆえは畳を滑って転びそうになりながら、急いで玄関ドアを開ける。
「……う。おはよう」
う、って何だろう?
謎めいた一音を不思議に思いながらも、亨が朝露よりもきらめく存在感で清々しい挨拶をすると、ゆえもつられて笑顔になった。外は相当冷えているらしく、彼は厚手のコートの前をしっかりと閉めている。
「予定あったんでしょ?大丈夫なの?」
三和土に上がりながら亨が問う。手にぶら下げていた小ぶりの紙袋を自然な動作でゆえに引き渡す。
ゆえはそれを首を傾げて受け取り「予定のほうは大丈夫にしました」と目を逸らした。
紙袋を開くと中には正方形の赤い缶が入っていた。英字を囲むように蔦や花の模様が描かれていた上品で洒落たデザインだ。ゆえが興味深げにそれを回して見ていると、亨が「美味しい紅茶をもらったから、お裾分け」と片目を閉じた。王子のウィンクだ。これを浴びたファンは卒倒するだろう。ゆえも、やはり美しい人だなあと思いながら笑みを返す。両サイドを三つ編みにし、ハーフアップにアレンジした髪がふわっと揺れた。
矢庭に、彼女を見ていた亨が俯いて鼻と口を覆った。そのまま上を向き、
「ごめん、鼻血出た」
と呟く。
仰天したゆえが急いで部屋に戻りティッシュ箱を持ってくると、彼はそれを何枚か抜き取り顔を下げた。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。全然大したことない。それより、ゆえさん今日髪型違くない?」
ゆえは彼を部屋に案内してテーブルの前に座らせた。当てているティッシュが血で染まっていくのを見ていると動物園は後にしようと言いたくなる。鼻血など出やすい人など日常茶飯事なのだろうし、大変な怪我ではない。しかし王子が血を流しているとそれがとても大事に見えてしまう。
うんうん考えていると、鼻を押さえている亨が再び同じ質問を投げかけた。ゆえは慌てて頭の横の三つ編みに触れる。
「顔の周りに髪が無い方が、景色や動物がよく見えるかなと思いまして」
「……そうか、確かに」
亨は喉まで出かかっていた言葉を吐き出せず、胸の中に戻して「可愛い!」と叫んだ。「デートだから可愛くしてみました。てへ」とか言われるかと思っていたけど、とても実用的な理由で驚いた。そしてそう返されていたら素直に褒めることが出来たのにそれが叶わなかったことを残念に思った。
しかし可愛いものは可愛い。本人はもう三十路だから、と女性としての第一線を退いたような発言をよくするが、まだまだ戦闘要員だということを自覚したほうがいいと思う。からし色のゆるいセーターもミルク色のロングスカートも、どこか隙だらけで貼りついていないと人前に出したくないほど魅力的だ。纏っている衣服を見るに全て安物で、上から下までの値段を足しても、亨のコート一着にも満たないだろう。が、そんなことはどうでもいい。似合ってさえいればいいのだ。こんなこと今まで考えたことも無かったが。
というか早く鼻血を止めなければいけない。亨は小鼻を摘まんだまま、心配そうにしているゆえに「大丈夫」と口の端を上げて見せた。
ゆえは眉尻を下げて亨の顔を覗きこんでいたが、「では私、準備してますね」と廊下に出ていった。
アルミ鍋で湯を沸かし、紅茶のティーバッグと共に魔法瓶水筒に注ぐ。湯気が泳ぐように天井に上っていくのがいつも、ゆえには昇り竜に見える。
冷蔵庫から今朝作ったばかりのハムと玉子と塩もみキュウリのサンドイッチを出して一つ一つラップに包み、タッパーに詰めてランチクロスで縛った。そうしているうちに顔を晒した亨が表れて、「もう大丈夫」と手を広げて見せた。
台所でベージュのリュックを弄るゆえの背中に視線が突き刺さる。背中のわりと近くに、母親について回る乳幼児のように亨がくっついてくる。ゆえよりも高いところにある双眸が、ゆえの行動というよりもゆえ自身の体から離れない。振り返って確認しなくても分かるくらい大袈裟に彼はこちらを見ている。監視されているようで緊張する。
最後にジッパーをしっかり閉めて、ゆえは息をついた。
「遅くなってすいません。準備出来ました」
「ああ、うん。大丈夫。俺は退屈しなかったから」
スマホを弄っている様子は無かったが、この部屋に面白いものでもあっただろうか。考えるように瞬きをしていると「さあ行こうか」と促され、部屋を出た。
ジャンパーの上にチャック柄の大判マフラーを巻きつけても顔や手などの空気に触れているところが、寒さでひりひりする。アパートの前に停められていた光沢のあるSUVに乗り込むと、以前乗った時よりも車内は片付いていた。
「あ、ていうかもしかして食べるもの用意してた?」
亨が助手席のゆえを見る。
「あ、はい。昼食をと思って……駄目でしたか?」
「いや、ううん。ありがとう。楽しみにしておくよ」
蕾が綻び花が咲いたような亨の笑顔を眩しい。
でも、もしかしたら他に食べたいものがあったのかも……。勝手なことをしてしまったと後悔するゆえを連れて、車は滑らかに走り出した。