看護師彼女の恋愛模様
 昼食の醤油と味噌の匂いが、詰め所にも流れてくる。
 看護師が重そうな配膳車を押しながら各々の患者に昼食を配る。処置は緊急でなければ入ることはないのんびりとした時間。亨は看護師が使っているホワイトボードに目を向けた。
 表面には患者の部屋とベッド番号、隣にその日の担当看護師の名前が書かれたマグネットがくっついている。裏面には院内の連絡事項がプリントされた書類が雑然と貼られていた。
 亨は詰め所内にいるスタッフに気取られないように静かにホワイトボードの裏側へ回った。雪原のような面に視線を巡らす。目当てのものはすぐに見つかった。看護師のシフト表だ。
 上から勤務年数順に並んだ名前を追っていく。く、く、く。
 半分より上あたりにその名はあった。
『黒野ゆえ』
 先日初めて――多分だが――喋った、しかも食べ物まで貰った地味女。
 本日は休みのようだ。視線を横にずらす。明日は日勤。亨自身も明日の勤務は同じだった。あれ以来、顔を合わせること無く過ぎてしまったので、亨は何となくモヤモヤしていた。貰った物の礼はするようにと親に躾けられている。これまで異性から様々な物な贈り物をされてきたが、その都度律儀にお返しを渡している。そのせいで好意を向けられていると勘違いした女が面倒事を起こすこともあったが、どうにかやり過ごしてきた。そういう経験から、お返しには消費できるものを選ぶようになった。形に残るものだと、相手も愛着が湧き勘違いするようだから。
 なのでゆえへのお返しも、そういったもの――飲食物や商品券など――で考えていた。まあ甘味あたりが妥当だろう。餅を自作していたくらいだし、苦手でないことは確かなはずだ。
 暫く考え事に耽っていると、矢庭に傍から声が響いた。
「白川先生、誰かにご用ですか?」
 ショートヘアの看護師が口の端を釣り上げて、壁とホワイトボードに挟まれていた亨を覗き込んでいた。その後ろにも二名いるが、皆一様にいやらしい笑みを浮かべている。
「うん、ちょっとね。連絡事項があって」
 誤魔化したつもりだが看護師たちは相変わらずニヤニヤしている。
「私たちが伝えましょうか?」
「いや、その……あまり聞かれたくないことだから」
「まさか二人だけの秘密って感じですか?」
 うーん、と亨は唸った。彼女たちが納得するようなことを言わないと解放してくれなさそうだ。しか冷汗を隠しているうちに、休憩に行っていたスタッフが詰め所に戻ってきて賑わい始めた。
「ほら、仕事始まるよ。戻りな」
 彼女たちを促しながら、亨もそそくさと控室に逃げる。
 ゆえに渡す品に見当をつけ、亨は中途半端にしていた事務作業のためにパソコンへ向かった。


 朝礼後の人込みの中で挨拶をしたきり、勤務中にゆえと接することは無かった。看護師はいつも忙しそうだし、亨自身も病棟の指示出しが終われば控室に引っ込んでは論文を書いている。どうしてもやらなければいけないことがあって、その日業務が終わったのは終業時刻の一時間後だった。
 エレベーターホールで詰め所の中を見渡す。見えるところに彼女の姿は無い。患者の様子を確認するふりをして病棟内を歩き回ってもいなかった。すでに帰ってしまったか。
 心拍数が上がっている。
 今度同じ勤務になるのはいつだ。周囲からの印象もあるから流石に病棟では渡せないし。
 菓子の賞味期限も短いし。
 本当にもう帰ったのか?
 長方形になっている病棟を一周回って詰め所の前に戻って来た時、向こうの個室から白衣が出てきた。半袖から伸びる柔らかそうな二の腕。顔を見ると、散々探していたゆえだった。彼女は速足で詰め所に入り、時計を見上げた。視線の先では二つの針が二十時十分を刺していた。ゆえが眼鏡の師長に声を掛ける。そして彼女は廊下を縦断し、階段を下りて行ってしまった。
 亨も慌てて控室へ戻る。
 こんな時間まで残業とは。疲れているようには見えなかったが、もう若くはない――と言っても恐らく三十代――にしてはパワフルだ。自分など不満だらけの残業を一時間もやれば心身ともに疲労感でいっぱいになる。
 急いで着替えて階段を駆け下りる。蛍光灯の明かりが胸の中にも染み込んで、期待を照らし影となって出来た不安を浮き上がらせる。職員玄関の自動ドアを潜ると、秋の冷たい風に肩が震えた。見渡せる範囲にゆえはいない。もう遠くへ行ってしまったのだろうか。
 予想できないことを考えることは馬鹿らしいので、亨はとりあえず待ってみることにした。まだ中にいる可能性も十分にあるのだ。日中は体温調節に丁度いいカーディガンも、日が落ちて寒さが増すと心許なくなる。風は強くないが、僅かでも肌に触れるたび体が強張る。長居することは避けたい。
 と腕を擦っているうちに、背にしていた自動ドアが音を立てた。
「あ」
「あ」
 振り返ると、山吹色のセーターにアイボリーのロングスカートで癖のある長い髪を下ろしたゆえが目を丸くしていた。
 しかし何でもないふうに「お疲れさまでした」と通り過ぎようとする。亨はその腕を掴んで、自動ドアの反応しないところまで引っ張って行った。
「何かご用でしょうか?」
 ゆえは戸惑ったような、怯えたような小さな声で向かい合った亨に尋ねた。困るとすぐに眉が下がる。分かりやすい女だ。
「この間のお返しを渡そうと思って」
「えっと……お餅の?」
「そう」
 亨は片手に下げていた小ぶりの紙袋を彼女に渡した。理解が追いつかず不安げな表情のゆえは、押し付けられたそれをおずおずと受け取り、控えめに中身を覗いた。
「これ、遠野屋さんの大福じゃないですか! 頂けませんこんな高価なもの……」
 突き返そうとするゆえの手を押し戻そうとしたとき、亨の手がゆえのものと重なった。街灯の下でもよく見える白い手の柔らかな感触が亨の掌に優しく当たり、彼の心臓が除細動を掛けられたように跳ね上がる。肌は少々乾燥しているがきめが細かく滑らかで、ほどよい厚みの脂肪の弾力がいけないものを触ったような罪悪感を煽る。
 亨は一拍置いて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい」
 ゆえは何も悪くないのに謝り俯いた。紙袋が彼女の胸に抱かれて喜んでいるように見える。手の感触から胸の感触まで想像しそうになって、それを阻むべく拳を握り込んだ。
「いや、ごめん。何でもない。俺の手が冷たいんじゃないかと思っただけだから。とりあえずそれだけ。あれ美味しかった。じゃ、お疲れさま」
 気まずさに耐えきれず捲し立てた亨は彼女に背を向けた。が、踏み出すことはできなかった。腰のあたりを引っ張られてる。
「何か?」
「これ、よければ使ってください」
 華奢な指先に右手を取られ、ぬくもりの塊みたいなものを握らされる。手を開けばホッカイロだった。ゆえは僅かに頬を緩めている。
「黒野さんが使うんじゃないの?」
「私は家が近いので」
「俺も車すぐだよ」
「でも手、冷たいですよ」
 ゆえは警戒を解いたように、そして亨に有無を言わさないようににっこりと笑って、肩に下げていたトートバッグを掛け直した。
「おやすみなさい」
 頭を下げて、亨と反対方向に歩き出す。髪がふわふわと揺れて遊んでいる。亨はホッカイロを持ったまま呆然と、彼女の背中が見えなくなるまで見送った。
 ゆえの手も亨と同じくらい冷えていた。それなのに自分にだけぬくもりを残して行った。亨は足元のアスファルトに向かって溜息を吐き、ホッカイロの手触りを確かめるように親指で撫でた。
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