看護師彼女の恋愛模様
 遠慮するゆえを笑って受け流し、亨は二人ぶんの入場券を購入した。
 動物園に入って目の前には猿山がある。ニホンザルがアスレチックのように組まれた丸太を駆け回り遊んでいた。そっと座り込んでいるものたちは毛づくろいをしている。小さな子どもを腹にくっつけた猿をゆえはしげしげと見て、「やっぱりお猿さんもお母さんが好きなんですねえ」と微笑んだ。
 亨は、動物園独特の糞便と野性の毛の匂いに少々辟易していた。鼻を摘まみたくなる気持ちを隠して、ゆえの言動に集中する。幼い頃、家族総出で来たのが最後だったはずだ。その間に園の様相は随分変わってしまったらしい。しかしどこがどう変わったのかは判然としない。何となくここにはアルパカがいたような気がすると記憶の断片が浮かぶ程度である。
「次に行ってもいいですか?」
 機嫌よさそうに振り返るゆえに頷き、表示された道順通りに進むと、そこにはノウサギや、ハクビシン、テンなど、そこらへんの山にいそうな動物が並んでいた。細かい網の向こうに造られた、自然を模した住処に隠れる動物を探すのは骨が折れる。ゆえは一々立ち止まり、動物の姿を見つけるまでそこを動かなかった。
「寒いと巣に籠っちゃいますよね」
「人間もそうだしな」
「ああやって皆でくっつくとあったかいのかなあ」
 赤い指先を擦り合わせて、ゆえが薄白い息を吐く。亨はコートのポケットに入れていた手を抜き出して、彼女に掌を見せた。


「俺も寒い」
「へ?」
 ゆえは彼の手と顔を交互に見た。
「くっついてもいい?」
 亨は言い終える前に、ゆえの右手を掠め取り自分のポケットに招いた。ゆえの冷えた指先を握ると、体温の差に亨の肩も震える。
「ゆえさん冷え性?」
「……あ、う、そうですけど。あの。これは……」
 ゆえは目はテンの長い尻尾と共にぐるぐる回った。
 ゆえの手をがっちりと掴む骨ばった大きな手は、年頃の異性というより、理想のお父さんという感じがする。でもそれは言葉に出すと失礼にあたる確信があったので口を噤んだ。その代わりに、緊張してどもったうめき声ばかりが漏れ出る。
「デートだったら普通だろ?こういうの」
「デート、なんですか?」
「そう思っていたほうがドキドキして楽しいじゃん」
 そういうものなのだろうか。
 生きている世界が違う人の価値観はゆえには分からなかった。男女が手を繋ぐということを、自分は重く捉え過ぎているのかもしれない、亨は雰囲気づくりの、ある種の軽いノリとして簡単に出来るのかもしれない。しかし、ゆえにはどうしても抵抗感があった。
「わ、私は、こういうの無理です。緊張してしまって……動物どころではなくなってしまいます」
 天気に恵まれ散歩日和、空気は冷たいが温かな日差しによって過ごしやすい気温、道沿いの木々や遠くに見える山々はゆたかに紅葉していて惚れ惚れとしてしまう。幸福を散らばらせたような景色の中で、ゆえだけが半泣きになりながら俯く。のを不思議そうに見上げて歩き去っていく親子連れ。


 亨は焦ったように手を放し、彼女を解放した。
「ごめん。いや、その、今までの女の子は皆喜んでいたから」
「頭が硬い私が悪いんです。すみません」
 二人の上にだけ暗雲が立ち込める。
 こんなに悲しそうな顔をさせたかったわけじゃない。じゃあどうすれば喜んでもらえるんだ。亨は今まで付き合った女性との記憶を掘り起こす。プレゼントもエスコートも喜んでもらえたのに。恋愛経験も人並、いやそれ以上に質のいい恋愛をしてきた筈なのに、彼女を前にしたらどうしていいのか分からない。しかし空回ったのは事実である。
 ゆえのマフラーの一点に視線を固定して頭をフル回転させていると、彼女が「先生がかっこいいから緊張してしまうだけなんです」と呟いて赤らんだ頬を押さえた。
「俺のこと、嫌なわけではない?」
 亨がマフラーから視線を上げると、横を向いたままのゆえが「……はい」と吐息だけで答えた。
「そうか。じゃあ、いいや。さあ次に行こうか」
 空になったポケットの中を寂しく思いながら亨は胸をなでおろし、歩を進めた。


 ゆえはホンドタヌキとホンドキツネの前で止まり興味深そうに顔を前に出して眺めた。
「好きなの?」
「はい。本当に化けるんでしょうか」
「どうだろうね」
「先生はキツネって感じがします」
「じゃあゆえさんはタヌキだね。目が優しいから」
 ゆえは心が踊るという感覚を久しぶりに実感していた。
 ツキノワグマは寝ていたし、イノシシは水溜りに入って泥だらけになっていた。リスはほんとんど見えなかったけれど、ムササビが四角になって飛んでいるのは見れた。
 普段見ることのない動物の姿が、非日常の世界に誘ってくれる。
 赤や黄の葉がかさかさと落ちてくる。しかし、ゆえの二歩ほど後ろを歩く亨の相槌が遠いことが少しだけ寂しい。気を悪くさせてしまったのかもしれない。私だけがこんなにはしゃいでしまって、彼はもう帰りたいと思っているのかも。深く思考すると立ち止まってしまいそうになる。否、止まるべきなのかもしれない。
 考えていると、道の途中に小屋が表れた。扉の嵌ったガラスには黒い布が掛けられていて、『静かにお入り下さい』と張り紙がされている。無言のまま、ゆえが先頭になって扉を開け、後に入って来た亨が閉める。真っ直ぐ進むだけの、狭く光の入らない部屋だった。壁には水槽のようなガラスのゲージが並べられ、暖色のライトに照らされている。
「うっわ!」
 突然鋭い声が上がり体に何かが巻きついてきたことに驚いて、ゆえは背後を振り返った。亨の腕がゆえの肩を抱き締めている。否、縋っている。薄闇の中で顔を顰めている彼をゲージから隠すようにして尋ねる。
「どうしましたか?」
「ごめん。俺ネズミ苦手なんだよ……」
 ネズミ……。ゆえが光源を見ると、何匹かノネズミが長い尻尾を振り乱しながらガサガサと動き回っていた。丸い耳をピンと立てて、濡れたような黒目を動かしている。
「尻尾が駄目なんだ。長くてヘビみたいだろ。ヘビも嫌いなんだよ」
 想像したらますます気持ち悪くなってきた、と腕に力を込める亨を引き剥がすことも出来ず、ゆえは宥めるように彼の背を撫でて隣のゲージのヤマネはほとんどただ通りすぎて小屋を出た。暗いところから出たせいで目がチカチカする。


「あー、こわかった」
 亨は相変わらずゆえという安心を抱え込んだまま佇んでいた。人通りが無いのが幸いだ。ゆえも恐がる子ども――実際には恐がる成人男性――を受け入れよしよしと頭を撫でてやる。
 気分が落ち着いた亨が自らの状況を把握したとき、さあと血の気が引いた。
 腕の中に彼女の顔が埋まっている。瞬時に無罪を証明するべく頭の両脇で手を上げた。
「い、いや、誓って下心があったわけではなく……」
「大丈夫ですか?すごく恐がっていたので心配しました。先生はネズミが苦手なんですね」
「ネズミ、うん、ネズミが嫌いで……」
「先に園内マップを見ておけばよかったですね。他に駄目なのはありますか?」
 言いながらゆえがマップを広げる。
「あとは大丈夫」
「次はサバンナエリアだそうですよ。私キリンが見たかったんです」
 朗らかに微笑むゆえが先を歩き出す。身を翻した瞬間に見えた彼女の小さな耳が赤くなっていたことに気付いた亨は、思わず立ち止まって両手で口を覆い天を仰いだ。
 紅葉したまばらな天井から、かさかさと赤い葉が落ちる。それを避けながら、亨はゆえの背を追った。
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