看護師彼女の恋愛模様
長い下り坂を下りながら、桜を思わせる色をしたフラミンゴや近くで見ると想像以上に迫力のあるダチョウ、縞が土埃でくすんでいるシマウマなどを見て、最後にキリンのいる檻までやって来た。ゆえはすぐさま近付き、何メートルも高いところにあるキリンのほっそりとした顔を嬉しそうに見上げた。
「蹴られたらソッコーで死にそうだな」
キリンの長い足を見ながら呟いた亨に「でも目が優しそうですよ」とゆえが笑いかける。
「大きいですね」
「そうだね」
「羨ましいです」
「何で?」
ゆえは含み笑いをして金網に人差し指を這わせた。
「大きいと強そうでしょう?」
「……まあねえ」
二頭のうちの一頭は木の葉を潰すように食み、もう一頭は檻の中を窮屈そうに駆け回っている。
亨は『大きい』と『強そう』と『ゆえ』を結びつけられず釈然としない顔をしていたが、当のゆえは話題を広げず、再び順路を辿り始めた。クロサイもライオンものどかな寝顔だけを見て通り過ぎ、ゾウは周囲に漂う排泄物の匂いに亨が耐えられず早々にその場を後にした。
芝生の広がっているエリアではウシやヤギやアルパカに餌をやることが出来た。木の柵に近寄ると、何もしなくても動物が寄ってくる。百円で買った棒状のニンジンをゆえが差し出すと、小さなヤギが向こうから前歯を突き出した。
「可愛い……!」
頬を蕩けさせているゆえに倣い、亨も柵の隙間でニンジンを揺らす。
離れたところから白黒の地図が描かれたウシがやってきて舌を伸ばした。が、亨はニンジンをひょいと引っ込める。再びウシの目の前に出し、そしてまた引く。無垢に舌を伸ばし続けるウシをじらす亨にゆえは「可哀想ですよ」と穏やかに咎めた。
「遊んでやってるだけだよ」
「先生は遊んでるのかもしれないけど、あちらは困ってますよ」
「動物が?」
「生き物ですから」
亨は唾液まみれになったニンジンをウシに食べさせ、「はい、お詫び」と紙コップに入っていたぶんもその場に落とした。
カワウソが機嫌よさそうに泳ぎ回る水槽の隣にレストハウスを見つけた亨が、ここで昼食をとろうと提案した。ちょうど正午を過ぎた頃だった。
出入口のほうからは油の匂いが流れてくる。
ゆえは慌てて、
「サンドイッチを作って来たんですが、もしよろしければ如何ですか?」
と彼の袖を引いたが、亨は何度か頷いた後「ああ、何か作ってたね」と音を鳴らさず手を叩いただけだった。
「せっかく来たんだし、ここでしか食べられないものを食べようよ。俺が奢るし」
亨に背を押されながら中に入り、ゆえは亨と同じラーメンセットを食べた。味の濃いスープが舌に染みた。座っていると園内を歩き回った疲れがどっと押し寄せてくる。ぼんやりとレストハウス内の喧騒を感じながら、ゆえは満たされた食欲と相反して心が空しくなっていくのを感じていた。
過ぎた早起きをしたというわけでは無い。高級な食材を使ったわけでも、特別手間暇かけたわけでも無い。彼に喜んでほしいという気持ちを込めただけのサンドイッチなんてただのエゴの塊だ。それを押し付けようなんて何て愚かだったんだろう。ゆえは羞恥と情けなさに苛まれ、太ももの上で握った手の甲の血管を見つめ時が過ぎるのを待った。
「美味しかったね。さあ行こうか」
先に立った亨が紳士然としてゆえに手を伸ばす。ゆえはその手を取れなかった。
「ごちそうさまでした。もう戻るだけですね」
ゆえの悄然とした瞳に、亨は胸に波が立つのを感じたが勘違いだと気に留めずに外へ出た。風が吹いていた。太陽が引き延ばしたような雲と重なり、世界の明度を僅かに下げている。
暫く無言でゲートまでの道のりを歩いた。
背後にいる亨に「楽しかった?」と尋ねられ、ゆえは振り返りながら「はい」と返事をした。それからはずっと遠くの山の稜線を追っていた。
リュックの重みが肩を重くする。
亨もゆえの隣には並ばず、足音すら潜めるように静かに歩いていた。車に戻ったときには、二人とも息が上がっており、足は棒のようになっていた。
「ゆえさん大丈夫?結構疲れたね」
亨がエンジンをかけながら、自販機で買った缶コーヒーを飲む。
「ラーメンもまあまあだったかな。でもああいうところの醤油ってど定番過ぎて……」
視線を流した先にゆえの耳の裏側が見えた。助手席側のガラスに顔を向けて外を眺めている。その頬が一筋濡れているように見えた。
亨はぎょっとして、しかしどうしていいか分からず急いで車を発進させた。
見間違えかもしれない、と赤信号でそうっと彼女のほうを見ると、フロントガラスに戻された顔に涙の後は無かった。それでも車内は沈黙で満たされていた。空気が重く息苦しいが、その原因が分からない。何かヘマをやらかしたのか。亨は今日の自分の言動を振り返ったが、思い当たることは無かった。
「ありがとうございました」
アパートの前で、ゆえはぎこちなく頭を下げた。
「ああ、うん」
「気を付けて帰って下さいね」
「うん」
ゆえは努めて滑らかに唇を曲げた。
視線は落としているのに、亨にじっと見つめられているのが分かった。彼の爪先が砂利を踏む。
「また来る」
表情は見えなかった――見ようとしていなかったのだから当然だ。しかし彼の落とした四つの音が震えていたように聞こえて、ゆえは弾かれたように顔を上げた。亨の広い背中が車に向かって歩いていく。
声を掛けたほうがいいような、掛けなければいけないような気がしたが、こういうときに投げ掛けるべき言葉を選び出すことがゆえには難しかった。罪悪感と後悔が規則正しい心拍を乱す。
車に乗り込む直前、亨がゆえを一瞥した。ふっと頬を緩めたその表情に、ゆえはやはり何かを言わなければいけないと思ったが、魔女と契約を交わした人魚姫のように声が出なかった。
走行音が遠ざかって消える。
体のどこかに巻き付いていた命綱が切られたような感じがした。
「蹴られたらソッコーで死にそうだな」
キリンの長い足を見ながら呟いた亨に「でも目が優しそうですよ」とゆえが笑いかける。
「大きいですね」
「そうだね」
「羨ましいです」
「何で?」
ゆえは含み笑いをして金網に人差し指を這わせた。
「大きいと強そうでしょう?」
「……まあねえ」
二頭のうちの一頭は木の葉を潰すように食み、もう一頭は檻の中を窮屈そうに駆け回っている。
亨は『大きい』と『強そう』と『ゆえ』を結びつけられず釈然としない顔をしていたが、当のゆえは話題を広げず、再び順路を辿り始めた。クロサイもライオンものどかな寝顔だけを見て通り過ぎ、ゾウは周囲に漂う排泄物の匂いに亨が耐えられず早々にその場を後にした。
芝生の広がっているエリアではウシやヤギやアルパカに餌をやることが出来た。木の柵に近寄ると、何もしなくても動物が寄ってくる。百円で買った棒状のニンジンをゆえが差し出すと、小さなヤギが向こうから前歯を突き出した。
「可愛い……!」
頬を蕩けさせているゆえに倣い、亨も柵の隙間でニンジンを揺らす。
離れたところから白黒の地図が描かれたウシがやってきて舌を伸ばした。が、亨はニンジンをひょいと引っ込める。再びウシの目の前に出し、そしてまた引く。無垢に舌を伸ばし続けるウシをじらす亨にゆえは「可哀想ですよ」と穏やかに咎めた。
「遊んでやってるだけだよ」
「先生は遊んでるのかもしれないけど、あちらは困ってますよ」
「動物が?」
「生き物ですから」
亨は唾液まみれになったニンジンをウシに食べさせ、「はい、お詫び」と紙コップに入っていたぶんもその場に落とした。
カワウソが機嫌よさそうに泳ぎ回る水槽の隣にレストハウスを見つけた亨が、ここで昼食をとろうと提案した。ちょうど正午を過ぎた頃だった。
出入口のほうからは油の匂いが流れてくる。
ゆえは慌てて、
「サンドイッチを作って来たんですが、もしよろしければ如何ですか?」
と彼の袖を引いたが、亨は何度か頷いた後「ああ、何か作ってたね」と音を鳴らさず手を叩いただけだった。
「せっかく来たんだし、ここでしか食べられないものを食べようよ。俺が奢るし」
亨に背を押されながら中に入り、ゆえは亨と同じラーメンセットを食べた。味の濃いスープが舌に染みた。座っていると園内を歩き回った疲れがどっと押し寄せてくる。ぼんやりとレストハウス内の喧騒を感じながら、ゆえは満たされた食欲と相反して心が空しくなっていくのを感じていた。
過ぎた早起きをしたというわけでは無い。高級な食材を使ったわけでも、特別手間暇かけたわけでも無い。彼に喜んでほしいという気持ちを込めただけのサンドイッチなんてただのエゴの塊だ。それを押し付けようなんて何て愚かだったんだろう。ゆえは羞恥と情けなさに苛まれ、太ももの上で握った手の甲の血管を見つめ時が過ぎるのを待った。
「美味しかったね。さあ行こうか」
先に立った亨が紳士然としてゆえに手を伸ばす。ゆえはその手を取れなかった。
「ごちそうさまでした。もう戻るだけですね」
ゆえの悄然とした瞳に、亨は胸に波が立つのを感じたが勘違いだと気に留めずに外へ出た。風が吹いていた。太陽が引き延ばしたような雲と重なり、世界の明度を僅かに下げている。
暫く無言でゲートまでの道のりを歩いた。
背後にいる亨に「楽しかった?」と尋ねられ、ゆえは振り返りながら「はい」と返事をした。それからはずっと遠くの山の稜線を追っていた。
リュックの重みが肩を重くする。
亨もゆえの隣には並ばず、足音すら潜めるように静かに歩いていた。車に戻ったときには、二人とも息が上がっており、足は棒のようになっていた。
「ゆえさん大丈夫?結構疲れたね」
亨がエンジンをかけながら、自販機で買った缶コーヒーを飲む。
「ラーメンもまあまあだったかな。でもああいうところの醤油ってど定番過ぎて……」
視線を流した先にゆえの耳の裏側が見えた。助手席側のガラスに顔を向けて外を眺めている。その頬が一筋濡れているように見えた。
亨はぎょっとして、しかしどうしていいか分からず急いで車を発進させた。
見間違えかもしれない、と赤信号でそうっと彼女のほうを見ると、フロントガラスに戻された顔に涙の後は無かった。それでも車内は沈黙で満たされていた。空気が重く息苦しいが、その原因が分からない。何かヘマをやらかしたのか。亨は今日の自分の言動を振り返ったが、思い当たることは無かった。
「ありがとうございました」
アパートの前で、ゆえはぎこちなく頭を下げた。
「ああ、うん」
「気を付けて帰って下さいね」
「うん」
ゆえは努めて滑らかに唇を曲げた。
視線は落としているのに、亨にじっと見つめられているのが分かった。彼の爪先が砂利を踏む。
「また来る」
表情は見えなかった――見ようとしていなかったのだから当然だ。しかし彼の落とした四つの音が震えていたように聞こえて、ゆえは弾かれたように顔を上げた。亨の広い背中が車に向かって歩いていく。
声を掛けたほうがいいような、掛けなければいけないような気がしたが、こういうときに投げ掛けるべき言葉を選び出すことがゆえには難しかった。罪悪感と後悔が規則正しい心拍を乱す。
車に乗り込む直前、亨がゆえを一瞥した。ふっと頬を緩めたその表情に、ゆえはやはり何かを言わなければいけないと思ったが、魔女と契約を交わした人魚姫のように声が出なかった。
走行音が遠ざかって消える。
体のどこかに巻き付いていた命綱が切られたような感じがした。