看護師彼女の恋愛模様
「うまくいかない」
繊細な絵柄の描かれた英国製のティーカップを持ったまま、亨はぼやいた。L字型のソファーに九十度で向かい合い、コーヒーを啜っていた竜が長い足を組み替えて「恋愛の話?」と訊く。
「いや、最近仲良くなった看護師の話」
「セフレ?」
「では無いけど」
ふーんと興味無さげに間延びした声を出して、竜が亨の部屋のクッションの利いた背もたれに体重を預ける。
「最近一緒に出掛けたんだけど、帰りに気まずくなって。車で送迎、入場料も俺が払って、持ってきた手作りより美味い昼食も奢ったのに、何が悪かったんだか」
深く吸った息を吐く亨を見て、目が合う前に広い窓の外へ視線を転じた竜は曇りそうになる顔面から表情を消すように努めた。今日は初雪が降る予報らしい。青空のところどころに厚い灰色の雲が浮かんでいる。
兄の天然もののお坊ちゃん思考は相変わらずなようだった。もともと裕福な家に生まれ、代々続いてきたクリニックを継ぐことを約束された彼には無意識に付き合う人間を選ぶ癖がある。目の前の人間の出自や生い立ち、財力を見て、自分と釣り合うかどうかを計る。そうすると自然と同じようなレベルの人間が彼の元には集まり、同じように亨を値踏みし、大概の人間は――特に女性は――彼に取り入ろうとする。
そういう恵まれた環境で育ってきた亨に、自分より貧しい中で生きてきた人間の気持ちなど分かるはずなど無いのだ。社交的で器用なタイプなので愛想さえよくしていれば誰からも悪い印象を持たれることは無いが、自分より『レベルの低い人間』と深く付き合おうとすると、価値観の不一致が理由でよく破局する。だからおざなりに付き合えるセックスフレンドばかりが増える。
今回もその顛末を見届けることになるのだろうと竜は予想した。
亨がカップをテーブルに置きながら「お前はあの後どうなったの?」とじっとしている竜を見た。
亨が玲音を雨の中に放り出して自分に押し付けた日のことか、と思い出し竜は目を伏せる。
「濡れていたからホテルに連れて行った」
「へえ……で?」
「付き合うことになった」
「あのめんどくさい子と?」
「兄さんと違って、俺はそんなに好かれてないからめんどくさいことは無いよ」
普段朴訥としている弟の口元が僅かに緩むのを、亨は不思議な気持ちで見ていた。
亨のセックスフレンドの一人だった彼女は独占欲が強く傲慢でヒステリックでとても手に負える相手では無かった。目を引く容姿だけは買っていたが、それだけの相手だった。竜が玲音のどこに惹かれているのか皆目見当がつかない。憐れみかもしれないし、もしかしたら脅されているのかもしれない。しかしこうして柔らかく笑っている姿を前にすると、竜自身も彼女と触れ合えることが嬉しいのだという気持ちが伝わってきて複雑な心境になる。
そもそも玲音も看護師という立場である限り、自分たちと対等に付き合える相手ではないのだ。そのうち結婚相手を選ぶときに切り捨てなければいけない存在であることは間違いない。竜は口数の多いほうではないので思慮深く見えるが、意外と大雑把で大胆な考え方をする。今の幸せが将来に繋がることなど無いのに、どうして『レベルの低い人間』に尽くすことが出来るのか不思議だった。
「嫌われてるのに付き合って、優しくするなんて変じゃない?」
亨は座面に手をついて、少しだけ竜のほうに顔を寄せる。
「別に嫌われてたって拒絶されていなきゃいいんだ。優しくしたいし甘やかしたい。玲音の求めるものは全て与えたいし望みがあるのなら叶えたい。それだけだよ」
「そういうのあの子ちゃんと受け取ってくれるの?」
「どうかな。押し付けてるだけかもしれない。俺、弟だから我儘なんだ」
竜がカップを竜が傾けると、逞しい喉仏が上下した。
「兄さんも少し我儘になったら?将来のことなんて考えないで、今気になってる人とちゃんと分かり合おうとしてみたら?」
「ちゃんとって言われてもな……最初からちゃんとしてるつもりなんだよ俺は」
「せめて傷つけることがないようにさ」
亨への助言として自分が言えることはこれだけだと竜は思った。
兄の前から泣いて去る女性を何度も見てきた。慰めてと縋りつかれたこともある。
本人に悪気は無いのだろうが――寧ろ気遣いができ献身的ですらあるが、独りよがりなのだ。それは亨の性格でもあるが、根本的には『家』の影響が大きいだろう。
いい意味でも悪い意味でも『家』について無頓着で過ごしてきた竜とは性質が違う。
「傷つけたのかな」
亨がどこか遠くを見るような目で言う。
「泣かせてたら嫌だと思うのに、俺のせいで泣いていたらちょっと嬉しいと思うのは変なことかな」
「俺も同じ考え」
「うわー兄弟って感じ」
「兄弟だから」
「慰めようとして逃げられたらどうしよう」
「捕まえるまで追いかけたらいい」
「それお前じゃん」
空気が抜けた風船みたいに亨が噴き出したとき、窓に白いものがちらついた。吹けば飛びそうな雪が地上に向かってスローモーションのように落ちていく。亨も竜も同じタイミングで別々の、ただ一人の女性を思い浮かべた。そして、その人と一緒に初雪を見たかったと内心思い、気まずさに反対方向に顔を逸らして気を紛らわした。
竜はカップを空にしてすぐに、「約束があるから」と立ち上がった。
「彼女?」
亨が訊くと喜びを噛み殺そうとして失敗しているような顔で頷かれ、羨ましさに溜息が漏れた。
冷たくなったアッサムを口に含む。飲み干すと温かいものが恋しくなった。次はミルクティーにしよう。そういえば実家からフォンダンショコラを貰って来たんだった。甘い飲み物にほろ苦いチョコレートが合う筈だ。亨カップのはハンドルを指先で弄びながら考える。
謝ったら許されるだろうか。
いつでも、今すぐにでも、彼女に会いたいという気持ちは亨の胸の中で大きく膨らんでいた。
繊細な絵柄の描かれた英国製のティーカップを持ったまま、亨はぼやいた。L字型のソファーに九十度で向かい合い、コーヒーを啜っていた竜が長い足を組み替えて「恋愛の話?」と訊く。
「いや、最近仲良くなった看護師の話」
「セフレ?」
「では無いけど」
ふーんと興味無さげに間延びした声を出して、竜が亨の部屋のクッションの利いた背もたれに体重を預ける。
「最近一緒に出掛けたんだけど、帰りに気まずくなって。車で送迎、入場料も俺が払って、持ってきた手作りより美味い昼食も奢ったのに、何が悪かったんだか」
深く吸った息を吐く亨を見て、目が合う前に広い窓の外へ視線を転じた竜は曇りそうになる顔面から表情を消すように努めた。今日は初雪が降る予報らしい。青空のところどころに厚い灰色の雲が浮かんでいる。
兄の天然もののお坊ちゃん思考は相変わらずなようだった。もともと裕福な家に生まれ、代々続いてきたクリニックを継ぐことを約束された彼には無意識に付き合う人間を選ぶ癖がある。目の前の人間の出自や生い立ち、財力を見て、自分と釣り合うかどうかを計る。そうすると自然と同じようなレベルの人間が彼の元には集まり、同じように亨を値踏みし、大概の人間は――特に女性は――彼に取り入ろうとする。
そういう恵まれた環境で育ってきた亨に、自分より貧しい中で生きてきた人間の気持ちなど分かるはずなど無いのだ。社交的で器用なタイプなので愛想さえよくしていれば誰からも悪い印象を持たれることは無いが、自分より『レベルの低い人間』と深く付き合おうとすると、価値観の不一致が理由でよく破局する。だからおざなりに付き合えるセックスフレンドばかりが増える。
今回もその顛末を見届けることになるのだろうと竜は予想した。
亨がカップをテーブルに置きながら「お前はあの後どうなったの?」とじっとしている竜を見た。
亨が玲音を雨の中に放り出して自分に押し付けた日のことか、と思い出し竜は目を伏せる。
「濡れていたからホテルに連れて行った」
「へえ……で?」
「付き合うことになった」
「あのめんどくさい子と?」
「兄さんと違って、俺はそんなに好かれてないからめんどくさいことは無いよ」
普段朴訥としている弟の口元が僅かに緩むのを、亨は不思議な気持ちで見ていた。
亨のセックスフレンドの一人だった彼女は独占欲が強く傲慢でヒステリックでとても手に負える相手では無かった。目を引く容姿だけは買っていたが、それだけの相手だった。竜が玲音のどこに惹かれているのか皆目見当がつかない。憐れみかもしれないし、もしかしたら脅されているのかもしれない。しかしこうして柔らかく笑っている姿を前にすると、竜自身も彼女と触れ合えることが嬉しいのだという気持ちが伝わってきて複雑な心境になる。
そもそも玲音も看護師という立場である限り、自分たちと対等に付き合える相手ではないのだ。そのうち結婚相手を選ぶときに切り捨てなければいけない存在であることは間違いない。竜は口数の多いほうではないので思慮深く見えるが、意外と大雑把で大胆な考え方をする。今の幸せが将来に繋がることなど無いのに、どうして『レベルの低い人間』に尽くすことが出来るのか不思議だった。
「嫌われてるのに付き合って、優しくするなんて変じゃない?」
亨は座面に手をついて、少しだけ竜のほうに顔を寄せる。
「別に嫌われてたって拒絶されていなきゃいいんだ。優しくしたいし甘やかしたい。玲音の求めるものは全て与えたいし望みがあるのなら叶えたい。それだけだよ」
「そういうのあの子ちゃんと受け取ってくれるの?」
「どうかな。押し付けてるだけかもしれない。俺、弟だから我儘なんだ」
竜がカップを竜が傾けると、逞しい喉仏が上下した。
「兄さんも少し我儘になったら?将来のことなんて考えないで、今気になってる人とちゃんと分かり合おうとしてみたら?」
「ちゃんとって言われてもな……最初からちゃんとしてるつもりなんだよ俺は」
「せめて傷つけることがないようにさ」
亨への助言として自分が言えることはこれだけだと竜は思った。
兄の前から泣いて去る女性を何度も見てきた。慰めてと縋りつかれたこともある。
本人に悪気は無いのだろうが――寧ろ気遣いができ献身的ですらあるが、独りよがりなのだ。それは亨の性格でもあるが、根本的には『家』の影響が大きいだろう。
いい意味でも悪い意味でも『家』について無頓着で過ごしてきた竜とは性質が違う。
「傷つけたのかな」
亨がどこか遠くを見るような目で言う。
「泣かせてたら嫌だと思うのに、俺のせいで泣いていたらちょっと嬉しいと思うのは変なことかな」
「俺も同じ考え」
「うわー兄弟って感じ」
「兄弟だから」
「慰めようとして逃げられたらどうしよう」
「捕まえるまで追いかけたらいい」
「それお前じゃん」
空気が抜けた風船みたいに亨が噴き出したとき、窓に白いものがちらついた。吹けば飛びそうな雪が地上に向かってスローモーションのように落ちていく。亨も竜も同じタイミングで別々の、ただ一人の女性を思い浮かべた。そして、その人と一緒に初雪を見たかったと内心思い、気まずさに反対方向に顔を逸らして気を紛らわした。
竜はカップを空にしてすぐに、「約束があるから」と立ち上がった。
「彼女?」
亨が訊くと喜びを噛み殺そうとして失敗しているような顔で頷かれ、羨ましさに溜息が漏れた。
冷たくなったアッサムを口に含む。飲み干すと温かいものが恋しくなった。次はミルクティーにしよう。そういえば実家からフォンダンショコラを貰って来たんだった。甘い飲み物にほろ苦いチョコレートが合う筈だ。亨カップのはハンドルを指先で弄びながら考える。
謝ったら許されるだろうか。
いつでも、今すぐにでも、彼女に会いたいという気持ちは亨の胸の中で大きく膨らんでいた。